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エホバに仕えるために生命を用いるものみの塔 1964 | 9月1日
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のみならず,唯一の祭司,神と人との仲保者として認められるようになった」。
7 クリスチャンの奉仕に関して,ペテロは何と述べていますか。
7 イスラエルにおいて一つの家系が祭司職のために選ばれたにしても,国民全体は神の前に清い民であり,奉仕の責任を与えられていました。エホバに仕えるという人生最大の目的をはたさなくてもよい人は一人もいませんでした。初期クリスチャンはこの考え方をしていました。ペテロはその事を示しています,「あなたがたは,選ばれた種族,祭司の国,聖なる国民,神につける民である」。この祭司の国民の目的は何でしたか。「それによって,暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを,あなたがたが語り伝えるためである」。初期クリスチャンがエホバから求められたのはこの奉仕でした。―ペテロ前 2:9,10。
善良な人であればそれで十分ですか
8,9 クリスチャンは善良な人の生活を送れば,それで十分ですか。どうすればその答えがわかりますか。
8 聖書が明らかに示しているように,クリスチャンであるということは,単に善良な人であるというだけの事ではありません。ただ善行をするという消極的な生活と,神に奉仕する活発な生活とでは,クリスチャンにとってどちらが大切ですか。イエスは若い支配者との話の中で,この二つを対照させています。「先生,永遠の生命を得るためには,どんなよいことをしたらいいでしょうか」と尋ねられたとき,イエスはこの若者にむかって,殺すな,姦淫するな,盗むな,偽証を立てるな等の戒めを守るようにと告げました。それはみな守って良い生活を送ってきたと若者が答えたとき,イエスは「持ち物を売り払い,貧しい人々に施しなさい。そして,わたしに従ってきなさい」と告げています。
9 この金持ちの若者は戒めを守って生活した正しい人であったに違いありません。それでも神に仕えるために自分の命を用い,自分の利益よりもキリスト教の宣教のために働く段になると,それを拒絶しました。それで「神に仕えるのは益のないことだ」と言ったも同然であり,財産のほうをもっと大切に考えていたに違いありません。(マタイ 19:16-22)しかし,初期クリスチャンはそのように考えませんでした。多くの人がイエスのすすめに従ってその追随者となり,宣教を始めたからです。それでこれはイエスと使徒たちだけの特権であるとは考えず,すべてのクリスチャンには,きわめて具体的な方法で創造主に仕える大きな名誉があることを認めていました。
10 パウロの書いたものは,初期クリスチャンがみな宣教に参加したことをどのように示していますか。
10 これに関連して注目されるのは,テサロニケ人に宛てたパウロの最初の手紙が会衆の監督あるいは牧師のような人に宛てられたのではなく,「テサロニケ人たちの教会」に宛てられていることです。パウロには会衆の行なった宣教をほめています。「すなわち,主〔エホバ〕の言葉はあなたがたから出て,ただマケドニヤとアカヤとに響きわたっているばかりではなく,至るところで,神に対するあなたがたの信仰のことが言いひろめられたので,これについては何も述べる必要はないほどである」。信仰をひろめたのは会衆の人々でした。同様にピリピ人に対するパウロの言葉も,ピリピにいた献身したクリスチャンのグループ全員に対して述べられたものです。「ピリピにいる,キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち,ならびに監督たちと執事たちへ」とそれは述べています。従ってパウロは会衆全体にむかって,「星のようにこの世に輝」くことをすすめているのです。これは真理の光を他の人々にわかつことによって可能となります。パウロはこれを「あなたがたの信仰の供え物」と呼んでいます。更に「コロサイにいる,キリストにある聖徒たち,忠実な兄弟たちへ」と述べたパウロの手紙に注目して下さい。ここで「忠実な兄弟たち」と呼ばれているのは修道僧などではなく,初期ピリピの会衆の全員すなわち献身したクリスチャンのことです。この人々にむかってパウロは,「キリストの言葉を,あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい……互に教えなさい」と述べています。このように初期クリスチャンは神のことばを教え,伝道しました。―テサロニケ前 1:1,8。ピリピ 1:1; 2:15,17。コロサイ 1:2; 3:16。
宣教は大切
11 イエスは人の一生の仕事として何をすすめましたか。
11 神に仕えたくても,何をすればよいか,またどのようにすればよいかがわからないという人は少なくありません。神学校の教育もないし,必要な資金もないから,これは自分にできることではないと思い込んでいる人もあるでしょう。また医療,教育,社会事業などの分野に精力を傾ける人もあります。このような仕事も有益ですが,神に仕えるために生命を用いようとする人は,それがはたしてイエスのすすめたことかどうかを自問しなければなりません。イエスは弟子たちに何をせよと命じましたか。たしかに使徒は病人をいやす力を持っていましたが,この御霊の賜物は,御国の大使また真理の宣明者としての務めにくらべれば二義的なものです。このみ霊の賜物が与えられたのは,キリスト教が神の教えであることを証明するためでした。―マタイ 10:7,8。
12 聖書はどのように宣教を強調していますか。なぜですか。
12 イエスは弟子たちを組織して伝道に遣わしただけでなく,自ら伝道のわざに率先しました。クリスチャンに与えられたこのわざは,イエスの時代から変わっていません。イエスが初期クリスチャンに与えた次の命令は今日でも有効です。「それゆえに,あなたがたは行って,すべての国民を弟子として,父と子と聖霊との名によって,彼らにバプテスマを施し,あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」。イエスはなぜ宣教を重んじたのですか。肉体のいやしは永遠の生命を与えないからです。肉体のいやしによって5年,10年のあいだ寿命が延びたとしても,真理によって得る永遠の生命とはくらべものになりません。ゆえに神のことばを伝道することが第一です。エホバに仕えるために生命を用いるのはすばらしいことです。このすすめは,年齢,人種,性,学歴などにかかわりなく,すべての人にさしのべられています。「聞く者も『きたりませ』と言いなさい」― マタイ 28:19,20。黙示 22:17。ヨハネ 17:3。
13 人はどのように父なる神のみ心を行なうことができますか。
13 イエスは多くのたとえによって,このような奉仕の重要さを教えました。「ある人にふたりの子があったが,兄のところに行って言った,『子よ,きょう,ぶどう園へ行って働いてくれ』。すると彼は『おとうさん,参ります』と答えたが,行かなかった。また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と答えたが,あとから心を変えて,出かけた」。「このふたりのうち,どちらが父の望みどおりにしたのか」と,イエスは尋ね,祭司長や長老にむかって次のように言われました。「よく聞きなさい。取税人や遊女は,あなたがたより先に神の国にはいる」。このような人々は生き方を変え,イエスのさしのべた奉仕の特権を受け入れたからです。―マタイ 21:28-31。
14 どんな奉仕をする働き人が必要ですか。
14 イエスが示したように,何らかの宗教的な礼拝をしていても,必ずしも神のみ心にかなうとは限りません。使徒ヨハネも「真理のための同労者」ということを述べています。(ヨハネ第三 7,8)しかしそれは地域社会の運動,教会の社交的な集まり,ビンゴゲーム,社会事業などのことですか。その答は次の質問によって明らかになります。それはイエスが心を打ちこんだ仕事ですか。イエスのことばは多くの人が宣教に従事することの必要を強調しています,「天国は,ある家の主人が,自分のぶどう園に労働者を雇うために,夜が明けると同時に,出かけて行くようなものである」。畑は世界であり,収穫を終えるために多くの働き人が必要であると,イエスは語りました,「収穫は多いが,働き人が少ない。だから,収穫の主に願って,その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。しかし収穫のために働き人を求めながら,自分は遊んでいるべきですか。―マタイ 20:1; 9:37,38。
公に言いあらわして救われる
15 信仰を働かせることには何が含まれていますか。
15 今日,収穫のわざは194の国々において行なわれ,104万836人がクリスチャンのわざを行なっています。これらの働き人は,パウロがエペソの会衆の人々に述べた次のことばを心に留めています。「あなたがたの益になることは,公衆の前でも,また家々でも,すべてあますところなく話して聞かせ,また教え(た)」。初期クリスチャンのこの手本にならい,エホバの証者は神のことばの真理を公に,また家から家に伝えます。あなたはエホバに対する愛と信仰に動かされてこの事をしますか。パウロが指摘しているように,義とされるには,信仰を持つだけでなく,信仰を行いにあらわすことが必要です。神の目から見て価値があるのは,単に真理を知っていること,あるいは信仰を持つだけでなく,真理をわけ与えることです。それでパウロは次のように述べています,「では,なんと言っているか。『言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり,心にある』。この言葉とは,わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。すなわち,自分の口で,イエスは主であると告白し,自分の心で,神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら,あなたは救われる。なぜなら,人は心に信じて義とされ,口で告白して救われるからである」― 使行 20:20。ロマ 10:4,8-10。
16 福音を宣べ伝えることがクリスチャンに要求されているのはなぜですか。
16 大ぜいの人は真理を知ろうと誠実に望み,真理を知るとき喜びます。パウロは宣べ伝える者の必要なことを次のように強調しました。「なぜなら,『主〔エホバ〕の御名を呼び求める者は,すべて救われる』とあるからである。しかし,信じたことのない者を,どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を,どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては,どうして聞くことがあろうか」。初期クリスチャンは伝道の責任を認め,エホバから与えられたわざとしてそれを受け入れました。この事を痛感していたパウロは次のように書いています,「わたしが福音を宣べ伝えても,それは誇にはならない。なぜなら,わたしは,そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら,わたしはわざわいである」。エホバのみ心を知るクリスチャンとして,パウロはそれが自分の責務であり,委ねられた務めであることを知っていました。―ロマ 10:13,14。コリント前 9:16。
奉仕のために訓練を受ける
17 ある人は宣教に参加することに反対して何と言いますか。それはもっともな論ですか。
17 「イエスや使徒だからこそ,できたかも知れないが,訓練のない私には宣教を行なう資格がない」と,言う人もあるでしょう。この事に関して1907年版の大英百科事典は,「キリスト教の腐敗」という項に次のことを述べています。「多くの人は好んで次のように考えた。自分たちに代わって神に奉仕するために牧師がおり,また牧師は宗教の奥義を理解できる。しかし信徒がそのような奥義を知る必要はなく,また知ろうとしてもならない。従って人々は宗教のことになると,牧師の導きに盲目に従うのが常であった。それは人が法律の問題を弁護士にまかせ,何でもその言う通りにして,自ら法律を学ぶ必要を認めないのと同様である」。今日でもこれは一般の考えとなっていますが,これはキリスト教の腐敗なのです。
18 エホバの民はどのように教えられ,訓練されますか。
18 真理を知ろうと誠実に望む人々から,神のお目的と真理がかくされることはありません。伝道から利を得るような特定の選ばれたグループにそれが啓示されて,誠実な人々からそれが隠されてしまうはずはありません。イエスはマタイ伝 11章25節に「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して,幼な子にあらわしてくださいました」と,言われました。子供でさえも家族や会衆の研究により,また神のみ霊の導きを得て聖書の真理を正しく理解できます。エホバを喜ばせようとする人のとるべき次の段階は,この知識を活用することです。イエスは弟子たちに教訓を与えてのち,訓練と励みのために二人を一組にして伝道に遣わしました。そこで今日のエホバの証者も,使徒の手本に基づいて同様な訓練の方法を採用しています。パウロはエペソ書 4章12節に,資格のある人が「聖徒たちをととのえ」ることについて語っています。この訓練は今日でも行なわれているのです。
19 人はどのようにして宣教の資格を身につけますか。
19 しかも奉仕者となる資格は人間から与えられるのではなく,神のことばを通して神から与えられるのです。パウロはそのことを示しています。「もちろん,自分自身で事を定める力が自分にある,と言うのではない。わたしたちのこうした力は,神からきている。神はわたしたちに力を与えて,新しい契約に仕える者とされたのである」。(コリント後 3:5,6)あなたもこのような奉仕のために訓練を受け,エホバに仕えることができます。世界各地で定期的に開かれるエホバの証者の集会の目的は,創造主に仕えて,イエスの命じたわざを行ない,御国の福音を伝道する人々のために訓練を授けることです。これはだれでもできることです。神のことばの真理を教えるわざは,全世界において日夜すすめられています。―黙示 7:15。
20,21 真理を他の人にわかつのに長いあいだ待つ必要がありますか。これはなぜいま緊急のことですか。
20 人生の最大の喜びは,真理を他の人に教えるときに得られます。聖書にしるされたエホバのお目的の真理を学び知るとき,他の人を教えることができるようになります。(ロマ 2:21)井戸のほとりでイエスから語りかけられたサマリヤの女は,すべての事を知りつくすのを待たずに急いで行って町の人に告げました。「わたしのしたことを何もかも,言いあてた人がいます。さあ,見にきてごらんなさい。もしかしたら,この人がキリストかも知れません」。女は人々をイエスの許に導くのに必要な知識を持っていました。それでイエスの許にやってきてその言葉を聞いたサマリヤ人は女に言いました,「わたしたちが信じるのは,もうあなたが話してくれたからではない。自分自身で親しく聞いて,この人こそまことに世の救主であることが,わかったからである」― ヨハネ 4:29,42。
21 ですから待つ必要はありません。漁師からイエスの弟子となった人々は,ちゅうちょすることなくイエスに従って宣教を始めました。パウロは宣教に招かれ,アナニヤから教訓を授けられたとき,ちゅうちょしませんでした。ダマスコの弟子たちと共に数日間を過ごしたのち,パウロは「ただちに諸会堂でイエスのことを宣べ伝え(た)」と聖書にしるされています。(使行 9:19,20)時代を考えるとき,宣教は更に緊急であり,神に仕えることはますます必要です。「世と世の欲とは過ぎ去る。しかし,神の御旨を行う者は,永遠にながらえる」。ゆえに今こそエホバに仕えるために生命を用いる時です。―ヨハネ第一 2:17。
22 エホバに仕えるために生命を用いることは,なぜ賢明ですか。
22 足なえのいけにえを携えてきて,「神につかふることは徒然なり」と言ったイスラエル人にならうべきではありません。「今われわれは高ぶる者を,祝福された者と思う。悪を行う者は栄えるばかりでなく,神を試みても罰せられない」。イスラエル人はこのような態度をとりました。しかし次のことを心に留めて下さい。「その時エホバをおそるる者互に相かたりエホバ耳をかたむけてこれを聴たまへり」いまは「その時」です。またエホバに仕えるために生命を用いるならば,それはどんな結果となりますか。「エホバを畏るる者およびその名を記憶る者のためにエホバの前に記念の書をかきしるせり」と,エホバは約束されています。エホバに覚えられて,新しい正義の組織制度における生命を見出そうとするならば,設立されたエホバの御国の福音を宣明して,いまエホバに仕えるために生命を用いて下さい。―マラキ 3:15,16,文語。
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神に仕える正しい動機ものみの塔 1964 | 9月1日
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神に仕える正しい動機
1 クリスチャンの奉仕の動機は,この世において職業を選ぶ一般的な理由とどう異なっていますか
自分の一生の仕事として宣教を選ぶ人は,なぜ宣教者になるのかと,友人から聞かれることでしょう。それは宣教が神のみ心であると確信しているからですか。どんな理由で宣教を選びましたか。人は自分の才能を生かすため,あるいは多額の収入や社会的な地位を得るために弁護士や医者になるかも知れません。また人間形成の機会を求めて教育者になるかも知れません。しかし全く無私の動機で一生の職を選ぶ人はまれです。それでもイエスの初期の弟子たちまた今日の真のクリスチャンについてこの事が言えます。
2 弟子たちは宣教に対してどんな態度をとりましたか。
2 イエスは大工の職に才能を生かし,大工として名声を得るかわりに,なぜその職をやめたのですか。ルカはなぜ有利な医師の職をやめて宣教に力をそそいだのですか。使徒たちはなぜ漁業をやめましたか。「侮られて人に捨てられ」た人と交わったのは,自分の利益や社会的地位を求めたからではありません。(イザヤ 53:3)この人々がイエスと共に宣教に従事したのは,イエスが真理を持つことを知ったからです。多くの弟子が難しい教えのためにつまずいたとき,イエスは12使徒にむかって言われました,「『あなたがたも去ろうとするのか』。シモン・ペテロが答えた,『主よ,わたしたちは,だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです』」。真理を知って神に仕えることは永遠の命を得る道であることを,使徒たちは知っていました。それで生き方を全く変えて宣教に従事したのです。―ヨハネ 6:67,68。
3 ある牧師はなぜその職を辞しましたか。
3 うわべを飾り,自分の利益を求めたイエス時代の宗教家は,真理を愛するゆえにイエスと交わった使徒たちと著しい対照をなしていました。同じく今日でもキリスト教国の俸給を受けている牧師と,自発的に教えたり伝道したりするエホバの証者とは全く異なっています。(マタイ 23:5-8。ミカ 3:11)1962年11月17日付サタデー・イブニング・ポストにもと牧師だった人が書いた記事は,これを示す例です。「我々は単にこの出来事また我々の教会を見て憂えているのではない。憂えるべきものは聖職一般の現状である。今日,仲間の牧師のことを考えてみると,そのすべてはクリスチャンであるという。しかし我々は会員数,大きな建物,有名人を会員にすることを求めて競争している……ある者は有名な教会に赴任するためのつてを求めて,恥知らずの運動を行なった。我々は神学上の問題,社会の宗教的必要にどう答えるかなどの問題を話し合ったことがない。牧師の会合でもっぱら話題に上るのは建物のこと,俸給のこと,会員獲得の方法である。自分がかつて天職と考えた聖職とは,こんなものではない」。イエス・キリストをまだ信じてはいるものの,リクリエーションの監事役か,それとも日曜日朝の社交会とあまり変らないようなもののために無駄な働きをしたと感じて,この人は牧師をやめました。
4 イエスは何に関心を持っていましたか。パウロは,奉仕の正しい動機を何と述べていますか。
4 キリストやキリストと共に奉仕した人々が関心を払ったのは,会員の増加,経済的に豊かな会衆,大きな建物などではありません。イエスは耳ざわりの良い話を聞こうとして集まる群衆よりも,霊と真を以て神を崇拝する人を見出すことを望みました。滅びに至る道は広く,生命に至る真直ぐな道は狭くて,歩くのが難しいことを,イエスは指摘しています。それでもなお,正しくない動機で神に仕える者がいるのを,使徒パウロは認め,「一方では,ねたみや闘争心からキリストを宣べ伝える者がおり」と,述べました。大きな建物,多くの会員を目ざして競争する現代の牧師は,この部類にはいると言えるでしょう。しかしパウロはつづけて「他方では善意からそうする者がいる。後者は……愛の心でキリストを伝え,前者は……純真な心からではなく,党派心からそうしている」と述べています。―ピリピ 1:15-17。
5 真の崇拝に対する真の関心はどのように示されますか。
5 エホバは人のささげる奉仕またその人の地位を見るだけでなく,心を見て奉仕の動機をさぐります。ゆえにクリスチャン各人は神に奉仕する自分の動機を考え,それが個人的な理由によるものか,競争心や敵がい心のためか,あるいは愛と善意から出た純真な動機に基づいているかどうかを顧みなければなりません。「奉仕」というものは,形式に堕した崇拝者が望むような安易なものではありません。前述の元牧師の言葉を借りれば,「人々はキリストの考えによらず,自分たちの考えに合わせたキリスト教を好む……キリストの説いた教えになると,人々は話すのはおろか,聞くことさえも好まない」。この人の言うところによれば,日曜学校で教える人々はお粗末な内容で満足し,霊的な進歩を図って会員の家で始められた討論会も10人と出席したことがなく,2ヵ月たたないうちに立ち消えになりました。これではイエスの教えたキリスト教とは大変な相違です。「心をつくし,精神をつくし,思いをつくして,主なるあなたの神〔エホバ〕を愛しなさい」と,イエスは教えました。真の崇拝を実践する道は奉仕にあることを,イエスは自ら示しました。―マタイ 22:37。
喜んでエホバに仕える
6 今日多くのクリスチャンはどんな態度を示しますか。
6 むかし詩篇に預言された通り,今日心からエホバに奉仕する人々がいます。「汝のいきほひの日に,なんぢの民は心よりよろこびて己をささげん」。(詩 110:3,文語)この人々は熱心に神のことばを学びます。そして聖書について喜んで語り,心から喜んでエホバに仕えます。それでエホバに献身し,公のバプテスマによってそのことを象徴します。初期クリスチャンはこのように簡素な道を踏んで弟子となりました。今日のエホバの証者も同じことをしているのです。毎年何千人の人々がこの道を踏み行なうのを見ることは喜びです。1963年には全世界において6万2798人が,宣教に参加するためエホバに献身したことの象徴としてバプテスマを受けました。この人は初期の使徒たちと同様,金銭的な利益のために奉仕しているのではありません。また一般の人々の無関心のために宣教をやめることをしません。むしろ,エホバを代表し,御国の事柄を押し進めることの喜びのために奉仕します。その奉仕の動機は神への愛と隣人への愛です。そして「神と富とに兼ね仕えることはできない」と述べたイエスのことばの真実を知るゆえに,御国の事と宣教を生活の中で第一にします。―マタイ 6:24。コリント前 9:18。
7 サタンの主張はなぜ間違っていますか。
7 人間が神に仕えるのは利己心のためであると,サタンはヨブの時から主張してきました。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく,まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福された……しかし今あなたの手を伸べて,彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって,あなたをのろうでしょう」。(ヨブ 1:9-11)しかしヨブが神に仕えたのは,物質的な繁栄や慰安を求めていたからではありません。相次ぐ災に見舞われてすべての持ちもの,息子と娘をなくした時でさえ,ヨブは静かにこう言いました,「エホバ与へエホバ取り給ふなりエホバの御名はほむべきかな」。(ヨブ 1:21,文語)ゆえにヨブは物質的な利益を求めて神に仕えていたのではありません。今日のエホバの民にしても同様です。それで神への奉仕に対して使徒パウロと同じ見方を持っています。「しかし,わたしたちは,多くの人のように神の言を売物にせず,真心をこめて,神につかわされた者として神のみまえで,キリストにあって語るのである」― コリント後 2:17。
8 エホバの証者はどのようにパウロの手本にならいますか。
8 全世界2万2761に上るエホバの証者の会衆において監督やその補佐をつとめる人々は,給料,牧師館,恩給やその類のものを一切与えられていません。事情を知らない人はそれを知ると驚くでしょう。これらのしもべは初期クリスチャンと同じく自ら働いて生活の糧を得,神から委ねられた務として宣教を受け入れているのです。それは使徒パウロの手本にならう行ないです。自分の仕えたクリスチャンたちに負担をおわせないため,パウロは自らの職である天幕作りに従事しました。それで「わたしは,人の金や銀や衣服をほしがったことはない。あなたがた自身が知っているとおり,わたしのこの両手は,自分の生活のためにも,また一緒にいた人たちのためにも,働いてきたのだ」と,述べています。パウロはまた宣教に従事する正しい動機を強調して,次のように述べました,「わたしは,あなたがたもこのように働いて,弱い者を助けなければならないこと,また『受けるよりは与える方が,さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを,万事について教え示したのである」。それでパウロが宣教に携わったのは自分の利益のためではなく,他の人を助け,真理をわかつことに喜びを見出したからでした。―使行 18:3; 20:33-35。
奉仕の報いと試練
9 信仰には何が含まれているべきですか。信仰の人の手本をあげ,その待ち望んだものを述べなさい。
9 それでも聖書に示されているように,エホバはご自分に仕える人々に多くの霊的祝福と永遠の生命の報いを約束しています。これは利己的な気持で奉仕するように人を誘うものではなく,むしろ信仰と忍耐を励ますものであり,エホバの愛の表われです。聖書は,むかし信仰の人がエホバの約束に確信を抱き,激しい反対にあっても勇気づけられたことを述べています。「信仰がなくては,神に喜ばれることはできない。なぜなら,神に来る者は,神のいますことと,ご自身を求める者に報いて下さることとを,必ず信じるはずだからである」と,ヘブル書 11章6節は述べています。アブラハムは神の国の建てられる時を待ち望んでいました。「彼は,ゆるがぬ土台の上に建てられた都を,待ち望んでいたのである。その都をもくろみ,また建てたのは,神である」。また「キリストのゆえに受けるそしりを,エジプトの宝にまさる富と考えた」のはモーセでした。「それは,彼が報いを望み見ていたからである」― ヘブル 11:10,26。
10 報いの約束を待ち望むことが間違いでないことは,どうしてわかりますか。
10 パウロも,クリスチャンが奉仕する理由として将来における希望を述べています。パウロはコロサイ人に次のように書き送りました,「これは,キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と,すべての聖徒に対して抱いているあなたがたの愛とを,耳にしたからである。この愛は,あなたがたのために天に貯えられている望みに基くものであり,その望みについては,あなたがたはすでに,あなたがたのところまで伝えられた福音の真理の言葉によって聞いている」。イエスでさえ,「自分の前におかれている喜びのゆえに,恥をもいとわないで〔苦しみの杭〕を忍び,神の御座の右に座するに至ったのである」と,聖書は述べています。ゆえに神がご自分を求める者に報いて下さることを信ずるのは利己的でもなく,悪いことでもありません。またこのような希望を抱いて奉仕するからといって,その動機が間違っているとは言えません。―コロサイ 1:4,5。ヘブル 12:2。ロマ 12:12。
11 将来の祝福を待ち望むことは,どのように力となりますか。
11 祝福にみちた新しい組織制度の中で享ける生命の希望を聖書から学んだ人は,そのことを他の人に伝えたい気持になります。そして円熟にすすむとき,学んだことに対する確信のゆえに人は何年でも忠実に奉仕するのです。このような人は生命を得るための神の要求をはたそうと決意しており,たとえ忠実な崇拝のゆえに死に面しても,イエスのように忠実に神に仕えるならば,神は必ず報いて下さることを確信しています。この終りの時に大ぜいの男女が神に忠実に奉仕することを先見して,イエスは次の預言をしました。「そしてこの御国の福音は,すべての民に対してあかしをするために,全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」― マタイ 24:14。
12 反対にあっても。家から家の宣教をつゞけるのはなぜですか。
12 家から家に福音を伝道することは,おそらくいちばん難しい仕事かも知れません。それは人々の人気,名誉,安楽な生活を送るに足る収入,政府との結びつきを得ることと縁がありません。イエスの場合を考えてもそれは明らかです。一般にキリスト教国の教職者が人々から尊ばれ,高い社会的地位を持ち,高給をはんでいることは,どちらかと言えば世の友であることのしるしです。福音を宣明するどころか,それに反対したイエス時代の学者,パリサイ人もこのような人々でした。いまの世の中で是認されようとする人はいま報いを得ます。しかし御国のために奉仕する人は,正義の新しい秩序の下で生命の報いを得ることを望んでいます。神のことばを知るとき,その知識を活用しなければなりません。それでこの人々は喜んでこの特権を受け入れます。神の奉仕者となることは,すべてのクリスチャンの責務です。そうでない人は,クリスチャンすなわちキリストの追随者とは言えません。たとえ困難があるにしても,宣教は最大の特権であり,それは神から与えられたものであって,金銭では買えないものです。―マタイ 23:8-10。ヤコブ 4:4。ヨハネ 17:14。
13 迫害にもかかわらず,クリスチャンはなぜ,そしてどのようにエホバへの献身を表わしてきましたか。
13 宣教に参加するとき,クリスチャンと自称する人からさえ反対を受けることを,エホバの証者は知っています。エホバの証者は偽りの非難を浴びせられ,スパイ,シオン主義者,扇動者呼ばわりされてきました。パウロも当時の人々から,「この男は,疫病のような人間で,世界中のすべてのユダヤ人の中に騒ぎを起している者であり,また,ナザレ人らの異端のかしらであります」と言って訴えられました。戦争中,エホバの証者は信仰を否定しなければ死刑にすると言われ,またある国ではエホバの奉仕者として中立の立場を固守したために,何年ものあいだ投獄されていました。いまなお刑務所につながれている証者がいます。では自分の生命をそれにかけるほど,神への奉仕を大切にするのはなぜですか。それは神のことばの真理を信じ,永遠の生命の報いを得ることを望むからです。「今わたしは,人に喜ばれようとしているのか,それとも,神に喜ばれようとしているのか。あるいは,人の歓心を買おうと努めているのか。もし,今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば,わたしはキリストの僕ではあるまい」と,パウロは述べています。神の忠実を確信したパウロは次のように言明しました,「死も生も,天使も支配者も,現在のものも将来のものも……神の愛から,わたしたちを引き離すことはできないのである」。パウロは奉仕によって,神の愛に対する認識を示しました。―使行 24:5。ガラテヤ 1:10。ロマ 8:38,39。
14 愛は奉仕とどのような結びつきがありますか。
14 イエスもまた前途にある苦しみを知っていましたが,それでもエホバに忠実に奉仕することをやめませんでした。御父のみ心を行なうために来たイエスは,たとえ死にあってもそれを成し遂げることを決意していたのです。「わたしが父を愛していることを世が知るように」と言われた言葉からもわかる通り,イエスが忠実を守り通したのは愛のためでした。このような愛を持つならば,私たちは真理を語ることをちゅうちょせず,臆することなしにすべての人に証言できるでしょう。使徒ヨハネが述べたように,「完全な愛は恐れをとり除」きます。クリスチャンはなぜこのように確固とした愛を持つのですか。それは「神がまず私たちを愛して下さったから」です。―ヨハネ 14:31。ヨハネ第一 4:17-19。
神を愛するゆえに奉仕する
15 イエスと使徒たちが神に奉仕したのはなぜですか。
15 クリスチャンが神に奉仕すべき理由を問われるとき,何と答えますか。家の人に聖書文書をすすめた一人の子供の伝道者は,福音を伝道してどんな報いがあるのかと聞かれて,「永遠の生命」と答えました。この少女はエホバの約束に信仰を抱いていたのです。神に奉仕する理由として,あなたは他の人を奉仕に励ますような,どんな理由をあげますか。イエスがエホバに奉仕した理由を考えてごらんなさい。イエスは父なる神を愛したゆえにそのみ心を行ない,真理をあかししました。(ヨハネ 18:37)パウロはなぜ神に奉仕しましたか。パウロはそれが自分の生命と,音信を聞きいれる人の生命を意味することを,知っていたからです。そのためにパウロは福音の使者として奉仕し,キリストの始めたわざをしました。―コリント後 5:20。
16 奉仕すべき当然の理由をあげなさい。
16 そこで私たちの奉仕は神と隣人に対する愛に根ざしたものであり,イエスの命じたわざを行なうことです。それを成し遂げることは救いを意味します。(マタイ 22:37-
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