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  • 新世社会内で円熟を目ざして努める
    ものみの塔 1963 | 10月1日
    • 28 この点で新世社会は十分のものを備えています。そこで問題はこうです。私たちは全部の集会に出席していますか。毎週次の集会が開かれます。まず「ものみの塔」研究は,神のことばを信ずる人々のために協会の準備する最大の助けです。それから奉仕者が宣教のための実際的な訓練を受ける奉仕会,また話し方,聖書の話を準備して教える方法が教えられる神権宣教学校,協会の出版したおもな聖書の手引のひとつを学ぶ書籍研究があります。日曜日の公開集会は,時宜にかなう問題をとりあげての講演会です。

      29 (イ)献身は必要なことのすべてですか。(ロ)会衆とその集会は,クリスチャンにとってどんな価値がありますか。

      29 残念なことですが,献身してバプテスマを受けたならば,あとは何もしなくてもよいと考えた人がいます。定期的に集会に出席する必要はないと考えていますか。それはクリスチャンにとって会衆が命の綱であるという事を十分に認めていないしるしではありませんか。このような未熟な態度をとるかわりに,どうすれば全部の集会に出席できるかを自問すべきです。たしかに会衆は,各人が円熟に進むためにエホバの設けられたご準備です。各1時間毎週五つの集会に出席することが,まずもって如何に大切かを考えてごらんなさい。集会によってクリスチャン奉仕者は全能の神との関係を常に心に覚え,預言の最新の成就を知り,定期的に参加すべき宣教に目ざめていることができます。たしかに集会に出席する度に円熟への歩みをすすめることになり,兄弟の霊的な成長を助けることにもなります。

      祈り

      30 (イ)どんな個人的な特権は円熟を助けますか。(ロ)それは円熟に進むことをどのように助けますか。

      30 神に語る機会は毎日あります。私たちは祈りによって常に神と交わることができます。偉大な永遠の王エホバに祈りによって近づくとき,祈りのことばは正しい尊崇の気持をこめたものでなければなりません。「常に祈りなさい」とパウロは述べました。神とのこの交わりにおいて,私たちは自分のことだけでなく,他の人々のことも考えます。「わたしの祈りのたびごとにあなたがたを覚えて……いる」と言ったパウロの言葉は,その事を示しています。パウロは次のことを願っていました,「どうか,わたしたちの主イエス・キリストの神,栄光の父が,知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ,あなたがたの心の目を明らかにして下さるように,そして,あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか(を)……あなたがたが知るに至るように,と祈っている」。ここでも正確な知識を得ることと知恵の霊とが結びつけられています。それで神がみことばを通して私たちに語るとき,その言葉に聞き,細心の注意を払うことは,きわめて緊急なことです。エホバの許しまたすすめによって私たちがエホバに祈れることを,感謝すべきではありませんか。祈りもまた円熟にむかって進むための道です。そのことに間違いはありません。―ロマ 12:12。エペソ1:16-18。

      監督の職,円熟するとき与えられる賜物

      31 円熟した奉仕者には,報いとしてどんな奉仕の特権が加えられますか。

      31 人が知識を得て献身し,エホバの制度と密接に交わり,円熟にむかって進歩しつづけるとき,いっそう大きな特権を得ます。もちろん何事をするにも,人に見られるためではなくエホバに対してするように真心をこめてしなければなりません。(コロサイ 3:23)会衆内における監督の地位は円熟に励むことをすすめるために与えられるものではありません。それは,円熟した人そして神の力ある御手の下に自分を低くし,謙遜な心ですすんで仕える人に与えられる報いです。(ペテロ前 5:2,5,6)「全き人」になることを目ざして励みつづけるクリスチャンの奉仕者は,個人の家に集まる小人数のクリスチャンを教える奉仕者として任命されるかも知れません。これは戸別伝道,家庭聖書研究の司会,何回も訪問を重ねて人々に御国の音信を教えるわざに新しい奉仕者を援助し,訓練するすばらしい機会です。やがて会衆内の補佐の僕に任命されるかも知れません。そして遂に監督すなわち会衆を代表する奉仕者になることもあるでしょう。監督となるとき,常にエホバに頼り,羊のような人々の会衆はエホバの会衆であることを認識して,監督の職にともなうすべての責任をはたします。

      32,33 (イ)円熟した奉仕者にはどんな特別な機会が開かれるかも知れませんか。(ロ)これらの奉仕に選ばれる資格を得るのに,何が役立ちますか。

      32 このほかにも全時間宣教に携わる機会,「必要の大きな処」に行き,多くの場合に困難な事情の下で神の他の羊を助けて奉仕する機会があります。あるいは幾つもの会衆を巡回する監督また地域の監督として奉仕することになるかも知れません。これらの宣教奉仕の特権のほか,外国に行って伝道する宣教者,あるいはベテルのメンバーとなる機会もあります。ベテルは世界各国にあって伝道のわざを監督する事務所です。

      33 これは円熟をつちかい,円熟を身につける進歩の道行きと言えるかも知れません。それは安易な道,努力のいらない道ではなく,また奇跡的に達成されるものでもありません。それは常に心を用い,学び,考え,行ない,伝道し,御霊の実を表わし,他の人に愛を示すことの結果です。それは無私の気持で常に与えることを意味します。円熟するにつれて,人は他の人の荷を負うようにもなります。それはクリスチャンの責任であり,愛の表われです。―ガラテヤ 6:2。

      34 パウロはどのように円熟を示しましたか。

      34 たしかにクリスチャンの円熟にはすばらしい祝福がともないます。私がキリストにならう者であるように私にならいなさいと他の人々にすすめるまでに進歩したパウロは,この事を示しました。たしかに,パウロは信仰において全く成長した人でした。パウロはその生涯の終りに近づいたとき,確信をもって次のように述べました,「わたしは,すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。わたしは戦いをりっぱに戦いぬき,走るべき行程を走りつくし,信仰を守りとおした。今や,義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には,公平な審判者である主が,それを授けて下さるであろう。わたしばかりでなく,主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう」。―テモテ後 4:6-8,新口。コリント前 11:1。

      35 新世社会内で円熟を目ざして励むことを,どのように見るべきですか。

      35 円熟はすべてのクリスチャンの目標でなければなりません。円熟は宣教における最高の満足と喜びをもたらします。最大の喜びは他の人々との親しい関係またエホバとの親密な関係を認識することから生まれるからです。円熟するとき,私たちはエホバの祝福を常に意識するようになります。それでエホバの新世社会内で「全き人」に成長しようと努めてゆくとき,その進歩を何物にも妨げられてはなりません。円熟を得る私たちの目的が,エホバをほめ,行いと手本によって偉大な主権者のみをほめることでありますように。そうするとき他の人々は従うべき良い手本を見ることになります。ピリピ人に宛てたパウロの言葉はそのことをよく言い表わしています,「だから,わたしたちの中で全き人たちは,そのように考えるべきである。しかし,あなたがたが違った考えを持っているなら,神はそのことも示して下さるであろう。ただ,わたしたちは,達し得たところに従って進むべきである」。―ピリピ 3:15,16,新口。

  • 病気に負けない
    ものみの塔 1963 | 10月1日
    • 病気に負けない

      ◇ 病気が宣教に参加することと,定期的な奉仕とを妨げるとはかぎりません。次はオーストラリアの経験です。「私たちの会衆の一姉妹は,『ものみの塔』予約運動期間中に,大きな手術をうけるため入院しましたが,それまでに12の予約を得ていました。手術は火曜日に行なわれ,成功しました。木曜日には私たちの面会も許されました。行って驚いたことには,彼女は手術後で気分がすぐれないにもかかわらず,同室の患者たちからすでに四つの予約を得ていました。しかも,この予約は手術の前ではなく,手術後に得たとのことでした」。―1963年エホバの証者の年鑑から

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