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全時間奉仕は貴い宝ものみの塔 1956 | 7月1日
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でしよう。しかし,パウロは決して止めなかつたのです。パウロは,この宝を本当に大切に重んじたため,止めるなどという考えを思いもしなかつたのです。どのような苦しみや非難をうけようとも,パウロは全時間奉仕の宝を失いませんでした。また,物質的な慰安物,経済的な保証,あるいは貴重な宝石などに気を取らわれて,自分の価値判断を誤るようなことをしなかつたのです。この世の物質的なものは,宣教や,生命を与える真理とくらべる時に,損のものである,とパウロは考えました。このことについてパウロは次のように語つています,『私は更に進んで,私の主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに,いつさいのものを損と思つている。キリストのゆえに,私はすべてを失つたが,それらのものを,ちりあくたのように思つている。』(ピリピ 3:8,新世)人々はこの世のものだけを大切に重んじています。しかし,この世のものは御国宣教をなしつつ神に全時間奉仕を捧げる宝とくらべる時に,ちりあくたのようなものである,とパウロは考えました。
24 人の取る賢明な道は何ですか。
24 ちりあくたを大切に重んじて,それを生活の目標にすることは,愚かなことでありませんか。ちりあくたをあなたの宝にすることは,愚かなことでありませんか。金剛石,真珠,そして宝石に対する価値評価は,人のいる環境によつて全く変つてしまう故に,価値が決して変らない宝,つまり永遠の生命を意味する宝を大切に重んずる方が賢明でないでしようか。イエスは,ある時に『あなたの宝のある所には,心もある。』と言われました。(マタイ 6:21,新口)さて,あなたの心は何処にありますか。イエスの心のあつたところ,すなわち全時間奉仕の貴い宝の上にありますか。
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この宝はあなたのもの?ものみの塔 1956 | 7月1日
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この宝はあなたのもの?
『兄弟たちよ,そういうわけで,神のあわれみによつてあなたがたにに勧める。あなたがたのからだを,神に喜ばれる,生きた,聖なる供え物としてさゝげなさい。それは,あなたがたの理性の力によつてなす聖なる奉仕である。』― ロマ 12:1,新世。
1,2 (イ)どんな宝が,比較するもののない程の高い価値を持ちますか。誰がその宝を持ち得ますか。(ロ)この宝を所有しようと求めることは,なぜ重大な決定ですか。
英国の王冠についている宝石は,世界の宝石の中でもいちばんすばらしいものを集めたものです。その宝石の価値は極めて高いため,多くの人々はその宝石に嘆賞の声を放ちます。多数の人々は,これらの宝石を所有したいという強い欲望に駆られていますが,しかしそのような欲望は万が一にも実現できないでしよう。だが,王冠の宝石よりももつと価値のある宝があり,そして人々はその宝を持つことができるのです。数がほんの僅かに限られているために,その価値が高いのではありません。故にその宝を欲する人々は,それを入手することができるのです。しかし,その宝を持つ前に,或る事柄が要求されます。それで,人はこれらの要求を注意深く研究してから,それからこの宝が自分のものであるか,どうかを決定しなければなりません。
2 較べもののない程に高い価値を持つ宝は,生命の大いなる源であるヱホバ神に捧げる全時間奉仕です。その宝を求めて,その宝を持つ人には,永遠の生命が与えられる故に,いかなる宝石もこの宝とは比べものにならないのです。たとい部屋一杯に貴重な宝石があろうとも,生命の価値に及びません。神の知識や奉仕と比較した場合に,使徒パウロがそれらの宝石をちりあくたのように考えたのも全く当然であります。この価値評価は,もちろんこの世の価値評価とは全く反対なものです。それで,全時間奉仕の宝を得ようと決定するためには,注意深く考えることが是非必要なのです。人は,自分が何をしているかを知らねばなりません。そして,御国の宣教を理解するとともに深く悟り,かつ時間の許すかぎり常にその宣教に従事しなければなりません。
正しい心の持ち方
3 クリスチャンの心持は,どんなものでなければなりませんか。
3 神に奉仕したいと望んでいる人々に対して,使徒パウロはロマ書 12章2節(新世)で次のように述べています,『この世の組織制度に従うのを止めなさい。むしろ,あなたの心を入れ代えることによつて,新しくなり,神の御旨にかなう善き御意を全くわきまえ知るべきである。』つまり,人は価値評価を変えねばならない,ということです。この世の仕方で物質の富を見なすのでなく,パウロの見なしたと同じように物質の富を見なすべきです。そして,今までとはちがつて,物質の富を生活上の最重要なものとは見なしません。もつとも多くの価値を置いているものは,生命の大いなる与え主,ヱホバ神に奉仕することです。このようにして,現在の組織制度に従うのを止めます。その人は,イエスの為したと同じく,神の御意を行うために自分の生命を献身します。イエスは,『私の思いではなく,みこころが成るようにして下さい。』と言われました。(ルカ 22:42,新口)その人は,またダビデの述べた心持を持ちます,『わが神よ,我は聖意に従うことを楽しむ。なんぢの法は,わが心の中にありと。』(詩 40:8)その人は,この献身をなした他の人々と共に御国の宣教に従事します。これらの献身した人々は,いま忠実な証者たちで成立つている新しい世の社会を形成しており,ヱホバ神の最高至上権と御目的に証しを立てている人々です。
4 全時間奉仕に対して,ある人々はどんな態度を取りますか。
4 献身したクリスチャンたちの大多数の人々は,いろいろの義務や責任を持つているため,全時間を御国の宣教に捧げることはできません。しかし,仮にもし全時間奉仕の宝を持つことができ得るなら,その宝を得るよう努めるべきです。人々の中には,力のある御使たちと共にヱホバの天廷で奉仕せよという招待ならよろこんで引受ける気持になりながら,御国の宣教の全時間奉仕ということが言われるや耳を閉じてしまう人々がいます。宇宙内のある場所で神に全時間奉仕をよろこんで捧げる気持がありながら,なぜ宇宙内の他の場所で神に全時間奉仕するのをためらうのですか。神に奉仕する場所とか,神に奉仕する違つた方法は,神の奉仕の価値を変えますか。それらの人々は,難しいこともなく,また迫害のない時だけにヱホバに全時間奉仕を捧げたいのですか。神に献身して,その献身を水によるバプテスマによつて象徴したときに,以前の生活については死んだということをそれらの人々は忘れているのでしようか。水の中に没することにより,以前の生活については死んだことを示しました。水から出た時には,それ以後神の御意を行うために生きなければなりません。献身した人々が,もしでき得る環境にいるなら,神の宣教を行うのに全時間を捧げるようにと,神は要求されているのです。
5 どんな種類の奉仕は,ヱホバによろこばれますか。
5 もしあなたがこの献身をなして,ヱホバに全時間奉仕を捧げ得る立場にいるなら,なぜそうしないのですか。あなたが神に生命を捧げたとき,献身を固く誓つたではありませんか。あなたの利己的な生活態度については,あなたは死にましたか,それとも今でも利己的な生活態度を第一にしていますか。使徒パウロは,こう言つています,『あなたがたのからだを,神によろこばれる,生きた,聖なる供え物としてささげなさい。』(ロマ 12:1,新口)ヱホバの奉仕を良い加減にするもの,暇のときにするもの,という風に考えるべきではありません。ヱホバの奉仕を個人的な利害の次に置くべきではありません。ヱホバの奉仕は,一番重要なものにするべきです。ヱホバの奉仕を第一に重んじない人々は,まだ価値評価を変えておらず,現在の世すなわち現在の組織制度に従うのを止めていません。それらの人々は,全時間奉仕の宝よりも,この世の富を重んじています。自らを神に捧げるとは,神の奉仕に全く献身することです。すなわち,あなた自身の意志を行うためでなく,神の御意を行うために,あなたの時間,力,能力,所有物を捧げることです。これは,神によろこばれ,かつ神の御旨にかなう聖なる奉仕です。しかし,これを行うために,あなたの理性の力によつてなされねばなりません。あなたは,自分が何をしているか,そしてなぜそれをしているかを十分理解することが必要です。
軽々しく取つてはならない
6 (イ)人は全時間宣教に,とつさに入るべきですか。(ロ)この奉仕に対する基礎的な要求は何ですか。それらは,なぜ欠くことのできない程重要なものですか。
6 全時間奉仕を宝となし,心をその宝の上に置くなら,その奉仕をしたい,とあなたは欲するでしよう。しかし,一時的な興奮の結果に,全時間奉仕を行うというものでないことに留意して下さい。全時間奉仕は,価値のある宝であつて,軽々しく取つたり,一時的に為すべきものではないのです。それで,全時間宣教を行う前に,人は注意深く考えねばなりません。時折の宣教で経験する困難は,全時間の宣教では大いに増加するということを銘記すべきです。そして,その要求をしらべると共に,果してその要求に叶えるか否かを決定しなければなりません。また費用を考えるべきです。その費用は高すぎますか。個人的な利害,たのしみ,また所有している物質を多く棄てねばなりませんか。神を愛し,神によろこんで仕えたいという気持からこの決定を行わねばなりません。人はこの宝を求めようと考える以前に,ヱホバへの真の愛と最高至上者の奉仕にたいする真実の愛を持たねばなりません。この人は,御国の宣教と神権制度の拡大に深い関心を持つべきです。また,神権制度を通して来る聖書の真理に円熟すべきです。このことは,是非とも必要なものです。なぜなら,使徒たちの場合と同じく全時間奉仕をする人々は,神権制度の特別な代表者になるからです。他の人々は聖書の円熟した理解を持ち,かつ御国宣教の熱心な模範を示すこのような人々を手本とします。
7 全時間奉仕を一時的なものと見なすべきですか。
7 ひとたび前に踏み出してからには,後戻りすべきではありません。神への全時間奉仕は,一時的な仕事ではないのです。それは二,三ヵ月もしくは二,三年全時間奉仕を行つて,それから疲れたなら止める,というようなものではありません。むかしこの奉仕を行つた忠実な人々は,難しいことがあつて失意落胆しても,この奉仕を止めなかつたのです。彼らは,全時間の『善行に倦き』ませんでした。(ガラテヤ 6:9)ひとたび全時間奉仕を始めてからは,この奉仕を為し続けました。今日の御国の宣教は,むかしの奉仕と同じく決して易しいものではありません。それですから,易しいものだろうという気持でこの全時間奉仕を始め,そして易しくないと知つてから奉仕を止める,などというようなことをしてはなりません。
全時間の僕たちは多くのことを為し得る
8 全時間奉仕の僕たちは,なぜ必要ですか。
8 ヱホバの地的の制度内の多くの場所で全時間奉仕をする僕たちを必要とします。全地に御国の良いたよりを宣伝える,という神の命令を達成するために,ヱホバの地的制度は大きな仕事を持つています。多くの人々に宣伝えて,神の真理の言葉を教えねばなりません。幾万人という人々は,この良いたよりに答え応じていますが,イエスの予言されたように,『収穫は多いが,働き人が少ない。』(マタイ 9:37,新口)主人の収穫を図るために多くの全時間奉仕者が必要とされています。御国の宣教のために,全時間をよろこんで捧げる献身した人々が制度内にいないなら,孤立した所や遠い地にいる人々に,どうして宣伝えることができますか。使徒パウロは,ひとりのマケドニヤ人が立つていて『マケドニヤに渡つてきて,私たちを助けて下さい』と願つているのを幻に見ました。そのことは,使徒行伝 16章9節(新口)に記録されています。パウロはヱホバに全時間奉仕をしていたため,自由にマケドニヤの国に行き,善意者たちを生命の道に導くことができました。パウロは自分自身のこととか,自分の利害については何も考えなかつたのです。パウロはヱホバの事柄を考えていて,命ぜられるところなら,何処へでもよろこんで行きました。
9 ヱホバの宝を受け入れる人々に対して,ヱホバは何を期待しますか。
9 ヱホバ神は,全時間奉仕の宝をうけ入れる人々に,奉仕に対する心からの従順を求めておられます。心のかたくなで,我儘な気持を持つ人々は,神によろこばれません。ヱホバ神は,御自分の御意をよろこばし,かつ神権制度を通して与えられる如何なる指示にもよろこんで従う僕たちを欲しています。キリストが謙遜と従順を示したように,キリストの弟子たちも謙遜と従順を示すべきです。それで,キリストの弟子たちは,制度から遣わされるところなら,どんな場所にでもよろこんで行くべきです。そして,『われここにあり,我をつかわし給え』と言つた予言者イザヤの従順さを示すべきです。(イザヤ 6:8)このような心持を持つ人は,熱心にヱホバの御意をなします。そして,開拓伝道者というような大きな奉仕の特権が与えられるなら,ためらうことなしにその特権を受けいれます。
10 開拓者は,自分の事柄をなぜキチンと処理して行かねばなりませんか。
10 開拓者として全時間奉仕をする時には,自分個人の好きな事柄をする時間は殆どありません。開拓者の奉仕をするために,時間の予定を注意深く立てることが必要です。開拓者は,家から家に伝道し,再訪問をなし,家庭聖書研究を司会しなければなりません。そして,神権制度により定められている時間の目標を果さねばなりません。これに加えて,開拓者はヱホバの献身した僕たちで成り立つ会衆と共に働き,御国の宣教を行うのに援助を必要とする人々を助けねばなりません。ある開拓者たちは会衆内の監督としての地位が与えられるかもしれません。それは開拓者に対するつけ加えられた奉仕の特権です。また,愛,あわれみ,そして理解を率先して示さねばなりません。欠くことのできない個人的な研究を行うかたわら,開拓者たちは自分個人の必要としているものをまかなわねばなりません。そのために,この世の時間極めの仕事をすることも必要となるでしよう。忙しい日程を持つ開拓者は,自分の事柄をキチンと処理して行かねばなりません。毎日毎日を前もつて計画することが必要です。それで,開拓者としての全時間奉仕は,易しいものでありません。それは難しい仕事です。そして,聖書の理解に円熟している人々,ヱホバの讃美を宣伝えるのによろこびを見出す人々,仕事を恐れない人々が,開拓者には必要なのです。
11 熱心な開拓者にはどんな見込みがありますか。それに対してどのような準備をすることができますか。
11 熱心な開拓奉仕をする全時間奉仕者は,将来ものみの塔ギレアデ聖書学校に招待されて宣教に関する特別の訓練をうける見込みもあります。ギレアデの聖書学校で聖書についての多くの教育を受けるばかりでなく,他の国々において御国の宣教をなすための訓練をもうけます。かくして,使徒パウロの為したと同じように,ヱホバの制度に特別の奉仕をなす準備をうけます。ギレアデで,制度に対する強い認識と,制度の働き,制度の必要,制度と私たちとの関係ということを学びます。ギレアデは奉仕者の知識と聖書的な真理の理解を広めるものである故,ギレアデに行くための一番良い準備の方法は,神権制度により定期的に供給される出版物を熱心に研究することです。また,ヱホバの食卓から来る一番最新の霊的な食物に後れぬようにしなければなりません。
12 ギレアデを卒業した者は,自分の任命地をどのように考えるべきですか。
12 学生がギレアデを卒業する時には,全時間奉仕の宝について,より深い認識を持つべきです。そして,どんな地に任命されようともよろこんでその任命を受け,そしてすくなくとも3年はその地に止まる決意で行かねばなりません。もし,3年経つて後に母国を訪問することがあつても,外国の任命地に戻つてヱホバの全時間奉仕を続けたい,と欲することでしよう。外国の任命地がどれ程不快なものであり,また失意をもたらすものであつても,その任命地にしつかり踏み止まるために,あらゆる努力を払うでしよう。止めるなどということは考えません。むしろ,神のむかしの忠実な僕たちの残した全時間奉仕をしつかり為す,というすばらしい手本を心にいつも銘記します。努力をして親しんで行こうという気持があるなら,ついには任命地の目新しい環境や人々の特異な習慣にも慣れるでしよう。そして,何時かは自分の任命地を故郷のように感じ,新世社会に属しているその地の人々にも,他の国々にいる新世社会の人々と同じように親しい感じを抱くようになるでしよう。
ベテルでの奉仕
13 ベテルの目的を説明しなさい。
13 御国の宣教を組織し,かつ献身したクリスチャンたちに聖書や聖書研究の手引を供給し続けるために,神権制度は全世界に『ベテルの家』を持つています。ベテルの家で生活し,また働いている奉仕者たちは,全時間奉仕の宝を持つ人々です。彼らはヱホバのためにすべての時間を捧げます。ものみの塔協会の支部事務所にはベテルという名前がつけられていますが,どの国のベテルも,その地の神権活動の中心になつています。『ベテル』は最高者の奉仕のために専心しており,その名前の示すように,全く『神の家』であります。
14,15 ベテルをどのように見なすべきですか。
14 献身したクリスチャンが全時間奉仕を始める時,ベテルの奉仕を選ぶことがあるかもしれません。もし,そのクリスチャンは,ベテルに入る資格に適い,また願書がうけいれられるなら,すばらしい全時間奉仕の業をすることができます。しかし,ベテルというものを十分悟るためには,ひろくヱホバの制度を見ると共に,またベテルの持つ重要な役割を見なければなりません。人は修道院に入つてこの世の人から隔離し,冥想と祈りに全時間を費やしていますが,しかしベテルを修道院のように見なしてはなりません。ベテルは,修道院とは全くちがつているのです。本当にベテルでは大きな活動がなされています。ベテルの人々は,多くの仕事をするのであつて,僅かの仕事をするものではありません。そして,自分に課せられた義務を成遂げるだけでなく,御国の良いたよりを活潑に伝道しなければなりません。
15 新しい世の社会に来る人は,みなベテルについての正しい理解を持つべきです。親の言うことも聞かない強情な子供たちをしつけるのにベテルは良いところだと思つている人々は,その見方を変えるべきです。なぜなら,ベテルはそのような場所でないからです。ベテルは,神の家です。そして,ヱホバの献身した奉仕者たちが全時間を捧げてヱホバを崇めて讃美すると共に,クリスチャン制度の福祉に仕えるころです。ベテルは扱い難い子供を矯正する学校ではありません。ベテルは,両親の為し得なかつた仕事をするところではありません。ベテルに来る人々は,全世界におけるヱホバの証者を代表する奉仕者でなければなりません。それらの人々は,神権制度によつてそのような責任ある奉仕の地位につけられる人々です。
16,17 (イ)人はどのような態度をもつてベテル奉仕に入るべきですか。(ロ)その人は,どの位の期間ベテルに居るべきですか。
16 ベテルの奉仕を軽く考えてはなりません。ためしにやつてみよう,などという態度でベテルの奉仕をしようと願うべきではありません。これは全時間の奉仕であつて,この奉仕をいつまでも行い続けようという固い決意をもつてこの奉仕をなすべきです。仮にあなたがヱホバの天廷で奉仕するよう招待されるとするなら,『験してみて,気に入るかどうか見てみよう』と言うでしょうか。御国の宣教は苦しい仕事であるため,御国の宣教に全時間奉仕をするより,別の多くの事柄を為したいことでしよう。しかし,そのように考えるべきではありません。ヱホバに仕えることは,あなたの義務であり,あなたの責任です。あなたが神に献身したなら,神に仕えることを同意したはずです。それで,全時間奉仕に専心する人々は,大いなる至上支配主を愛し,また奴隷として,ヱホバに奉仕するのを望みます。奴隷としてヱホバに献身するならあなたをよろこばすことが大切なのではなく,ヱホバをよろこばすことが重要なのです。それで,ベテルは験してみる,
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