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  • 聖書の奇跡を理解する
    ものみの塔 1971 | 8月15日
    • 法則の制定者の存在を想定することである以上,驚くべき事柄をなしうるそのかたの能力を疑う必要がどこにありますか。そのようなかたの働きを,あまりにも狭い人間の知識や経験のわく内に限ろうとする必要がどこにあるのですか。神は,こうして自分たちの知識を神のそれに対抗させようとする人間が暗黒と愚考に陥るままにさせておかれますが,ヨブはそうした状態を描写しています。―ヨブ 12:16-25。ロマ 1:18-23と比較してください。

      人間の経験に反するか

      ある人々が言うように,奇跡は起こらなかったと単に主張したところで,それが起こらなかったことを実証できるわけではありません。今日生きている人の中には,記録された歴史上のできごとはなんであれ,自分はそれを経験しなかったとか,それについて証言できる生きた目撃証人はひとりもいないとして,その真実性を疑う人がいるかもしれません。しかし,そうだからといって,歴史上の事実が変わるわけではありません。

      なかには,人間の経験に反するといって,奇跡にかんする記述に異議を唱える人がいます。もし科学者が実際にそうした見解を実行に移したならば,新しい物事および科学者の講ずる方法の研究や開発はほとんど行なわれなかったことでしょう。たとえば,“不治の”病気の治療方法,あるいは惑星下の宇宙旅行などを研究しつづけることはなかったでしょう。今日,成し遂げられている事柄を古代人が見たら,仰天させられるとともに,現代人の日常普通の経験のかなり多くを奇跡とみなすでしょう。

      聖書の奇跡は単なる自然のできことではない

      聖書の記述に反論する人のなかには,聖書の奇跡は単なる自然のできごととして科学的かつ理論的に説明できると考える人もいます。確かに地震などの要素が用いられたこともあります。(サムエル前 14:15,16。マタイ 27:51)しかしこのこと自体は,神がそうしたできごとに関与しなかったということを実証するものではありません。それらの事柄は(たとえば,前述の地震などのように)それ自体,強力なわざだったばかりでなく,その時間的な要素は,それを偶然のできごととする考えをいっしゅうするものとなります。

      一例として,イスラエル民族に備えられたマナは,砂漠のぎょりゅうの木やかん木の出す,ねばねばした甘い樹液と考えられると主張する人がいます。こうした疑わしい主張がたとえ真実だとしても,それがイスラエル人に備えられたのは,その時間的な要素から考えて,やはり奇跡でした。毎週の第七日にはそれは地上に生じなかったからです。(出エジプト 16:4,5,25-27)さらに,それを翌日までとっておくと,うじがわいて悪臭を放ったのに,安息日の食物として保存する場合には,そうならなかったのです。―出エジプト 16:20,24。

      聖書の奇跡の特徴

      聖書の奇跡の特徴を理解すると,その確かさを確信する助けが得られます。たとえば,奇跡が人前で公に行なわれたのは注目に値します。なかには,ひそかに,あるいは少数の人々の前で行なわれたものもありますが,たいてい幾千人,場合によっては何百万人もの目撃者の前で公に行なわれました。(出エジプト 14:21-31; 19:16-19)イエスのわざは人前で公になされました。秘密裏になされるというようなところは少しもありません。イエスはご自分のもとに来た人すべてをいやされたのです。―マタイ 8:16; 9:35; 12:15。

      聖書の奇跡の別の特徴は,奇跡を行なった人の動機が個人の名声のため,もしくはだれかを富ませるためという利己的なものではなく,おもに神に栄光を帰することにあったという点です。(ヨハネ 11:1-4,15,40)奇跡は時には直接肉体的な面で他の人を助けましたが,常に霊的な面で人を助け,人々を真の崇拝に向けさせました。

      聖書の奇跡には,生きたものだけでなく,風や海を静めたり(マタイ 8:24-27),雨をとめたり降らせたり(列王上 17:1-7; 18:41-45),水を血やぶどう酒に変えたり(出エジプト 7:19-21。ヨハネ 2:1-11)した場合のように,無生のものも関係しています。なかには,らい病や(列王下 5:1-14。ルカ 17:11-19),生まれつきの盲目(ヨハネ 9:1-7)をさえ含め,あらゆる種類の病気を実際に癒した奇跡もあります。こうした奇跡の驚くべき多様さは,それが創造者の支持をえて確かに行なわれたということを証しています。人間の経験のあらゆる分野およびあらゆる種類の物事に力を及ぼしうるのは当然,創造者だけだからです。

      奇跡の目的

      奇跡は幾つかの重要な目的を果たしました。一番基本的なものとして,ある人が神からの力と支持を受けているという事実を確証する助けになりました。(出エジプト 4:1-9)モーセおよびイエスの場合,いずれも人々はそうした正しい結論を引き出しました。(出エジプト 4:28-31。ヨハネ 9:17,31-33)神はモーセを通して,きたるべき預言者について約束されましたが,イエスの奇跡は,イエスがまさにその預言者であることを見分けるよう観察者たちを助けるものとなりました。―申命 18:18。ヨハネ 6:14。

      キリスト教が創始されて,まだ日の浅かったころ,奇跡はその音信とあいまって,神がキリスト教を支援しており,それ以前のユダヤ教の事物の体制からは手を引かれたということを理解するよう個人個人を助ける働きをしました。奇跡はクリスチャン会衆の揺らん期に不可欠な要素でした。―コリント前 13:8-11。

      今日,事情は異なる

      今日,神がご自分のクリスチャンのしもべたちの手によって,そうした奇跡を行なわれるさまをわたしたちは見ていません。なぜですか。なぜなら,必要な情報はすべて存在しており,読み書きのできる世界中の人々がそれを入手できるうえ,研究と経験を通して聖書の知識と知恵を身につけた円熟したクリスチャンが,読み書きのできない,しかし話に耳をかたむける人々を助けるからです。

      イエス・キリストが神の任命された救出者であることを証明したり,神がご自分のしもべたちを支持しておられることの証拠を提示したりするために,神が現在奇跡を行なう必要はありません。

      たとえ神が,奇跡を行なう力をご自分のしもべたちに引き続き与えられたとしても,すべての人を納得させることはできません。イエスの奇跡の目撃証人でさえ,そのすべてが感動して,イエスの教えを受け入れたわけではないからです。(ヨハネ 12:9-11)一方,聖書は,やがて現在の事物の体制の滅びのさいに驚がくすべき神のわざが行なわれるとして,嘲笑者に警告を発しています。―ペテロ後 3:1-10。黙示 18,19章。

      ゆえに,奇跡の存在を否定する人々は,目に見えない神また創造者の存在を信じないか,それとも,神は創造の時以来,なんらかの超人的な仕方を発揮したことなどはないと考えているかのどちらかでしょう。しかし,そうした人々の不信仰は神のみことばを無効にするものではありません。―ロマ 3:3,4。

      すぐれた目的を成し遂げるとともに,みことばに見いだされる真理と原則に常に調和した神の奇跡にかんする聖書の記述は,神に対する確信を人にいだかせます。それは,神が人間を世話し,また神に仕える人々を守ることができ,かつ守ってくださるということの強力な保証となります。聖書の奇跡にかんする記録は,神が将来,奇跡的な仕方で介入し,忠実な人間を癒して祝福されるとの信仰を建て起こすものとなります。―黙示 21:4。

  • 死からよみがえらされた子どもたち
    ものみの塔 1971 | 8月15日
    • 死からよみがえらされた子どもたち

      親が子どもといっしょに読む特別な記事

      だれかが自分を愛してくれているのを知ることは,すばらしいではありませんか。あなたをほんとうに心配してくれる人がいるのはすばらしいことです。しかし,地上のだれよりもあなたを愛しておられるかたがいることを知っていますか。そのかたはエホバ神です。

      エホバはわたしたちをどれほど愛しておられますか。エホバはわたしたちが地上にいるときだけわたしたちのことを考えて,わたしたちがいなくなると忘れてしまわれますか。それとも,エホバはほんとうにわたしたちのことを覚えておられますか。聖書には,『死も生も,ここにあるものも来ようとしているものも,神の愛からわたしたちを離すことはできない』と書かれています。―ロマ 8:38,39。

      ですから,神がお忘れになることはありません。神はご自分に仕える人を記憶されます。小さな子どもも覚えておいてくださいます。たとえそうした人が死んでも,神はその人を生き返らせます。

      神のみ子イエスは地上におられたとき,エホバが小さな子どもをたいせつにしておられることを示しました。しばしば時間をさいて神について子どもたちにお話しされたのです。イエスは神の力を使って子どもを死からよみがえらせることすらなさったのです。イエスがある家族のために,どのようにそのことをなさったか聞きたいと思いますか。

      ヤイロという名前の男の人がいました。その人と妻,それに12歳の娘はガリラヤの海からあまり遠くないところに住んでいました。お父さんとお母さんはその娘をたいへんかわいがっていました。それはふたりにとって,たったひとりの子どもだったのです。

      ですから,そのかわいい娘が重い病気になったとき,ふたりがどんなに悲しんだかあなたも想像できるでしょう。ふたりは娘を直すためにできるかぎりのことをしました。でも少女は悪くなるばかりでした。ヤイロには,やがて娘が死ぬことがわかりました。でもヤイロもお医者さんたちも,少女を助けるために何一つできませんでした。

      しかし,イエスは助けることができるかもしれません。ヤイロはこのすばらしい人のことや,彼が人々をいやせることも聞いていました。それでヤイロはその人をさがしに出かけ,ガリラヤの海の岸べで多くの人々を教えているイエスを見つけました。

      ヤイロは群集をかきわけて進み出,イエスの足もとにひれふしました。そしてこう言いました。『わたしのおさない娘が重い病気にかかっています。どうか娘を助けに来てください。お願いですから来てください』。

      イエスはさっそく彼といっしょに出かけました。偉大な師にあいに来ていた大ぜいの群集もついて行きました。ところがしばらく行くと,ヤイロの家から数人の人が来て,「おじょうさんはなくなりました。もう師をわずらわせることはありません」と言いました。

      その人たちが言っていることがイエスの耳にはいりました。ヤイロがひとり娘をなくしてどんなに悲しんでいるか,イエスはご存じでした。それでヤイロにこう言われたのです。『恐れてはいけない。ただ神に信仰を持ちなさい。あなたの娘はだいじょうぶです』。

      彼らはそのまま進んでヤイロの家まで行きました。そこではヤイロの家族の友人たちが泣いていました。小さな友だちが死んだので悲しんでいたのです。ところがイエスはその人たちに,『泣くのをやめなさい。その子どもは死んでしまったのではありません。ねむっているのです』と言われました。

      イエスがそう言うと,人々はイエスをわらいはじめました。少女が死んだことを知っていたからです。しかしイエスは,それらの人に一つの教えをあたえるために,少女はただねむっているだけだと言われたのです。ご自分が神の力によって,ちょうどわたしたちがねむっている人を起こすように,かんたんに死んだ人を命によみがえらせることができるのを,人々に知らせたいと思われたのです。

      そこでイエスは,3人の弟子と子どものお父さんとお母さんだけをのこして,ほかの人たちにはへやから出てもらい,子どものいるところへはいって行くと,『少女よ,起きなさい』と言われました。すると少女はすぐに起き上がって歩きはじめたのです。お父さんとお母さんは喜びでいっぱいになりました。―マルコ 5:21-24,35-43。ルカ 8:40-42,49-56。

      あなたのお友だちでなくなった人がいますか。もしその人が生き返って,その人と遊べるとしたらどうですか。あなたはそうしたことが起こると思いますか。

      イエスは,死んだ人たちが神の新しい事物の体制で生き返らされると言われました。そうした人々にもう一度あえるのはどんなにすばらしいか,ちょっと考えてごらんなさい。神は,動物を死からよみがえらすことは約束されませんでしたが,ご自分のみ子イエスが大ぜいの人々を復活させると言われました。―ヨハネ 5:28,29。

      イエスはそうすることを望んでおられると思いますか。イエスは喜んで死んだ人を生き返らせますか。ナインという都市でのある日のでき事は,イエスがそれについてどんな気持ちを持っておられるかを示しています。

      ある3人家族がナインに住んでいました。お父さんとお母さんとむすこがいました。ある時,お父さんが死んでしまいました。そのためにその女の人はどんなに悲しかったことでしょう。でもむす子がいましたから,それでなぐさめられました。ところが,こんどはそのむす子が死んだのです。女の人には家族がなくなってしまいました。それはほんとうに大きな悲しみでした。

      少年をほうむる時が来ました。少年の死体が町から運び出される時,ナインの人々の多くがついて行きました。少年のお母さんは泣いていましたが,人々はなぐさめるために何をすることもできませんでした。それはたいへん悲しいことでした。

      さて,イエスと弟子たちはその日ぐうぜん,ナインの町へ向かっていました。町の門の近くで,その女の人のむす子をほうむりに行くとちゅうの群集にあいました。その群集と泣いている女の人を見て,イエスは女の人をあわれに思いました。イエスはその人の大きな悲しみに心を打たれ,助けてあげたいと思ったのです。

      それで,偉大な師はやさしく,でも女の人に言いきかせるようにしっかりとした話し方で「泣くのをやめなさい」と言われました。そのようすを見て,みんなは偉大な師に関心を向けました。イエスが少年の死体のところへ行った時,みんなはイエスは何をするつもりなのだろうと思ったにちがいありません。

      イエスは死んでいる少年にむかって,「若者よ,さあ,起きなさい」と命じました。少年はすぐに立ち上がり,話しはじめました。―ルカ 7:11-17。

      女の人がどんな気持ちになったか考えてごらんなさい。死んだ愛する人が生き返って来たら,あなたはどんな気持ちがするでしょう。ことばでは言えないほどすばらしいことでしょう。

      このでき事は,イエスが人々をほんとうに愛し,人々を助けたいと思っておられることを示していませんか。エホバ神とみ子イエスが,わたしたちをほんとうにたいせつにしてくださっていることを知るのは,すばらしいではありませんか。神の新しい事物の体制で,愛する人々が死からよみがえらされるのはなんとすばらしいことでしょう。

  • 全地にわたる一致の必要
    ものみの塔 1971 | 8月15日
    • 全地にわたる一致の必要

      「兄弟よ,我らの主イエス・キリストの名に頼りて汝らに勧む,おのおの語るところを同じうし,分争する事なく同じ〔思い,同じ考えの方向において〕全く一つになるべし」― コリント前 1:10,〔新〕。

      1 今日,一般の人々はどんな問題について同意しますか。ゆえに人々はいたるところで何を叫び求めていますか。

      わたしたちは今日分裂の世界に住んでいる,ということに異論を唱える人がいるでしょうか。20世紀の現代に住んでいる人間は,政治・宗教・経済の面で,また国内においても国際間においても,隣人と調和していけない状態です。いわゆる世代の断絶といわれている事態も,青少年と年長者,子どもと親との間に存在している分裂のもう一つの証拠でしかありません。各方面から,「理性的に話し合おうではないか」との声がかかります。ベトナム,中東,アフリカ,東ヨーロッパにおける紛争から,大学,高等学校,中学校,小学校における対決にいたるまで,理性を求める叫び,現在の分裂状態の収拾を求める叫びがあがっています。にもかかわらず,危機の時代の終わりの日に人々は「どんな合意にも応じない」であろう,と使徒パウロがテモテへの手紙の中で書いたことばを成就する事態へと,人類は容赦なく進んでいるかに見えます。―テモテ後 3:3,新。

      2 理性を求める叫びにもかかわらず,何が起きていますか。そのためにある人たちはどんな結論を下すようになっていますか。

      2 一致をもたらすためのあらゆる交渉にもかかわらず,分裂は存続し,各国民の間の隔たりは増大する一方です。さまざまな国家および民族間の平和にかかわる諸問題は,しばしば暴力や流血行為へと発展します。問題は決して処理できない,また,その出生や皮膚の色のゆえに,ある者は人類の他の者たちとは離れて住むべきだ,と感じる人もいます。

      3,4 (イ)宗教の分野における分裂を見て,当然どんな質問が起きますか。(ロ)そうした分裂はカトリック教会,プロテスタント教会の中でどのようにはっきりと目につきますか。

      3 宗教思想の分野においても,その分裂

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