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    ものみの塔 1962 | 4月1日
    • イエスの奇跡は,イスラエル中の人々に,いろいろなことを考えさせました。「多くの者は,「キリストがきても,この人が行ったよりも多くのしるしを行うだろうか」「このようなことがイスラエルの中で見られたことは,これまで一度もなかった」と言いました。(ヨハネ 7:31。マタイ 9:33,新口)しかし,悪らつで偏見をもっていた者たちには,イエスの奇跡は反対の影響を与えました。いく人かのパリサイ人は,「その人は神からきた人ではない。安息日を守っていないからだ」と不平を言ったり,「彼は,悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出しているのだ」などと言いました。(ヨハネ 9:16。マタイ 9:34,新口)しかし,そこまでだまされるような人ばかりではありませんでした。イエスが生まれつきの盲人の目をあけた時人々は,「罪のある人が,どうしてそのようなしるしを行なうことができようか」と言いました。盲人は,「おまえの目をあけてくれたその人を,どう思うか」と聞かれたとき,「預言者だと思います」と答えています。(ヨハネ 9:16,17,新口)イエスの郷里で人々は,「この人は,これらのことをどこで習ってきたのか。また,この人の授かった知恵はどうだろう。このような力あるわざがその手で行われているのは,どうしてか。この人は大工ではないか。マリヤのむすこで,ヤコブ,ヨセ,ユダ,シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも,ここにわたしたちと一緒にいるではないか」と言いました。「こうして彼らはイエスにつまずいた」。そこで人々の間には大きな分裂が起こりました。事実,イエスがある男のなえた片手をいやして,もう片方の手のように強くされた時,「パリサイ人たちは出て行って,なんとかしてイエスを殺そうと相談」しました。―マルコ 6:2,3; 3:6。マタイ 12:13,14,新口。

      だれのためのしるし?

      イエス・キリストの奇跡は,人々のまん中にメシヤがいることを証明するものでした。イエス自身もそれを,ヘブル語聖書のメシヤに関する預言の成就と考えられました。しかし,注目せねばならぬことは,それらの奇跡が,神の御国の近づいたことを,イエス・キリストという人の中に見るだけの信仰をもった人へだけのしるしであったということです。イエスは群衆に,エホバがつかわした者として彼を信じるようにすすめられましたが,多くの人々は信じませんでした。多くの奇跡を行なったにもかかわらず,人々は相変わらずイエスに,「わたしたちが見てあなたを信じるために,どんなしるしを行って下さいますか」と尋ねました。人々は,イエスがさらに,宮の胸壁から飛び降りるとか,懐疑的で心のかたくなな彼らがどうしても信じざるを得なくなるような,いくつかの超自然的なわざをするのを要求していたのです。しかしながらイエスは,彼らの要求には応じませんでした。そういうわけで奇跡は,信仰という洞察力をもった人々にのみ,しるしとなりました。彼らにとって奇跡は,彼らが信仰によってすでに知っていたこと,つまりそのイエスがキリストであるということの,付加的な証明にすぎませんでした。―ヨハネ 6:3。マタイ 12:38,新口。

      使徒ヨハネはこう言っています,「このように〔イエスは〕多くのしるしを彼らの前でなさったが,彼らはイエスに信仰を置かなかった。それは預言者イザヤの次の言葉が成就するためである,『エホバよ,私たちの聞いたことをだれが信じたでしょうか。またエホバのみ腕はだれに示されたでしょうか』。イザヤは,彼らが信じることのできなかった理由をこうも言った,『彼は彼らの目をくらまし,彼らの心をかたくなになさった。それは彼らが,目で見ず,心に悟らず,悔い改めて私にいやされることがないためである』」。―ヨハネ 12:37-40,新世。

      奇跡の背後にある教訓

      奇跡は,正しく評価された場合,信仰を強めました。奇跡は,イエスがキリストであることをさらに証明するものでした。なぜなら,神がイエスを通じて力あるわざを行なわれていたからです。しかしまた奇跡は,神のあわれみおよび慈愛の行いでもありました。そしてそのあわれみや慈愛という特質は重要な要素です。奇跡は,強制的にイエスをメシヤと信じさせるためのものではなく,イエスがメシヤであることを早く理解させるためのものでした。イエスの奇跡は,親切を示すための手段,長い間とざされていた喜びの泉を開くための道具でした。そして彼の教えを力あるものにしました。

      ガリラヤのカナでイエスは,最初の奇跡を行ないました。彼は,四,五百リットルの水を最上のぶどう酒に変えました。ここでイエスは,もてなしということについて教え,神の寛大さを示しました。よいぶどう酒は年を経るほどよくなります。ですから,その量が必要以上のものであったにしても,むだにはならなかったでしょう。この奇跡はまた,発酵させた飲み物を飲んでもよいとイエスが認めていたことを示しています。さもなければ,イエスはぶどう酒をつくられなかったでしょう。―ヨハネ 2:1-11。

      また,ある王の侍臣が,カペナウムで,死にかかっているむすこをなおしてもらうために,イエスをたずねてきたのもカナでした。イエスは,その子をなおしたうえに,彼をもっとよい父親にしてその子のもとに送り返しました。カペナウムまで一緒に行くかわりに,イエスはその人に言われました,「『お帰りなさい。あなたのむすこは助かるのだ』彼は自分に言われたイエスの言葉を信じて帰って行った」。父親はあとで,カペナウムから25マイルも離れた所におられたのに,イエスが言葉を発せられると同時に,むすこがいやされたということを知らされました。こうしてイエスは,彼を通じて示された神のいやしの力が,距離に制限されていなかったことを実際に証明されました。そのため,その人も「その家族一同も信じ」ました。―ヨハネ 4:46-53,新口。

      エルサレムでは,ベテスダという池で,38年の間病気だったひとりの男をいやされました。ユダヤ人たちは,イエスが安息日にそういうことを行なっているといって苦情を言いました。イエスは,神が毎日同じように休むことなく活動しておられることに言及して,彼らの非難に答えられました。「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」。(ヨハネ 5:17,新口)安息日になぜ良いことをしてはいけないのですか。太陽は輝くのをやめますか。川は流れをとめますか。草の成長はとまりますか。果物は熟し鳥は歌いはしませんか。神は忙しくないですか。神の全領域において,安息日は活動的なあわれみの日です。ではなぜ,安息日の主が,安息日に,あわれみのわざをしてはいけないのですか。

      イエスは魚に命令します。すると魚はやってきます。彼は水の上を歩き,激しい嵐をしずめます。そして,「海の魚と,空の鳥と,地に動くすべての生き物とを治め」る権威のあることを証明されます。彼は真実の人の子です。―創世 1:28。ルカ 5:4-7。マルコ 6:48。マタイ 8:23-27; 28:18; 8:20,新口。

      イエスの奇跡は,人間の苦しみに対するやさしい同情の表現,愛とあわれみの光のひらめきです。そして,イエスの教えの一部であり,新しい世における祝福を約束するものです。新しい世にはもはや悲しみも死もないでしょう。奇跡は,イエスがキリストであることを,事実をもって人々に印象づけるための手段です。―黙示 21:4。

      使徒パウロは書いています,「さて,わたしたちには,もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから,わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。この大祭司は,わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが,すべてのことについて,わたしたちと同じように試錬に合われたのである。だから,わたしたちは,あわれみを受け,また,恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために,はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」。―ヘブル 4:14-16,新口。

  • 少女は学級で伝道
    ものみの塔 1962 | 4月1日
    • 少女は学級で伝道

      ― セントマーチンで

      御国の真理が多くの人々に伝えられていることは,ある日カトリックの学校で示されました。すべての善人は天に行くと,生徒は教えられました。少女のうちひとりは,礼儀正しい仕方の中にこう話しました,「いいえ,14万4000人だけが天に行き,他の善人は地上で生活すると,エホバの証者は言います」。―1962年のエホバの証者の年鑑(英文)より。

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