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  • 現代におけるエホバの証人の活動 ― 日本
    ものみの塔 1973 | 10月15日
    • 第二次世界大戦後の新たな出発

      戦後の日本は大変動を経験しました。新しい平和憲法のもとで,日本は軍事的な手段ではなく,平和的な手段によって自国の活路を見い出すことに取りかかりました。神道,仏教,カトリック,そして新教の教団はすべて,日本の戦時における,結局は失敗に帰した政策に組みしたために面目を失い,多くの人びとは宗教的な空白を満たす何かを望んでいました。ほんの数年の間に,人間を指導者とする文字通り何百という,仏教および神道の新しい宗派が現われました。そのような宗派のひとつに,日連宗の分派で闘争的で政治に強い関心をもつ創価学会があり,今では1,000万人の信者を擁すると主張しています。それらの信者の多くは強制的な改宗によって得たものです。しかしここ日本には,真理を知ることを切望している人びとも多数います。

      天皇は1946年1月1日,「神」の座からおろされ,その時みずから神性を否定する宣言を行ないました。そして,天皇自身がマッカーサー将軍に,キリスト教を日本の国教にすることを提案されたと言われています。将軍は賢明にもその申し出を断わり,代わりに1万人の宣教師をアメリカから派遣することを提案しました。こうして,ものみの塔協会の宣教者が日本に入国する道は開かれました。今や情勢は,1914年以前にパスター・ラッセルが「宣教師たちは非常に落胆している」と語った時とは全く異なっていました。狂信的な神道崇拝は下り坂になっており,人びとは自分のことを考えることができるようになっていました。人びとは今や,聖書の真理を十分に得て,エホバとその王国を心から感謝することができました。その上彼らは,聖書の預言が現在の「終わりの日」に関連して預言していた,苦しいでき事の多くを実際に経験していました。ですからわたしたちの時代に関する,聖書の力強い音信をよく理解しうる立場にありました。

      1947年の暮に,ハワイの支部の監督ドナルド・ハズレットは,ものみの塔協会の会長ノア兄弟から,「ギレアデ学校を卒業後 ― 進んで日本へ行く意志のある,ハワイ在住者はいないか」という手紙を受け取りました。桃原真一,正子夫妻(当時3人の幼い子どもがいた),当間ジェリー,ヨシ夫妻,およびエルシー谷川が自発的にそれに応じた時,ハズレット兄弟はノア兄弟に,「それから,ハズレット夫妻はどうでしょうか」と尋ねました。こうして,ドナルドおよびメーブル・ハズレットは8人のハワイ在住の日本人二世に加わって,冬のさ中に熱帯のハワイからニューヨークに向かう長い旅にのぼり,1948年1月にサウスランシングに着きました。ギレアデ第11期生のそのクラスで桃原兄弟は,70人以上の志願者の中から選ばれて日本に行くことになった22人の学生に日本語を教えました。エルシー谷川も桃原兄弟の補佐として日本語を教えました。

      ハズレット兄弟は協会から赤いジープを支給され,1948年の秋に妻メーブルとともにそれでアメリカを横断しました。それからふたりはハワイに向けて船出しました。それからメーブルは,夫のドンが日本に向けて航海している間,しばらくハワイに留まらなければなりませんでした。ハズレット兄弟は1949年の1月初めに東京に着きました。ホテルに部屋を見つけることはできませんでしたが,アメリカ軍は親切にも,ハズレット兄弟が第一ホテルのマッカーサー将軍司令部に1か月間滞在することを許可してくれました。ハズレット兄弟は毎日ジープに乗って東京を回り,焼け野原の中で,支部に適当な建物を探しました。そのような場所は見つからないだろうと軍関係の人たちは言いましたが,1か月間探し回った後に,ハズレット兄弟は東京,港区の慶応大学の近くにある,しっかりした日本家屋を購入することができました。

      寒さの厳しい2月中,ハズレット兄弟は購入したばかりの,設備の整っていない家で野宿のような生活をし,たったひとつの火ばちで暖を取ったり,料理をしたりしました。当時食糧は厳しい配給制になっていましたから,兄弟は米とかニンジン,数枚のキャベツの葉などの配給を受けるために近所の人たちといっしょに並びました。この時期にハズレット兄弟は明石順三の追随者の何人かと会う手はずをしました。最初の会合は暖かいものでしたが,2回目の時には彼らは最後に怒り出し,ものみの塔協会に激しく反対しました。彼らの大半は刑務所からの釈放を得ようとして,エホバを否認し,今後はエホバを崇拝しない旨をしるした書類に署名していました。彼らがエホバの霊を完全に失っていたことは明らかでした。

      さて,メーブル・ハズレットは日本への入国許可を得,1949年3月7日に飛行機で到着しました。がらんとした大きな家の中で,ハズレット兄弟姉妹は畳の上に敷いたふとんに寝る生活に慣れていきました。その家には何匹かのネズミも同居していました。3月の未には,当間ジェリー,ヨシ夫妻が船で到着し,8月には桃原家族とエルシー谷川が到着しました。

      3月以降は,東京支部の近辺で王国の証言が行なわれました。しかし,奉仕に用いることのできる文書はほとんどなく,また日系ハワイアンたちでさえ,東京地方で話される日本語に慣れなければなりませんでした。彼らは,「聖書ははっきり教えている」と題する謄写版刷りのパンフレットを,「どうぞお読みください」と口で簡単に言って配布しました。ハズレット姉妹は最初の再訪問の時の様子を今でもはっきり覚えています。ある老婦人は謄写版刷りのそのパンフレットを少し余分にくださいと言いました。「まあ,彼女は関心を持っているわ」とハズレット姉妹は考えました。次に訪問してみると,その貴重なパンフレットは庭の何本かの苗木の上にかぶせてありました。この「神聖な紙」を使うと苗木がよく育つとその婦人は考えていたのです。

      ある日,ふたりの日本人の教師が支部に立ち寄り,ハズレット兄弟に学校で生徒たちに聖書を教えてもらえまいかと尋ねました。そこで毎週土曜日の朝,ハズレット夫妻はジープに乗って取手第二高等学校に行き,ドンは高学年の生徒を,メーブルは低学年の生徒を教えました。彼らは教科書として,英語と日本語の「神の竪琴」の本を1冊ずつ持っていました。後にこの授業は取りやめになりましたが,それから20年以上たった後,ハズレット姉妹は思いがけない,うれしい経験をしました。東京支部の王国会館でひとりの子どもを連れたある母親がハズレット姉妹のところにやって来ました。その婦人は一枚の写真を手にしていました。メーブルも取手高校の生徒たちを写した同じ写真を自分のアルバムにはっていました。この母親はその写真に写っている生徒たちのひとりだったのです。長い年月がたって,今彼女は王国の伝道者です。ずっと昔にまかれたたねはそこで実を結んでいたのです!

      1949奉仕年度の終わりまでには,7人の宣教者と8人の土地の伝道者が東京で奉仕を報告していました。しかし,それは単なる始まりにすぎませんでした。都内の区域のうち,初めに日本支部の奉仕者が伝道していた地域には,現在12のエホバの証人の会衆があり,1972年7月には合計613人の王国奉仕者がそれらの会衆で報告しました。それら王国奉仕者のうち123人は開拓者でした。

      1949年10月31日に,パーシーおよびイルマ・イズラブ,エドリアン・トムソン,ロイドおよびメルバ・バリー,リン・ロビンズのさらに6人の宣教者が横浜に到着し,宣教者の合計は桃原家族の3人の子どもたちを含めて16人になりました。これら「1949年の宣教者たち」のうち,13人は日本および沖繩で引き続き全時間の宣教者として奉仕に携わっています。彼らは引き続きこの国に留まることを願っています。

      宣教のわざは神戸にまで拡大

      10月に到着した宣教者のうちの5人は東京の南西約400㌔のところにある神戸で,新たに宣教者の家を開くよう割り当てられました。連合軍最高司令部戦争財産管理官はドイツのナチ党員が以前所有していた大きな家をものみの塔協会に貸与してくれました。そして後に,協会はこのりっぱな建物を購入しました。瀬戸内海の端に位置するここ垂水で,宣教者たちはまず建物をきれいにする仕事に取りかかりました。ハズレット兄弟姉妹と桃原家族も休暇をこの仕事に当てて協力しました。風変わりな船が家の下方に見える海岸に添って,ポンポン音をたてながら進んでゆき,美しい日没の光景が淡路島の上に見られました。宣教者の家はこうした美しい環境の中にありました。

      しかし,宣教者たちは何週間も木の床の上で寝なければなりませんでした。庭の高い丈の草を刈って,それをふとんの代わりに使うことにより,この問題はある程度克服されました。宣教者たちは服を着たまま眠りました。食堂には暖炉がありましたが,煙は煙突には行かないで,家のすみずみに流れ込みました。一時は,火ばちを使って料理をしたり,暖を取ったりしていましたが,これは危険であることがわかりました。何人かの宣教者が一酸化炭素中毒にかかって意識を失ったのです。幸いにも,宣教者たちは生きのび,また他の問題も克服することができました。

      当時は,言語を学ぶ「速成」コースというものなどはありませんでした。教科書はきわめて少なく,そのうえにあまり思わしくありませんでした。野外の奉仕に用いる文書はないも同然であったため,「神を真とすべし」と題する本の各章を日本語に訳して謄写版刷りにしたものを順々に人びとに貸しました。一時,「光」と題する本の第2巻を含む,日本語の戦前の出版物も何冊か用いられましたが,その本の第1巻を読む必要がないことを人びとに納得させるのは問題でした。戸別訪問による証言は宣教者にとって難しいものでしたが,同時に家の人にとっても難しいものでした。

      宣教者たちはギレアデ学校で,ヨロシイとは「良い」という意味であると学びましたが,ある地方ではヨロシイワということばが,「けっこうです」という非常に明確な辞退の意味で使われるということは学んでいませんでした。ですから初めのうち宣教者は,「ヨロシイワ」と言われると辛抱強く立って待っていました。それで仕方なく腹だたしげに文書を取った人もいました。第二次世界大戦直後であったため,人びとは西欧の事がらを知ることに非常に強い関心を持っており,多くの家庭で聖書研究を始めることができました。その中には聖書にほんとうの関心を持っているのではない人もいました。中には,奉仕を始めてすぐに,週に30以上の聖書研究を司会するようになった宣教者もいました。

      (この続きは次号に載せられます)

  • 読者からの質問
    ものみの塔 1973 | 10月15日
    • 読者からの質問

      ● バプテスマを受ける時の婦人の正しい服装について教えてください。

      男でも女でも,バプテスマを受ける時には特別の服装をしなければいけないとは,聖書は述べていません。したがって,どんな服装が適当かを決めるのは,バプテスマを受ける女の人自身の問題です。多くの婦人は,慎みのある水着は都合がよいと考えています。世界のある地方の婦人たちはドレスや長いワンピースを着ます。もちろん,バプテスマの時に何を着るかを決めるにさいしては,バプテスマが厳粛な行事であることを念頭に置いていなければなりません。極端で,肌がひどく露出すると考えられる水着を着るのはふさわしくありません。水にぬれた時に肌にぴったりくっついて見苦しい状態になるドレスを着るのもふさわしくありません。テモテ前書 2章9節と調和して,『慎みと思いの健全さ』を反映する選択をしなければなりません。

      ● もしクリスチャンが姦淫をし,それを悔い改めて,クリスチャン会衆の審理委員に罪を告白する場合,たとえそれが配偶者の心をひどく傷つけることになっても,自分が姦淫したことを配偶者に告げなければならないでしょうか。―アメリカの一読者より

      そうです。クリスチャンは自分の罪を配偶者に告げる義務があります。さもなければ,審理委員は,その人の悔い改めの告白が純粋であると認めることはできません。姦淫は結婚の床を汚すことであって,罪を犯していないほうの配偶者に離婚を許し,聖書的に自由な立場で再婚することを許すほど重大な事柄です。(マタイ 19:9)ですから,罪を犯していない配偶者は,起こったことについて知る十分の権利を持っています。

      現実に,罪を犯していない配偶者の心を傷つけるのは,告白ではなくて姦淫です。ですから,姦淫を犯した配偶者は,姦淫を犯す前に,姦淫の悪影響を真剣に考えて,誘惑に負けるべきではありませんでした。姦淫を犯してしまってからでは,罪を犯していない配偶者の心を傷つけないようにしようとしてもそれはもう手おくれです。

      罪を犯していないほうの配偶者は,姦淫のことを聞けば当然心を痛めるでしょう。しかし,必ずしもそれが結婚に破たんをきたすとはかぎりません。心からの告白と許しを請うことばを聞けば,夫または妻は,姦淫を犯した配偶者を許す気持ちになるかもしれません。それに,告白は,夫婦が自分たちの結婚生活を真剣に考え,どうすればそれを向上させ,再びまちがいをくりかえさないようにできるかを考慮する機会を与えます。罪を犯していない配偶者でさえ,相手が自分に不忠実になるような原因をつくっていたかもしれません。もし妻が,たとえば,夫から故意に結婚の分を奪っていたとしたら,妻も起きた事柄に対して一部の責任があります。神の見地からすれば,妻も全く罪なしとは言えません。なぜなら聖書は次のように忠告しているからです。「夫は妻に対してその当然受けるべきものを与えなさい。また妻も夫に対して同じようにしなさい。…互いにそれを奪うことがないようにしなさい。ただし,定めた時のあいだ相互に同意し,祈りに時をささげて,そののち再びともになる場合は別です。これは,あなたがたが自己抑制の足りないことのゆえに,サタンがあなたがたを誘惑しつづけることのないためです」― コリント前 7:3-5,新。

      告白は,結婚生活を向上させるための基礎となる可能性を持つほかに,他の深刻な問題を防ぐことにもなります。姦淫を犯したほうの配偶者は,その問題をかくしつづける限り,妻なり夫なりに対して正しい良心を持つことができません。それはいずれ言動に表われるでしょう。罪を犯していないほうの配偶者はやがて,何かおかしいことに気づき,そのことを口にするようになるでしょう。罪を犯した配偶者は,うそを言って罪をかくそうとするでしょう。そうなるとその配偶者の悪行は複雑になっていきます。したがって,ついには,不行跡を告白して相手の許しを求めるよりも大きな害を招く結果になるかもしれません。

      ですから,もし罪を犯した配偶者が真に悔い改め,結婚を解消したくないなら,罪を犯していない配偶者の許しを求めなければなりません。もし許されたなら,今後は,婚姻の床を汚さないようにふたりで努力すべきです。(ヘブル 13:4)会衆の道徳上の清さも関係していますから,二人は起きたことを審理委員会に告げなければなりません。

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