副会長と共に世界周遊
沖縄
第二次世界大戦で一躍有名になつた歴史的な島である沖縄に来るのは,台湾の台北からわずか1時間40分の飛行時間です。飛行機は台湾の北部の山上を9000フィートの高度で飛び,眼下に雲の海を見ながら進みました。後に,日本に行く途中に立ち寄るこの地に近づくにつれて美しい島々が見えて来ました。沖縄時間で午前11時45分頃,飛行機は着陸しました。この那覇の飛行場に沖縄会衆の人々が約20人集まつて,ものみの塔協会の副会長と日本の支部事務所からの地域の僕の短い途中下車を気持良いものにしようとしていました。この日本の支部事務所は沖縄に霊的な監督を行つています。沖縄会衆の人々が飛行場に居れば良いがと,私たちは希望していましたが,その期待は外れませんでした。約1時間にわたつて,多くの国籍の人々で成り立つこれらの暖い心を持つ兄弟たちと共に過しました。この兄弟たちは,その島区域ですばらしい証言を行つています。大多数の御国伝道者は沖縄で生まれた人々で,昨年の12月には20名を数える会衆の伝道者は野外奉仕で一人平均92冊の雑誌を配布しました。また最近3人の沖縄人の主婦は正規開拓者になり,神の御国の全時間宜明に大きなよろこびを見出しています。
日本の東京と京都
午後1時すこし前に,フランズ兄弟と地域の僕エドリアン・トムソンは再び飛行機に乗りしまた。3時間位の後,靄のかかつた夕方の空を背景として,雪をかむつた富士山が遠くに見えてきた時,私達はひどく興味をそそられたものです。しかし私達の飛行機が富士山と真向いの点に到達する前に飛行機は冬空に煙を出す三原火山のある大島の上をとびます。日の沈み方が早いので富士山はだんだん暗くなつていく空の中に,影絵の様にのこります。私達の飛行機が着陸して,世界で最も近代的な空港の一つである東京の国際空港の前にとまつたのは,午後5時を過ぎた頃です。約3時間の後,この二人の旅行者は他の飛行機で再び高く飛び,遠くまでひろがつている日本の首府の夜の灯を下に見ながら,西南方にある大阪へと急ぎます。この大阪は,人口約350万でこの国の商業の中心地です。この都市には沢山の川や橋がありますので,『日本のベニス』として知られています。1時間30何分かとんでから私達は大阪空港に着き,そこには日本の支部の僕と地域の僕の妻がよろこびの色をみせて私達を出迎えに来ていました。この遅い時間までには,北に50マイル離れた京都におけるヱホバの証者の国家大会は,大会1日目を終り,証者と善意者とで386名が出席しました。これは3日間の週中に行われた大会です。もつとくわしく云うなら,1月22日-24まで,火曜月から木曜日までの大会です。
1月23日,水曜日の朝,そんなに遅くならないうちに車で大阪を立ちます。この興味のある都市を去る前に,大阪城を見物しましたが,この城は日本の封建時代より伝わる素晴らしい構造です。この城は日本における封建制度の争いが終りを告げた西暦1615年,最後に占領された城廓でありました。私達は京都に向つて車を走らせましたが迂回して東南にある日本古来の都である奈良によりました。この都は794年までこの国を治めた所で,韓国から先ず渡つてきた仏教の日本における発祥地です。それで東大寺をしばらくの間,見物します。この寺は(紀元)752年に建立され,日本の各地にある寺の総本山です。この巨大な木造の建造物の中に大仏が坐つていますが唐金で鋳た尨大な像で,500トン近くの重さがあります。拇指は1.636米あり,人間よりも丈の長いその右の手を恵む様な恰好であげています。それはローマ・カトリックの僧侶が彼らの宗教的民たちを祝福するため,手を上げるのによく似ています。この本堂すなわち金堂に通ずる山門は,悪魔を描いた凄じい顔つきの武士の像(仁王)で守護されています。でもこの恐しい様相の寺院も美しい公園で囲まれ,そこには沢山の桜の木があり,鹿は放飼いにされ,私達,訪門者の手からもたべる程ノンビリしています。
昔,奈良の朝廷政治に対する仏教僧侶の干渉があくどいものになつたので,西暦794年,天皇は奈良の僧侶との関係を切るために京都に遷都されました。西暦1868年に都が東京に移されるまで京都は日本の首都とされていました。しかし今私達は,皇室の『天子』が名実ともに1000年以上も治めた都である京都に向つて車を馳つていました。京都は第二次世界大戦の爆撃の痕跡がありません。昔の文化や寺院があるために,爆撃を免れたのです。この京都市には広い道路や美しい公園がありますが,同時に日本に於ける多くの仏教宗派の中心となつている処です。ここは悪鬼の神々で一杯です。慈悲の女神である観音の御堂があり,またそこには千一の同し観音像も共にあります。ここには108の珠のついた仏教の数珠を大きくしたもの,沢山手のついた仏,多くの婦人の崇拝者の奉納した髪の毛で編んだ巨大な網等があります。
しかし,この1月23日,京都において関心の的になつているものは大会2日目をむかえているヱホバの証者の全国大会なのでした。神の証者である熱心は人々がこの島国のすみずみから集りました。日本は2ヵ月前,活潑な御国伝道者の新最高数に達し,合計657名の野外奉仕者を得ましたが,これは前年より20パーセントの増加です。大会が始まつた時,これら伝道者の何百人かが出席しており,最後の日は470名の新世社会の人々が出席しました。協会の会長がこれより9ヵ月前にこの国を訪れた時より約60人も多く居たわけです。これら日本人の証達たちが,日本人共通のひかえ目で形式主義的なものを捨ててしまつたことは,一目瞭然のことでした。笑つたり,拍手をしたり,とても楽しそうでした。この大家族が再び集つたのですから,大会でこれらの人々は私達の一行が岡崎公会堂の大会会場についた時,集りは420人に増加していました。まず最初,副会長はラヂオ放送員のため舞台裏で5分の吹込みをする様,求められました。そして,英語で話し終えてから,日本人の通訳が記憶に頼りながらその話を通訳しました。後者の吹込みは大きくされ,それを英語の上に重ねて放送することになる訳です。
出席者のうちには10の違つた国から来た66人のギレアデ卒業生と,40人を越す老若の日本人の特別開拓者がいました。フレッド・ダブリュー・フランズと喜びにあふれたこれら奉仕者たちは,2回にわたり互いに集まり話しをかわしてとても有益な時をすごしました。ある日本の特別開拓者たちは新しい土地に行く準備中でしたが,そのうちの4人は原爆都市の広島でこれから奉仕を初めるところでした。この広島市は再び40万の人口を持ち,神の御国のたよりに深い興味を持つ人が大勢いるのです。又4人の大人と二人の子供を含む一家族が近々福岡で働きを初めるところでした。そこは南の九州にある都市で,人口は60万ですが真理はまだ伝えられていません。大会中,学校に通学しているこの家族の内の10歳になる女の子が,すばらしい家から家の話を壇上からしましたので,聴衆は皆おどろきました。この子は日本語の聖書から聖句を読み上げてからものみの塔誌の予約を提供し,全く非の打ちどころのない話をしました。又特別開拓者は再訪問から得たよい経験や,聖書の研究について沢山話しました。ある群では1年足らずして14人の伝道者のいる会衆を設立し,更にこの中から4人は現在休暇の開拓奉仕者です。又ずつと北部で働く他の群は,4ヵ月のうちにものみの塔誌の研究をとりきめましたが,これには13人が出席し,内4人は既に御国の伝道者です。ここは郵便配達のみる家の表札も雪で覆われてしまい,他の宗教も冬には冬籠りをしているところです。
大会の組織は能率的に運営され,テーブルを備えた簡易食堂はこの建物の1階にある大きな部屋にあり,何百人かの大会出席者に三度三度の食事を手早やく給しました。お米やその他の食物は,公会堂の外にある大きなお釜で料理されました。この簡易食堂の食卓でフランズ兄弟は他の人と全く同じ様にお箸を使つて食べましたが,魚や御飯の御皿を上手にかたづけました。
さて,1月23日の晩,日本にいるヱホバの証者の大会でこの8年のうちに,わずか3回目の英語の話を聞くところです。前の2回は協会の会長が訪問した時のことです。東京支部に働らく日本人の申し分ない通訳を通じ,フランズ兄弟は午後7時半から437人にも増加した聴衆に向つて話をしました。そこに出席していた者のうち,かなりの数に上る人々は日本語を全然解しないか,あまり解することのできない者で,英語で話されるのを再び聞いた時喜び生きかえつた様でした。日本語に翻訳されるのでとぎれましたがそれでも英語を聞くことは喜ばしいものでした。殆んどすべての聴衆は聖書を持つていた様です。講演者が聖句を述べる度に講演者に向けていた顔を一せいに下げてうつ向いて聖書を開き神の御言葉の本をつかつて言葉を読みました。聴衆は耳を澄まして熱心によく聞きました。赤ちやんを背にくくりつけて戸の側に立つていた女の方まで前後に少しづつあるいて赤ちやんを寝かしつけながら話をききました。
公会堂の演壇は花で美しく飾られ,日本の国花である菊もその中にありました。演壇の後の壁には協会の1957年の暦の絵が大きくえがかれていました。しかし急のことでしたので絵をかいた人はうつかり一つの物 ― 新しい工場と古い工場をむすびつける橋 ― をえがきわすれました。フランズ兄弟は巧みにこのはぶかれた橋をつかい,ヱホバの制度の各部に存在する一致を強調しました。次の朝には,この橋は勿論はつきりとつけ加えられていました!
1月24日の朝,大概の大会での主な行事 ― 即ち新しく献身したものの洗礼式が行われました。公会堂でこの事柄についての話があつてから,私達は近くにある日本のお風呂屋まで歩き,そこで洗礼をほどこす者が,真中にある小さな四角の湯槽の中に立ち,最初,6人の兄弟に洗礼を施し,それから20人の姉妹に洗礼を施しました。全部で26人だつたわけです。午後の会合はよろこびのあふれたものでした。その時協会の宣教者で以前の支部の僕,ドナルド・ハスレットは司会者として先づ講演のために地域の僕を紹介し,次に現在の支部の僕,ダブリュー・ロイド・バリー,最後に訪門中の副会長を紹介しました。今晩の集まりは公開の話ですからハワイからのギレアデ卒業宣教者が午後の会を祈りで閉じました。午後の聴衆はもつと増して大会出席者は470名となりました。
この大会の最後の晩が来て,人々に宣伝された『新しい世の平和は現代に実現する ― なぜ?』の講演の時刻が近ずきました。自己満足に充足しているといわれる京都人が,冬の気候をものともせずに出かけてくるでしようか。京都の美しい岡崎公会堂で大会が開かれ,又市当局自身が誇にしているこの日本式の公会堂で開かれたことは,確かに,人々の心をひき立てるものでした。更にこの都市の200万に近い人々には沢山のビラが渡され,又公開講演を告げる掲示が,殆どすべての店の窓にあつた様です。又ラヂオ京都は大会のすばらしい点をニュースで放送し,御国の歌を少しと10分間の会見を放送しました。これら凡ての宣伝の結果,新しい世の平和について聞くために来た人々の数は,私たちを失望させるものではありませんでした。人数がかぞえられた時,なんと605人が出席していました! これは午後の人数と較べる時,一般の人が130人参集し,総人数の5分の1を優に越したことを示しています。仏教の中心地でありながら,聴衆はなんとよく一心に耳を澄まして聞いたことでしよう! 人々は非常な熱心さをこめて拍手しました。後に沢山の善意の人達と話を交わしこれからの研究のとりきめが設けられました。
この全国大会は,新しい世の平和が私達の時代に,日本及び全世界のヱホバの証者の間に,実際にあることを全く明白に表明しました。初めて出席した一人の聖書の研究生はこう云つた程です,『ここにあるものはなにから何まで全くことなつている。実際これは新しい世の社会だ!』 新しく洗礼をうけた26人の兄弟と姉妹はこの新しい世の社会に入つたことを非常に喜びました。外国人の宣教者たちも日本の御国伝道者たちも,この大会は日本で今まで開かれた大会のうちで最も円滑にはこばれた大会であり,一番熱意に溢れた又たのしい大会であつたという点意見が一致しました!
時間は末だ早かつたので,殆んどすべての宣教者はそれぞれの宣教の地に散つて行く前,― このすべては愛するギレアデの同じ学校の卒業生です ― 京都の宣教者宅に集りました。60人以上の宣教者の殆どは二つの部屋に溢れだす程でした。珍らしい立食ランチをほほばりながら,神権的に興味のある事,又大切な経験をききました。この様に一緒に集まるのはめずらしい事ですから,真夜中すぎまで休むことは出来ませんでしたが,それだけの甲斐のあるものでした。京都の宣教者宅に泊つていないものは元気を新にし,喜んで感謝のうちに去つてゆきました。二,三時間,眠つてから午前5時に,私達3人は起きました。大阪で東京むけの飛行機に乗るため,車で行く時間なのでした。その日の午後は東京でものみの塔協会の東京支部の所有物や,そのはたらきを調べるのにつかわれました。次の朝,副会長は羽田の空港に行き,9時15分には韓国にむかつて飛行機で飛び立ちました。フランズ兄弟も,東京にいる者も,次の週に彼が南鮮からハワイ諸島に飛行する途中,東京に1日寄るのを,期待していました。