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訓戒をどう見なすべきですかものみの塔 1972 | 2月1日
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んか。そのように取り扱ってもらいたいと思いますか。これと同様のたとえを用いて,使徒パウロは,訓戒が事実わたしたちに対する神の愛と関心の表われであることを思い起こさせています。―ヘブル 12:4-10。箴言 3:11,12と比べなさい。
もしだれかから助言やしっ責を受けて気持ちを害された自分に気づいたなら,ちょっと立ちどまって,こう自問してごらんなさい。あの人たちがわざわざ時間をさいてそうしてくださったのはなぜだろうか。おもしろ半分にそうしただけのことなのだろうか。たいていの場合,しっ責を与えるのはそうする人にとってもあまり楽しくもなければ,容易ではないことがわかるはずです。しかし,あなたを気づかうからこそ,努力してしっ責するのです。これだけでも,それらの人の言うことを真剣に考え,その理由を理解すべく努力する十分のいわれとなるはずです。―箴言 17:10。
確かに自分のまちがいを直視するには強さを必要とします。しかし,祈りによって神に近づき,とがめを受け,ダビデのように正しい精神をもってしっ責の正当さを認めてその益にあずかれるよう,しっ責を甘受し,強さと勇気を神に祈り求めることができます。(詩 51:1,2,10-12。イザヤ 26:16)また使徒ペテロに見ならうこともできます。ペテロはあるあやまった行ないをして,使徒パウロから公にしっ責されました。しかし,ペテロはそうしたしっ責を甘受できる,しっかりした人,なかんずくしっかりしたクリスチャンでした。うらみをいだくどころか,後日,ペテロはパウロのことを「我らの愛する兄弟」と言いました。―ガラテヤ 2:11-14。ペテロ後 3:15,16。
もちろん,だれかに矯正してもらうのを待つ必要はありません。「自己訓戒」を行なえるのです。よく注意すれば,自分で自分のまちがいの多くを認め,それを矯正する手段を講じることができます。―コリント前 11:31,32。
このように,訓戒を進んで受け入れる人は多くの益にあずかります。まちがいや過失を率直に認めるなら,より健全で清い気持ちを持てます。また,正しいことを愛する心や思いも強化され,他の人々との良い関係も助長されます。なぜなら,人々はあなたが正直で謙そん,かつ平衡のとれた考えを持つ人であり,今日の多くの人々とは気持ちのよいほど異なった人であることを認めるからです。さらに,非常にたいせつなこととして,神の是認と祝福が保証されるのです。確かに,「教訓の懲治は生命の道」です。―箴言 6:23。
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クリスチャンの円熟 ― 捕らえどころのない目標?ものみの塔 1972 | 2月1日
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クリスチャンの円熟 ― 捕らえどころのない目標?
「クリスチャンの円熟」とはいったいなんですか。あなたはこれをどう定義しますか。あなたはクリスチャンとして円熟していますか。それとも,円熟するために努力しているところですか。
クリスチャンとして円熟するという意味を正しく理解することはほんとうに価値があります。というのは,ひとつには,まちがった理解は失望につながるおそれがあるからです。まちがって理解していると,クリスチャンの円熟とは,近づいたと思うと遠のいて人をじらす,きつね火か,しんきろうのように思えることがあります。しかし,
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