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  • 私の神に仕えた50年
    ものみの塔 1965 | 11月15日
    • 大量に配布するとともに,同じ主題の公開講演をいたる所で行ないました。こうしたことはすべて,人々の心をかなり動かしました。姉妹冊子「死者と語る」も広く配布されました。人々は死者,とくに戦没兵士と通信できると信じさせられていたので,その配布は必要でした。この考えは野火のように広がりました。サー・アーサー・コナン・ドイルなどは,生者が死者と通信することについてとてつもないことを書きました。しかしエホバが準備された「死者と語る」という小冊子は,真理探求者が関心を寄せていたその主題に反論するための適切な資料でした。

      当時真理は目ざましい勢いで広まりました。集会の出席者数は五,六百人から1800,1900,2000人へと急増しました。かなり大きな劇場もすぐ満員になりました。迫害が激しかった時に私たちから離れていった人々も,組織を見なおすようになりました。組織が迫害を耐え抜き,依然活発に活動をつづけているのを見て,多くの人は考えはじめたのです。

      それよりまえ,つまり1918年の9月に,私はエブリン・フィンチ姉妹と結婚しました。彼女は私がカナダに来たとき初めて会ったエホバの証人で,初めのころ,エホバの目的にかんする知識を得るのを惜しみなく援助してくれた姉妹でした。

      ベテル奉仕

      1922年,妻と私は,再びオハイオ州シダーポイントで開かれた大会に出席しました。その大会から戻ったとき,私たちはどんなことがあっても前進しようという熱意に燃えていました。私たちは自分が神の目的の中にあることを悟りました。エホバはその宮におられ,エホバのしもべたちが王と御国を宣明する時はきたのです。私たちは背水の陣をしく決意を固めて家に帰りました。道は一つしかありません。それはエホバの導きに従ってまっしぐらに進むことです。その夏私たちはカナダ・ベテルでの奉仕を志願しましたが,カナダ・ベテルには奉仕者が十分にいました。そこで私たちはブルックリン・ベテルに申し込みました。その申し込み書が留保されている間に私たちは家を修理し,また1年に1ヵ月ある休暇を全時間奉仕に費やし,ほかの時にもできるだけ多くの時間を奉仕にささげるようにしました。

      1924年11月,妻と私は,ブルックリン・ベテルの家族に加わることを許されました。いうまでもなく私たちの喜びは大きなものでした。私たちにとっては新しい生活の始まりです。ベテルに来て間もなく私は奉仕部門に配属され,今日までその部門で奉仕しています。のちにベテルの講演者のひとりとして任命されましたが,この特権もエホバに感謝しつつ受けました。1927年には,日曜日に戸別伝道をする取り決めがつくられました。こうして組織が新しく一歩を踏み出すたびに,私たちの喜びは増しました。

      1930年代には,組織の立場から見て重要な歴史的事件がいくつか生じました。ニュージャージー州のプレインフィールド・バーゲンフィールド,アスバリー公園ではカトリック・アクションが,エホバの民を滅ぼすため盛んに反対しました。1933年を聖年とする,という法王の宣言の間違いをラザフォード会長が明確に説明したことが,ローマ・カトリック教会を激怒させたのです。彼らの悪魔的な怒りはとくに,1939年の6月,マジソン・スクエア・ガーデンにおけるエホバの証人攻撃となってあらわれました。暴徒に制御された無気味なけはいは,ラジオをとおしてもはっきり感じられました。しかしラザフォード兄弟は,そうした妨害にもかかわらず,ラジオで中継されていたその講演を,最後まで力をこめて行ないました。聴衆はそれを聞き,そこに示された精神を自分で判断することができました。

      マジソン・スクエア・ガーデン内の騒ぎののち,いく人かの兄弟が不当にも逮捕され,いく人かの暴徒と一緒に警察署に連行されました。ラザフォード兄弟はその時どうしてもすぐに警察に行って様子を見,兄弟たちを弁護するといってゆずりませんでした。その時私も自動車で彼と一緒に行く特権を得ました。マジソン・スクエア・ガーデンから警察署まで自動車を走らせながら,たけりたった暴徒のデモと,ご自分の民を保護する神の制御力を私たちはみました。警察署では暴徒をかきわけなければ中にはいれないので,警官の援助が必要でした。ラザフォード兄弟は兄弟たちにあびせられた非難を詳細に調べ,彼らを弁護する手続きをとり,彼らを励ましました。警察を出るとき外にはやはり同じ暴徒がいました。彼らは車の中に押し入ろうとし,前進を妨害しました。暴徒にドアをあけさせないため,私たちのだれかがステップに乗っていなければなりませんでした。

      マジソン・スクエア・ガーデンの夜の集会では私が最初に話すことになっていました。どうなっていることだろうと思いながら帰ってみると,状態はすっかり変わっていました。敵はひとり残らず引きあげ,平和と静けさがよみがえっていました。その晩の集会は,あたかもエホバが立ちあがられて,『平安なれ,静まれ』と言って,つまらぬ者を追い払われたかの感がありました。

      1942年の初頭,ラザフォード兄弟が死亡してから,協会のニューヨーク法人団体とペンシルベニア法人団体の理事たちは,ブルックリン・ベテルに会合し,祈りをこめた熟考の末,満場一致で,ネイサン・H・ノア兄弟を新しい会長に選びました。

      エホバのわざは急速な発展をつづけました。1943年の2月1日には,宣教者を養成するものみの塔ギレアデ聖書学校が開設され,また同年4月17日には,神の民すべてを宣教のわざに備えて訓練するための,「神権宣教学校過程」が全部の会衆に送られました。こうした初期の措置が基礎となってそれ以後わざは目ざましい発展をとげました。エホバのみこころを成し遂げるエホバの御霊の働きの早さはいきをのむばかりでした。それはエホバのみわざであり,私たちの目にはすばらしいものでした。

      ベテルにいてこうしたすばらしい出来事を見,それを感じ,それに参加することはだれでも得られる祝福です。私はそのように考えています。そういう態度でベテルにはいり,そういう気持ちですべての割り当てを受けるなら,非常に幸福で,エホバから豊かな祝福を受けることを,私はベテル生活40年の経験をとおして知りました。

      私はここベテルで数々の特権を与えられたことを毎日エホバに感謝しています。第二次世界大戦中に与えられた特権の一つは,週末が5回あればそのうちの4回,アメリカ東部の州の刑務所に入れられていた兄弟たちに奉仕することでした。現在もやはり,ダンバリー連邦刑務所にいる兄弟たちに,毎月1回ずつ奉仕し,それを20年近くつづけています。そうした特権をすべて果すには努力がいります。しかしエホバのしもべとして仕え,兄弟たちを慰めることはほんとうに大きな喜びです。エホバのしもべであったこの50年間,エホバは私に良きものを惜しみなく与えて下さいました。私はそれをはばかりなく言うことができます。(詩 84:11)大小にかかわらず,必要なものはすべて組織をとおして与えられました。私の望みはエホバの家のしもべとして永遠にそこに住まうことです。―詩 27:4。

  • 文盲をなくす
    ものみの塔 1965 | 11月15日
    • 文盲をなくす

      ◆ ガーナでは読み書きの教育が続けられ,いま教えを受けているのはおもに年をとった人や学ぶことが困難な人であるため,進歩は以前ほど早くありません。ガーナでは文盲が大きな問題ですが,いまでは伝道者の65パーセントが読む事ができるのはさいわいです。ある地域では政府の「集団教育」部門の役人は読み書きのできる人数でエホバの証人を第一にあげています。

      ― 1965年度エホバの証人の年鑑から

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