神の目的とエホバの証者(その40)
「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10,新世訳
正反対な警察の二つの処置
この大会より1ヵ月すこし前,1940年6月14日の国旗の日に,ニューヨーク州サウスランシングにあった協会の御国農場は,暴徒の攻撃を受けそうになりました。ひとりの老人は,そのことを農場の経営部にしらせました。この人は,その前夜,サウスランシングの居酒屋にいて,ニューヨーク州西部のアメリカ世界大戦参加軍人会が,国旗の日に協会の農場に集合し,建物を焼却してしまうという,会話を立ち聞きしました。
農場の僕は,この知らせを聞いてすぐに手配し,トンプキンス郡の治安官に連絡しました。治安官はこのことを真剣に取りあげ,法律の擁護を信じていたので,たとえ部下の数はわずかであっても,暴力行為を阻止しようと決意しました。彼も農場に対するこの運動について通知されていたので,州警察の援助を求めました。
6月14日の6時頃,どこからともなく幾百台もの自動車が現われ,協会の敷地を通るハイウエイを走りました。それぞれの自動車には,4人か5人が乗っていました。しかし,警察も準備していました。州の騎兵隊と警官たちは協会の建物全部を保護しました。また州の警察は特別の規定を設け,協会の敷地の一方の端から他方の端までの半マイルのあいだ,自動車の速度を落とすことや,駐車することを禁じました。この半マイルの間には警官が立って,自動車の駐車を許可しませんでした。自動車は1台もとまれず,結局人も降りることができなかったので建物に火をつけることはできませんでした。警察は真夜中過ぎまで警備して,全部の自動車をどんどん通過させました。こうして,御国農場に対する攻撃は回避されました。約1000台の自動車と4000人がニューヨーク州の西部から集まって農場にあった協会の資産を焼きつくそうとしたと推定されます。
ロイス: すくなくとも幾人かの警官がその本分を果たしたことを聞くのは,心強いことです。
ジョン: 彼らは本当にその本分を守りました。彼らが暴徒たちの暴力行為を押えるのに成功したことから,エホバの証者を保護しようとしなかった警官たちの義務遂行の怠慢がはっきり示されました。
全部の警官が,トンプキンス郡の治安官ほど熱心に法律を守ったわけではありません。西バージニア州の警察は,エホバの証者に言語同断な処置をしました。1941年6月29日,7人の男子の証者はウエスト・バージニア州リッチウッドに行き,そこで伝道の仕事をしました。その中の3人は市役所に行き,伝道の仕事をする際の警察の保護を願う手紙を市長に提出しようとしました。他の4人は自動車の中で待っていました。そういう手を打つことは必要と考えられたのです。なぜならちょうど1年前,これら7人の証者の中の二人は,文書を配布し,オハイオ州コロンブス市,オハイオ州博覧会場での全国大会に関する請願状を配布したために市から追放されたからです。
市長は不在でした。しかし,リッチウッドの警察署長バートス・スチュワートとニコラス郡の治安官代理でもあり,アメリカ世界大戦参加軍人会の会員でもあったマーチン・エル・カツレットはいました。このカツレットは,1年前に証者たちを市から追放したリッチウッド・アメリカ世界大戦参加軍人会の6人の幹部のひとりでした。警察の保護を要請した手紙は,警察署長スチュワートに手交されました。スチュワートは,その手紙の要請に従わず,その3人の証者を市長室に連れて行きました。治安官代理よび収税吏として,カツレットも,その事務所で働いていたのです。証者たちはそこに閉じこめられ,カツレットは官職を示すバッジをつけ,警察署長は門番の役を果たしました。
カツレットは電話でアメリカ世界大戦参加軍人会の他の会員を呼び出し,次のように語りました,「ここにS-O-Bが3人いる。残りの連中も検挙した」。約1500名の暴徒たちが集まったとき,他の4人の証者も事務室に連れこまれました。するとカツレットは治安官代理のバッジを取りはずして,こう言いました,「これからすることは法律の名で行なわれない」。3人の証者は無理やりに8オンスのひまし油を飲まされました。他の4人は最初反対して拒絶しましたが,医者が胃ポンプを使うぞと脅迫したので,けっきょく16オンスのひまし油を飲まされました。
それから7人の証者は約1米の間隔を置いてじゅずつなぎにされ,リッチウッド郵便局の前に連れて行かれました。その建物の上にはアメリカの国旗がかかげられていました。カツレットはアメリカ世界大戦参加軍人会規定の序文を読み,証者以外のすべての人は国旗に敬礼しました。それから証者はリッチウッド市の通りを行進させられ,なわにつながれたまま市の外に連れ出されて釈放され,自動車のところに帰えされました。ところが,この自動車はすっかりこわされ,ひまし油が塗られ,悪口雑言のいたずら書で一杯でした。そして,2度と戻ってはならないと証者たちは告げられました。
午前9時半頃,彼らが治安官代理の事務室にはいってから,午後3時すぎに釈放された時まで,彼らはひまし油以外に食物と飲物をすこしももらわず,便所に行くことも許されませんでした。
カツレットとスチュワートの両人は,共謀してエホバの証者から,福音を伝道する権利,およびアメリカの国旗敬礼を拒絶した良心に基く理由を説明する権利を奪って,民権条例に違反したと告訴されました。ウエスト・バージニア州の南部地方のアメリカ合衆国の地方裁判所で両人は有罪と裁定されました。カツレットは上訴しました。しかし,第4巡回区のアメリカ合衆国控訴院は,下級裁判所の決定を支持して,次のように述べました。その一部は次の通りです。
したがって,カツレットの論議は,次のようにまとめられる,すなわち役人は職務を示すバッジを取りのぞくなら,不法行為をすることができ,どんな悪い行いをしても,その責任を負う必要がないという考えである。そうすれば役人が公職の責任をかるがるしく捨てるというこの危険な考えは禁じられなければならぬ。そのような合法的に聞こえる二元論を認めることは,憲法で保護されているものを破壊し,法律の施行をなぶるものである。
カツレットは1000ドルの罰金刑とウエスト・バージニア州ミルポイントの連邦刑務所での1年の徴役刑を言い渡されました。
ロイス: そのような反対や暴徒の暴力を受けながら,あなたがたがわざを続けて行かれたのは驚嘆にあたいしますわ。
ジョン: たしかに,アメリカ合衆国でも事態は緊迫しむずかしい時でした。しかし,この国では,伝道のわざは不法と宣言されず,私たちが地下活動する必要はありませんでした。それで,合法的な戦いが行なわれ,悪鬼にそそのかされた暴徒たちと戦ったこの期間中,エホバの証者は比較的に自由な立場で神の御こころを行なうことができ,内部的な機構を強め,制度の神権的な機構を円熟させることができました。
ここで,わざを遂行する方法に関して生じたいくつかの事を考えてみましょう。なぜなら次の数年間に協会の教育計画には大変化が生じたからです。
「大いなる群衆」を見出して養うために伝道の奉仕を拡大する
ジョン: 1938年,エホバの証者の制度は完全に神権的なものになりました。
しかし,その制度的な機構は割合かんたんなものでした。おぼえていらっしゃると思いますが,制度は主として油そそがれた残れる者を集めて,彼らを養うために種々の取決めが設けられ,発展してきました。しかし,1931年,特に1935年以来,油注がれた者は「他の羊」をさがし出す必要と大きな増加に対する準備の必要を認めました。この大運動が始まるとともに,制度およびわざについての有意義な数多くの事柄が分かってきました。パストー・ラッセルが協会の事務を取りあつかっていたときに基本的伝道奉仕が始められました。しかし,制内と制度外における状態が変化したため,技術上の変化が必要になりました。
協会に交わり始めた初期の人々は,最初自発的な奉仕をしていました。この奉仕は多数の油そそがれた人によって行なわれたことをおぼえていらっしゃるでしょう。その仕事は,日曜日の朝,教会から出て来た人々に,あるいは家から家にパンフレットを無料で配布することで,1918年に伝道の仕事が中断された時までつづきました。しかし,1919年以降,奉仕の他のわざが復興したとき,そのような自発的な奉仕は促進されず,ついになくなりました。
1940年2月,街頭伝道の新しい仕事が始まりました。文書提供は,教会に行く人々だけに限定されたのではありません。そうではなく,エホバの証者は,町中の人通りのはげしい街頭に立って,通行人に2冊の雑誌「ものみの塔」(英文)と「なぐさめ」(英文)を1部5セントの寄付で提供しました。エホバの証者は特別に考案された雑誌の袋を肩からかけていたので,通行人は2冊の雑誌のことと寄付の値段を知りました。エホバの証者が週に一度街頭に立って,神権政府のことを声高らかに呼ばわる光景は,多くの人にとって見なれたものになってきました。a この仕事は,アメリカの全土で迫害を受けていたときに始まりました。法律によって悪事を企み,善意を持つ平和なメッセンジャーに対して猛烈に反対した者たちは,街頭伝道する者たちを絶好の攻撃目標にしました。
伝道のわざで大切な役割を果たした別の奉仕活動は,再訪問の仕事でした。つまり,興味を示した人々のところを特別に訪問して,聖書研究を励ますことでした。聖書研究,特に群れの聖書研究の必要は,パストー・ラッセルが1872年にペンシルバニア州アレゲニー・ピッツバーグで仲間の者を初めて組織した時から認められていました。その時以来,それは会衆と交わるすべての人の霊的な進歩計画において肝要な役割を果たしました。新しく興味を感ずる人々が,そのような研究に引かれるのは当然です。聖書文書販売人が,孤立したところで興味を持つ人を見つけるなら,その家で研究を始めることが励まされていました。1907年の「ものみの塔」(英文)は,次のように述べていました。
聖書文書販売人たちから最近うけとった報告によると,小さな都市を伝道した彼らは深い興味を持つ多数のクリスチャンを見つけることができた。その中のある者は,彼らから文書を求め,他の者はすでに黎明の本を持っていた。これらの人々は,1軒の家の小さな集会に集められた。聖書文書販売人は,日曜日に一日中,世々にわたる神の計画について彼らに語った。次の日曜日,彼は定期的な集会を開くことを彼らにすすめた。これは,20人の投票により決定され,その中のひとり ― 深い献身を示し,真理をはっきり知っていた者 ― は,彼らの長老あるいは指導者として選ばれ,神の計画をいっしょに研究するための協力をはかることになった。b
間もなくして,証者たちが研究活動を拡大して行くこの方法は,会衆でも採用されました。私たちがくわしくお話ししたのは,クラスを拡大するわざであったことをおぼえていらっしゃるでしょう。一連の講演が終わって後,定期的な会衆の書籍研究が組織されました。もし十分の興味が示されて,大勢の人が出席するなら,新しい会衆がつくられます。このクラス拡大の仕事は1911年に始まりました。c「神の立琴」という新しい本が1921年に発表されたときに,特別な聖書研究のコースが本を求めた人のためにつくられました。多分そのことをおぼえていらっしゃるでしょう。
そのような準備がなされていたので,ポーターブルの蓄音機が1933年に使用されたとき,まず再訪問活動に使用されたことも不思議ではありません。1936年までには,協会は興味を持つすべての人々にこれらの再訪問をすることを強調し,励ましていました。そして次のことが強くすすめられていました。
すべての再訪問に蓄音機を持って行きなさい。翌日,あなたがその区域に戻るなら,興味を持つ信頼のできる人々のところに蓄音機を一晩あずけておくこともできる。そうすれば彼らは蓄音機をかけることもでき,あなたは翌日その家へ行って蓄音機を返してもらい,野外奉仕をすることができる。
そのような再訪問に関連して,伝道者たちは,「富」という本を研究していた会衆の定期的な書籍研究に善意者の出席をはげますように,すすめられていました。
それから協会は,商業的なラジオ放送から手を1937年に,再訪問のわざをもっと効果的にするための新しい道具を発表しました。これは「模範研究」の冊子第1号で,協会の冊子「ばくろ」(英文)および「摘発」と題する協会のレコードといっしょに使用されました。「ばくろ」という冊子とレコードは,ラジオ放送WIPに宛てた請願の結果,協会が作製したものです。
ロイス: おぼえています。それはジャッジ・ルサフォードとローマ・カトリックの牧師とのあいだの討論を要求した請願でした。たしか,WIP放送局はその請願を無視して,カトリックの牧師は討論に出なかったとあなたは言われましたね。
ジョン: その通りです。それで協会は「ばくろ」と題する冊子,および「摘発」のレコードを発行し,基礎的な聖書教理を明白に示しました。それは特にローマ・カトリック教会が教えた偽りの教理を反ばくするためのものでした。
この教育的なプログラムは,「大いなる群衆」のためにつくられたのです。このプログラムによって,御国伝道者は善意者の家庭内で椅子に腰かけ,秩序と統一のある仕方で聖書を研究することができました。エホバの証者は再訪問のとき,まず蓄音機をかけ,家の人は「ばくろ」という冊子を読みながら,その話を聞きました。それから,「模範研究」という冊子からの質問を考慮しました。家の人は聖書とか冊子に引用されている聖句によって,その質問に答えます。このようにして家の人は神の御言葉を熟知し,聖書から直接に質問の答えを得ます。しかし,1938年,これらの再訪問についての記録が始めて書かれて,協会に報告されました。報告がなされた最初の年には,アメリカ合衆国で29万8489の再訪問が行なわれました。
1940年中,「模範的な研究」冊子第2号と「政府と平和」および「勝利」が使用されました。興味深いクラス拡大の仕事が英国で試みられ,そのことは協会会長の年次報告の中で述べられていました。
時機にかなったこれらの道具は,善意者に神権政府の音信を教え,そのような善意者の興味を建ておこす助けとして,たいへん効果的なものであった。ルサフォード兄弟の是認の下に,一般の模範研究を全国的な運動にまで押し進めるわざが組織された。……この拡大奉仕のときは,良い公共のホールで週1度の集会が4回連続で開かれた。ビラを配布したり,興味を持つ人々に手紙を書き送ったりして人々が出席するように招待された。英国でも一般の人が,質問が聖書から直接答えられることをよろこんだ。「模範研究」第2号は,これらの質問と答えの基礎として用いられた。われわれの記録によると,この奉仕年度中4176の公開集会が開かれ,総合計15万7663人が出席した。その中3万1111人は初めての人であった。この拡大のわざの結果,約40の新しい奉仕の群れがつくられ,今年度中に3000人の新しい伝道者をつくるという目標に対し大きな貢献をしたのである。
訪問計画の拡大
協会がつねづね感じていたことは,協会本部を直接に代表する者が定期的に会衆を訪問して,会衆を強め,会衆を建ておこす必要性でした。そのわけで,ラッセル兄弟自身もいろいろの会衆を訪問していたのです。会衆の数が増加するにつれて,資格のある他の兄弟が用いられて,この大切なわざが行なわれました。
トム: それらの人々はピルグリムと呼ばれていましたね。
ジョン: そうです。そのわざが1894年に始まったことをおぼえていらっしゃるでしょう。アメリカ合衆国とカナダの各会衆を,すくなくとも1年に2回訪問する取決めが設けられていました。1928年になって,この僕たちの名前は「地方的な奉仕監督者」に変えられ,彼らの奉仕の特権は拡大されて,「クラスを訪問し,組織の仕方,野外で効果的に働く仕方を教え,同時に現在の真理について講演をすることにより彼らに奉仕」しました。
1929年までには,この奉仕は拡大され,13人の英語を話す兄弟,ひとりのウクライナ人の兄弟,二人のポーランド人の兄弟が地方的な奉仕の仕事に参加していました。「年鑑」(英文)は,このことを次のように報告しています。
英語を話す兄弟たちは,902のクラスを訪問し,各クラスに3日かそれ以上の期間滞在して,1万7589人のちがった兄弟たちに奉仕のわざを教えた。彼らは合計11万1034マイルを旅行したが,その費用の全部は,協会本部によってまかなわれた。クラスの野外活動が増加したわけは,もっぱらこれらの地方的な奉仕監督者の努力による。彼らは研究の仕方および区域におけるむずかしい状態の克服の仕方をクラスに教えた。そして,わざの遂行をいっそう完全にするためにクラスを援助した。
エホバは,本部を中心として奉仕が組織されることを祝福しました。そのことを認めた協会は,1932年に会衆の地方的な活動にいっそうの関心を持ち始めました。神権制度を確立するため,どんな手段が取られたか,おぼえていますか。
ロイス: 人を「監督」の職に選挙することが非聖書的であるとされたことではありませんか。
ジョン: そうです。そのとき,「ものみの塔」は協会が兄弟を任命して,各会衆の奉仕監督として奉仕する聖書的な権威を示しました。最初,油注がれた残れる者に属する兄弟だけが,その地位に選ばれました。しかし,1937年に「大いなる群衆」が油注がれた者の「仲間」であることが示されてから,その大いなる群衆からも幾人かがそのような奉仕の地位につけられました。
次第に新しい世の社会は強められ,一致した強固な交わりになって行きました。聖書中に記録されている神の原則を人々に教えることが強調されたので,この新しい世の社会が成功することはたしかでした。神権制度は,第1世紀の原始的な会衆の型に従ったので,全世界の御国伝道者はみな本部から指示を受けました。また,その指示を遂行するため,彼らは協会の任命した兄弟たちからの援助を受けました。
協会によって,任命された者と,会衆内の兄弟たちとの関係は,1936年に強調されました。その年の7月,「監督」という名前は「会の監督」と「地方的な奉仕の監督」を示すために使用されないと,協会は発表しました。そのかわり,これらの地位にいる兄弟たちは「会の僕」および「地方的な僕」と呼ばれるようになりました。同時に,月1度の奉仕機関紙「監督」は,「通知」に変えられました。
1933年から1935年まで行なわれた分団運動の経験から分かったことですが,会衆が結束して野外で奉仕すると,迫害や反対に耐えることができ,強い一致と力が示されて深められました。このようにして,地帯奉仕のわざが始まりました。
特定な地域内にある20位の会衆は,「地帯」を形成しました。協会は「地帯の僕」を任命して,各会衆で1週間を過ごさせ,会衆を制度的に強めさせると共に,野外の証言の活動を援助させました。時折り「地帯大会」が開かれて,20かそれ以上の会衆がその大会に参加することにより,さらに多くの指示を受け,霊的に建て起こされました。これらの大会で兄弟たちに奉仕するため,協会の本部から特別の僕たちが派遣されました。
1938年10月1日,協会は148名の地帯の僕と11名の地方的な僕をして国内の全会衆を定期的に訪問させる取決めを設けました。1939年中,区域を再区分したので,153の地帯と六つの区域がつくられ,それぞれ一人の僕の訪問を受けました。
[脚注]
a (イ)「通知」(英文)1940年1月。
b (ロ)1907年の「ものみの塔」(英文)372頁。
c (ハ)1911年の「ものみの塔」(英文)453,454頁。