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    ものみの塔 1984 | 4月15日
    • クリスチャンの慎み ― 知恵の証拠

      「わたしは,自分に与えられた過分のご親切によって,あなた方の中のすべての人に言います。自分のことを必要以上に考えてはなりません。むしろ,神が各々に信仰を分け与えてくださったところに応じ,健全な思いを抱けるような考え方をしなさい」― ローマ 12:3。

      1 慎みが今日,高く評価されていないことをどんな事実が示していますか。

      慎みを高く評価し,慎みを表わす人は今日なんと少ないのでしょう! 今は厳しい対立と激しい競争の時代です。世界の民族,国家,部族,会社,個人,そのすべてが,一番でありたい,他の者の上に立ちたいと考えています。だれも慎み深くありたいとは思わないのです。この精神は,若者の反抗やウーマンリブの運動に見られる通り,家族にさえ影響を及ぼしてきました。

      2 慎みに関するエホバの証人の態度が,この世のそれと異なっていなければならないのはなぜですか。

      2 しかし,この世の方法は,真のクリスチャンの方法ではありません。むしろエホバの証人は,かつてこの世界に見られた,慎みに関する最も偉大な模範者であるイエス・キリストに従う責務があることを認めています。イエスの慎みを表わす代表例は,『子は,自分からは何一つ行なうことができません』,「なぜわたしのことを善いと呼ぶのですか。ただひとりの方,神のほかには,だれも善い者はいません」というイエスの言葉です。(ヨハネ 5:19。ルカ 18:19)そうです,イエス・キリストの足跡にきちんと従う人々は,すべて慎みを表わさなければなりません。さらに,そのようにする人は皆,損失を被るのではなく,クリスチャンの慎み深い歩みが報いのあるもので,確かに知恵の証拠であることを見いだします。

      3 慎みという語は一般にどのように用いられていますか。

      3 「慎み」という語は,「大きさ,量,程度における限界」を意味すると言えるかもしれません。あるいは,「下品さ,粗野,無作法を免れている状態」を特色とする貞潔さを指す場合もあります。さらには,「自分の限界を知っていること」,あるいは「うぬぼれ,もしくは虚栄心を免れている状態」a を示すものと言えるかもしれません。使徒パウロは神の霊感のもとに,慎みを示すよう仲間の信者たちに勧めました。パウロはこう書いています。「わたしは,自分に与えられた過分のご親切によって,あなた方の中のすべての人に言います。自分のことを必要以上に考えてはなりません。むしろ,神が各々に信仰を分け与えてくださったところに応じ,健全な思いを抱けるような考え方をしなさい」。(ローマ 12:3)確かに,自分自身についてある程度考えることは必要ですが,自分のことを考え過ぎ,自分の生まれつきの能力や,得ている特権を過度に重視してはなりません。

      慎みと謙遜さは異なる

      4 (イ)「慎み」と訳されているヘブライ語は,聖書のどこに出て来ますか。(ロ)箴言 11章2節に出ているその語の意味について,どんな結論を下さなければなりませんか。

      4 多くの聖書翻訳の中で,慎みと謙遜さは混同されています。「慎み」と訳されるヘブライ語は,箴言 11章2節とミカ 6章8節だけにしか出て来ません。その語は何を意味していますか。それは,慎みがあり,上品で貞潔であり,また個人的な清さを備えていることを意味し得るのです。しかし,自分の限界を意識している状態を指す場合もあります。ミカ 6章8節のこのヘブライ語には両方の意味があると考えてよいでしょう。そこでは,『慎みをもってわたしたちの神と共に歩むこと』が勧められているにすぎないからです。ところが箴言 11章2節の場合は違います。そこには,「せん越さが来たか。それでは不名誉が来る。しかし知恵は,慎みある者たちと共にある」と記されています。この聖句では慎みがせん越さと対照されています。この場合せん越さの反対は,あまりに差し出がましくならず,自分の限界をわきまえているという意味で,慎みとして示されています。

      5,6 エホバ神について,謙遜さと慎みの相違をどのように示すことができますか。

      5 謙遜であることと慎み深いこととの間には違いがあります。例えば,詩編作者のダビデはエホバ神に関して,「あなたの謙遜さがわたしを大いなる者とするのです」と述べました。(詩編 18:35)確かに,ダビデがイスラエルの偉大な王になったのは,エホバが進んでご自分を謙遜に,つまり低くされ,ダビデに目を留めてダビデを忍耐強く扱われたからでした。ですからエホバに関しては,「だれがわたしたちの神エホバのようであろうか。神はその住まいを高くしておられる。神はご自分を低くして天と地をご覧になり」とも記されています。(詩編 113:5,6)次の点に疑問の余地はありません。創造者は非常に高められているので,天と地の物事に目を留めるためにはご自分を低くしなければならないのです。

      6 しかし,エホバについて,ご自分の限界をわきまえておられるという意味で慎み深くあられると言えるでしょうか。もちろん言えません! 神に関してどうして限界のことなど語ることができるでしょうか。神は知恵と力において無限であられ,公正において全く欠点がなく完全で,愛をまさに体現しておられる方だからです。正当にこの方と比較できる者は全くいません。―イザヤ 40:12-31。

      7 (イ)人間は謙遜ではあっても慎みを欠くことがあるとなぜ言えますか。(ロ)このことはどのように使徒ペテロの場合に見られますか。

      7 一方,人間の場合は,謙遜であっても慎みが欠けてしまうことはあり得ます。謙遜で,心のへりくだった人であっても,自分自身の限界をわきまえるために明せきな思考力を用いる,ということをしない場合があるのです。例えば,使徒ペテロは確かに謙遜な人でした。ペテロは,イエスが海の生き物をさえ自由にする力を示す奇跡を行なわれるのを見てイエスの足元にひれ伏し,「私からお離れください。私は罪深い男なのです」と言いました。(ルカ 5:8)さらに,イエスも,使徒パウロも,ペテロを叱責した記録があります。しかし,ペテロがそうした叱責に腹を立てた形跡はありません。(マタイ 16:21-23。ガラテア 2:11-14。ペテロ第二 3:15,16)確かにペテロは謙遜で,思いのへりくだった人でした。では,ペテロは自分の限界をわきまえているという意味において本当に慎みがありましたか。いつもそうであるとは限りませんでした。もしそうであったなら,ほかの使徒たちすべてが主人を見捨てても自分はそんなことはしない,などと主張することはなかったでしょう。ペテロは非常に悲惨なことに,その約束をたがえ,イエスを三度も否定したのです!―マルコ 14:29,30,66-72。

      慎みの欠如によって生じた災い

      8 宇宙のすべての問題が,慎みの欠如に端を発していると言えるのはなぜですか。

      8 慎みの欠如は使徒ペテロだけに災いをもたらしたわけではありません。世界の,そうです,宇宙のありとあらゆる災いも,慎みの欠如に端を発していると言えるかもしれません。なぜそう言えますか。み使いの立場にあったある被造物が悪魔サタンになったのは,慎みの欠如が原因でした。そのみ使いは,創造された一個人としての自分の限界を認識しませんでした。エホバから割り当てられた地位に満足しなかったこのみ使いは,神と同等でありたいと願いました。後にこの誇り高い態度は,悪魔がわずか一回の崇拝行為と引き換えに世のすべての王国をイエスに提供した時に示されました。しかし,その誘惑者にイエスが思い起こさせた通り,崇拝はエホバ神だけに属するものです。せん越さの歩みであった,また現在もせん越さの歩みであるサタンの慎みの欠如は,自分にとっての不名誉という結果をもたらし,究極的には自分自身の滅びを意味します。―マタイ 4:8-10。ヘブライ 2:14。

      9 どんな点においてエバは慎みの欠如を示しましたか。

      9 同様に,慎みの欠如は,「生きているすべての者の母」であるエバの破滅の原因となりました。(創世記 3:20)神のようになる,自分で善悪を知るようになる,という考えがエバの心をとらえました。なぜでしょうか。エバが慎みを示さなかったからです。慎みを保っていれば,エバは誘惑者に事実上次のように言うことができたはずです。『神のようになりたいなどという気持ちをどうして持つべきでしょうか。わたしは,完全なアダムの助け手になるという神の取り決めに全く満足しています。それに,このことについてはアダムに尋ねるほうが良いと思います。アダムから,この実を食べてはならないという命令について聞かされているからです』。しかしエバはそうしませんでした。エバは,自分の造り主と自分の夫との関係において慎みから突然離れました。さらに慎みの欠如は,エバから命を奪うものとなり,エバの夫に影響を与えて,自殺の道を選ばせてしまいました。では慎みは重要なものでしょうか。そうです,それはそれ程重要なものなのです!―創世記 3:1-19。

      10 わたしたちすべてにとって,真の意味で慎み深くあることが難しいのはなぜですか。

      10 わたしたちは皆,慎みの欠如を示してしまう幾らかの傾向を最初の親から受け継いでいるように思えます。神が洪水後に言われたように,「人の心の傾向はその年若い時から悪い」のです。(創世記 8:21)ですから,ダビデ王は重大な罪に突然陥ってしまった時,「ご覧ください,わたしはとがと共に,産みの苦しみをもって産み出され,わたしの母は罪のうちにわたしを宿しました」と神に嘆願することができました。(詩編 51:5)そのようなわけでエホバ神は預言者エレミヤを通して,「心はほかの何物にも勝って不実であり,必死になる。だれがこれを知りえようか」と述べることができたのです。―エレミヤ 17:9。

      11 世界中に見られるどんな状態は,慎みの欠如のゆえに生じたと言えますか。

      11 慎みの欠如のために世の中には数多くの問題が生じています。それは,あらゆる人種,あらゆる国籍の人々,あらゆる部族,そして家族の成員にさえ影響を及ぼしています。東西いずれの陣営も自らの限界を快く認めようとはしません。各々が他の上に立ちたいと思っています。ある人種の人々は他の人種に対して優越感を感じています。その証拠に,アフリカのある部族間の紛争は,各部族が想像上の優越性を証明しようとしただけで生じることが多いと報じられています。

      12 (イ)ある夫の側に慎みが欠けているために,どんな有害な結果が生じていますか。(ロ)多くの女性の側に慎みが欠けているために,どんな結果が生じていますか。

      12 家族内の慎みの欠如についてはどうでしょうか。多くの場合,夫も妻も慎みの欠如によって不和を生じさせてきました。夫は,自らの身体的また経済的に有利な立場のゆえに,力強い乱暴な男としての役割を演じたり,ボスとして振る舞ったりする傾向に走りやすく,その結果家族の大きな不幸をもたらしています。このことは,男性の極度の排他主義を非難するウーマンリブの運動の理由をある程度説明するものとなるに違いありません。しかし女性,特に妻たちについてはどうでしょうか。慎みに欠ける人々は,欠損家族を含め,しばしば多くの不幸を刈り取ってきました。(ガラテア 6:7,8)そのような女性は,「主に対するように自分の夫に服しなさい」という基本となる聖書的な要求を無視してきました。(エフェソス 5:21-23,33。コリント第一 11:3,7-10)世の女性の間には,貞潔さに関して,広範に及ぶひどい慎みの欠如が見られます。話し方,服装,振る舞い方などにより身体的な魅力をこれ見よがしに誇示するこれらの女性は,広くゆき渡っている乱交,夫婦間の不忠実さ,欠損家族などに対しても当然責めを負うべきです。

      13 慎みの欠如は,今日の若者たちの間にどんな実を生み出しましたか。

      13 現代の若者たちの間には,慎みに関する立派な模範が見られる一方,はなはだしく慎みの欠如を示している人もいます。この特質を示さないために,多くの若者たちは年長の人々に対して辛抱を示せず,年上の世代の人々がおかす過ちに対して批判的になります。しかし,これらの若者たちの一部は,麻薬の常用,酩酊,向こう見ずな運転,不道徳な生活様式にはまり込むことなどに関してどんな知恵を示しているでしょうか。このような若者たちが慎み深くあったなら,年長の人々に耳を傾け,経験を持つそうした人々が与えることのできる良い助言から益を得たことでしょう。

      クリスチャンの慎み ― 確かに賢明!

      14 慎みが,わたしたちとエホバ神との関係において非常にふさわしいのはなぜですか。

      14 クリスチャンの慎みを示すのは確かに知恵の道です。まず第一に,それは結果としてエホバとの良い関係を生じさせます。実際,神はわたしたちが慎みをもって神と共に歩むことを求めておられます。(ミカ 6:8)それに加え,わたしたちと,全能でとこしえの造り主であられる方との大きな相違を考えるとき,慎みはわたしたちに本当にふさわしいものです。その方にとって,諸国民ははかりの上の塵の薄い層,また手おけから落ちるただのしずくのようです。(イザヤ 40:15)慎みがあれば,わたしたちはエホバ神の不興を買うことを恐れるようになり,そうすることは確かに「知恵の初め」です。―詩編 111:10。

      15 クリスチャンの兄弟にとって,慎みはどのように役立ちますか。

      15 慎みは仲間のエホバの証人たちとの良い関係をも促進します。慎みがあれば,クリスチャンの兄弟は奉仕の特権に関して自分を押し出さないように守られます。慎みがあれば,絶えず自分の限界や,他の人と比較して知識が欠けていたり,ある点における経験が欠けていたりすることをわきまえていることができます。さらに,奉仕の僕,あるいは長老という職を持つことにではなく,自分の霊的な資格を改善することに関心を持つようにもなります。知識を増し加えたり,仲間の信者を助けたりするためのあらゆる機会を十分に活用し続けるなら,会衆内の責任ある立場に推薦され,任命される時,それは本人にとって驚きとなることでしょう。実際にそうしたことが一度ならず生じてきました。

      16 クリスチャンの女性にとって,慎みを示すのはなぜ知恵の道と言えますか。

      16 慎みは会衆内の姉妹たちにとっても知恵の道です。貞潔さの関係した事柄も重要ですが,それ以外の点においてもこのことは真実です。(テモテ第一 2:9,10。テトス 2:3-5)自分の限界と,会衆内で自分に割り当てられた役割をわきまえている賢明なクリスチャンの婦人は,慎み深く自分の話を制御します。過度に話し好きであったり,任命された長老たちの物事の扱い方を批判したりするようなことをしません。―ユダ 8,9,16と比較してください。

      17,18 (イ)若者たちはなぜ親に対して慎みを示すべきですか。(ロ)年上の人々の助言に注意を払うことが賢明であることを示すために,ここでどんな聖書的な例が述べられていますか。

      17 同じように,若者の慎みも知恵の証拠です。若者は慎み深く振る舞うと他の人々からしたわれるようになります。神の言葉は適切にも,若者たちが父と母を敬い,「すべての事」において彼らに従うよう命じています。(コロサイ 3:20。エフェソス 6:1-3)そのようにするためには,また若者が親よりも賢いと考えないようにするためには慎みが必要です。それに,人は親に恩義があるのではないでしょうか。親はあなたを生んでくれました。その時から今に至るまで,親は衣食住,教育,レクリエーション,霊的な教育を備えてきたのです。ですから,敬意そのものが,親に慎みを示すようあなたを動かすのではないでしょうか。

      18 慎みをもって,親になんでも打ち明け,親の助言を受け入れるのは知恵の道です。両親は自らの経験により,確かにあなたよりも深い知恵を持っておられます。この世は災いで満ちていますが,それは知識が不足しているためではなく,健全な知恵が不足しているためです。「彼らはエホバの言葉を退けたのだ。それでどんな知恵が彼らにあるというのか」。(エレミヤ 8:9)人生の伴侶を選ぶというような個人的な問題においてさえ,慎みをもってご両親の判断にふさわしい敬意を払うのは賢明なことです。おふたりはあなたを愛しておられ,あなたの最善の益を心に掛けておられるからです。両親は,あなたと同じ年ごろの人々よりもはるかに優れた助言を与えることができます。確かにそれはへつらいの言葉ではないかもしれませんが,あなたにとってより良いものとなるでしょう。聖書には,古代イスラエルのレハベアム王が慎みの欠如ゆえに王国の大半を失ったことが示されています。この王は,自分の父の助言者であった年長の人々の助言を退け,自分と共に育った同じ年ごろの若者たちのへつらいに満ちた助言に従うことを選びました。その若者たちはレハベアム王と同じく経験がなく,近視眼的な見方しかできませんでした。―列王第一 12:1-24。

      19 わたしたちの証言活動において,どのように慎みは十分に役立ちますか。

      19 クリスチャンの慎みは,公式非公式の別を問わず,エホバ神のみ名と王国について証言する時にも非常に役立ちます。余りにも自信に満ちた様子で話すと,一部の聞き手には強い印象を与えるかもしれませんが,他の多くの人々を遠ざけてしまうことでしょう。わたしたちは自分自身にではなく,常にエホバ神とそのみ言葉に人々の注意を向けさせなければなりません。次の助言は正に当を得ています。「あなた方の心の中でキリストを主として神聖なものとし,だれでもあなた方のうちにある希望の理由を問う人に対し,その前で弁明できるよう常に備えをしていなさい。しかし温和な気持ちと深い敬意をもってそうするようにしなさい」。(ペテロ第一 3:15)慎みがあれば,温和な気持ちと深い敬意を示しやすくなります。

      20 (イ)ここまでで,わたしたちは慎みとその欠如について何を学びましたか。(ロ)どんな質問が残っていますか。

      20 これまでに述べたことから,慎みの欠如ゆえに人類に大きな害が臨んだことをはっきり理解できました。さらに,慎みが知恵の道であることに議論の余地がないことも理解しました。これらの点は,慎みを培うようわたしたちを助けるものとなるはずです。しかし,クリスチャンの慎みを培う点でほかにどんな助けを見いだすことができるでしょうか。

  • クリスチャンの慎みを培う
    ものみの塔 1984 | 4月15日
    • クリスチャンの慎みを培う

      1 この世の一部の人々が慎みの価値を高く評価してきたことをどんな言葉が示していますか。

      慎みはこの世の賢人がかつて高く評価していた美徳です。例えば次のような言葉があります。「慎み深い人が,会話を交わす相手の善意を得損なうということはめったにない。悦に入っている様子のない人をだれもうらやむことはしないからである」。さらに,「慎みは輝く光である。それは,知識を受け入れるように思いを,真理のために心を備えさせるものである」とも言われてきました。慎みに欠けた人は,偏見のない見方をしにくいものです。

      2 ある有名な人々は,どのように慎みを示しましたか。

      2 それに,何らかの発見をしたことで有名な人の中にも慎みを示した人がいます。例えばアルバート・アインシュタインはかつて,「宇宙の法則には一つの精神が明示されている。それは,人間の精神よりもはるかに優れ,それを前にしては,ささやかな力しかない我々が謙遜さを感じざるを得ないような精神である」と語りました。多くの人から全時代を通じて第一流の科学者とみなされているアイザック・ニュートン卿も,かつてこのように述べました。「もし私が他の人々より遠くを見ているとしても,それは巨人の肩の上に立っているからなのである」。エホバの証人の手術をした一部の医師たちも同じような気持ちを抱いているようです。非常に難しい手術を輸血をせずに行ない,成功させたあと,彼らはエホバの証人の患者に,誉れは医師自身ではなく神に帰せられる,と述べました。

      慎みに関する模範

      3 (イ)慎みを培う点で何が助けになりますか。(ロ)モーセと慎みに関して何と言うことができますか。

      3 極めて望ましい,そうです,極めて必要とされるこの慎みという特質を培う面で何が助けになるでしょうか。せん越さと慎みに関する前の二つの記事の中で述べられたことすべてを適用するのは,確かに慎みを培うための助けとなります。慎みを培うための別の助けは,エホバがどのようにご自分の慎み深い僕たちを強力に用いられたかを考慮することです。自分たちの造り主ではなく,自分自身の賛美を求め,自分自身に注意を向けさせる人間を,神がどうしてお用いになることがあるでしょうか。一度だけ,強い圧力と挑発を受けてモーセがそうしてしまったのは確かです。しかしそのためにモーセは何と大きな代価を払ったのでしょう! とはいえ,モーセが本当は慎み深い人だったことは,ファラオのもとへ行くことについて最初に示した遠慮がちな態度の中に見ることができます。それに加えて,聖書は,「モーセは地の表にいるすべての人の中でとりわけ柔和な人物であった」と述べています。―民数記 12:3。出エジプト記 4:10-17。

      4 エリフとヨセフはどのようにふさわしい慎みを示しましたか。

      4 慎みの別のりっぱな模範は年若いエリフです。エリフは,自分よりも年長であるヨブとその3人の友たちが発言するのを忍待強く待ってから語りました。エリフは偉そうな態度を示すことなく,すべての賛美を自分の造り主に向けました。(ヨブ 32:4-11,21,22; 36:9)族長ヤコブの息子であるヨセフも,強大なファラオの前に連れて来られ,その王の見た夢を解釈できるかと尋ねられたときに,ふさわしい慎みを示しました。ヨセフは,夢の解き明かしに関してエホバに誉れを帰しました。―創世記 40:8。ダニエル 2:26-30と比較してください。

      5 ギデオンの慎みは,なぜエホバ神にとって重要なものでしたか。

      5 ギデオンの例も考えてみましょう。ギデオンは使命を与えられたとき,自分の氏族はマナセの中で一番小さく,自分自身は父の家の中で最も小なる者であると慎み深く述べました。それゆえにこそギデオンは,エホバがミディアン人を征服する際にお用いになる者となったのです。なぜなら,神は勝利をご自分の手柄にする決意を抱いておられたからです。そのような状況で正しく仕えることができたのは真に慎み深い人だけだったでしょう。―裁き人 6:14-16; 7:2-7。

      6 (イ)エホバが,年若いソロモン王の求めに喜びを感じられたのはなぜですか。(ロ)エホバの僕である別のどの若者が,何に関してふさわしい慎みを示しましたか。(ハ)年若いエリフ,ソロモン,エレミヤの態度は,比較的若い,また経験の浅いエホバの証人たちにどのように影響を及ぼすかもしれませんか。

      6 年若いソロモンは,最初に王とされたとき,同じように慎みを示しました。夢の中で,何を得たいかと神から尋ねられた時,ソロモンは慎み深くこう答えました。「私は小さな少年にすぎません。……あなたの民を裁き,善悪をわきまえるために,従順な心をぜひこの僕にお与えください。だれが,あなたのこの難しい民を裁くことができるでしょうか」。エホバはソロモンの慎み深さに非常な喜びを感じ,ソロモンに知恵だけではなく大いなる富と栄光をもお与えになりました。(列王第一 3:4-14)ソロモンの慎みゆえにエホバは彼をすべての人間の支配者たちのうち最も賢い者とされました。エレミヤも,エホバの預言者として召されたときに自分の若さを考えて同様の慎みを示しました。(エレミヤ 1:6-8)あなたは比較的若い,あるいは未経験なエホバの証人ですか。もしそうであれば,そしてあなたが年若いエリフやソロモンやエレミヤのようにふさわしい慎みを示すなら,確かに賢い者であることを証明することになるでしょう。

      7 コリント第一 2章1-5節のパウロの言葉は,王国宣明者に求められる慎みのりっぱな模範をどのように示していますか。

      7 使徒パウロの慎み深さも注目に値します。高度の教育を受けたパリサイ人であり,のちにエホバ神から力強く用いられたにもかかわらず,パウロは自分の有利な立場を誇示することはありませんでした。そのことをパウロ自身がこう述べています。「兄弟たち,それでわたしは,あなた方のところに行った時,もったいぶった話し方や知恵を携えて行って神の神聖な奥義を告げ知らせるようなことはしませんでした。わたしは,あなた方の間では,イエス・キリスト,しかも杭につけられたキリスト以外には何をも知るまいと決めたのです。そしてわたしは,弱さと恐れのうちに,いたくおののきながらあなた方のところに行きました。そしてわたしの話し方,またわたしが宣べ伝えた事柄は,説得のための知恵の言葉ではなく,霊と力の論証を伴うものでした。それは,あなた方の信仰が,人間の知恵によらず,神の力によるものとなるためでした」。(コリント第一 2:1-5)エホバの証人の中には高度の教育を受けた人々がいます。しかし彼らは,パウロのように,慎みを示して良いたよりを告げ知らせ,同使徒のりっぱな模範に賢明に従います。

      8 イエスはどのように,慎みに関する最もりっぱで最も偉大な模範となっておられますか。

      8 慎みに関する最も偉大で最もりっぱな模範は,もちろんイエス・キリストにほかなりません。神のみ子と,悪魔サタンになった者との間には何と際立った対照が見られるのでしょう! キリストは慎みを欠いて,エホバ神と同等の立場を求めたことなど一度もありませんでした。(マタイ 4:8-10。フィリピ 2:5-8)むしろイエスは,み父の助け手また代弁者であることに完全に満足しています。(箴言 8:30。ヨハネ 1:1)地上におられた間,イエスは繰り返し神に対するご自分の従属の立場について語っています。(ヨハネ 5:19,30; 7:28; 8:28,42)イエスは自分の個人的な誉れを求めず,エホバに注意を向けさせました。(マルコ 10:18)さらにイエスの最大の試練の時には,「わたしの父よ,もしできることでしたら,この杯をわたしから過ぎ去らせてください。それでも,わたしの望むとおりにではなく,あなたの望まれるとおりに」という態度を示しました。(マタイ 26:39)確かにイエスは慎みについてのりっぱな模範を残されました。ですから,神の霊的被造物のすべて,そして人間すべては確かに慎み深くあるべきです。

      慎みは道理にかなう

      9 コリント第一 4章6,7節によると,神の僕の側の慎みが道理にかなっているのはなぜですか。

      9 わたしたちにとって慎み深くあるのは筋道の通ったことです。それは道理にかなっています。まず最初に,わたしたちはみな不完全なのではないでしょうか。だれがそれを否定できるでしょう!(列王第一 8:46)わたしたちはみな間違いをします。わたしたちの経験は限られており,わたしたちの知識は決して無限ではありません。それだけではなく,わたしたちがいま持っているものはすべてもらったものです。ですから使徒パウロは,仲間の信者たちに,書かれている事柄を越えないようにと勧めました。それはパウロの表現によれば,「あなた方がそれぞれ一方に付いて他方を退け,思い上がるようなことのないためです。というのは,だれが人を他と異ならせるのですか。実際,自分にあるもので,もらったのではないものがあるのですか。では,確かにもらったのであれば,どうしてもらったのではないかのように誇るのですか」。(コリント第一 4:6,7)明らかに,今のわたしたちの姿はおおむね,遺伝的に受け継いだもの,環境,そして特に神の摂理に依存しています。

      10 神聖な奉仕における成功は何に依存していますか。その事実をわきまえることはどのようにわたしたちに影響を及ぼすはずですか。

      10 さらに,わたしたちが神聖な奉仕においてどのような成功を収めていようと,すべてがエホバの祝福に依存しているのは事実ではないでしょうか。例えば,どれほど農夫が一生懸命に働いても,穀物の成長にとって非常に重要な要素となるのは天候です。詩編作者はその点を見事に言い表わしました。「エホバご自身が家を建てるのでなければ,建てる者たちがそのために骨折って働いても無駄である。エホバご自身が都市を守るのでなければ,見張りが目覚めていても無駄である」。使徒パウロは,クリスチャンの奉仕者の業に関して同様の点を指摘し,「わたしは植え,アポロは水を注ぎました。しかし,神がそれをずっと成長させてくださったのです。ですから,大切なのは,植える者でも水を注ぐ者でもなく,成長させてくださる神なのです」と書きました。(詩編 127:1。コリント第一 3:6,7)そうです,物事を論理的に考えてみると,わたしたちの能力,業績,所有物がどのようなものであろうと,わたしたちすべてに慎みがふさわしいということに同意せざるを得ません。

      慎みを培うための助け

      11 エホバ神に対する愛は,慎み深くあるようどのようにわたしたちを助けますか。

      11 慎み深くあるようわたしたちを助ける特質の中には,愛,利他的な愛があります。エホバ神が行なわれた事,いま行なわれている事,そしてこれから行なわれる事すべてを高く評価するとき,わたしたちは心をこめ,魂をこめ,思いをこめ,力をこめてエホバ神を本当に愛するようになります。(マルコ 12:30)そうするとき,わたしたちは自分自身に関して誇ることがありません。結局,誇り高い態度は慎みの正反対です。むしろわたしたちは,わたしたち自身にではなく,エホバ神に注意を向けさせるよう,ふさわしい慎みをもって常に語りまた行動し,すべての栄光と誉れをエホバ神にもたらします。それで,次の助言に注意を払うのです。「賢人は自分の知恵を誇ってはならず,勇者は自分の武勇を誇ってはならない。富んだ人は自分の富を誇ってはならない。しかし,だれかが誇るとすれば,このこと,つまりわたしを理解し,わたしを知っていることを誇れ。わたしは[エホバ]であり,わたしは絶えることのない愛を示し,地上で公正と義を行なうからである。わたしはこれらのことに心を向けているのである。これはまさしく[エホバ]の言葉である」― エレミヤ 9:23,24,新英訳聖書。

      12 神との良い関係は,慎み深くあるようどのようにわたしたちを助けることができますか。

      12 エホバとの親しい関係を培うことも,常に慎み深くあるようわたしたちを助けます。わたしたちは,わたしたちの神と共に歩むことにおいて慎み深くあるよう期待されています。(ミカ 6:8)創造者,その偉大さ,その威光,その属性がどの程度わたしたちにとって現実のものとなっているか,その程度に応じてわたしたちはふさわしい慎みをもって振る舞うようになります。わたしたちは,「見えない方を見ているように終始確固としていた」モーセと同じような精神態度を持ちたいと思います。(ヘブライ 11:27)わたしたちは,天の父の手をしっかり握っている小さな子供のようです。エホバのみ言葉を定期的に取り入れ,「たゆまず祈り」,そうです『絶えず祈る』なら,神とのこの優れた親しい関係を持つよう助けられます。―ローマ 12:12。テサロニケ第一 5:17。

      13 イエス・キリストに倣いたいという願いは,慎み深くあるようどのような点でわたしたちを助けることができますか。

      13 わたしたちの主人であるイエス・キリストがわたしたちのためにしてくださったこと全体に対する愛と認識,そしてイエスの足跡にしっかり従うことが何を意味するかを知ることによっても,わたしたちは慎み深くあるように助けられます。イエスは何とりっぱで見事な,また利他的で完全な模範をわたしたちのために示されたのでしょう! わたしたちがイエスの足跡にしっかり従うという責務を真剣に考える度合に応じて,わたしたちは慎み深くあるよう助けられるのです。なぜそう言えるのでしょうか。なぜなら,わたしたちは,自分がイエスを完全に見倣うことからどれ程隔たっているかを理解するようになるからです。わたしたちはだれか他の人と比べて悦に入るかもしれませんが,イエス・キリストと比べてそれ程悦に入ってよい根拠があるでしょうか。むしろ,使徒パウロのように感ずるべきです。つまり,わたしたちは本当に望んでいる事を行なえず,実際にはしたくない事を何度も繰り返し行なってしまうという事実を,心が痛むとしてもわきまえなければなりません。イエス・キリストに見倣う者として自分がどれ程至らない者であるかを鋭く意識しているクリスチャンは,自分自身について誇りたいなどとは思いません。―ローマ 7:15-25。

      14 兄弟愛が,慎み深くあるようわたしたちを助けることができるのはなぜですか。

      14 同様に,仲間のエホバの証人とわたしたち自身の家族の成員に対する愛も,慎み深くあるようわたしたちを助けます。王国の歌にあるように,『愛は善きを見兄弟を結ぶ』のです。そうです,愛は他の人々の良い特質を高く評価するようわたしたちを促します。しかし,どのようにこれが慎み深くあるようわたしたちを助けるのでしょうか。それは,慎みが欠けると他の人々を怒らせ,他の人々を不快にさせるからです。わたしたちは愛する人々を怒らせたくないので,真の兄弟愛によってわたしたちは慎み深くなります。慎みの欠如は,競争心や対抗心を起こさせたり,他の人に劣等感を抱かせたりします。しかし愛は「自慢せず,思い上がらず」,むしろ慎み深いものです。―コリント第一 13:4。

      15 自制は,慎み深くあるようどのようにわたしたちを助けることができますか。

      15 神の聖霊の実である自制もまた,慎みを培う点で助けとなります。(ガラテア 5:22,23)この両者の間には本当に関係があるのでしょうか。確かにあります。人は,ときに衝動に駆られたというだけの理由で,利己的な,あるいはうぬぼれの強いことを言ったりしたりしがちです。それを言ったりしたりしたとたん,本人は自分が間違いをしたことを悟るかもしれません。それは,人間の心がねじくれており,不実で,欺まんに満ちているからです。(エレミヤ 17:9,エルサレム聖書; 新英訳聖書)しかし,自制心を働かせ,落ち着いて考え,どれ程自分の言葉や行ないが他の人々に影響を及ぼすかを考慮すれば,適切な慎みを示すように助けられます。例えば,正さんで料理を出されたり,手渡されたりした時に,よく考えもしないで,一番良い,または一番大きな肉やケーキや果物を取ってしまう傾向があるかもしれません。しかし,自制心と思慮深さがあれば,その衝動を抑えることができます。慎みを欠いて宴会で最良の席を取ることについても同じことが当てはまります。イエスが示されたように,わたしたちは余り目立たない場所へ移ってほしいと頼まれるかもしれません。しかし,ちょっとした思慮と慎みを働かせるなら,これらの点で当惑させられるような間違いをせずに済むでしょう。―ルカ 14:8-11。

      16 エホバへの信仰が,慎み深くあるようわたしたちを助けることができるのはなぜですか。

      16 慎みを培う点でわたしたちの助けとなるもう一つの霊の実は,エホバとの良い関係から生ずる,エホバに対する信仰です。人間は堕落した性質のゆえに,物質的なものであれ,知的なものであれ,感情的なものであれ,霊的なものであれ,生活の良いものを失ってしまうのではないかという不安を抱きやすいものです。しかし,エホバへの信仰があれば,せん越に,あるいは慎みを欠いて自分を押し出すようなことをせずに済みます。むしろわたしたちは,問題をエホバのみ手にゆだねるのです。もし慎みがあれば,神が物事を正されるまで,あるいはわたしたちが認められるか,より重い責任を与えられるように取り計らってくださるまで待つことができます。ダビデは王になる前,この慎みを示しました。ダビデは王として油そそがれていたので,問題を自分の手で扱うこともできました。ダビデはサウル王を殺害することにより直ちにイスラエルの支配者にもなれましたが,そのような事はせず,エホバから王権を与えられるのを慎み深く待ちました。そしてエホバはご自分のふさわしい時にそのようにされました。―サムエル第一 24:2-6; 26:10,11。

      17 感情移入はどのような点で,慎み深くあるようわたしたちを助けることができますか。

      17 慎み深くあるための別の助けは,感情移入です。それは,自分をいわば他の人の立場に置くことができるという意味です。例えば,慎みの欠如のゆえに会衆の一長老は,会衆の集会での自分の割り当てを扱う際に,幾度も時間を超過するかもしれません。しかし,感情移入をする人は,プログラムの自分の部分に十分の時間が残されているだろうかと心配する仲間の長老たちの立場に自分自身を置くことができるでしょう。慎みのある長老は,正当な理由もなく集会の時間が超過した場合,そのことを喜ばない霊的な兄弟姉妹たちのことも考えます。実際,感情移入は,クリスチャン会衆内のみならず,あらゆる関係において慎み深くあるよう人を促すものです。使徒パウロは感情移入を行なったために,『ユダヤ人に対してはユダヤ人のように,律法のもとにある人たちに対しては律法のもとにある者たちのように』,またほかの人々のようにもなりました。それはすべて良いたよりのためでした。それは,慎み深くあったことを意味し,自分が聞き手よりも何ら優れた者ではないと考えていたことを彼らに示すものでした。―コリント第一 9:19-23。

      18 クリスチャンの慎みを支持すべき理由として,何を挙げることができますか。

      18 確かに,クリスチャンの慎みは大いに推称すべきものです。慎みの欠如のゆえに,歴史を通じて何とひどい荒廃が生じてきたのでしょう。慎みを示すことは確かにクリスチャンにとって道理にかなっています。それは,神,仲間のエホバの証人,わたしたち自身の家族,および他の人々との良い関係をもたらします。慎みはわたしたちに満足を与え,ざ折感を抱かないように守ってくれるので,わたしたちを個人的にも助けるものとさえなるでしょう。賢明なことに,神の言葉はわたしたちが慎み深くある面で大いに助けとなります。ですから,クリスチャンの慎みを培い,それを示すことにより,真の知恵の証拠を示すことができますように。

      どのように答えますか

      □ 聖書の記録に残されている若い人々は,どのように慎みを示しましたか

      □ イエス・キリストはどのように,慎みに関する最も偉大で最もりっぱな模範を残されましたか

      □ エホバへの愛,およびエホバとの良い関係は,どのような点で慎みを培うのに助けとなりますか

      □ イエス・キリストに倣いたいというわたしたちの願いは,慎みを示すようどのようにわたしたちを助けることができますか

      □ 兄弟愛が,エホバの崇拝者として慎み深くあるようわたしたちを助けることができるのはなぜですか

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