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  • クリスチャンの慎み ― 知恵の証拠
    ものみの塔 1984 | 4月15日
    • うか。慎みに欠ける人々は,欠損家族を含め,しばしば多くの不幸を刈り取ってきました。(ガラテア 6:7,8)そのような女性は,「主に対するように自分の夫に服しなさい」という基本となる聖書的な要求を無視してきました。(エフェソス 5:21-23,33。コリント第一 11:3,7-10)世の女性の間には,貞潔さに関して,広範に及ぶひどい慎みの欠如が見られます。話し方,服装,振る舞い方などにより身体的な魅力をこれ見よがしに誇示するこれらの女性は,広くゆき渡っている乱交,夫婦間の不忠実さ,欠損家族などに対しても当然責めを負うべきです。

      13 慎みの欠如は,今日の若者たちの間にどんな実を生み出しましたか。

      13 現代の若者たちの間には,慎みに関する立派な模範が見られる一方,はなはだしく慎みの欠如を示している人もいます。この特質を示さないために,多くの若者たちは年長の人々に対して辛抱を示せず,年上の世代の人々がおかす過ちに対して批判的になります。しかし,これらの若者たちの一部は,麻薬の常用,酩酊,向こう見ずな運転,不道徳な生活様式にはまり込むことなどに関してどんな知恵を示しているでしょうか。このような若者たちが慎み深くあったなら,年長の人々に耳を傾け,経験を持つそうした人々が与えることのできる良い助言から益を得たことでしょう。

      クリスチャンの慎み ― 確かに賢明!

      14 慎みが,わたしたちとエホバ神との関係において非常にふさわしいのはなぜですか。

      14 クリスチャンの慎みを示すのは確かに知恵の道です。まず第一に,それは結果としてエホバとの良い関係を生じさせます。実際,神はわたしたちが慎みをもって神と共に歩むことを求めておられます。(ミカ 6:8)それに加え,わたしたちと,全能でとこしえの造り主であられる方との大きな相違を考えるとき,慎みはわたしたちに本当にふさわしいものです。その方にとって,諸国民ははかりの上の塵の薄い層,また手おけから落ちるただのしずくのようです。(イザヤ 40:15)慎みがあれば,わたしたちはエホバ神の不興を買うことを恐れるようになり,そうすることは確かに「知恵の初め」です。―詩編 111:10。

      15 クリスチャンの兄弟にとって,慎みはどのように役立ちますか。

      15 慎みは仲間のエホバの証人たちとの良い関係をも促進します。慎みがあれば,クリスチャンの兄弟は奉仕の特権に関して自分を押し出さないように守られます。慎みがあれば,絶えず自分の限界や,他の人と比較して知識が欠けていたり,ある点における経験が欠けていたりすることをわきまえていることができます。さらに,奉仕の僕,あるいは長老という職を持つことにではなく,自分の霊的な資格を改善することに関心を持つようにもなります。知識を増し加えたり,仲間の信者を助けたりするためのあらゆる機会を十分に活用し続けるなら,会衆内の責任ある立場に推薦され,任命される時,それは本人にとって驚きとなることでしょう。実際にそうしたことが一度ならず生じてきました。

      16 クリスチャンの女性にとって,慎みを示すのはなぜ知恵の道と言えますか。

      16 慎みは会衆内の姉妹たちにとっても知恵の道です。貞潔さの関係した事柄も重要ですが,それ以外の点においてもこのことは真実です。(テモテ第一 2:9,10。テトス 2:3-5)自分の限界と,会衆内で自分に割り当てられた役割をわきまえている賢明なクリスチャンの婦人は,慎み深く自分の話を制御します。過度に話し好きであったり,任命された長老たちの物事の扱い方を批判したりするようなことをしません。―ユダ 8,9,16と比較してください。

      17,18 (イ)若者たちはなぜ親に対して慎みを示すべきですか。(ロ)年上の人々の助言に注意を払うことが賢明であることを示すために,ここでどんな聖書的な例が述べられていますか。

      17 同じように,若者の慎みも知恵の証拠です。若者は慎み深く振る舞うと他の人々からしたわれるようになります。神の言葉は適切にも,若者たちが父と母を敬い,「すべての事」において彼らに従うよう命じています。(コロサイ 3:20。エフェソス 6:1-3)そのようにするためには,また若者が親よりも賢いと考えないようにするためには慎みが必要です。それに,人は親に恩義があるのではないでしょうか。親はあなたを生んでくれました。その時から今に至るまで,親は衣食住,教育,レクリエーション,霊的な教育を備えてきたのです。ですから,敬意そのものが,親に慎みを示すようあなたを動かすのではないでしょうか。

      18 慎みをもって,親になんでも打ち明け,親の助言を受け入れるのは知恵の道です。両親は自らの経験により,確かにあなたよりも深い知恵を持っておられます。この世は災いで満ちていますが,それは知識が不足しているためではなく,健全な知恵が不足しているためです。「彼らはエホバの言葉を退けたのだ。それでどんな知恵が彼らにあるというのか」。(エレミヤ 8:9)人生の伴侶を選ぶというような個人的な問題においてさえ,慎みをもってご両親の判断にふさわしい敬意を払うのは賢明なことです。おふたりはあなたを愛しておられ,あなたの最善の益を心に掛けておられるからです。両親は,あなたと同じ年ごろの人々よりもはるかに優れた助言を与えることができます。確かにそれはへつらいの言葉ではないかもしれませんが,あなたにとってより良いものとなるでしょう。聖書には,古代イスラエルのレハベアム王が慎みの欠如ゆえに王国の大半を失ったことが示されています。この王は,自分の父の助言者であった年長の人々の助言を退け,自分と共に育った同じ年ごろの若者たちのへつらいに満ちた助言に従うことを選びました。その若者たちはレハベアム王と同じく経験がなく,近視眼的な見方しかできませんでした。―列王第一 12:1-24。

      19 わたしたちの証言活動において,どのように慎みは十分に役立ちますか。

      19 クリスチャンの慎みは,公式非公式の別を問わず,エホバ神のみ名と王国について証言する時にも非常に役立ちます。余りにも自信に満ちた様子で話すと,一部の聞き手には強い印象を与えるかもしれませんが,他の多くの人々を遠ざけてしまうことでしょう。わたしたちは自分自身にではなく,常にエホバ神とそのみ言葉に人々の注意を向けさせなければなりません。次の助言は正に当を得ています。「あなた方の心の中でキリストを主として神聖なものとし,だれでもあなた方のうちにある希望の理由を問う人に対し,その前で弁明できるよう常に備えをしていなさい。しかし温和な気持ちと深い敬意をもってそうするようにしなさい」。(ペテロ第一 3:15)慎みがあれば,温和な気持ちと深い敬意を示しやすくなります。

      20 (イ)ここまでで,わたしたちは慎みとその欠如について何を学びましたか。(ロ)どんな質問が残っていますか。

      20 これまでに述べたことから,慎みの欠如ゆえに人類に大きな害が臨んだことをはっきり理解できました。さらに,慎みが知恵の道であることに議論の余地がないことも理解しました。これらの点は,慎みを培うようわたしたちを助けるものとなるはずです。しかし,クリスチャンの慎みを培う点でほかにどんな助けを見いだすことができるでしょうか。

  • クリスチャンの慎みを培う
    ものみの塔 1984 | 4月15日
    • クリスチャンの慎みを培う

      1 この世の一部の人々が慎みの価値を高く評価してきたことをどんな言葉が示していますか。

      慎みはこの世の賢人がかつて高く評価していた美徳です。例えば次のような言葉があります。「慎み深い人が,会話を交わす相手の善意を得損なうということはめったにない。悦に入っている様子のない人をだれもうらやむことはしないからである」。さらに,「慎みは輝く光である。それは,知識を受け入れるように思いを,真理のために心を備えさせるものである」とも言われてきました。慎みに欠けた人は,偏見のない見方をしにくいものです。

      2 ある有名な人々は,どのように慎みを示しましたか。

      2 それに,何らかの発見をしたことで有名な人の中にも慎みを示した人がいます。例えばアルバート・アインシュタインはかつて,「宇宙の法則には一つの精神が明示されている。それは,人間の精神よりもはるかに優れ,それを前にしては,ささやかな力しかない我々が謙遜さを感じざるを得ないような精神である」と語りました。多くの人から全時代を通じて第一流の科学者とみなされているアイザック・ニュートン卿も,かつてこのように述べました。「もし私が他の人々より遠くを見ているとしても,それは巨人の肩の上に立っているからなのである」。エホバの証人の手術をした一部の医師たちも同じような気持ちを抱いているようです。非常に難しい手術を輸血をせずに行ない,成功させたあと,彼らはエホバの証人の患者に,誉れは医師自身ではなく神に帰せられる,と述べました。

      慎みに関する模範

      3 (イ)慎みを培う点で何が助けになりますか。(ロ)モーセと慎みに関して何と言うことができますか。

      3 極めて望ましい,そうです,極めて必要とされるこの慎みという特質を培う面で何が助けになるでしょうか。せん越さと慎みに関する前の二つの記事の中で述べられたことすべてを適用するのは,確かに慎みを培うための助けとなります。慎みを培うための別の助けは,エホバがどのようにご自分の慎み深い僕たちを強力に用いられたかを考慮することです。自分たちの造り主ではなく,自分自身の賛美を求め,自分自身に注意を向けさせる人間を,神がどうしてお用いになることがあるでしょうか。一度だけ,強い圧力と挑発を受けてモーセがそうしてしまったのは確かです。しかしそのためにモーセは何と大きな代価を払ったのでしょう! とはいえ,モーセが本当は慎み深い人だったことは,ファラオのもとへ行くことについて最初に示した遠慮がちな態度の中に見ることができます。それに加えて,聖書は,「モーセは地の表にいるすべての人の中でとりわけ柔和な人物であった」と述べています。―民数記 12:3。出エジプト記 4:10-17。

      4 エリフとヨセフはどのようにふさわしい慎みを示しましたか。

      4 慎みの別のりっぱな模範は年若いエリフです。エリフは,自分よりも年長であるヨブとその3人の友たちが発言するのを忍待強く待ってから語りました。エリフは偉そうな態度を示すことなく,すべての賛美を自分の造り主に向けました。(ヨブ 32:4-11,21,22; 36:9)族長ヤコブの息子であるヨセフも,強大なファラオの前に連れて来られ,その王の見た夢を解釈できるかと尋ねられたときに,ふさわしい慎みを示しました。ヨセフは,夢の解き明かしに関してエホバに誉れを帰しました。―創世記 40:8。ダニエル 2:26-30と比較してください。

      5 ギデオンの慎みは,なぜエホバ神にとって重要なものでしたか。

      5 ギデオンの例も考えてみましょう。ギデオンは使命を与えられたとき,自分の氏族はマナセの中で一番小さく,自分自身は父の家の中で最も小なる者であると慎み深く述べました。それゆえにこそギデオンは,エホバがミディアン人を征服する際にお用いになる者となったのです。なぜなら,神は勝利をご自分の手柄にする決意を抱いておられたからです。そのような状況で正しく仕えることができたのは真に慎み深い人だけだったでしょう。―裁き人 6:14-16; 7:2-7。

      6 (イ)エホバが,年若いソロモン王の求めに喜びを感じられたのはなぜですか。(ロ)エホバの僕である別のどの若者が,何に関してふさわしい慎みを示しましたか。(ハ)年若いエリフ,ソロモン,エレミヤの態度は,比較的若い,また経験の浅いエホバの証人たちにどのように影響を及ぼすかもしれませんか。

      6 年若いソロモンは,最初に王とされたとき,同じように慎みを示しました。夢の中で,何を得たいかと神から尋ねられた時,ソロモンは慎み深くこう答えました。「私は小さな少年にすぎません。……あなたの民を裁き,善悪をわきまえるために,従順な心をぜひこの僕にお与えください。だれが,あなたのこの難しい民を裁くことができるでしょうか」。エホバはソロモンの慎み深さに非常な喜びを感じ,ソロモンに知恵だけではなく大いなる富と栄光をもお与えになりました。(列王第一 3:4-14)ソロモンの慎みゆえにエホバは彼をすべての人間の支配者たちのうち最も賢い者とされました。エレミヤも,エホバの預言者として召されたときに自分の若さを考えて同様の慎みを示しました。(エレミヤ 1:6-8)あなたは比較的若い,あるいは未経験なエホバの証人ですか。もしそうであれば,そしてあなたが年若いエリフやソロモンやエレミヤのようにふさわしい慎みを示すなら,確かに賢い者であることを証明することになるでしょう。

      7 コリント第一 2章1-5節のパウロの言葉は,王国宣明者に求められる慎みのりっぱな模範をどのように示していますか。

      7 使徒パウロの慎み深さも注目に値します。高度の教育を受けたパリサイ人であり,のちにエホバ神から力強く用いられたにもかかわらず,パウロは自分の有利な立場を誇示することはありませんでした。そのことをパウロ自身がこう述べています。「兄弟たち,それでわたしは,あなた方のところに行った時,もったいぶった話し方や知恵を携えて行って神の神聖な奥義を告げ知らせるようなことはしませんでした。わたしは,あなた方の間では,イエス・キリスト,しかも杭につけられたキリスト以外には何をも知るまいと決めたのです。そしてわたしは,弱さと恐れのうちに,いたくおののきながらあなた方のところに行きました。そしてわたしの話し方,またわたしが宣べ伝えた事柄は,説得のための知恵の言葉ではなく,霊と力の論証を伴うものでした。それは,あなた方の信仰が,人間の知恵によらず,神の力によるものとなるためでした」。(コリント第一 2:1-5)エホバの証人の中には高度の教育を受けた人々がいます。しかし彼らは,パウロのように,慎みを示して良いたよりを告げ知らせ,同使徒のりっぱな模範に賢明に従います。

      8 イエスはどのように,慎みに関する最もりっぱで最も偉大な模範となっておられますか。

      8 慎みに関する最も偉大で最もりっぱな模範は,もちろんイエス・キリストにほかなりません。神のみ子と,悪魔サタンになった者との間には何と際立った対照が見られるのでしょう! キリストは慎みを欠いて,エホバ神と同等の立場を求めたことなど一度もありませんでした。(マタイ 4:8-10。フィリピ 2:5-8)むしろイエスは,み父の助け手また代弁者であることに完全に満足しています。(箴言 8:30。ヨハネ 1:1)地上におられた間,イエスは繰り返し神に対するご自分の従属の立場について語っています。(ヨハネ 5:19,30; 7:28; 8:28,42)イエスは自分の個人的な誉れを求めず,エホバに注意を向けさせました。(マルコ 10:18)さらにイエスの最大の試練の時には,「わたしの父よ,もしできることでしたら,この杯をわたしから過ぎ去らせてください。それでも,わたしの望むとおりにではなく,あなたの望まれるとおりに」という態度を示しました。(マタイ 26:39)確かにイエスは慎みについてのりっぱな模範を残されました。ですから,神の霊的被造物のすべて,そして人間すべては確かに慎み深くあるべきです。

      慎みは道理にかなう

      9 コリント第一 4章6,7節によると,神の僕の側の慎みが道理にかなっているのはなぜですか。

      9 わたしたちにとって慎み深くあるのは筋道の通ったことです。それは道理にかなっています。まず最初に,わたしたちはみな不完全なのではない

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