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  • なぜ「金銭に対する愛」は破滅を招くか
    ものみの塔 1977 | 6月1日
    • なぜ「金銭に対する愛」は破滅を招くか

      「金銭に対する愛」が破滅を招くほどの力となるのはなぜですか。ひとつには,そのために家族に対する自然の愛情さえ鈍くなります。人はそのために幸福を奪われたり,不必要に切りつめた生活をしたり,他の人に対して無慈悲な事をしたりするようになる場合があります。

      ヘンリエッタ・ハウランド・グリーンという米国人の例は,金銭を愛することがどれほど極端なものになり得るかをよく示しています。彼女は1916年に死にましたが,9,500万ドル(約285億円)に上ると見られる遺産を残しました。ひとつの銀行だけでも彼女の預金は3,140万ドル以上もありました。これほど裕福でありながらこの婦人は息子が緊急に医者の手当を必要とした時にそれを与えず,無料の診療所を捜しました。そのために手おくれとなって息子は片足を切断する結果になりました。彼女は冷たいオートミールを食べて暮らし,金を惜しんでそれ温めることさえしませんでした。遂に彼女はスキムミルクの損得をめぐって激しく言い争ったのがもとで卒中を起こして死にました。この婦人にとって金銭は確かに破滅をもたらす力になったと言えます。

      ヘンリエッタ・グリーンが金銭に対する聖書の健全な助言を知ってそれに従ったならば,自分と息子の生活をみじめなものにすることなく,他の人々にも祝福となったことでしょう。他の多くの人の場合にも,聖書の助言は,金銭に対する愛がわなとなって自分を傷つけることのないように今すぐ人を助けるものとなり得ます。

      金銭を愛することから生ずる有害な結果に注意をうながして使徒パウロは次のように書きました。「金銭に対する愛はあらゆる有害な事がらの根であるからです。ある人たちはこの愛を追い求めて……多くの苦痛で自分の全身を刺したのです」― テモテ第一 6:10。

      金銭に対する愛を育てると,金はその人の神となります。その人は自分の精神力と体力のすべてを傾けて金もうけに熱中します。もうこれで十分という事は決してありません。「銀を好む者は銀に飽こと無し 豊富ならんことを好む者は得るところあらず」と聖書は述べています。(伝道 5:10)このような訳で,人は金もうけのためなら,ほとんど何でもするようになりかねません。神への奉仕や他の人のために善を行なうことは,多くの場合全く見失われてしまいます。

      例えば,金銭を愛することは,劣悪な建築材料の使用,飲食物に混ぜ物をすること,はかりをごまかすことなど数多くの不正な行為を生むかもしれません。不良建築資材は建物の安全に影響し,大きなけがや死を招くおそれがあります。食品に混ぜ物をすれば他の人の健康を害するかもしれず,ごまかしは大きな損害を与えることにもなります。貧しい人に対してはとくにそうです。にもかかわらず,こうした事実は少しも顧みられません。

      ある人々はにわか成り金を夢みて賭博に手を出します。賭博はすればするほど損をします。それでも彼らは今度こそ勝ち,損をとり返し,一躍,大金を手に入れることができると信じ込んでいます。こうして必要な物を買うための資金さえも失ない,食糧や衣服を買う金にもこと欠くようになります。そうなると,かわいそうなのは子供たちです。

      金銭に対する愛がわなとなって自分自身や他の人を傷つけるようなことを,どうすれば避けられますか。物質のものに対して平衡のとれた見方を保つというのがその答えです。神の言葉聖書はこの点で非常に役立ちます。

      聖書は勤勉を勧めていますが,それでも多くの富を蓄えようと努めることをしないようにと教えています。聖書の教えによれば,人が働くのは自分自身の利益のためだけではありません。使徒パウロは以前に盗人であった人に対して次のように強く勧めました。「ほねおって働き,自分の手で良い業をなし,窮乏している人に分け与えることができるようにしなさい」。(エフェソス 4:28)真に窮乏している人々に対してこのように積極的な気遣いを示すならば,金を愛する自己中心的な人にはならないでしょう。

      聖書はまた,物質のものに対して現実的な見方をし,富の永続しないことを悟るように人を助けます。物は持っていても失ったり,盗まれたり,壊されたりします。人はそのことを知ってはいても,金銭の事柄を扱う段になると,人生の不確かなことを相変らず無視しています。

      もっと快適な生活をできるのに極端に節約する人のことを考えてごらんなさい。人は子供,孫,ひ孫のためを考えてそうしているかもしれません。もちろん,子供に財産を残したいと願うのは何も悪いことではありません。しかし親は自分のために何かを費やすのをおそれるまでに物惜しみをすることのないように注意が肝要です。子供のために財産を残したいという言葉が,実際には富を積みたいという自分自身の強い願い,金銭に対する愛を隠す口実でないか自問する必要さえあるかもしれません。

      財産を築く努力がいかに失望に終わり,挫折するおそれがあるかについて賢王ソロモンの書いた事柄に留意するのは良いことです。損失が最も手痛く感じられるような時に一切を急に失うこともあります。次のように書かれています。「わたしは日の下に悲しむべき悪のあるのを見た。すなわち,富はこれをたくわえるその持ち主に害を及ぼすことである。またその富は不幸な出来事によってうせ行くことである。それで,その人が子をもうけても,彼の手には何も残らない」― 伝道 5:13,14,口。

      人が勤勉に労し,そこへ生じた何かの災い ― 戦争,日照り,火事,地震,嵐 ― のために一切を失うのは悲しむべきことです。その時まで人が自分の労苦の実を楽しむことをしないでいたとすれば,その一生は確かに愚かな,空しいものであったと言えます。富を蓄えつづけ,それを失って後に初めて子をもうけるならばいっそうの悲劇です。

      たとえ何かの災害で財産を失うことを免れてもそれで,物質的な生き方が価値のあるものになる訳ではありません。死ぬならばこの世のすべての富も,その人にとって何の益もありません。聖書は率直にこう述べています,「彼は母の胎から出てきたように,すなわち裸で出てきたように帰って行く。彼はその労苦によって得た何物をもその手に携えて行くことができない」。(伝道 5:15,口)ゆえに物質的な所有物を追い求めることにのみ費やした一生はなんと空しいのでしょう。

      そのうえ残した財産が人の死後にどうなるかは全く分かりません。みずから労することなく相続によって財産を得た人は得たものの有難さが分からず,それを浪費するかもしれません。それを上手に管理したとしても,遂には何かの災害ですべてを失う結果にならないという保証はないのです。それで労苦して得たものを本当に楽しんだ人がだれもいないとすれば,それには一体どんな益があったことになるでしょうか。

      人生には不確かな事があまりにも多いという事実を認識するならば,富の追求が満足をもたらさないことを悟るのに助けとなります。それによって金銭に対する過度の欲求は抑えられます。それと同時に不必要に耐乏生活を強いるというわなも避けられます。人は自分の勤労の成果を健全に楽しみ,自分自身と他の人々を益することができます。こうしてその人は金銭に対する愛がもたらす害を免れるのです。

  • 憶せずに語る勇気を持っていた人
    ものみの塔 1977 | 6月1日
    • 憶せずに語る勇気を持っていた人

      周囲の人々が皆悪事を働いている中にあって,勇気をもって正しい事を弁護する人はどれほどいるでしょうか。あなたはどうですか。話題となっているのが,宗教的,つまり霊的な問題であるとしましょう。そのような場合にも,憶せずに語ることには益がありますか。

      人類史の初期の頃,霊的な問題について憶せずに語る勇気を持っていた人がいました。その人はヤレドの子エノクです。エノクは,人類の父祖アダムから始まる家系上,七代目に当たる人物です。―創世 5:18。ユダ 14。

      『エノクは神と共に歩んだ』

      エノクはどんな人でしたか。わたしたちすべてと同様不完全な人間でありながら,「エノクは真の神と共に歩みつづけ」ました。(創世 5:24,新)エノクは,神の啓示された真理に従って,義の道を追い求めました。その生き方は,エホバ神の意志や目的と調和していました。また,エノクは,神の「女」の胤を通して大きな祝福がもたらされることに信仰を持っていたに違いありません。(創世 3:15)エノクの時代に,ほかにも『神と共に歩んだ』人がいるということを示す記述は見当たりません。少なくともこの点で,エノクは際立った人であったようです。

      当時の宗教情勢

      西暦前3404年にエノクが生まれたころまでに,人類の間に見られる宗教事情は著しく悪化していました。時の経過と共に,不敬虔な行為はますます多くなってゆきました。アダムの息子アベルは,神の証人としてエホバの名を呼び求め,その忠実さゆえに殉教の死を遂げました。(創世 4:4-8。ヘブライ 11:4)それから一世紀余り後,アダムの息子セツに,エノスという名の男の子が生まれました。そのエノスの時代にどんな事が起きましたか。聖書には,「その時,エホバの名を呼び求めることが始まった」と記されています。(創世 4:25,26; 5:3,6,新)これは真の崇拝の復興を意味していましたか。

      そうではありません。ヘブライ語学者たちによると,この聖句は,神の名を「冒涜的な仕方で」呼び求めることが始まった,すなわち,「その時冒涜が始まった」と理解すべきです。パレスチナ・タルグムはこう述べています。「人々が誤りを犯すようになり,自らのために偶像を作り,その偶像を主の言葉の名で呼んだのは,その世代であった」。これはエホバのお名前を誤用することを意味していたようです。人々は自分たちを指して,あるいは自分たちが崇拝のためにエホバに近づく形を取った際の仲介者を指して,エホバのお名前を使ったということも考えられます。あるいは,偶像を呼ぶのに神のお名前を使ったのかもしれません。

      いずれにせよ,冒涜的な仕方で「エホバの名を

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