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世界は道徳的に破たんしているか目ざめよ! 1984 | 1月8日
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世界は道徳的に破たんしているか
「映画のスクリーンに映し出されたやせた幼い少女は6歳ぐらいで,つやつやした髪はショートカットにしている。綿のドレスにハイソックスとひもの付いたオックスフォードシューズというその姿は……初登校の日のために晴れ着を着た子供のようである。しかし,この子は子供ものポルノ映画にいや応なしに出演させられたスターなのである」― トロント・スター紙。
身の毛がよだちますか。その通りです! 毒牙にかかったその「やせた幼い少女」は,隣近所の子か,近い親族かもしれないのです。ごくまれなケースですか。そうではありません。米国だけでも,年に推定30万人の子供がポルノのわなにかかっています。『確かにそうかもしれないが,どこへ行っても事態がそれほど悪いというわけではないだろう。全世界が道徳的に破たんしているわけではない』と言う人もいます。
しかし,次の例えを考えてみてください。堅実な経済上の判断に欠けているために近所の人が経済的にうまくいかなくなり,財政的に破たんして破産を宣言します。ところが,その人は表面的には“平常通り営業”しているかのように装います。しかし,それも債権者が不意にやって来てその地所に対する抵当権を行使するまでのことです。この世の現存する事物の体制についても同様のことが言えます。表面的には道徳的に堅実であるように見えるかもしれませんが,よくよく調べると,土台そのものにまで手の施しようのないき裂が奥深く入っていることが明らかになります。
道徳の破たんを物語るもの
世界は道徳的に困窮し,破たんを来たしており,完全な崩壊を待つばかりになっています。どうしてそのように言うのでしょうか。道徳的な破産を物語る次に挙げる事柄を見ながら,それがどんな人,またどんな事柄を表わしているかを考えてみてください。教育のない人,貧しい人,常習的な犯罪者,あるいは不信心な人々だけを表わしているでしょうか。あるいは,社会の指導者たちからそれら指導者に従う者たちに至るまで,道徳の弱体化が広く浸透しているために,体制全体が腐敗しているでしょうか。
● 科学者や医師やジャーナリストが行なう研究に,穏やかならぬ割合で欺まんが発見されている。
● 1976年以来,メキシコ・シティーでは1万7,000人を超える汚職警察官が免職になっている。
● 二人の司祭,540人を超える実業家,そして数十人の税務当局者が,イタリアで22億㌦(約5,280億円)の石油税を脱税したかどで告発されている。
● 最近の世論調査の明らかにしたところによると,世界でも最大級の幾つかの企業の経営最高責任者200人は,社会に対する会社のイメージにとって倫理規準を保つことは重要ではないとみなしている。
● イタリアの国民は支払うべき税金の20%を脱税し,ドイツではその額が最低100億㌦(約2兆4,000億円)に達している。平均すると,スウェーデンの成人は一人当たり年に720㌦(約17万2,800円)の税金をごまかしている。米国では連邦税に関する脱税(故意によるものと不注意によるもの)総額は,10年前に290億㌦(約6兆9,600億円)だったのが,今では1,000億㌦(約24兆円)に達している。「事態が悪化する一方であれば,我が国の経済の倒壊,果ては社会の崩壊にまで発展しかねない」と,米国公認会計士協会は述べている。
● 国連麻薬局の局長は,禁制の麻薬に対する世界的な需要の驚くほどの増加を,「密売と犯罪,脱税,贈収賄,そして汚職の醸し出す邪悪な影響力」と描写した。
● 世界保健機関(WHO)の推定によると,世界中で毎年50万人ほどの人が殺虫剤中毒にかかる。大抵の場合それは,危険な化学薬品の非倫理的な散布によるものである。会社の利益という祭壇の上に安全は犠牲にされている。発売禁止になっている殺虫剤を第三世界の国々に“ダンピング”する外国の化学会社が少なくないために,ケニアの環境庁次官は,「我々は工業社会の犠牲者である」と叫び声を上げるに至った。
● 国際家族計画連盟の推定によると,毎年5,500万人の女性が堕胎をする。この数字は,アルゼンチン,オーストラリア,カナダ,南アフリカ,フランス,ポーランドあるいは他の145の国々の各々の人口よりも多くの人間が,生まれる前に殺されていることを意味している。
● かつて性病はいかがわしい裏通りにのみひそむものだった。今では放とうな生活様式のためにそれがまんえんするようになっている。毎年,子供を含め幾百万もの人々が感染している。新たな,奇怪な性病が突然現われ,急激に広まり,医師たちをあわてさせている。
● 西ドイツとアメリカのローマ・カトリックの司教たちは,司教教書の中で“義のいくさ”の理論を支持している。
● 大量の余剰食糧がむだにされている一方,栄養失調のために無数の人が命を失っている。第三世界の国々には,たばこやコーヒーなど輸出用換金作物を優先させて食糧生産をおろそかにする国が少なくない。その結果,しばしばエリート層のふところが暖まることになる。
● 164か国中,45か国が何らかの種類の武力紛争に携わっており,400万人を超える兵士が戦闘に加わっている。そして,今日の戦争はどんな点で過去のものと比べて異なっているのだろうか。それは民間人の死者の衝撃的な増加である。平均すると,戦闘員一人に対して3人の割合で民間人が殺される。
● 「世界中で約50万人の科学者が,より複雑でより致命的な武器を追い求めることに自分たちの知識を専ら用いている」と,国連事務総長は述べている。
● 世界は兵士一人に対して年間1万9,300㌦(約463万円)を費やしているのに,学齢期の子供には380㌦(約9万円)しか費やしていない。同時に,きれいな水がないために毎日2万5,000人が死んでおり,食事にビタミンAが欠乏しているために毎年10万人の子供たちが失明している。
● 工業諸国は国庫を富ますために,武器が欲しくてたまらない,それでいて武器を手に入れるだけの余裕などほとんどないはずの発展途上国に武器を輸出しているが,それらの国々ではそうした武器を自国の貧しい人々に用いることが多い。かつて米国の大使であったジョン・ケネス・ガルブレイスは,「帝国主義的であるか否かにかかわらず,これほど破壊的で,危険な形の搾取はほかになかった」と述べている。
なるほど,政治家・実業家・近隣の人など,一人一人は個人としての高い道徳律をもって出発するかもしれません。しかし,抵抗するための強い動機づけがない限り,周囲の体制は徳というもののすっかりなくなった型にその人をはめ込み,そのとりこにしてしまうおそれがあります。古代の箴言はこの道徳状況を要約してこう述べています。「曲がっているものは,まっすぐにすることはできない。欠けているものは,到底数えることはできない」。ねじ曲がったもろい棒のように,世界の道徳は余りにもゆがんでいるため,それをまっすぐにするにはいったん壊してしまわなければならないのです。―伝道の書 1:15。
道徳の破たんの別の面は娯楽に反映されています。社会の文化,特にその娯楽はその社会の道徳規準について多くのことを明らかにします。今日の娯楽は現在の道徳をどのように反映しているでしょうか。
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今日の娯楽に見られる道徳のゆがみ目ざめよ! 1984 | 1月8日
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今日の娯楽に見られる道徳のゆがみ
「優れた作家たちも,かつてはもっと良い言葉を知っていたのに
今では卑わい語しか用いずに
散文を書く……
どんなことでも許される。
今の世界は狂っている
そして今,善は悪である
そして今,黒は白である
そして今,昼は夜である……
どんなことでも許される」― アメリカの作詞家コール・ポーターによる詞,1934年。
「善は悪である,悪は善である,
と言っている者たち,
闇を光,光を闇としている者たち……は災いだ!」
― イスラエル人の預言者イザヤの言葉,西暦前732年。―イザヤ 5:20。
上に掲げた二つの引用文の間には26世紀以上の隔たりがあります。これらはそれぞれ異なった目的のために書かれました。一方はブロードウェイの観客を楽しませるために,もう一方は古代ユダの住民の不法な行ないを糾明するためです。しかし,どちらもわたしたちの時代と関係があります。正邪の概念が絶えず変わってゆく今日,一見「どんなことでも許される」かに見えます。
娯楽に見られるゆがみほどこの点をはっきり示しているものはないでしょう。娯楽は文化の一部であり,文化とは一つの社会が学び取った特徴的な行動の仕方,考え方,感じ方のことです。それは人々の生き方全体です。ですから,社会の道徳観はその文化を通して見ることができます。
今世紀になって映画やテレビほど成長した,あるいは人気を博して影響力を行使した芸術はほかにないでしょう。中には映画は実生活を映し出しているのだという人もいます。しかし同時に,映画スターが現代の民衆の英雄であるために,映画は新しい道徳習慣を増幅し,それに認可を与え,それを認められたものとします。映画産業は人を操るこの強大な力に気づいています。映画産業の「製作規定」は,「娯楽は人類にとって有用な性質のものとも有害な性質のものともなり得る」と述べています。現代の娯楽は世界の道徳と人類が向かっている方向について何を物語っているでしょうか。
1939年にアカデミー賞を獲得した映画,「風と共に去りぬ」の中で用いられた卑わい語一語は,多くの人に衝撃を与えました。今日,その同じ言葉は少しの波紋も引き起こさないでしょう。娯楽はほんの数十年の間に,たわいない家族の楽しみから“成人用”へと大きく変化しました。中にはこの甚だしいゆがみを罪のない現実逃避として正当化する人もいます。しかし,本当にそうでしょうか。事実を言えば,三つの事柄のために,現代の娯楽の大半から,わずかばかり残っていたかもしれない道徳的な価値が全くぬぐい去られてしまったのです。その三つの事柄とは,不法な麻薬,過度の暴力,そしてあからさまな性です。
麻薬,流血
過去数十年の間連続メロドラマはラジオやテレビで毎日のように放送されてきました。今では“麻薬ドラマ”があります。舞台でも,映画のスクリーンでも,テレビでも,不法な麻薬が社会の主流に大幅に流れ込んでいることを正常な事柄,日常生活の一部として描き出しています。禁制の麻薬を使用したり密売したりする人が自動的に敗北者,変質者,悪者と見られることはもはやなくなりました。むしろ,大抵の場合に英雄,勝利者,スター,老若共に見倣うべき人物とされているのです。しかも,そのショーの製作者はこの変化の責任を一般大衆に転嫁し,『我々は人々の望むものを与えているのだ!』と叫びます。
芸能界は“流血ドラマ”にもふけっています。暴力がこれほどあからさまで人を無感覚にさせたことは映画史上かつてありません。文字通りの流血の大虐殺が映画の観客の目の前に映し出されます。電動のこぎりが肢体をばらばらにし,ドリルが犠牲者の頭に穴を開け,血が吹き出します。肢体を食べる人肉嗜食の音が聞こえてきます。この不快な虐殺は大抵の場合に何らかの形の性愛を扱った状況と混ぜ合わされています。こうした情景やそれ以上に胸を悪くさせるような情景が,大勢の人々が娯楽に期待する事柄の重要な部分となっているのです。
今日,人々はこの種の恐怖映画を見るために人目を忍んで映画館に入って行く必要はありません。ホーム・ビデオの装置があれば,そのフィルムを借りたり自分用のものを買ったりすることができます。あるビデオ・フィルムは,「強姦と虐殺の92分」と銘打って広告されていました。品性を落とすそのような暴力的な映画の市場は急速に広まっています。例えば,英国のあるビデオ業界誌は,犠牲者が切り刻まれて殺される新作のビデオ恐怖映画,あるいは“気持ちの悪い映画”の一つに対する評論を載せた後に,「どの取り扱い業者にも絶対必要。これはそれほど長いこと棚に残ることはないだろう」と予告しました。
こうした“流血ドラマ”を定期的に見ている人は,ごくありふれた日常茶飯の暴力に満たされているのが正常な生活だという結論以外に,人生についてどんな結論を出せるでしょうか。現実の世界における暴力がより多くの人々により一層受け入れられるようになってきているとしても何の不思議もないのではありませんか。一言で言えば,この種の娯楽は暴力ポルノなのです。
ビデオ・ロックの暴力
今では,特に米国で,“ビデオ・ロック・ドラマ”があります。有線テレビの加入者が,すさまじいビートのハード・ロック音楽を聞くだけでなく,それに伴う暴力行為をも見ることのできるような都市が多くなってきています。ビデオ・ロックはビデオ・カセットの形で購入することも,ロック・クラブの大きなスクリーンの上で見ることもできます。
自分の見たビデオ・ロック音楽の番組にあぜんとした一人の視聴者は,ウォール・ストリート・ジャーナル紙上でその番組のことを「これまで見た中で最も下劣で,最も胸を悪くさせるサディズムの演技」と描写しています。同紙の記事はこう続いています。「ロックの曲の間には短い場面がそう入される。ネズミの死がいを無理やり食べさせられながらヒステリックに叫んでいる女性の登場する場面などはその一つである」。視聴者で苦情を申し立てる人はほとんどいません。
音楽は人の感情を揺り動かすことができるので,この新しい形態のロック音楽は人生に対するゆがんだ見方を強化する可能性を秘めています。なぜでしょうか。なぜなら聴覚と視覚という人間の感覚の二つが直接関係しているからです。音楽を聴く時,聞く人はその音楽の意味に関する自分個人のイメージを脳裏に描きます。音楽とビデオを結び合わせることにより,人は自分の想像力を失いほかのだれか,つまりそのビデオ・ロックを製作した人の道徳規準を取り入れているのです。ニューズウィーク誌はこう論評しています。「音楽の顕著な長所の一つは,深い,言葉では言い表わせない感覚を喚起する力であり,その効果は聞く度に異なる。ビデオは聞く人の空想がどんなものになるかを定め,歌が歌われる度にそれをスクリーンにはっきりと描き出す」。
ポルノ
別の形のさもしい刺激は“セックス・ドラマ”です。ポルノは新しいものではありませんが,それを公の目にさらすようになったのは最近のことです。一般の人々の目からポルノを隠していた壁は,1960年代にデンマークがあらゆる種類のポルノを合法化する最初の国となって以来崩れてゆきました。それ以降,病原菌の侵入した潰瘍からにじみ出るうみのように,ポルノはその醜い汚点を世界中にまき散らしてきました。
ポルノが,もうけが大きいとはいえ依然として隠れた産業になっている国もありますが,若者をも含めすべての人の前にポルノがあくどいほど公にさらされている国もあります。あからさまで堕落した性の場面が小説の中で読まれ,雑誌やテレビや映画の中で見られるようになっており,その増加率は爆発的なものとなっています。人々は成人向け映画を上映する映画館に,糞の山に群がるハエのようにしばしば群がり集まって来ます。
例えば,スペインの新聞売店には性愛を扱った出版物がたくさん集められています。そして同国の新聞の中には,「悪魔の作かと思われる,セックスと堕落と奇行の映画」というようなポルノの広告を載せているものもあります。英国では,デーリー・テレグラフ紙が,「事実を言えば,ポルノショップは現代英国におけるほぼ唯一の成長産業となっている」と伝えています。また日本では,「ポルノ産業は着実に増加しており,いよいよ毒々しいサービスを提供している」と,英文毎日は伝えています。昨年,米国だけでも,ポルノは推定70億㌦(約1兆6,800億円)の総収益を上げました。
ポルノが栄えるのはなぜでしょうか。古くからある需要と供給の法則のためです。週刊マンチェスター・ガーディアン誌が伝えるように,フランスの元ポルノ映画スターは一つの答えを指摘して,「どんなに平凡なものでもポルノに将来があるのは,需要がそこにあるからだ」と語りました。そして今では,ポルノ映画を上映する映画館へ行くのを見られるのはきまりが悪いと考えていた客が,他人に干渉されない自宅でビデオ・カセットを使い,熱心な観客になっています。このように,需要が供給を正当化しているように見えます。
性の退廃は幼児から十代の若者までの年少者たちをさえわなに陥れています。「生後わずか8か月の幼児に対する性行為までが,増大する子供ものポルノの下位文化の要求を満たす秘密業者によって映画や写真にされている」と,ニューヨーク・デーリー・ニューズ紙は伝えています。その同じ新聞は,米国で「年に推定5万人の子供たちが行方不明になり,どこへ消えたか分からなくなる」ことを付け加えています。その中には,いや応なく性的な面で利用されたりポルノへと追い込まれたりする子供が少なくありません。ポルノのフィルムはスカンジナビア諸国へ送られて焼き付けされ,増加の一途をたどる倒錯者の,身の毛もよだつような趣味を満足させるために世界中にばらまかれます。
ですから,大人あるいは子供の間のどぎつい性描写をしたものであろうと,暴力を描いたものであろうと,娯楽は「悪」を,つまり堕落したものを,「善」つまり受け入れられるもののように見せています。
このような腐敗をもたらす影響力がこの事物の体制の土台をむしばんでいるのであれば,この体制は生き延びることができるでしょうか。「人はその懐に火をかき集めておいて,なおその衣を焼かれないようにすることができるだろうか」。(箴言 6:27)今日の道徳は,この世界をどんなところにしてしまうのでしょうか。
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道徳の破たん ― それはどんな結果を招くか目ざめよ! 1984 | 1月8日
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道徳の破たん ― それはどんな結果を招くか
それは1956年7月25日の夜のことでした。優美な白い内燃機船ストックホルム号がニューヨークを出航し,北大西洋を横断する103回目の東回り航海の途上にありました。ナンタケット砂州のあたりには霧がかかっていましたが,それはいつものことでした。
反対側からはイタリアの最高級定期船,アンドレアドリア号が霧を押し切って進んで来ました。どちらの船もレーダーを装備していたので,不必要に心配する人はいませんでした。事実,乗客の大半は床に就いていました。当直の士官は見張りをしていました。アンドレアドリア号は時速約22ノットで航行していました。すると突然,ストックホルム号がぼんやりと視界に浮かび上がったのです。イタリア人の船長は,「取りかじいっぱい!」と大声で命じましたが,アンドレアドリア号の勢いと重量からすると時は既に遅かったのです。
午後11時9分にストックホルム号がイタリアの定期船の船体の真ん中に突っ込みました。何が起きようとしているかに気づいていた士官と船員はごくわずかで,衝突を避けようとするその人たちの行動は無駄でした。衝突を避ける点でその人たちは無力だったのです。11時間後,“不沈船”アンドレアドリア号は海底のもくずと消えました。
同様に今日,世界の道徳は大災害へと向かう道を進んでいます。節操のある少数の人々はそのことに気づいていて,物事の進む方向を変えようとします。しかし,その努力もごくわずかで,遅きに失しています。世の腐敗のために,この体制の勢いと方向づけは自分たちの手に余ることを知った世界の指導者たちはざ折感を味わっています。また,世界的な道徳的風潮に何の相違をも認めず,さらにはその中に浸りきっている人々もいます。
このような状況にあって,正直な心の持ち主は将来に対してどんな希望を抱くことができるでしょうか。古代の二つの型が答えを提供しています。
来たるべき事柄の型
道徳的特性の失われた社会とその社会に何が起きたかを示す二つの例とは,ノアの日の洪水前の世とソドムとゴモラの人々です。ルカ 17章26節から30節にあるイエス・キリストの言葉は,これらの例に対応するものが今日の時代に存在することを示しています。神の主要な刑執行官であるイエスは,世界的な規模で物事を清算されます。次のように書かれています。
「また,ノアの日に起きたとおり,人の子[イエス・キリスト]の日にもまたそうなるでしょう。人々は食べたり,飲んだり,めとったり,嫁いだりしていて,ついにノアが箱船の中に入る日となり,洪水が来て彼らをみな滅ぼしました。また同じように,ちょうどロトの日に起きたとおりです。人々は食べたり,飲んだり,買ったり,売ったり,植えたり,建てたりしていました。しかし,ロトがソドムから出た日に天から火と硫黄が降って,彼らをみな滅ぼしたのです。人の子が表わし示されようとしている日も同様でしょう」。
いずれの場合にも,食べたり,飲んだり,結婚したり,建てたりするといったごく普通の活動が災いの徴候を帯びていました。神の警告が無視されたからです。人々は自分たちの道徳的環境に起きている事柄のゆゆしさに注意を払わなかったのです。その人たちにとって,それは“平常通りの営業”でした。では,これら二つの型をさらに詳しく調べてみることにしましょう。
「ノアの日」
西暦前24世紀には悪が地上で猛威をふるっていました。道徳規準は制御不能になっていました。創世記 6章5節の歴史的な記録はこう述べています。「そのためエホバは,人の悪が地にあふれ,その心の考えのすべての傾向が終始ただ悪に向かうのをご覧になった」。どのような面で悪かったのでしょうか。またなぜ悪かったのでしょうか。
悪は二つの大胆な仕方で表わし示されました。第一には暴力によって,第二には性倒錯によってです。創世記 6章4節がこの点にどのように言及しているか,注目してください。「その時代,またその後にも,ネフィリムが地にいた。それはまことの神の子らが人の娘たちと関係を持ちつづけ,その娘たちが彼らに子を産んだころで,それらは昔の力ある者たち,名ある人々であった」。
「ネフィリム」という語には,「打ち倒す者」あるいは「倒す者」という意味があります。ネフィリムはごろつきで,他の人々を暴力によって打ち倒しました。その暴力的な例に倣ったり,一緒になって弱い者から略奪したりした人は少なくなかったに違いありません。ネフィリムは,かつては「まことの神の子ら」であったのに物質の体をつけて反逆したみ使いたちと,地上の女性との間の性行為から生まれた混血の子孫でした。み使いと人間との間のそのような性関係は不自然で倒錯したものでした。(付加的な資料として,ペテロ第一 3:19,20; ユダ 6,7をお読みになってください。)
この道徳的破たんはどんな結果を招きましたか。こう記されています。「それでエホバはこう言われた。『わたしは,自分が創造した人を地の表からぬぐい去ろう。人から,家畜,動く生き物,天の飛ぶ生き物にいたるまで。わたしはこれらを造ったことでまさに悔やむからである』。しかし,ノアはエホバの目に恵みを得た」。(創世記 6:7,8)エホバは,その時までの人類史を通じて最大規模の大変動によって,道徳的に堕落したその体制に対する抵当権を行使されました。その大洪水を逃れた人間は,ノアとその近親者だけでした。
ノアとその家族はどうして神の目に恵みを得たのでしょうか。「ノアは義にかなった人であり,同時代の人々の中にあってとがのない者となった」と,創世記 6章9節は述べています。ノアはどのようにしてそうした者になったのでしょうか。「ノアはまことの神と共に歩んだ」とその同じ節の結びの部分は述べています。ノアは勇敢で,自分と自分の家族が歩む人生の道の境界線をエホバの道徳的諸原則によって定めるようにし,同時代の不道徳な人々から自らを分け隔てました。ノアは,世の堕落した振る舞いの型に押し込まれることをきっぱりと拒絶したのです。
「ロトの日」
もう一方の例は400年以上のちに生じました。死海南部の水底に沈んだとある人々の信じるソドムとゴモラの両都市は,神の道徳規準を無視する生き方をがん強に続けていました。「ソドムとゴモラについての苦情の叫び,それはまさに大きく,彼らの罪,それはまことに重い」と,創世記 18章20節は述べています。
その住民を神の目にそれほどとがむべきものとしたのは何だったのでしょうか。その住民たちは道徳的に破たんを来たしていたのです。堕落した性的慣行がその生き方を支配していました。「少年から年寄りまで……ロトに向かって呼ばわり,こう言いつづけた。『今夜お前のところに来た男たちはどこにいるのか。我々がその者たちと交わりを持てるように[「その者たちを強姦できるように」,リビングバイブル英語版]我々のところへ出してくれ』」。(創世記 19:4,5)この「我々」には大人だけでなく年若い者たちも含まれていたのです。
エホバがその道徳的に汚染された体制に対する抵当権を行使された時,火の燃える滅びを免れたのは三つの魂 ― ロトとその二人の娘たち ― だけでした。その3人はどうして滅びを免れたのでしょうか。ロトは「義人」で,「無法な人々の放縦でみだらな行ないに大いに苦しんで」おり,彼らの下劣な生き方に倣うことを拒んだからです。―ペテロ第二 2:7,8。
今日
今日の世界の道徳的な価値は完全に尽きてしまっており,全面的に抵当権が行使されるのを待つばかりになっています。どんなことをしてもその道徳規準を上げることはできません。『この不道徳な世の支配者』サタン悪魔は,人類の大半を自らの非行の型に閉じ込めています。(ヨハネ 12:31)それらの人々は衝突へと向かう船の乗客のようなものです。指導者たちは船長同様災害を食い止めようとしますが,それができません。サタンの支配下にある世の勢いのために,悲劇的な結末は避けられません。
しかし,ノアやロトのように義を愛する人々は,聖書に記されている道徳的な振る舞いの道に従うことにより,異なった生活の型 ― 敬虔なもの ― を自らのために作り上げることができます。エホバとそのみ子イエス・キリストが間もなくこの世の不道徳な体制に抵当権を行使される時,義人の貸借表は黒字になっていることでしょう。それから神は義の世界での永遠の命の権利をその人たちに与えます。あなたはその義人の中に数えられるための資格を備えているでしょうか。―詩編 37:27-29。ペテロ第二 2:9。
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