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    ものみの塔 1959 | 8月1日
    • ておられるからです。(シンゲン 15:3)『神はすべてのわざ,ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである。』(伝道之書 12:14,新口)私たちは,詩篇記者の取つたみちと同じく,建設的なみち,決意にみちたみちを取ることが必要です。詩篇記者は,次のように語つています,『われ常にヱホバをわが前に置けり。ヱホバわが右にいませばわれ動かさるることなかるべし。』(詩 16:8)この意味で積極的である私たちは,語ることおよびすることで,いつもヱホバ神をよろこばし,崇めるように努めます。霊的な長老たち,すなわち会衆の僕なる監督が,直接見ていようといまいと,そのように努力します。

      18 私たちのかたい立場について,なぜ私たちは過信してはなりませんか。私たちは,どんな災にたいして注意すべきですか。

      18 ハルマゲドン後の『新しい天と新しい地』の新しい組織に極めて近いから大丈夫ということはありません。また,聖書の真理に十分長くいたし,多くの数の誘惑をも通つて来たから,注意をゆるめても大丈夫,落ちるなどの危険などはないということもありません。エジプトから救い出されたのに荒野で滅んでしまつたイスラエル人について,パウロは次のように述べています。その或る者は,40年目の最後の年に滅びました。『これらの事が彼らに起つたのは,他に対する警告としてであつて,それが書かれたのは,世の終りに臨んでいる私たちに対する訓戒のためである。だから,立つていると思う者は,倒れないように気をつけるがよい。あなた方の会つた試練で,世の常でないものはない。』そして,この試練の下に人々は倒れたのです。(コリント前 10:11-15,新口)真理にいるいちばん若い者から,いちばん古い者にいたるまで,また会衆の一般の人から会衆の僕または監督にいたるまで,私たちはみな自分自身を頼るということを決してせず,むしろ私たちの歩き方にいつでも良く注意して,悲惨にも落ちるということのないようにしましよう。ヱホバの会衆から排斥されて永遠の滅びを受けるとは,なんという災でしよう!―コリント前 5:9-13。

      非行をする奉仕者の破滅

      19 北アメリカの会衆内の非行者のどんなパーセント増加により,良く注意を払う必要は強調されますか。

      19 祈りをささげつつ絶えず注意を払う必要は,ものみの塔聖書冊子協会のブルックリン本部にある奉仕部門からの知らせによつて強調されます。これは,北アメリカ合衆国の幾千という会衆に属する献身して洗礼を受けた者に関係を持つものです。1952年3月から1957年4月までの5年間,毎年平均500人はヱホバの会衆内で許すことのできない極めて悪い非行のために排斥されました。しかし,1957年4月から1958年4月までの1年間に,数は急にはね上つて平均500人から1334人の非行者が出ました。それは,2倍半以上も多い数です。次のように論じて,この驚くべき知らせの衝動を押えてはなりません。すなわち,この原因の一部は,その12ヵ月中にアメリカの会衆にすくなくとも1万8537人の新しい人々が証言の活動に交わつたからだというのです。その新しい人々の数は,1958年の4月アメリカで御国の良いたよりを宣べ伝えた22万6797名の12分の1にもなりません。その22万6797名の約65パーセントは献身して洗礼を受けているものです。それで,1334名の非行者を14万7000人以上の献身して洗礼を受けた成員とくらべるとき,どういうことになりますか。1パーセントにも達しません。

      20 それは1パーセントにも達しないものであつても,どんな恐ろしい警告が,私たち全部に与えられていますか。

      20 1334人は1パーセントにも達しませんが,しかしこの数が急にふえたことは以前の年よりも2倍以上の人が1957-1958年の悪い時代中に,注意をゆるめ,賢明に行うことに失敗したことをはつきり示しています。北アメリカの合衆国には3718かそれ以上の会衆があることから,三つの会衆のうち約一つの会衆は1334の排斥によつて影響を受けることになります。かくも多くの会衆が影響を受けたという事実および1957から1958年までに排斥の数が2倍以上に増したという事実は,私たち全部の者に対する恐ろしい警告となります。今後は私たちが落ちないように気をつけねばなりません。

      21 人はどのように清い汚れのない形式の崇拝を行うというヤコブ書 4章4節の聖句を悪く適用して罪を犯しますか。

      21 ヱホバの証者の新しい世の社会は,汚れのない清い形式の崇拝を行いつづけねばなりません。クリスチャンの弟子ヤコブは,このことを明白にこう述べています,『私たちの父である神の立場から見て,清く汚れない崇拝の形式とは,孤児と寡婦とをそのなやみの時に世話し,また自分を守つて世から汚されないことである。姦淫を行う者よ,世の友となることは,神の敵になることをあなた方は知らないか。それであるから,世の友となろうと欲する者は誰でも自ら神の敵となるのである。』(ヤコブ 1:27; 4:4,新世)次のように考えることは全くの間ちがいです,すなわちのこの世の政治に介入せず,この世の争いに中立を保つてこの世の友とならず,霊的な姦淫者にならなければ,世の汚れを受けないが,一方,実際の肉体上の姦淫または淫行を行うことができるというのです。しかしそれは自分自身の体に対して罪を犯すことになります。

      22 人は,マタイ伝 24章14節の聖句の成就に参加しながら,間ちがいにもどのようにバラムの罪のごとき罪に落ちますか。

      22 また,次のように考えることも間ちがつたものです,すなわちマタイ伝 24章14節の預言的な命令に従つて,野外奉仕の証言時間をたくさん報告すれば,異性の者と肉体面の不道徳な行いをすることができるという考えです。忘れてはなりません,預言者バラムはヱホバの代弁者として用いられ,イスラエルの国民に祝福を述べました。しかし,後に荒野の40年の旅の終りになつて,イスラエルの中に性崇拝と不道徳をすすめようとしたバラムは殺されました。

      23 クリスチャンの道徳は,伝道と共に必要であると,パウロはどのように示しましたか。

      23 神の御国について各人が証言をすることは,永遠の生命を得るために是非とも必要です。しかし,クリスチャンの道徳も共に必要な事柄です。パウロは次のように叫びました,『もし福音を宣べ伝えないなら,私はわざわいである。』しかし,すこし後の文章のところで彼は次のようにつけ加えました,『自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと,ほかの人に宣べ伝えておきながら,自分は失格者になるかも知れない……,また,ある者たち(イスラエル人)がしたように,私たちは不品行をしてはならない。不品行をしたため倒された者が,一日に一万三千人もあつた。』― コリント前 9:16,27; 10:8,新口。

      24 人は肉体上の不道徳を行うことにより,誰の友となりますか。故に,それは又どんな他の種類の不道徳ですか。

      24 自分自身を欺いてはなりません。姦淫または淫行をすることは,自らを世の友にすることです。それですから,それは霊的な姦淫または淫行をすることです。それは神の友または神の会衆の友に,ぜつたいになりません。それはこの世にまねて,この世を手本としていることです。それはこの世の精神の表われです。それはこの悪い世を愛していることを証明するものです,『すべて世にあるもの,すなわち,肉の欲,目の欲,持ち物の誇は,父(ヱホバ神)から出たものではなく,世から出たものである。』(ヨハネ第一書 2:16,新口)それですから,不道徳は次のことを示します,すなわち淫行者はこの世に属する者であつて,ヱホバの証者の新しい世の社会内にいるべき人ではないということです。

      25 ヱホバは,どんな二つの強烈な行いにより,会衆の不道徳な者にたいして何がなされねばならぬと示しましたか。

      25 ヱホバは2万3000人の淫行者を御自分の会衆から切り絶たれました。それは1年の中になされたのでなく,わずか1日の中になされたのです。淫行者はヱホバの会衆から排斥されねばなりません。シロに近いところでの戦争中,ヱホバは大祭司エリの息子たちである2人の祭司ホフニとピネハスを切り絶ちました。なぜなら彼らは集会の幕屋の人口で奉仕していた女たちと姦淫を行つてヱホバ神に非難をもたらしたからです。―サムエル前 2:12,22-25; 3:13,14; 4:4-11,17。

      26 (イ)排斥を必要とする他の罪のあることについて,パウロは何と言いますか。(ロ)自分の悪行に目ざめる者の心の状態および行動は何でなければなりませんか。

      26 排斥が必要となる罪は,淫行以外に他の物もあります。パウロは会衆にこう書き送りました,『私が実際に書いたのは,兄弟と呼ばれる人で,不品行な者,貪欲な者,偶像礼拝をする者,人をそしる者,酒に酔う者,略奪をする者があれば,そんな人と交際してはいけない,食事を共にしてもいけない,ということであつた。その悪人を,あなたがたの中から除いてしまいなさい。』(コリント前 5:11,13,新口)排斥が必要である罪を犯してから,そのはなはだしい悪行に目ざめ,神の不興を大きく受けたと気づいたなら,その人の心の状態はどんなものでなければなりませんか。悲しいものでなければなりません。心を痛めるほどに悲しみ,悔い改めねばならないのです。その者は,その罪をすでに御存知である神に告白するだけでなく,それぞれの地方で神権的に任命されている僕たちを通して神の見える制度に告白すべきです。慈悲を願い求めつつ,キリストを通して神とその民との和解を求める緊急な時です。このことに一致する聖書の助言はこうです,『あなた方の中に(霊的に)病んでいる者があるか。会衆の古い人々を呼び,ヱホバの御名によりオリブ油を塗つて祈つてもらうがよい。信仰の祈りは病める者をいやし,ヱホバはその人を立ち上らせて下さる。また,罪を犯したならば,その罪は許されるであろう。ゆえに,たがいに罪を公けに言い表わし,互いのために祈りなさい。それはあなた方がいやされるためである。』(ヤコブ 5:14-16,新世)深い後悔の念を持つて,霊的に必要なことを告白することは,罪人が神と和解することを助けるものです。それから後,神の御前でどのように歩くべきかについて良く注意する助けとなります。

  • 信条の密林
    ものみの塔 1959 | 8月1日
    • 信条の密林

      アメリカの詩人リゼット・ウッドワース・リースはかつて次のように語りました。『信条は密集して生長するため,その枝は神をかくす。』

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