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万事大目に見る社会 ― それはどんな結果になるか目ざめよ! 1975 | 4月22日
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という確かな保証はどこにもないのです。
賭博に失敗して作った借金で動きがとれなくなるとき,人は借金を埋め合わせる手段をどこに求めますか。多くの暴力団の営む「高利貸し」の客の大半が,賭博で借金を作った人々であることは,周知の事実です。銀行や企業における横領事件の多くも,同じことが原因で起きています。
中毒者が安い値段で麻薬を入手できるようにすれば,金のかかる麻薬の習慣のため盗みに走る者が少なくなるかもしれません。しかしそのような麻薬の影響で,その人々が無分別な,そして害を与える行為をしないという保証はありません。
暴力行為や殺人のほとんどが,見ず知らずの人々の間ではなくて,互いに知り合っている人々の間で起きているということは,証明された事実です。多くの場合,暴力は情事にからんだねたみと争いが原因で起きます。性の不道徳に対する抑制をますます取り去るなら,情事のからんだ,このような暴力犯罪を生む素地は小さくなるでしょうか,それとも大きくなるでしょうか。実際のところ一方,つまりいわゆる『被害者のいない犯罪』は多くの場合,他方,すなわち『被害者のいる犯罪』を生み出します。
被害者のはっきりした犯罪に注意を集中しすぎると,そのような犯罪の根本的な原因を見おとすことになります。たとえば怠惰が貧困を生み,誇りがまさつと不一致を生むように,それと同様なことは賭博,酔酒,性の不道徳,ポルノとわいせつについても言えます。これらの事は「それだけで収まる」ことなく,「静止」しているものでもありません。(箴言 24:30-34)それが他の種類の悪行の種となることは,まず避けられません。「なんであれ,人は自分のまいているもの,それをまた刈り取ることになるのです。自分の肉のためにまいている者は自分の肉から腐敗を刈り取(る)」という聖書の原則は真実です。(ガラテア 6:7,8)これを無視するのは,世の現実を無視することです。
ある種の,たとえば殺人のような悪行は,すぐに見える結果を生み出します。他のものは,知らない間にゆっくりと,そしてしばらくは痛みもなしに成長するガンに似ています。しかしそのような悪の最終結果は,殺人者に襲われたのと同じほどの痛手を与え得るのです。この事は個人のみならず社会全体についても言えます。使徒パウロは簡潔にこう述べました。「少しのパン種が固まり全体を発酵させる」。(コリント第一 5:6)道義心が弱まるとき,道徳上の病んだ状態が生ずるのは遠い先のことではありません。
あなた個人は何を選択できますか
純粋に聖書を導きとするクリスチャンは,ある程度まで人間の政府が,「悪をならわしにする者に憤りを表わす復しゅう者」の役をすることを認識しています。(ローマ 13:4,5)しかしこの世の政府が霊的な健康と道徳の風土をもたらすとは期待していません。世の政府は腐敗を一掃する力を欠いているだけでなく,神のことばと神の目的についての知識と理解を欠いているので,そうするだけの用意がありません。これを別にしても,政府の関心は明らかに別の方面に向けられています。地の政治支配に代わって神のメシアの王国が治める時にのみ,道徳的に清い,健全な風土がもたらされるでしょう。―ダニエル 2:44。
『黙示なければ民はほしいままにす 律法を守るものは福ひなり』。箴言 29章18節はこのように述べています。神の正義の新秩序に生きる希望を持つ時にのみ,確かで明らかな将来のビジョンを得ます。将来に関して確かなビジョンつまり希望がない世の人々の間では,放縦な生き方がますます盛んになっていますが,神の約束に信仰を抱くなら,そのような生き方に落ち込まないように守られるでしょう。わたしたちは箴言 4章25-27節の教えを正しく評価し,それを守ります。
『汝の目は正しくみ 汝の眼瞼は汝の前を真直にみるべし 汝の足のみちをかんがへはかり汝のすべての道を直くせよ 右にも左にも偏ることなかれ汝の足を悪より離れしめよ』。
「だれかを傷つけさえしなければ,何をしてもよい」,あるいは双方が合意の上でしている行為である以上,「被害者はいない」といった巧妙な論議にわたしたちは『あざむかれ』ません。からだに直接傷害を受けても,それは人のこうむる害として最悪のものではありませんし,物を奪われても,それは最大の損失ではありません。心と思いを傷つけ,良い評判,名誉,忠節,神のみ前における良い立場を失うなら,それは最も由々しい重大なことであり,最も大きな害をもたらします。
キリスト・イエスは次のように述べて,心を守ることがいかに肝要であるかを示されました。「口から出るものは心から出て来るのであり,それが人を汚します。たとえば,心から,邪悪な推論,殺人,姦淫,淫行,盗み,偽証,冒とくが出て来ます」。(マタイ 15:18,19)たとえ互いの合意のうえであろうと,不品行をならわしにして自分自身あるいは他の人を汚すなら,神への愛に欠けるのはもちろん,隣人への愛と気づかいにはなはだしく欠けているか,あるいはそれに全く知らずにいることになります。―ローマ 13:8-10。
わたしたちはみな悪行を犯しやすい,不完全な人間です。しかし人間の弱さに負けて自分を甘やかすこと,あるいはそれと同じ結果になるように他の人をいざなうことはだれの益にもなりません。人間の政府が法律によって人々の心の中に正義を植えつけることができないのは事実です。しかし妥協して大目に見ることは,道徳の面で無秩序を招きます。
あなたは,世間で広く見られるようになっている,この大目に見る風潮をとどめることはできません。しかしあなたにできることがあります。「人を欺く罪の力のためにかたくなになる」ことのないように,あなたの心を守るなら,あなた自身と他の人々を助けることができるのです。(ヘブライ 3:13)腐敗へと導く,人をかたくなにするこのような傾向は,一夜のうちに生じるのではありません。それは多くの場合,小さなことから始まって徐々に進行する過程であって,人を欺くものです。それは人をしっかりとらえます。その中にすべり落ちるのを避ける唯一の方法は,神のことばの中にある行動の規準に堅くつき従い,神のことばの知恵によって義の道に教え導かれることです。
このような神の教えと導きにつき従うとき,自分が何をしてよいかについて束縛やきゅうくつさを感ずるよりもむしろ大きな自由を感じます。それは人生において真実の幸福をもたらす事柄を行なう自由です。それは『正しい道筋にあなたを導き』ます。「あなたが歩くとき,その歩みは妨げられず,走る時にも,つまずくことはない。教訓をかたくとらえて,離してはならない,それを守れ,それはあなたの命である」― 箴言 4:11-13,口語。
エホバの証人はこの事の真実を知りました。彼らの王国会館のひとつをおとずれ,健全な道徳的風土を体験してください。それは力づけ,徳を高める,神のことばの原則がもたらし得るものです。
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愛に動かされてそうした人々目ざめよ! 1975 | 4月22日
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愛に動かされてそうした人々
● 西アフリカのマリ共和国にはエホバの証人はごくわずかしかいません。そして,そのほとんどは集会に出席するのに10キロほど歩かねばなりません。この国の人々の霊的な福祉をたいへん心配した2人のヨーロッパ人と1人のアフリカ人は,その地で奉仕することを自発的に申し出,毎月各々200時間近くを費やして聖書の真理を宣明しています。気温はしばしば摂氏49度にまでのぼり,その暑さはまさに耐えがたいものですが,自分たちの愛の労苦にはそうするだけの価値があると彼らは考えています。一般の労働者や医師や官公吏その他専門職に携わる人々も,聖書を研究することを切望しています。
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