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  • 彼らはこうして真理を見いだした
    目ざめよ! 1971 | 9月8日
    • さを体験し,戦時中の僧職者たちの行為を見,その後,マサチューセツ州で大学教育を受けた彼は,不可知論者になってしまいました。彼は,ニューヨーク市に住むエホバの証人の親せきを訪問したとき,どんなことが起きたかを次のように語りました。

      「私の証人の親せきは,宗教に対する私の考えを知っていたので,私には伝道しようとしませんでした。ある日のこと,私は教会の偽善と偽りの教理を暴露した彼らの小冊子を1冊読みました。そして,そこに書かれている多くの事柄に共鳴している自分に気づきました。そこで私は証人たちの本を次々と読むようになりました。たいてい親せきの者がるすのときに私はそうした本を読みました。そしてついに,それまで私を悩ませていたある疑問に対する答えを得たのです。神が存在するというのなら,なぜ地上にこれほど悪がはびこっているのか,私はこの問題に対する聖書の答えを見いだしました。神は悪を一定の期間許しておられるにすぎず,やがて悪は終わりを告げ,それとともにこの腐敗した事物の体制も終わるのです。また,地上に新秩序が立てられて,いく世紀ものあいだ人類を苦しめてきた悪が正される,ということを学ぶのも喜びでした。―ロマ 9:17。ペテロ後 3:13。黙示 21:3,4。

      「熱心に読書をつづけた私は,何週間もたたないうちに,自分が神の真理を見いだしたことに気づきました。この間,私はニューヨーク市内のいくつかの教会に出席して,牧師の言うことと,自分が学んだこととを比較してみました。そうした教会で述べられている音信は浅薄で聖書に基づいてもおらず,全く満足のいかないものであるということがすぐにわかりました。それ以来,聖書の預言の成就を喜びをもって観察するにつれ,私の信仰は年ごとに深まっていきました」。

      そうです,確かに神の真理は,それを見いだす人に大きな喜びをもたらす貴重な宝です。(詩 119:162)それは楽園における永遠の命という見込みを指し示すだけでなく,偽りの宗教思想,人間への恐れ,苦悩をもたらす罪深い行為などから人を解放するものなのです。―ヨハネ 8:32。

      あなたはエホバの証人から聖書の本,それは「とこしえの命に導く真理」かもしれませんが,お求めになったことがありますか。もしお求めになられたならば,証人たちはもう一度あなたをお尋ねして,聖書の勉強のお手伝いを申し出たことと思います。わたしたちはあなたがそうした申し出をいま活用なさるようお勧めします。そうすることによってあなたも,真理を見いだす者にもたらされる喜びを経験なさることをわたしたちは確信しているからです。

  • 『嘆き悲しむ者たちは幸福である』
    目ざめよ! 1971 | 9月8日
    • 「あなたのみことばは真理です」

      『嘆き悲しむ者たちは幸福である』

      嘆き悲しむ者が同時に幸福であるとは矛盾していないでしょうか。必ずしも矛盾しているわけではありません。山上の垂訓の中でこの一見矛盾と思えることばを語ったとき,イエスは「幸福」ということばのより一般的な意味を考えておられたのではなかったようです。明らかにイエスは心配ごとのない陽気な気分以上のものを意味しておられました。―マタイ 5:4,新。

      ギリシア人は,この聖句の中の「幸福」という意味のギリシア語「マカリオス」を無上の喜び,神々が楽しむとされている喜びに当てはめて用いました。イエスの山上の垂訓や,ギリシア語聖書全体におけるこの語の用法から考えると,「マカリオス」のより広い意味は,『神によみせられているがゆえの幸福』であるということになるでしょう。

      では,嘆き悲しむがゆえに『神によみせられている』人というのは,どんな人たちですか。悲しんでいる人はだれでもそのような人なのですか。そうではありません。「嘆き悲しむ」というギリシア語「ペンセオ」は深い悲しみ,打ちひしがれた気持ちを意味するからです。使徒パウロは,クリスチャン会衆がそのただ中で行なわれていたはなはだしい不道徳に身を切られるような悲痛な思いをしなかったのをとがめたとき,このことばを次のように使いました。「かくてもなお汝ら誇ることをなし……悲しまざるか」。(コリント前 5:2)弟子のヤコブも同様な調子で当時のある人たちを非難しています。「罪人よ,手を浄めよ,二心の者よ心を潔よくせよ。なんぢら悩め,悲しめ」― ヤコブ 4:8-10。

      イエスがこのことばで深い悲嘆の気持ちを意味されたことは,ルカの平行記述が証明しています。「幸福なるかな,いま泣く者よ,汝ら笑ふことを得ん」。(ルカ 6:21)ここの「泣く」ということばはギリシア語「クライオ」の訳です。クライオは「悲しみ,とくに死者のために嘆き悲しむ際に大声で悲しみのほどを表現するどんなことばにも使われ」ます。(新約聖書用語解説辞典。W・E・バイン編)イエスが山上の垂訓のこの2番目の至福(幸福)の中で言われたことが,深い悲しみ,号泣を意味していることは疑いありません。

      しかし,どんな理由にせよ,深い悲しみを感じている人はみな,「幸福な」人,または神によみせられている人ですか。そうでないことは明らかです。というのは,イエスは嘆き悲しむ者は慰められると言われましたが,悲しみに打ちひしがれる人がみな慰められるわけではないからです。心の動機が問題に関係してきます。たとえば,ヤコブの兄エサウがいます。「彼は神聖な物事を認識し」なかったために,「一度の食事と引き替えに長子としての自分の権利を捨て」ました。あとで彼はそうした交換を悔い,損失を深く悲しみましたが,むだでした。―ヘブル 12:15-17,新。

      同様に,不忠実な使徒ユダもイエスを裏切ったあと,悔恨を感じましたが,ついに自殺してしまいました。また,大いなるバビロン,偽りの宗教の世界帝国の崩壊を嘆き悲しむ富裕な者たちも慰められることはないでしょう。彼らもまた滅びてしまうのです。―マタイ 27:3-5。ヨハネ 12:6。黙示 18:7,8,11,15,19; 19:19-21。

      では,イエスのことばはだれにあてはまりますか。第一に,しかも直接適用されるのは,神の天の王国を相続する,イエスの追随者たちです。それは,『天の王国が属する』人たち,「『神の子たち』と呼ばれ」実際に「神を見る」人たちに適用されます。―マタイ 5:3,9,8,新。

      イエスの弟子たちは彼らの師が刑柱にかけられて殺されたとき,深い悲しみにくれました。しかしのちほど,イエスが復活されて彼らに現われたとき,慰められました。(ルカ伝 24章)使徒ペテロは自分の師を3度否んだために深く悲しみました。(マタイ 26:75)しかし,彼は敬虔な悲しみを示したために慰められ,イエスの羊と小羊を養う三重の使命を与えられ,またユダヤ人と異邦人の両方に対する王国の良いたよりの伝道を指導する特権を与えられました。―ヨハネ 21:15-17。使行 2:14-41; 10:34-48。

      『嘆き悲しむ者,泣く者は幸福です』というイエスのことばは,敵の攻撃を受けて荒廃状態におかれたために,深く悲しんでいた現代の油そそがれたクリスチャンたちに特にあてはまりました。預言者イザヤは,エホバの油そそがれた者,おもにイエス・キリストが,「哀しむ者をなぐさめ……シオンの中のかなしむ者に……悲哀にかへて歓喜のあぶらをあたへ,うれひの心にかへて讃美の衣をあたへる」ことを予告していました。この人たちはまた次のように書かれていた人々でもあります。「エホバ シオンの俘囚をかへし給ひし時……笑われらの口にみ(つ)」。そうです,慰めと笑いが彼らのうけた分でした。―イザヤ 61:1-3。詩 126:1,2。

      しかしながら,「嘆き悲しむ人たちは幸福です」「幸福なるかな,いま泣く者よ」ということばはまた,ほかの人たちにも当てはまる原則を述べています。預言者エゼキエルは,エルサレムの都の「中に行はるるところの諸の憎むべきことのために歎き哀しむ人々」の幻を見ました。次いで彼らは,神の刑執行者たちがその都を行きめぐって,嘆き悲しむ者として,しるしをつけられなかった者すべてを殺したとき,神に保護されるという,大きな恩恵にあずかりました。―エゼキエル 9:1-7。

      これらの嘆き悲しみ,かつ泣く人々の対型は,わたしたちの時代に存在しています。というのは,キリスト教世界はエルサレムと同じように,自らを神の『都』と唱えているからです。その古代の都市と同様,キリスト教世界は嫌悪すべき事柄 ― 偽りの宗教・性その他の不道徳,暴力 ― で満ちています。心の状態の正しい人々はこうした事態に無関心ではありません。彼らはそうした事柄を大いに嘆き悲しんでいるのです。こうした人たちもまた,今日,神の恵みを受け,慰められるのです。

      どんな方法で? それはエホバ神の王国の良いたよりの伝道によってです。エホバのクリスチャン証人たちがそれら嘆き悲しむ人たちに伝えているこの音信は,悪行者すべてを地から除き去るという神の目的をそうした人々に告げます。(箴言 2:21,22)またそれは,「あなたの王国が来ますように。あなたの意志が,天におけるごとく,地上でも行なわれますように」というクリスチャンの祈りが今やまもなく,成就されるということを告げるものです。そうした人々にとってこれは確かに大きな慰めです。またそれに加えて,この良いたよりは,記念の墓にいる者がみな復活して出てくることをも告げるものなのです。そうです,死によって別かれ別かれにされた人々が再び結び合わされるのです。―マタイ 6:9,10,新。ヨハネ 5:28,29。

      また,それら嘆き悲しむ人々にとって大きな慰めとなることの一つは,神の王国のもとでは,傷つけたり破壊したりするものが何もないという良いたよりです。それは,水が海そのものをおおうように,エホバに関する知識が地をおおうようになるからです。(イザヤ 11:9)それに加えて,神はイエスのあがないの犠牲の益を人類に適用して,「かれらの目の涙をことごとく拭ひ去」られるので,「死もなく,悲歎も,さけびも,苦痛も」なくなります。―黙示 21:4。

      確かに,イエスが言われていたことをこのようにより深く理解すれば,矛盾とされる問題は一掃されます。拡大された,より広い意味において真に幸福な人とは,嘆き悲しむ人たち,つまりエホバ神に対する正しい心の状態をもって深い悲しみに沈む人たちです。なぜなら,そのような人たちは神の恵みを享受し,慰められるからです。

  • 学校の先生に感謝された進化の本
    目ざめよ! 1971 | 9月8日
    • 学校の先生に感謝された進化の本

      メキシコシチーにあるエホバの証人の会衆の一つに交わっている高校生の若い伝道者ふたりは,学期の終了する前に生物の先生に「進化と創造 ― 人間はどちらの結果ですか」の本を提供しました。先生はその本を受け取りましたが,大した関心はなさそうでしたし,それについては何も言いませんでした。ところが,学期末試験の日に,先生は個人的にふたりを呼んで,その本に対する感謝を表わし,とても良い本だったので何度も読んだ,と話しました。そればかりか,来学期に教科書として使いたいから,もう50冊ほしいと言い,その理由をこう説明しました。「ほかの本に書かれていることはたわいないことばかりで,偽りの理論だらけだ」。次の学期始めに,この若いエホバの証人たちは注文の本50冊を先生に渡しました。しかし,それでも十分ではありませんでした。その本について知った他の先生や生徒が関心を示し,2冊かそれ以上注文する人がいたからです。2週間のうちに175冊の本が先生と生徒のために配布されました。若い伝道者たちは学校で自分たちの信仰と,エホバに対する信頼を表明するすぐれた機会を持っていたといえます。

      ― エホバの証人の1971年度年鑑より

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