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    目ざめよ! 1977 | 11月8日
    • なったら大変です。その人は自分でも同じようなことをし始めるからです。

      思うにビリーは環境の犠牲者でした。かんばしくない男たちに私生活を利用されただけでなく,悪質な経営によっても搾取されました。私の作曲した「トラベリン・ライト」という歌を吹き込んで,そのレコードが幾百万枚も売れたとき,二人が各々手にしたお金はわずか75㌦でした。著作権に関する法律が分からなかったので,利用されたのです。

      映画関係の仕事をするようになってからも身を削るような忙しさでした。私たちは昼間の時間を少しでもむだにしないよう,できるだけ早くから仕事を始めたものです。そして,夜は夜で,夜のシーンを撮るために遅くまで仕事をするのです。カメラの前で生き生きとした顔付きができるように覚醒剤を飲みました。そしてテレビの時代になり,テレビ用ショーの録画が行なわれるようになりました。そのためのリハーサルは延々と続き,へとへとに疲れたものでした。最後に高血圧になってしまいましたがそれも当然でした。

      家族,そしてルイ・アームストロング

      私はついにハワイへ行くことに決めました。そして1947年にそこでサリーに出会いました。私たちはその年に結婚し,1948年には娘が誕生しました。妻は聖書を研究していました。私は仕事の都合で妻ほど勤勉に研究できませんでしたが,エホバの証人の王国会館で開かれる集会には妻と一緒に出席しました。そして1952年,私はルイ・アームストロングの申し出を受け入れてハワイを去り,それから12年間アームストロングと一緒に仕事をすることになりました。

      妻と子供は私と一緒に旅をすることを試みましたが,マリファナの煙,口汚い言葉,夜の遅いことなどの生活は,私の家族の性に合いませんでした。私は一続きになった部屋を借り,妻と娘を買い物に出すと部屋に閉じこもって五,六時間トロンボーンの練習をしたものです。私は自分の全生命を一つの楽器に注ぎ込んでおり,その楽器と楽器のもたらすお金が私の神になりました。

      やがて私は,ロサンゼルスに家を購入し,妻と娘をそこに落ち着かせました。しかし,実際には私はほとんど家に居らず,アフリカやその他の国で一度に六,七か月を過ごすこともありました。ヨーロッパでもたくさんの映画を撮りました。家には多額のお金を送っているのだから,それでよいのだと考えていたのです。ところが,家族の者たちはこうした物質的なものには関心がなく,むしろ私が家にいることを望んでいました。しかし,私はそれに気づかず,娘は父親の顔をほとんど見ないで大きくなってゆきました。

      この仕事の世界は非常に競争が激しいので,私は最高の地位にとどまるために絶えずトロンボーンの練習をし,一日中練習し続けることも珍しくありませんでした。私は,練習,旅行,演奏,そして仕送りをすること以外に,何をする時間も見いだせないように思えたので,しだいに惨めな気持になってゆきました。アームストロングは良いボスでした。後日,思い知らされる結果になった事柄に気づくのが難しかったのはそのためかもしれません。

      フィツパトリック夫人は,ルイに会えると彼と聖書の研究をしました。それは難しいことでしたが,時折り私たちがニューヨークの劇場で公演をすると,夫人はルイそして私とショーの合い間に研究をしたものです。1950年代の後半に,ラスベガスで演奏をしていたとき,妻が訪ねて来ました。そして妻がフィツパトリック夫人と一緒に証言活動に出かけたということを知りました。そのときの私の驚きを想像してみてください。後日,夫人は私に,「ヤングさん,何を待っていらっしゃるのですか。聖書の真理についてあなたほどの知識があれば,知っている事柄に基づいて行動しないのは危険です」と言いました。

      私はロサンゼルスに戻るたびに聖書研究を再開し,家族そろって集会に出席しました。そのころまでに妻はバプテスマを受けたエホバの証人になっており,娘も研究をしていました。私は,サリーと娘のアンドレアに対するエホバの証人の親切に感銘しました。私が巡業に出ているのを知ると,証人たちは二人が無事でいるかどうか,いつも立ち寄って見てくれました。

      自由になる

      そして,1964年の初頭,衝撃的なことが起きました。妻が長距離電話をかけてきて,病気にかかったというのです。以前にも,私がやめようとしたとき,報酬を上げるという申し出がありました。この時も例外ではありませんでした。しかし今回は,愛する者たちと私の間を引き裂くものは何一つなかったのです。

      私はエホバ神に祈りました。仕事を離れるための力を与えてくださったのはエホバ神に違いないと確信しています。しかし,この点について,楽団の後援者たちとうまく折り合いをつけることができませんでした。事実,後援者たちは非常に腹を立てました。これまでは私にはお金が“ものを言い”ました。しかし,もはやそうではなくなったのです。フィツパトリック夫人は真実を語っていました。一体私は何をぐずぐずしていたのでしょうか。私は聖書の次の箴言の価値を見損なっていたのです。「知恵を得ることは,ああ,金よりいかに勝っていることか! そして理解を得ることは銀に勝って選ばれるべきもの」― 箴 16:16,新。

      私はすぐにロサンゼルスに戻り,そこで聖書を真剣に研究するようになりました。やっとのことで私の目は,自分のしてきた愚かな事柄,すなわちトロンボーンと金銭を神とすることに対して本当の意味で見開かれたのです。自分がどれほど家族をないがしろにしてきたかを今考えると,身震いします。自分をよく吟味してから,私は数か月後にエホバの証人としてバプテスマを受けました。

      サリーの病状は悪化し,様々な検査の結果,ガンにかかっていることが分かりました。それは大きな衝撃でした。私たちはハワイへ帰る計画をしていましたが,医師はすぐに入院してコバルト療法を始めるようにと主張しました。1964年の8月までに,妻は一連の治療を受け終わっていました。妻が退院した後は,検査のために妻を連れて病院にかよいました。

      正直に言って,それは自分の人生の中で最もつらい時でした。人生の中で真に重要な事柄と比べれば,名声や富の追求がいかに無益であるかがそのときにはよく分かりました。サリーが病気になったとき,私はだれのところへ行ったでしょうか。祈りによってエホバ神のところへ行ったのです。エホバ神との親密な関係はあらゆる物質の所有物よりもはるかに貴重であることを認識できるようになったのは大きな喜びです。

      後日,私は家族を連れてハワイに戻りました。妻は回復して,今でも元気にしています。

      これまでになく幸福

      私は自分で小さな楽団を作り,これまで幾年もの間,ホノルルの大きなホテルの一つで演奏しています。しかし今では,音楽も霊的な関心事に対しては二義的なものになっています。楽団の団員のうち数名は私の勧めに応じて聖書研究を始め,そのうちの一人は今ではエホバの証人です。娘もエホバの証人と結婚して幸せに生活しています。妻と私は,仲間のクリスチャンと共に会衆の集会に定期的に出席しています。また,神の王国が間もなく人類にもたらす壮大な祝福について他の人々に伝え,公の証言の業にもあずかっています。

      申し込みは数多くありますが,音楽の関係でホノルルを離れることは滅多にありません。しかし,スミソニアン研究所の舞台芸術部門の申し出は受け入れました。そして昨年の九月に,同研究所は私の生涯と経歴に関する六時間にわたるインタビューをテープに録音しました。

      ルイ・アームストロングとの公演旅行を振り返るとき,一つの際立った経験が今私の思いに浮かび上がります。それは,1961年に日本を訪れたときのことでした。その時私はエホバの証人ではありませんでしたが,一群の若い演奏家たちに,エホバの証人のクリスチャン活動について話しました。私の語った事柄は敏感な心に触れ,その若い人々のうち数人がエホバの証人になったことを後になって知りました。

      若い野心的な演奏家に話すことがよくありますが,私は,「事前にあらゆる事情を考えてみろ」と勧めます。もし以前の私のように,自分の人生を音楽に振り回されるままにするなら,その人はだめになってしまうかもしれません。真の幸福は自分の価値観を正すことによってのみ得られるものです。自分が最終的にそうすることができたのは何と感謝すべきことなのでしょう。―寄稿。

  • 古いものから作る新しい実
    目ざめよ! 1977 | 11月8日
    • 古いものから作る新しい実

      英国諸島の「目ざめよ!」通信員

      今日,わたしたちは驚くほど多彩な果物を手にすることができます。しかもその味わいはそれぞれに異なっているではありませんか。二千年程前の博物学者プリニウスが言った通り‘ナイフの刃が鈍るほどに酸っぱい’野生リンゴもありますが,他の多くのリンゴは味もよく,その種類も限られてはいません。百年以上前に米国で出版された果物の本には,1,823ものリンゴの種類が挙げられました。しかし,それぞれに特徴を持ってはいても,そのすべては共通の祖先から出ています。新しい果物がそれ以前の古い果物から作られているのです。それはどのようにしてなされてきたのでしょうか。

      人々は,農業の面で経験を積むにつれ,とりわけ大きなブドウの房やひときわ甘いリンゴ,また特大のオリーブから種子を取るなどして,将来植えるための種を注意深く選ぶようになったことでしょう。こうして,野生種とは異なる品種が徐々に作られるようになりました。

      異なった親の持つ望ましい特質を組み合わせる計画的な異種交配は比較的最近になって行なわれるようになりました。19世紀末にL.H.ベーリー教授が気付いたように,この方法で古い品種から新しい果実を作り出すのは必ずしも容易なことではありません。

      ベーリーはバーゲン秋カボチャとヒョウタンを

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