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  • 世界に広がるディスコ・フィーバー
    目ざめよ! 1979 | 6月22日
    • 市のパン屋のたなに,ディスコ・チップスなるものの箱がお目見得したことについても述べています。

      ディスコとは?

      ディスコテック ― 略してディスコ ― は,つい最近まで余りなじみのない言葉でした。ワールドブック辞典は,“ディスコテック”を,「踊るためにレコードが演奏されるナイトクラブ」と定義しています。

      しかし,ディスコはそれだけにとどまりません。1976年,ディスコ・フィーバーのただ中で誕生した雑誌の一つであるディスコワールド誌はこう説明しています。「ある意味で,ディスコは,70年代版の,ジュークボックスへの回帰である。ただ今回は,そのジュークボックスの音や形がこれまでよりも大きくなり,大仕掛けになった」。

      ですから,“ディスコ”という語は,ナイトクラブなどのような踊るための場所だけを指すのではなく,踊りのために作られた,独特のタイプの音楽にも使われます。

      では,現代のディスコテックは従来の踊りのための場所とどう違うのでしょうか。また,ディスコ音楽は他の音楽とどのように異なっているのですか。

      独特の音楽と場所

      ディスコ音楽独特の音は,その極めて強烈な低音のビートにあり,それは四分の四拍子で毎分約120拍繰り返されます。その音楽には,何度も何度も繰り返される歌詞の“かぎ”があります。それはたいてい,「アイ・ラブ・ユー」というような簡単な言葉です。低音のスピーカーは普通フロアーの近くに置かれているので,踊り手たちは,その激しい,強烈なビートを文字通り体全体で感じ取ります。それで,全く耳の聞こえない人でもその音楽に合わせて踊ることができます。音楽を聞き取ることはできませんが,ビートを感じ取るからです。

      全体的に,現代のディスコテックでは,ディスコ音楽が演奏されます。しかし,ディスコテックが従来の踊り場と違うのは,この新しいタイプの音楽だけではありません。その特徴としては他にも,熱狂的で,閃光作用のある,色付きの照明,鏡張りになった壁に反射する電気的な映像,そしてきらめく天井などがあります。このすべては,サイケデリックな感じを味わえるように考案されたものです。

      ともあれ,幾百万円もすることのある,複雑で,高性能の音響装置は今日のディスコの神髄とも言えます。レコード盤も現代の科学技術の産物です。これらのレコードは,異なった時に,それぞれのパートを別々に録音した,異なった楽器群を電子的に合成したものです。この手法は,マルチトラック・オーバーダビングと呼ばれています。凝ったダビングと生き生きした編集で,ディスコ・レコードは多くの人にとって魅力のあるものとなっています。ディスコワールド誌が次のように述べるとおりです。「ディスコの生演奏は,人工的に盛り上げられたそのスタジオ製の音楽の水準にはどうしても及ばない」。

      また,ディスコテックの成功の中でひときわ異彩を放っているのは,ディスクジョッキーの役割です。ビートを絶やさずに一つの歌から別の歌に移り,どの曲をいつかけるかをわきまえるのは一つの芸術です。スピナー誌は,あるディスクジョッキーの第一人者についてこう述べています。「心理的に打ってつけのレコードと照明を用いて,彼は雰囲気を盛り上げて人々を狂乱の頂点にまで引っ張ってゆくことも,人々の関心を失わせることなく子守歌の穏やかさにまで静めることもできる」。

      フィーバーの発端

      ディスコ音楽は,黒人音楽とラテン音楽が組み合わさったもので,近年,ニューヨーク市で生まれました。それは1974年の夏に初めて流行しました。それとほぼ時を同じくして,二人で踊る新しい形のダンスも発達しつつありました。それはハッスルです。このダンスがディスコに活気を与えました。それは以前の世代のリンディーやジルバに幾らか似通っています。そして1975年に,歌謡曲作詩作曲家であるバン・マッコイが覚えやすいヒット曲,ザ・ハッスルを書き,ディスコ・フィーバーは隆盛へと向かいました。

      しかし,何と言っても,ディスコ・フィーバーを本当に急上昇させたのは,1977年の末に封切られた映画,「サタデー・ナイト・フィーバー」です。昨年までにこの映画の総収益は1億3,000万㌦(約260億円)に上り,映画史上最大ヒット作の一つとなりました。サウンドトラック盤のアルバムの売上げは空前の1,500万枚に上り,レコード史上最高の収益を誇っていた「サウンド・オブ・ミュージック」をしのぎました。そして,ディスコ・フィーバーは隆盛の一途をたどっているようです。

      なぜ人々は行くのか

      記憶に残る範囲では,今ほど踊る人が増えた時代はいまだかつてありませんでした。それはなぜでしょうか。そうした人々は何に引かれてディスコに集まって来るのでしょうか。

      ハーパーズ誌に寄稿した,サリー・ヘルガセンはその理由をうまく要約しているようです。同女史はこう述べています。「私の言い分に耳を貸してください。ディスコは次期IBMになるでしょう。それは起こるべくして起きたのです。人々は生活の中に欠けている満足感の埋め合わせを必要としているのです。世の中にはディスコ以外のものは何もないのです」。

      確かに,多くの人々は,自分の仕事や学校,あるいは自分の生活の他の分野からほとんど満足感を得ていません。人々ははけ口を探して抑制力となるものをかなぐり捨てたいと願っています。ディスコはその機会を提供しているのです。ディスコの一経営者が次のように述べているとおりです。「一週間に二時間ほど,人々はすべてをさらけ出し,ただ動き,音楽で頭の中を一杯にし,他のすべてのものを忘れ去ることができる。少しの間だけ,自分の生活から逃避できるのである」。

      だれしもがお決まりの活動から何らかの息抜き,つまり気分転換を必要としている,というのは理解し難いことではありません。しかし,ディスコは,人をくつろがせる娯楽に打ち興じる場所として健全な所ですか。冒頭の部分で述べた,20か国から集まった研究者たちは,このことに対する懸念を表明しました。この人たちは,ブルックリンで開かれた五週間にわたる強化教育課程に出席した,エホバの証人の支部の代表者たちです。この人たちは理由があって,クリスチャンがディスコへ通うことに憂慮の念を表明したのでしょうか。

  • ディスコの起源は何か
    目ざめよ! 1979 | 6月22日
    • ディスコの起源は何か

      物の起源,つまり源は,たいていそこから生み出されるものと深いかかわりがあります。では,ディスコの場合はどうでしょうか。ディスコの起源はどこにありますか。

      驚かれるかもしれませんが,ディスコワールド誌の1978年1月号の表紙を調べてみるとよいでしょう。その表紙には,中の記事の一つを宣伝する,次のようなことが書かれています。

      パーティー族 ディスコの同性愛的な起源

      びっくりされましたか。しかし,同性愛者たちがディスコの発展と大いに関係のあったことはまぎれもない事実です。そして,同性愛者たちは依然としてその背後にある主要な勢力なのです。「ディスコ・フィーバー」という新刊書はディスコの一覧表を載せ,こう論評しています。

      「読者の中には,ここに挙げたディスコテックの多くがゲイ(同性愛者)・ディスコまたはゲイ・クラブであることに気付かれるだろう。ビルボード誌[著名な娯楽産業雑誌]の推定によると,我が国のディスコテックの少なくとも50%はゲイである。ディスコ流行の推進力は主にゲイ社会から得られたのであるから,それも驚くにはあたらない。音響と装飾に凝った新しいゲイ・クラブに関するニュースが広まると,ダンス好きの正常な人々がどうしてもその門戸をたたくようになる」。

      ディスコと同性愛者のつながりを隠す人はひとりもいません。それどころか,デトロイト・フリー・プレス紙は次のように述べています。「ディスコは,ゲイの参加が公に宣伝された最初の文化的な出来事として,記憶にとどめられるであろう」。

      それどころか,そうしたゲイとのつながりを誇るような傾向もあるようです。現代の音楽の社会的意味を専門分野にしている,バンダービルト大学の社会学の教授,リチャード・ピーターソンの意見によると,ディスコの世界がゲイの世界であるということは,「単に容認できるというだけでなく,ある意味でいきなこととさえされている」のです。

      確かに近年になって,性道徳の規準は大きく変化しました。そして,現代の生活を特徴づけるものの中で,恐らくディスコほどその変化を大きく映し出しているものはないでしょう。この事実を示しながら,ホライゾン誌,1977年5月号は次のように述べています。

      「ディスコで,社会慣習と性に対する態度の極めて著しい変化を象徴しているものは男同士および女同士のダンスである。

      「欧米の高級なディスコの中には,踊りたいと思う人すべてに門戸を開放するようになったゲイ施設としてスタートしたものもあるが,それは秘密でも,ゴシップに対する言い訳でもない。……あるディスコがゲイ用か“混合”用かという事実は,大新聞のナイト・ライフ特集の中で気軽に触れられている。そこでは,つい最近までスキャンダルの種になっていたような自由が,当たり前のこととして扱われている」。

      憂慮すべき問題?

      事態を憂慮するどころか,性の規準の変化を賞賛する人も少なくありません。そうした人々は,規制がわきへ押しやられるのを見て喜び,ディスコに群がる人々の間に極めて明らかに見られる,新しい性の自由を歓迎します。しかし,聖書の教えを尊重する人々は憂慮しています。なぜでしょうか。

      それは,聖書が同性愛を是認することも,大目に見ることもせず,それを非としているからです。イスラエルの国民に対するその律法の中で,神はこう語られました。「女と寝るのと同じようにして男と寝てはならない。それは嫌悪すべき事である」。(レビ 18:22,新)これはどれほど重大な問題だったのでしょうか。

      神の言葉はこう答えています。「男が,女と寝ると同じようにして男と寝た場合,その二人は共に嫌悪すべき事を行なったのである。彼らは必ず死に処せられるべきである。彼らの血がその者たちの上にある」。(レビ 20:13,新)そうです,これが同性愛に対する神の見方でした。

      神の見方は変化したでしょうか。クリスチャンに与えられた,使徒の次の諭しを検討するとよいでしょう。「あなたがたは,不法な者が決して神の王国を所有するようにはならないことを知っているはずである。間違ってはいけない。淫行の者,偶像礼拝者,姦淫や同性愛的倒錯の罪のある者はだれも……神の王国を所有することはない」― コリント第一 6:9,10,新英訳聖書。

      そうです,神の言葉は,同性愛が間違っており,そのような生活様式に足を踏み入れる者は神の祝福を享受しないことを,率直に示しています。この点を考えると,なぜクリスチャンの監督がディスコの流行を憂慮するかがお分かりになりませんか。

      しかし,ディスコにはほかの起源もあります。それは何ですか。

      音楽とダンスの起源

      冒頭の記事の中で,ディスコ音楽は最近の流行であると述べました。しかし,権威者によると,その起源はずっと以前の時代にまでさかのぼります。1977年9月の「ディスコ音楽の進化」という特集記事の中で,ディスコワールド誌はこう述べています。

      「ディスコ音楽をディスコ音楽たらしめているもの,ディスコ音楽を形造っているものは,実のところ,そのビートである。

      「そして,これは知らない人にお知らせすることだが,ディスコのビートは1965年のある晴れた朝に始まったのではない。……また,それから十年後,バン・マッコイが自分の“ザ・ハッスル”で初めてヒット・チャートに打って出た時でもない。そのビート ― ディスコ音楽の基本 ― は,アフリカのものである。

      「起源といえば,今日ディスコへ行く人は,基本的に言って,大昔,アフリカの西海岸で行なわれていた儀式の1977年版に参加しているのである。確かにディスコ音楽は,24トラック録音,シンセサイザー,鼓膜を破るような音を出す拡声装置,メッキの施された弦楽器,甘くささやくようなボーカルなど,最新の技術を駆使したとはいえ,けばけばしいだけのがらくたで飾り立ててある。しかし,そうした装飾すべてを取り去ってしまえば,人々は,クンタ・キンテの先祖を駆り立てたに違いない,その同じビートにひたっているのである」。

      古代アフリカに起源があるということ自体が理由で,ディスコ音楽はふさわしくないというのですか。もちろんそうではありません。その音楽が古代アジア,ヨーロッパ,アメリカに起源があったところで同じことです。しかし,問題と関係があるのは,その古代音楽の目的です。この音楽に合わせて,どんな踊りが踊られたのでしょうか。

      ディスコ関係の文書は,それら古代の踊りとその目的について注解を述べています。事実,現代のディスコの踊り手たちは,それら古代の踊り手たちの奔放で狂ったような踊り方を見倣うよう教えられ,自分にあるかもしれない抑制力をかなぐり捨てるよう勧められています。ディスコワールド誌の1977年5月号は次のように述べています。

      「原住民は,その狂乱した体から悪魔や邪悪な霊を追い払い,新しい作物を産出するよう“母なる大地”をなだめるために踊った。春になると,“多産の儀式”の際に踊った。女たちが健やかな子供を育て,種族を絶やさないようにするためである。新しい生命の誕生を祝うため,また死の準備をするためにさえ踊った。しかし,その踊りのはっきりした目的が何であろうと,との踊りも実際にはその神々に対する崇拝の表われである。その崇拝は,神々に敬意を示すもの,神々の善意を求めるもの,あるいは神々の怒りを静めるもののいずれかである。……しばしばそのエネルギーが高じて,流される血が神々をなだめてくれればとの願いを込め,若い処女や子羊がいけにえとされたものである」。

      それから,現代のディスコの踊り手たちに対する助言として,この雑誌の記事はさらにこう述べています。「それはただ自分自身を解放するというだけの問題だ。まず最初に,自分の精神を解放しなければならない。そうすれば,体はそれに付いて行く。踊るとき,私は宇宙に飛び出すかのような気分になり,自分の体を離れてしまう」。

      ディスコワールド誌の別の号は,「ブードゥー教徒,原始的な部族民,ブラジルのマクンバ,カラハリ砂漠のブッシュマンなどの間に見られる」ディスコの起源に注意を引き,さらにこう助言しています。「人間の体は互いに混じり合うエネルギーの複合体で,より大きな宇宙的エネルギーとさえ結び付いている。古代人はそのような見方をしており,我々はこの点を再び学び直そうとしている。徐々に気付かなくなるまで,踊っている間,あらゆる感覚を意識するよう努め,自分を周囲にとけ込ませるのである」。

      ディスコで踊る人々はこの種の助言に従っていますか。そうした人々は,通例,狂ったような放縦さに身を任せますか。「ディスコ・フィーバー」という新刊書の述べるところに注目するとよいでしょう。「ディスコテックと共に,ディスコ風ダンスがもたらされた。これはハッスルの範ちゅうからは全くかけ離れた形のダンスではあるが,ダンスのフロアーではハッスルと少しも違和感がない。……ディスコ風ダンスは ― それがフリースタイル,あるいは自由型と呼ばれているかどうかにかかわらず ―“自分の好きなことをする”ダンスである」。そうです,それは抑制されない,何でも許されるスタイルのダンスなのです。

      しかし,それに異存がありますか。古代の人々がその神々を崇拝する際に用いたスタイルのダンスを採用するのは間違っているのでしょうか。そうです,真のクリスチャンにとってそれはふさわしいことではありません。なぜなら,創造者,すなわち聖書の神は,それら諸国民の神々を非とし

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