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  • 聖書は霊的な必要物を供給する
    ものみの塔 1968 | 10月15日
    • がこのような資料を備えていることにかんして,エホバに感謝しなければなりません。

      22 聖書は預言の分野でも欠けるところのない本であるとなぜ言えますか。

      22 ホセア,ダニエルその他,神の預言者たちが記録したのは確かに真実の預言です。ゆえに,神の御子イエス・キリストご自身の述べられた預言は確かに信頼できます。キリストは,現代および,この事物の制度の下で生きる最後の世代を示して,戦争,食料不足,地震の増大その他の事態を預言されました。そのような事態は,現在明らかに見えており,キリストの再臨在がすでに始まり,キリストが御国の支配権を行使しておられることを証明しています。(マタイ伝 24章)使徒パウロの予告した,「終りの時」を確認する状態も今,現実に生じています。(テモテ第二 3:1-5,口語訳)現代の歴史の諸事実によって確証されているこれらの預言は,過去の時代に成就した多くの預言と同様,確かに信頼できます。ゆえに聖書は何かに欠ける本ではなく,将来に関する確実な知識の必要という今日の社会の重大問題にも答えています。聖書は,現代にかかわる神の御目的を明示し,エホバが人類のために愛をもってもくろまれた,将来のすばらしい事柄と祝福に関する見通しを与えています。

      23 (イ)それで聖書はどんな点で霊的な必要物を供給していますか。(ロ)神のみことばを信ずる人は,現在のみじめな世界で,どんな祝福を享受できますか。

      23 確かに聖書は,霊的な必要物を供給しています。聖書は崇拝にかんする天与の指導書であり,正しい生き方についての導きを与え,確かな預言の必要をも満たしています。ゆえにエホバは,衣食住など物質上の必要を満たす偉大な供給者であられることを証明されたごとく,欠くことのできない貴重な霊的必要物の供給者としてのご自身の偉容を示しておられます。神は聖書を備えて,かぎりないいつくしみを人類に示されました。神を愛する人々はすべて,このいつくしみを心から感謝しなければなりません。あなたがもし神のみことばを信じておられるなら,エホバの御目的について他の人々に伝える祝福をも享受できるでしょう。そうすれば,幸いを得られます。悩みと悲しみに満ちた世にあって,「幸福なる神の栄光の福音を宣明できるからです。(テモテ前 1:11)しかしこのわざを喜びのうちに行なうには,生活上の個人的な問題に対処することも必要でしょう。聖書から導きと慰めを得ることによって,首尾よく対処できるでしょう。

  • 聖書から慰めを得る
    ものみの塔 1968 | 10月15日
    • 聖書から慰めを得る

      「エホバよわれ汝がふるきむかしよりの審判をおもひいだして自ら慰めたり」― 詩 119:52。

      1,2 (イ)音楽にはどんな働きがありますか。(ロ)聖書では音楽がエホバ神の事柄とどのように関連していますか。

      昔,中東の原野でひとりさびしく群れの世話をした羊飼いは,たいてい笛などの楽器を携えていました。笛を吹いては夜のしじまを破りみずからを慰めたのです。孤独ではあっても,音楽から慰めを得ました。音楽は,興を誘ったり,心をしずめさせたりして,満ちたりた平安な気持ちを,聞く人にもたらします。

      2 ですから,詩篇の筆者がエホバ神の正しい支配について,次のように語ったのももっともなことです。「なんぢの律法はわが旅の家にてわが歌となれりエホバよわれ夜間になんぢの名をおもひいだしてなんぢの法をまもれり」。(詩 119:54,55)時おり,おそらく賛美の歌を神にささげる際には,すぐれた楽士のかなでる立琴から美しいしらべが流れたことでしょう。詩篇の筆者は心を動かされて,「ただしき者よ エホバによりてよろこべ讃美はなほきものにふさはしきなり」と叫び,こう続けていました。「琴をもてエホバに感謝せよ 十絃のことをもてエホバをほめうたへあたらしき歌をエホバにむかひてうたひ歓喜の声をあげてたくみに琴をかきならせエホバのみことばは直くそのすべて行ひたまふところ真実なればなり」。(詩 33:1-4)ダビデはこれらの叙情的な歌曲の旋律や歌詞を忘れませんでした。それでダビデはこう述べました。「われ夜わが歌をおもひいづ我わが心にてふかくおもひわが霊魂は(ねんごろ)に尋ねもとむ」― 詩 77:6。

      3 霊的な助けを聖書に求める人に対して,聖書はどんな影響を及ぼしますか。

      3 音楽は人の心をしずめ,満ちたりた気持ちをもたらします。同様に,エホバ神のみことば聖書に,霊的な助けを求める人は,聖書によって力づけられ,慰められます。人間は不完全ですから,試練に直面して,失意や悲しみ,あるいは恐れを経験するのは珍しいことではありません。しかし幾世紀もの昔,霊感の下にしるされたことばはクリスチャンを教えるためのものであり,「聖書の忍耐と慰安とによ(っ)て希望を」保てるのです。―ロマ 15:4。

      失意に対処する

      4 今日のクリスチャンが失意を感ずることについて言えば,昔の聖書時代に同様の例がありませんでしたか。答えの理由を述べなさい。

      4 「望みがなくなった。何をしても一つもうまくゆかない。私はもうだめだ!」 これは珍しいことばではありません。多くの人が同様の心情を口にします。忠実なクリスチャンでさえ時には失意のどん底に陥ることがあります。しかし聖書は,昔の忠実なエホバのしもべのある人々が同様の感情に陥ったことを示しています。たとえば,エサウがヘテ人の女たちを妻にめとったとき,「彼らはイサクとリベカの心の愁煩」となりました。また,心を痛めたリベカはこう語りました。「我はヘテの女どものために世を厭ふにいたるヤコブもしこの地のかの女どものごときヘテの女のうちより妻をめとらば我身生るも何の利益あらんや」。(創世 26:34,35; 27:46)ヨブはきびしい試練に際して,神に見捨てられたと感ずる人のごとくに語りました。(ヨブ 29:2-5)ネヘミヤは,エルサレムと城壁の荒廃を憂慮していたために,アルタシャスタ王の前にあっても,憂いに沈んでいました。(ネヘミヤ 2:1-3)イエス・キリストを裏切ったことで,失意と苦悩のきわみに達した使徒ペテロは「いたく泣けり」と書かれています。(ルカ 22:62)使徒パウロは,直面している試練とその時の心情についてこう述べました。「われら四方より患難を受くれども窮せず,為んかたつくれども希望を失はず,責めらるれども棄てられず,倒さるれども亡びず」。(コリント後 4:8,9)テサロニケの一部のクリスチャンは明らかに失意に陥っていたため,パウロはその地の仲間の信者たちに,「落胆せし者を励し」と勧めました。(テサロニケ前 5:14)それで,今日のクリスチャンが失意を感ずることについて言えば,同様の事態は昔にも見られました。しかしどうすれば失意に対処できますか。

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