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  • 歌によって感謝を表わす
    ものみの塔 1975 | 4月1日
    • 聖書には,古代の神の民がエホバ神とその救いのわざに対する感謝を歌によって言い表わしたことが記されています。それも特に,紅海でファラオの軍勢から救い出された時以来,ネヘミヤの時代にエルサレムの城壁が完成するに至るまで,特別な機会に神の民がそのようにして感謝を表わしたことを聖書は述べています。また,エルサレムの神殿で行なわれた崇拝には少なからず音楽が用いられました。その音楽について音楽学者カート・サックスは次のように書いています。「エルサレムの神殿に関係した合唱隊やオーケストラは,音楽教育および音楽の技術や知識の高い水準を示している」。

      たいへん適切なことに,神のみことばは神への賛美の歌をうたうことによって感謝の気持ちを言い表わすよう,再三再四わたしたちに命じています。このことでは気をゆるめる傾向があるようです。賛美の歌をうたうよう励ますことばが何度も繰り返し述べられているからです。詩篇 47篇6,7節では,『ほめうたへ 神をほめうたへ 頒歌へ われらの王をほめうたへ かみは地にあまねく王なればなり……うたひてほめよ』とあるとおりです。詩篇作者は,ほめうたうようにと五回も勧めています。―詩 96:1,2をもご覧ください。

      使徒パウロは歌によって神を賛美するようクリスチャンに勧める点で,同様の手法に従い,コロサイ 3章16節でこう述べています。「〔1〕詩と,〔2〕神への賛美と,〔3〕慈しみのこもった霊の歌とをもって互いに教えまた訓戒し,〔4〕心のうちでエホバに向かって歌いなさい」。―エフェソス 5:19もご覧ください。

      会衆として賛美の歌をうたうことは,わたしたちの正式の崇拝の一部です。賛美の歌はエホバに向かって歌われます。それでわたしたちは,エホバがわたしたちの祈りに注意を払ってくださるように,また昔もそうなさったとおり,賛美の歌に注意を払ってくださるとの信仰をもつことができます。(歴代下 5:13,14)ちょうど王国会館で公にささげられる祈りの精神に和するように,心をこめて,つまり『わがうちなるすべてのもの』をもって共々に王国の歌をうたうべきではありませんか。―詩 103:1,2。

      それと共に,歌詞をよく考えてください。歌詞が言い表わしている優れた感情を理解して,その気持ちを示すべきではないでしょうか。歌詞はすべて,聖書あるいは聖書を説明した出版物からとられています。そのような貴重な真理について歌うのに,気乗りのしない,お座なりの仕方で歌うのはふさわしいことでしょうか。ところが,時にはそういうことがあるのです。

      声を大きく出して歌うには努力がいります。少し疲れていたりすると,最も楽な道をとりたいと思いがちになり,精神をこめずに歌う場合があるかもしれません。しかし,もし努めて大声で歌うと,気持ちがもっと良くなり,同時に楽しく歌えることに気づくものです。事実,音楽にはさまざまの益があり,感情とともに思いと体の両方を元気にさせるのに役立つことが知られています。特に,良い声を持つ人たちが声を大きくして歌うようにすれば,それにつれて他の人たちもたいてい声を大きく出して歌うようになるものです。そして,言うまでもなく,すべての人は,録音されたものであれ,ピアノを弾く人が奏でるものであれ,注意深く伴奏に耳を傾けるべきです。そうすれば,できるかぎり美しく歌えるからです。

      エホバの民は行ないの点で名声を博してきました。また,聖書の知識と,神の王国の良いたよりを宣べ伝え,すべての国の人びとを弟子とする業に携わる熱意との点でも良い評判を得てきました。(マタイ 28:19,20)では,古代のエホバのしもべたちが行なった崇拝の一部として音楽が顕著な役割を果たしたのと同じように,エホバの民は王国会館で王国の歌をうたう点でもすぐれているべきではありませんか。そのような王国会館の一つを訪れ,誠実で友好的な歓迎を受けることによってエホバの崇拝にひきつけられた人はたいへん大勢います。確かに,講演や実演その他の形でなされる,宣べ伝えて教えるわざは優れています。―コリント第一 14:24,25。

      しかし1973年,ニューヨーク市のヤンキー野球場における「神の勝利」大会でバプテスマを受けた一人の婦人の経験は,証人たちのうたう賛美の歌もまた,エホバに関する知識を得るよう人を助けるのに役立つものであることを示しています。彼女は最初,全く自分ひとりで土地の王国会館を訪れ,二つの集会中とどまっていました。会衆が119番の賛美の歌,「報いをみつめよ」を歌った時,彼女はその歌詞と歌い方に非常に深い感銘を受けたので,その場所こそ自分が望んでいた所であることを知りました。集会後,一人の証人に近づき,聖書研究をしたいと申し出たこの婦人はよく進歩して,エホバのクリスチャン証人になりました。

      それで,献身したエホバのクリスチャン証人は各自,王国会館で賛美の歌をうたうさい,エホバのすばらしい特質を正しく評価していることと,エホバが物質面でも霊的な面でも世話してくださったすべての事に対する感謝の気持ちを反映させるような仕方で,それぞれの分を果たすことにしましょう。『われらのうちなるものすべてをもってエホバをほめ』ましょう。

  • 純粋の愛を味わい知る招き
    ものみの塔 1975 | 4月1日
    • 純粋の愛を味わい知る招き

      フィリピンのある青年は次のような経験をしました。その青年の母親はエホバの証人になりましたが,彼自身は聖書に対して特別の関心を持ってはいませんでした。青年は次のように語っています。「わたしが実際には関心を持っていなかったにもかかわらず,母はわたしを王国会館に連れて行くのでした。王国会館では,若い証人たちの振舞いを見ましたがその若い証人たちは,親切で親しみ深く,偽善的なところは少しもなく,皆真のクリスチャンとして生活しようと努力していました。わたしは彼らと交わり始め,そのおかげでわたしは大きな変化を遂げることができました。わたしは自分で組織した無頼漢のグループを解散させ,またたばこを吸うのをやめました。やがて,母はわたしに一緒に王国会館へ行くよう勧める必要がなくなりました。わたしが自発的に行くようになったからです」。

      それ以来経験してきたことについて,青年はこう述べています。「わたしは人生がいっそう意義深いものであることを知りました。現在もまた将来も,生きるに値する事柄が実にたくさんあります。以前は,自分の生活がざ折で満ちたものであることに気づきました。しかし,それは全くの徒労でした」。

      もし,まだ一度も王国会館においでになったことがなければ,これをあなたへの招待の言葉とお考えになってはいかがですか。エホバのクリスチャン証人の間に純粋の愛が明らかに見られるかどうかをご自分で確かめてみてください。

  • 読者からの質問
    ものみの塔 1975 | 4月1日
    • 読者からの質問

      ● イザヤ書 21章11,12節の次のような預言はどのように適用されますか。『ドマに係るおもにの預言 いはく人あり セイルより我をよびていふ 斥候よ夜はなにのときぞ 斥候よ夜はなにの時ぞ ものみ答へていふ 朝きたり夜またきたる 汝もしとはんとおもはば問へ なんぢら帰りきたるべし』。

      この預言は明らかにエドムに対する不利な宣言です。「ドマ」という言葉は,ドマと呼ばれるいずれかの都市あるいは場所を指してはいないようです。それがパレスチナとバビロニア南部との大体中間にあるイシマエル人のドマ(イシマエルの息子の一人にちなんで付けられた[創世 25:14])か,孤立した山地に位置していたユダヤのドマを指していたとはまず考えられません。(ヨシュア 15:52)この言葉のすぐあとでセイルのことが言及されている点も,この預言がエドムの地に対して述べられたものであることを示しています。セイルには最初ホリ人が住んでいましたが,エサウの子孫がホリ人を追い出したので,その地を指すのにエドムとセイルの両方の名が使われるようになりました。―創世 14:6。申命 2:12。

      イザヤとエレミヤはともに,エホバとその民の敵であるエドム(セイル)の徹底的な荒廃を預言しました。

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