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「御名があがめられますように」― それはどのような名ですか神のみ名は永久に存続する
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「御名があがめられますように」― それはどのような名ですか
あなたは信仰心をお持ちの方ですか。日本では,たいていの人は,自分の家族は先祖代々の仏教徒です,と答えることでしょう。中には,神道を奉じていると言う人もいます。聖書や創造者について聞いたことのある人も少なくありません。その中には,イエス・キリストの教えた有名な祈りの言葉に通じている人もいるでしょう。その祈りは次の言葉で始まっています。「天にいますわれらの父よ,御名があがめられますように」。(マタイ 6:9,日本聖書協会 口語訳)あなたもこの祈りをこれまでに耳にしたことがありますか。
イエスはなぜ,この祈りの中で神のみ名の『あがめられる』,つまり神聖なものとされることをまず第一に求めたのだろうか,とお考えになったことがありますか。イエスはその後に,神の王国の到来すること,神のご意志が地上においてなされること,わたしたちの罪の許しなど,他の事柄にも言及されました。これら他の願いがかなえられることは,最終的には,永続する平和が地上に実現し,人間が永遠の命を享受できるようになることを意味しています。これより重要な事柄を考えることができるでしょうか。それにもかかわらず,イエスは,神のみ名が神聖なものとされることをまず第一に祈り求めるようわたしたちに告げられました。
イエスは,祈りの中で神のみ名を第一にすることをこの時たまたまご自分の追随者たちに教えたのではありません。その名がイエスにとって極めて重要であったことは明らかです。イエスはご自分の祈りの中で繰り返しみ名に言及しておられたからです。イエスは,人々の聞いているところで神に祈りをささげていたある時,「父よ,み名の栄光をお示しください」と言われました。すると神ご自身が,「わたしはすでにその栄光を示し,さらにまたその栄光を示す」とお答えになりました。―ヨハネ 12:28,エルサレム聖書。
イエスは亡くなられる前の晩,弟子たちの聞いているところで神に祈りましたが,弟子たちはこの時にも,神のみ名を極めて重要なものとするイエスの言葉を聞きました。「わたしは,あなたが世から取ってわたしに与えてくださった人々にみ名を知らせました」とイエスは言われました。その後,このようにも祈られました。「わたしはみ名を彼らに知らせました。またこれからも知らせてゆきます」― ヨハネ 17:6,26,エルサレム聖書。
神のみ名はイエスにとってなぜそれほど重要なものだったのでしょうか。み名が神聖なものとされることを祈るよう告げて,イエスはわたしたちにとっても神のみ名が重要なものであることを示されましたが,それはなぜでしょうか。この点を理解するには,聖書時代に名前がどのようにみなされていたかを知る必要があります。
聖書時代における名前
明らかにエホバ神は,物に名前を付ける願望を人間に付与されました。最初の人間には名前があり,アダムというのがその名でした。創造の物語の中で挙げられている,アダムが最初に行なった事柄の一つは,動物に名前を付けることでした。アダムに神から妻が与えられた時,アダムはすぐさま彼女を「女」(イッシャー,ヘブライ語)と呼びました。その後,アダムは彼女に,「生ける者」という意味のエバという名を付けました。それは,『彼女が生きているすべての者の母となる』ことになっていたからです。(創世記 2:19,23; 3:20)今日でも,わたしたちは人に名を付けるその習慣に従っています。実際,名前というものがなければ物事をどのように行なってゆけるのか想像もできません。
イスラエル人の時代に,名前は単なるラベルのようなものではありませんでした。名前にはそれなりの意味がありました。例えば,「笑い」という意味のイサクの名は,子供を持つようになるという知らせを初めて聞いた時の老年の二親の笑いを思い起こさせました。(創世記 17:17,19; 18:12)エサウの名には「毛深い」という意味があり,身体的な特徴を表わしていました。彼の異名エドムには「赤い」もしくは「赤みがかった」という意味があり,それは,彼が1杯の赤い煮物と引き換えに自分の長子の権を売ったことにちなんだものでした。(創世記 25:25,30-34; 27:11; 36:1)ヤコブは双子の兄弟エサウよりほんのわずか下でしたが,エサウから長子の権を買い取り,父から長子としての祝福を受けました。ヤコブの名には生まれた時から,「かかとをとらえる」もしくは「押しのける者」という意味がありました。(創世記 27:36)同様に,イスラエルはソロモンの治世中,平和と繁栄を享受しましたが,彼の名には「平和を好む」という意味がありました。―歴代第一 22:9。
そのため,例解聖書辞典(The Illustrated Bible Dictionary,第1巻,572ページ)は次のように述べています。「旧約[聖書]中の『名』という語の研究は,ヘブライ語においてそれがいかに深い意味を持つかを明らかにしている。名は単なるラベルではなく,その名を有する人の真の人格を表わしている」。
神が名前を大切なものと見ておられることは,バプテストのヨハネの母,またイエスの母になろうとしていた女性に神がみ使いを通してそれぞれ指示をお与えになり,その子にどのような名を付けるべきかを示されたことにも見られます。(ルカ 1:13,31)また,神は時折,人の名前を変えたり,人に新たな名前を与えたりして,その人がご自分の目的の中で占める立場を示されました。例えば,神は,ご自分の僕アブラム(「高揚の父」)が多くの国民の父となることを予告された時,その名をアブラハム(「多数のものの父」)と改めさせました。また神はアブラハムの妻サライ(「争いを好む」)の名をサラ(「王妃」)に変えました。それは,彼女がアブラハムの胤の母になるからでした。―創世記 17:5,15,16。創世記 32:28; サムエル第二 12:24,25と比較してください。
イエスも名前が重要であることを認めておられ,ペテロに奉仕の特権を与える際,ペテロの名に注意を向けておられます。(マタイ 16:16-19)霊の被造物にさえ名前が付けられています。聖書に挙げられている二つの例はガブリエルとミカエルです。(ルカ 1:26。ユダ 9)ですから,恒星や惑星,町や山河といった無生の物に名前を付ける人間は自分たちの創造者を見倣っているにすぎないのです。例えば聖書は,神がすべての星をそれぞれの名で呼ばれると述べています。―イザヤ 40:26。
確かに,名前は神の目に重要なものであり,神は人間に,人や物をそれぞれの名前によって識別するという願望をお与えになりました。ですから,み使いにも,人間にも,動物にも,また星その他の無生の物にも名前があります。では,これらすべてのものの創造者ご自身が名前のないままでおられるというのは矛盾していないでしょうか。正にそのとおりです。詩編作者の次の言葉を考えるとき,特にそう言えます。『すべての肉なる者が,定めのない時に至るまで,神の聖なるみ名をほめたたえるように』― 詩編 145:21。
新約聖書神学新国際辞典(The New International Dictionary of New Testament Theology,第2巻,649ページ)は次のように述べています。「聖書の啓示における最も基本的かつ肝要な特徴の一つは,神は無名ではない,という事実である。神には固有の名があり,その名によって神に呼びかけることができるし,またそうすべきである」。「天におられるわたしたちの父よ,あなたのお名前が神聖なものとされますように」と祈るよう追随者たちに教えた際,イエスは明らかにその名を念頭においておられました。―マタイ 6:9。
これらすべてから明らかなように,神のお名前が何であるかを知るのは重要なことです。あなたは神の固有のみ名をご存じですか。
神のみ名は何か
驚くことに,キリスト教世界の諸教会の幾億を数える教会員の大半はこの質問に答えるのにおそらく困難を感じるでしょう。神のみ名はイエス・キリストです,と答える人がいるかもしれません。しかしイエスは,「わたしは,あなたが世から与えてくださった人々にみ名を明らかにしました」と言われた際,自分以外の他のだれかに祈っておられました。(ヨハネ 17:6)子が父に語りかけるように,イエスは天におられる神に祈っておられたのです。(ヨハネ 17:1)『あがめられる』つまり『神聖なものとされる』べきなのは天の父のみ名でした。
しかし,現代の多くの聖書にそのみ名は載っておらず,教会でもそれはまれにしか用いられません。ですから,『あがめられる』どころか,そのみ名は聖書の幾百万もの読者にとって縁のないもののようになっています。聖書翻訳者たちが神のお名前をどのように扱っているかを示す例として,み名の出てくる節を一つだけ考慮してみましょう。詩編 83編18節を取り上げますが,四つの異なった聖書の中でこの聖句がそれぞれどのように訳出されているかを以下に記します。
「主という名をおもちになるあなたのみ,全地をしろしめすいと高き者であることを彼らに知らせてください」。(日本聖書協会 口語訳)
「こうして彼らが知りますように。その名,主であるあなただけが,全地の上にいますいと高き方であることを」。(新改訳)
「ヤーウェと名のる あなただけが,全地において いと高き者。それを かれらに思い知らせよ」。(カトリック・フランシスコ会訳,1968年)
「然ばかれらはエホバてふ名をもちたまふ汝のみ全地をしろしめす至上者なることを知るべし」。(日本聖書協会 文語訳)
これらの訳の中で神のお名前はなぜこのように異なっているのでしょうか。主,主,ヤーウェ,エホバのどれが神のお名前なのでしょうか。それとも,これらすべてをみ名として受け入れることができるのでしょうか。
その答えを得るには,聖書がもともと日本語で書かれたのではないということを覚えておかなければなりません。聖書筆者たちはヘブライ人であり,そのほとんどの部分を当時のヘブライ語やギリシャ語で書きました。わたしたちのほとんどはこれら古代の言語を話しません。それでも,聖書は数多くの現代語に翻訳されてきましたから,わたしたちは,神の言葉を読みたいと思うとき,それらの翻訳を用いることができます。
クリスチャンは聖書に深い敬意を抱いており,『聖書全体は神の霊感を受けたものである』ことをそのとおりに信じています。(テモテ第二 3:16)ですから,聖書の翻訳には重い責任が伴います。仮にだれかが聖書の内容の一部を故意に変えたり省いたりするなら,その人は霊感によるみ言葉を改ざんしていることになります。そのような人には,聖書の次の警告が当てはまるでしょう。「これらのことに付け加える者がいれば,神はこの巻き物に書かれている災厄をその者に加えるであろう。また,この預言の巻き物の言葉から何かを取り去る者がいれば,神は,命の木から……彼の分を取り去られるであろう」― 啓示 22:18,19。申命記 4:2も参照してください。
ほとんどの聖書翻訳者は疑いなく聖書に敬意を抱いており,その内容を現代の人が理解しやすいものにしたいと誠実に願っています。しかし,翻訳者たちは霊感を受けてはいません。また,大半の翻訳者は宗教上の事柄について独自の強い見解を抱いています。また,個人的な考えや好みに影響されることもあります。人間的な間違いを犯したり,判断を誤ったりする場合もあります。
ですから,次の幾つかの重要な質問をするのは当を得たことです。神の本当のお名前は何ですか。また,さまざまな聖書翻訳が神のみ名として異なったものを挙げているのはなぜでしょうか。これらの質問に対する確かな答えを得た後に,神のみ名の神聖なものとされることがなぜそれほど重要なのかという初めの問題に戻ることができます。
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神のみ名 ― その意味と発音神のみ名は永久に存続する
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神のみ名 ― その意味と発音
聖書筆者の一人は次のように問いかけました。「だれが両の手のくぼみに風を集めただろうか。だれが水をマントに包んだだろうか。だれが地のすべての果てを起こしただろうか。その者の名は何というか。その子の名は何というか。もしあなたが知っているなら」。(箴言 30:4)わたしたちは神のお名前が何であるかをどのようにして知ることができますか。これは重要な問いです。創造物は,神が間違いなく存在されることを裏付ける強力な証拠となりますが,神のみ名については何も告げてくれません。(ローマ 1:20)事実,創造者ご自身が告げてくださらなかったなら,わたしたちに神のみ名は決して分からなかったでしょう。神はご自身の書物である聖書の中にそれを記してくださいました。
ある有名な出来事の際,神はご自身のみ名を宣明し,モーセの聞いている所でそれを繰り返されました。モーセはその出来事を記録し,その記録は聖書の中に保たれて今日に伝わっています。(出エジプト記 34:5)神はご自分のみ名をご自身の「指」で書き記すことさえされました。神はモーセに,今日わたしたちが十戒と呼ぶものをお与えになりましたが,そのとき神は奇跡的な方法でそれを書き記されました。記録にはこうあります。「さて,シナイ山の上で彼と話すことを終えると,神は証の書き板二枚をモーセにお与えになった。神の指によって書き記された石の書き板であった」。(出エジプト記 31:18)十戒にはもともと,神のみ名が8回出てきます。(出エジプト記 20:1-17)このように,神ご自身が,言葉と書き物の両方によってそのみ名を人間に啓示されました。では,そのお名前はどのようなものですか。
ヘブライ語でそれはיהוהと書きます。四文字語<テトラグラマトン>と呼ばれるこの四つの文字はヘブライ語では右から左に読み,多くの現代語のアルファベットでYHWHまたはJHVHと書き表わされます。これら四つの子音字で表わされる神のみ名はもともとの「旧約聖書」つまりヘブライ語聖書中に7,000回近く出ています。
そのお名前は,「なる」という意味のヘブライ語の動詞ハーワー(הוה)の変化形で,実際には「彼はならせる」という意味を持っています。a このように,神のみ名は,神がご自分の約束を漸進的に成就し,たがうことなくご自分の目的を果たす方であることを示しています。このような意義深い名を持つことができるのは唯一まことの神だけでしょう。
前章(5ページ)に挙げられているように,詩編 83編18節に出て来る神のみ名がさまざまな仕方で表わされているのを覚えておられますか。二つの翻訳では,神のみ名の代わりに単なる称号(「主」,「主」)が用いられていました。一方,ヤーウェまたエホバという神のみ名も見られます。ところで,発音が違っていますが,それはなぜでしょうか。
神のみ名はどのように発音されるのか
真実のところ,神のみ名がもともとどのように発音されたのか確かなことはだれにも分かりません。なぜ分からないのでしょうか。聖書を書くのに用いられた最初の言語はヘブライ語でしたが,ヘブライ語を書く人は母音を記さず,子音字だけを書きました。ですから,霊感を受けた筆者が神のみ名を書く際にも当然それと同じようにし,子音字だけを記しました。
古代ヘブライ語が日常の話し言葉として用いられていた間,これは別に問題となりませんでした。イスラエル人はみ名の発音を良く知っており,それが記されているのを見ると,何も考えずに母音を補いました。(“Ltd.”や“bldg.”と略記された英語が“Limited”や“building”を表わすのと似ています。)
こうした状況を変える二つの出来事がありました。その一つは,神のみ名を口にするのは悪いことであるとする迷信的な考えがユダヤ人の間に生じたことです。そのため,聖書朗読の際,神のみ名のところに来ると,彼らはヘブライ語のアドーナーイ(「主権者なる主」)という語を口にしました。さらに,時がたつうちに,古代ヘブライ語そのものが日常の会話では使われなくなりました。こうして,神のみ名のヘブライ語のもともとの発音はやがて忘れられてしまったのです。
ヘブライ語の発音全体が分からなくなってしまわないよう,西暦1,000年紀の後半にユダヤ人の学者が,記されていない母音を表わすための符号体系を考案しました。そして,これらの符号をヘブライ語聖書中の子音の周りに記しました。このようにして,母音と子音の両方が書き記され,その当時の発音が保存されるようになりました。
それらの学者は,神のみ名が出て来ると,本来の母音符号の代わりに,ほとんどの場所で別の母音符号を付けて,そこはアドーナーイと言うべきであることを読者に思い起こさせました。これからIehouahというつづりが生じ,日本語では「エホバ」が神のみ名の発音として受け入れられるようになりました。この発音はもともとのヘブライ語による神のみ名の基本構成要素をとどめています。
どちらの発音を用いるか
それでは,ヤハウェやヤーウェという発音はどのようにして生じたのでしょうか。これらの形は,神のみ名のもともとの発音を推定しようとする現代の学者たちが提唱してきたものです。すべての学者ではないものの,一部の学者の間で,イエスの時代より前のイスラエル人は神のみ名をおそらくヤハウェと発音したであろうと考えられています。もっとも,確かなことはだれにも分かりません。そのように発音されたのかもしれませんし,そうでないのかもしれません。
それでも,多くの人はエホバという発音のほうを好みます。なぜでしょうか。それが広く用いられており,なじみがあるのに対し,ヤハウェのほうはそうでないからです。それでも,もともとの発音に近いと思われる形を用いるほうが良いのではありませんか。実際にはそうではありません。それは,聖書の中のいろいろな名前を表わす慣習ではないのです。
最も顕著な例として,イエスの名を考慮してみましょう。イエスはナザレで育ちましたが,イエスの家族や友人が日常の会話の中でイエスをどのように呼んでいたか,あなたはご存じですか。エシュア(あるいはおそらくエホシュア)といった名であったと思われますが,真実のところ,だれにも確かなことは分かりません。イエスでなかったことは明らかです。
しかし,イエスの生涯の記録をギリシャ語で書き記す際,霊感を受けた筆者たちはもともとのヘブライ語の発音を残そうとはしませんでした。むしろ,その名をギリシャ語でイエースースと訳出しました。今日では,聖書を読む人々の言語に応じてさまざまに訳出されています。英語の聖書を読む人はJesus(“ジーザス”と発音)という名を目にします。イタリア語ではGesù(“ジェスー”と発音)とつづります。また,ドイツ語のつづりはJesus(“エーズス”と発音)です。
わたしたちのほとんどが,いや事実上わたしたちのすべてがそのもともとの発音を実際には知らないので,イエスという名を用いるのをやめるべきでしょうか。そのようなことを提唱した翻訳者は一人もいません。わたしたちはその名を用いることを望んでいます。それによって,神の愛するみ子,イエス・キリスト,わたしたちのためにご自身の命の血を与えてくださった方を示せるからです。聖書にあるその名をすべて取り除いて,「師」や「仲介者」といった単なる称号で置き換えるのはイエスに敬意を示すことでしょうか。もちろんそうではありません。わたしたちは自分たちの言語で普通に発音されるその名を用いてイエスのことを示せます。
聖書に出てくるすべての名について同じようなことが言えます。わたしたちはそれらの名を自分たちの言語で発音し,もともとの発音をまねようとはしません。例えば,“イルメヤフ”とは言わずに「エレミヤ」と言います。同様に,預言者イザヤは当時おそらく“エシャヤフ”という名で知られていたものと思われますが,わたしたちは彼のことをイザヤと呼びます。これらの人の名のもともとの発音を知っている学者たちでさえ,彼らのことを話す際には古代の発音ではなく,現代の発音を用います。
そして,これと同じことがエホバのみ名にも言えます。たとえ,現代のエホバという発音が厳密にはもともとの発音どおりではないにしても,それは決して神のみ名の重要性を損なうものではありません。「天におられるわたしたちの父よ,あなたのお名前が神聖なものとされますように」とイエスが語りかけた,創造者,生ける神,至高者のことがそれによって示されます。―マタイ 6:9。
「他の語に代えることができない」
ヤハウェやヤーウェという発音を好む翻訳者が少なくありませんが,エホバ(Jehovah)という形が幾世紀ものあいだ人々に親しまれてきたので,新世界訳をはじめ,幾つかの翻訳は引き続きその形を用いています。しかもこれには,他の形の場合と同様,YHWHまたはJHVHで表わされる四文字語<テトラグラマトン>の四つの文字が含まれています。b
ずっと以前に,ドイツのグスタフ・フリードリヒ・エーラー教授はほとんど同様の理由で同じ判断をしています。同教授は様々な発音について論じ,結論としてこう述べました。「ここからのち,わたしはエホバという語を使う。なぜなら,事実上,この名は今では我々の語彙の中でいっそう国語化されており,他の語に代えることができないからである」―「旧約聖書の神学」(Theologie des Alten Testaments),第2版,1882年発行,143ページ。
同様に,イエズス会の学者ポル・ジョユオンは,自著「聖書ヘブライ語の文法」(Grammaire de l'hébreu biblique)1923年版の49ページの脚注でこう述べています。「我々の翻訳では,ヤハウェという(憶測に基づく)語形ではなく,エホバという語形を用いてきた。……この形はフランス文学で伝統的に用いられている」。8ページのわく組の表が示すように,他の多くの言語の聖書翻訳者たちも同じ語形を用いています。
それでは,ヤハウェやヤーウェといった形を用いるのは間違っているのでしょうか。そのようなことはありません。それはただ,エホバという形がほとんどの言語で「国語化」されているため,そのほうが読者はすぐに反応しやすいということによります。大切なのは,神の名を用い,それを他の人々に宣明することです。こう命じられています。「あなた方はエホバに感謝せよ! そのみ名を呼び求めよ。もろもろの民の中にその行ないを知らせよ。そのみ名の高く上げられることを語り告げよ」― イザヤ 12:4。
神の僕たちが幾世紀にもわたり,この命令にしたがってどのように行動してきたかを調べてみましょう。
[脚注]
a 新世界訳聖書(英文),1984年版,付録1Aを参照。
b 新世界訳聖書(英文),1984年版,付録1Aを参照。
[7ページの囲み記事]
YHWHで表わされるみ名のもともとの発音について,さまざまな学者が異なった考えを抱いています。
M・ライゼル博士は,「神秘的な名 Y.H.W.H.」(The Mysterious Name of Y.H.W.H.)と題する本の74ページで,「四文字語<テトラグラマトン>の発音は元来エフーア(YeHūàH)あるいはヤフーア(YaHūàH)であったに違いない」と述べました。
ケンブリッジ大学のキャノン・D・D・ウィリアムズは次のように主張しました。「証拠の示すところによれば,いや,ほとんど証明済みのことであるが,四文字語<テトラグラマトン>の本当の発音はヤーウェ(Jāhwéh)ではなかった。……神の名そのものはおそらくヤーホー(JĀHÔH)であった」― 旧約聖書学誌(Zeitschrift für die alttestamentliche Wissenschaft),1936年,第54巻,269ページ。
フランス語のスゴン改訂訳に付いている語彙小辞典の9ページに,次の解説が載っています。「最近の一部の翻訳で用いられているヤハベ(Yahvé)という発音は古代のわずかな証拠に基づくものであり,確定的なものではない。預言者エリヤのヘブライ語名(エリヤフー)など,神の名を含む個人の名前を考慮に入れれば,その発音はヤボ(Yabo)もしくはヤフー(Yahou)であったとも考えられる」。
1749年にドイツの聖書学者テラーは,それまでに自分が知った神のみ名の幾つかの異なった発音について次のように述べました。「シチリア島のディオドロス,マクロビウス,アレクサンドリアのクレメンス,聖ヒエロニムス,オリゲネスはヤオ(Jao)と書いた。サマリア人,エピファネス,テオドレトスはヤベ(JabeまたはJave),ルートウィヒ・カペルはヤボ(Javoh)と読み,ドルシウスはヤハベ(Jahve),ホッティンガーはエフバ(Jehva),メルケルスはエホバ(Jehovah),カステリオはヨバ(Jovah),ル・クレルクはヤボ(JawohまたはJavoh)と呼んだ」。
これから明らかなように,神のみ名のもともとの発音は今でははっきりしていません。また,それが真に大切なのでもありません。もしも発音が大切であるのなら,それが保存され,わたしたちが用いることのできるよう,神ご自身が取り計らってくださったことでしょう。大切なのは,わたしたちの言語で従来から使われてきた発音によって神のみ名を用いることです。
[8ページの囲み記事]
さまざまな言語における神のみ名。エホバという語形が国際的に受け入れられていることを示している
アワバカル語 ― エホア
イグボ語 ― ジェホバ
イタリア語 ― ジェオーバ
英語 ― ジホーバ
エフィク語 ― ジェホバ
オランダ語 ― イェホーバ
広東語 ― エウォワ
サモア語 ― イエオバ
スウェーデン語 ― イェホバ
ズールー語 ― ウジェホバ
スペイン語 ― ヘオバ
スワヒリ語 ― エホバ
ソト語 ― ジェホバ
タガログ語 ― ジェホバ
タヒチ語 ― イエホバ
デンマーク語 ― イェホーバ
ドイツ語 ― エホーバー
トンガ語 ― ジホバ
ナリニェリ語 ― ジェホバ
日本語 ― エホバ
ネムベ語 ― ジホバ
ハンガリー語 ― エホバ
フィジー語 ― ジオバ
フィンランド語 ― エホバ
ブゴツ語 ― ジホバ
フトゥーナ語 ― イホバ
フランス語 ― ジェオバ
ペタツ語 ― ジホウバ
ベンダ語 ― エホバ
ポーランド語 ― イェホバ
ホサ語 ― ウエホバ
ポルトガル語 ― ジェオバー
マオリ語 ― イホワ
ムワラ-マル語 ― ジホバ
モツ語 ― イエホバ
ヨルバ語 ― ジェホファ
ルーマニア語 ― イエホバ
[11ページの囲み記事]
「エホバ」は神のみ名として,聖書以外の事柄を扱った文の中でも広く用いられています。
フランツ・シューベルトは,ヨハン・ラディスラウ・ピュルケル作の「全能者」と題する叙情詩のために曲を作りましたが,津川主一の訳によるその歌詞にはエホバという名が出てきます。これは,ベルディのオペラ,「ナブッコ」の最後の場面の終わりにも用いられています。
さらに,フランスの作曲家アルトゥール・オネゲルのオラトリオ,「ダビデ王」の中では,エホバのみ名が際立った仕方で用いられています。また,フランスの有名な作家ビクトル・ユゴーは30を超える作品の中でエホバという名を用いています。ユゴーとラマルティーヌは共に,「エホバ」と題する詩を書きました。
ドイツの連邦銀行が1967年に発行した「ドイツ・ターレル銀貨」(Deutsche Taler)という本には,「エホバ」の名を刻んだ硬貨としては最古のものの一つとされる硬貨の写真が載せられています。これは1634年に発行されたシュレジエン公領のライヒスターレル貨で,上記の本はこの硬貨の裏の絵についてこう書いています。「光を放つ“エホバ”というみ名のもとに,シュレジエンの紋章を頂いた盾が雲の間から上っている」。
東ドイツのルードルシュタットにある博物館を訪れるなら,17世紀のスウェーデンの王,グスタフ2世アドルフが身に着けていたよろいのえりに“エホバ”の名が大文字で記されているのを目にすることができるでしょう。
このように,幾世紀もの間,エホバという形が神のみ名の発音として国際的に認められてきました。人々はそれを聞くと,だれのことが話されているのか,すぐに分かります。エーラー教授が述べるとおり,『この名は今ではわたしたちの語彙の中でいっそう国語化されており,他の語に代えることができない』のです。―「旧約聖書の神学」(Theologie des Alten Testaments)。
[6ページの図版]
バチカンのサン・ピエトロ大聖堂にある法王クレメンス13世の墓には,神のみ名を飾りとして刻んだ天使像がある
[7ページの図版]
神のみ名の刻まれた貨幣が数多く鋳造された。1661年のこの貨幣はドイツのニュルンベルクのものであるが,ラテン語の部分は,「なんじの翼の陰のもとで」と記されている
[9ページの図版]
過去において,四文字語<テトラグラマトン>で表わされた神のみ名が多くの宗教建造物の装飾に用いられた
フランス,リヨンのフルビエール・カトリック大聖堂
フランスのブルージュ大聖堂
フランス,ラ・セル・ドゥノワーズの教会
南フランス,ディーニュの教会
ブラジル,サンパウロの教会
フランスのストラスブール大聖堂
イタリア,ベネチアの聖マルコ大聖堂
[10ページの図版]
ドイツ,ボルデショルムの修道院にあるエホバのみ名
1635年のドイツの硬貨に刻まれているみ名
ドイツ,フェーマルンの教会の扉にあるみ名
下オーストリア,ハルマンシュラークの墓石に刻まれているみ名,1845年
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さまざまな時代における神のみ名神のみ名は永久に存続する
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さまざまな時代における神のみ名
エホバ神は,人間がご自分のみ名を知り,それを用いることを望んでおられます。そのことは,神がご自分のみ名を,地上のほかならぬ最初の二人の人間に示された事実から明らかです。エバがカインを産んだ時に語った言葉から,アダムとエバが神のみ名をよく知っていたことが分かります。元のヘブライ語本文によると,エバは次のように言いました。「わたしはエホバの助けでひとりの男子を産み出した」― 創世記 4:1。
その後,エノクやノアのような忠実な人々が「まことの神と共に歩んだ」ことが記されています。(創世記 5:24; 6:9)これらの人々も神のみ名を知っていたに違いありません。そのお名前は義人ノアおよびその家族と共に大洪水の後にも伝えられました。その後バベルにおいて大規模な反逆が生じましたが,神の真の僕たちはその名を用い続けました。神がイスラエルにお与えになった律法には,神のみ名が幾百回も出ています。申命記の中だけでも551回出てきます。
裁き人の時代に,イスラエル人が神のみ名を用いるのをためらうようなことをしなかったのは明らかです。彼らはお互いに対するあいさつの中でさえそれを用いました。ボアズは自分のもとにいる刈り入れ人たちに,「エホバが共におられるように」とあいさつの言葉をかけたことが(元のヘブライ語本文に)記されています。それに対して,刈り入れ人たちは,「エホバがあなたを祝福されますように」と答えています。―ルツ 2:4。
バビロンでの捕囚を終えてユダに帰還する時までのイスラエル人の歴史の全期間にわたり,エホバのみ名は引き続き彼らの間で普通に用いられてきました。神ご自身の心にかなう人であったダビデ王は神のみ名を幾度となく用いており,ダビデの作った詩の中には神のみ名が幾百回も出ています。(使徒 13:22)神のみ名はイスラエル人のさまざまな人名にも取り入れられました。例えば,アドニヤ(「わたしの主はヤハ」―「ヤハ」はエホバの省略形),イザヤ(「エホバの救い」),ヨナタン(「エホバは与えてくださった」),ミカ(「だれがヤハのようであろうか」),ヨシュア(「エホバは救い」)といった人名があります。
聖書以外の資料
古代に神のこのみ名が頻繁に用いられていたことを示す,聖書以外の資料に基づく証拠もあります。イスラエル踏査ジャーナル誌(Israel Exploration Journal,第13巻,2号)によると,エルサレムから南西にほんの少し離れた所で1961年に古代の埋葬用の洞窟が発見されました。その壁には,西暦前8世紀後半に彫られたと思われるヘブライ語の文字が残っています。その碑文には,「エホバは全地の神」という言葉が含まれていました。
1966年には,イスラエル踏査ジャーナル誌(第16巻,1号)に,イスラエル南部のアラドで発見されたヘブライ文字の記された陶片に関する報告が掲載されました。これらの文字は西暦前7世紀の後半に記されたものです。陶片の一つはエリアシブという名の人物にあてられた個人的な書簡であり,「我が主エリアシブへ。エホバがあなたの平安を求められますように」という文で書き始められています。また手紙は,「彼はエホバの家に住んでいます」という言葉で終わっています。
1975年から1976年にかけて,ネゲブで作業をしていた考古学者たちは,しっくいの壁や貯蔵用の大がめ,石の器などに刻まれたヘブライ文字とフェニキア文字の碑文を幾つも発見しました。それらの碑文には,神を意味するヘブライ語や,ヘブライ語の神のみ名,YHWHが含まれていました。ほかならぬエルサレムでも最近,バビロンへの流刑より前の時代のものと思われる,銀の小さな細板を巻いた物が発見されました。それを開いたところ,エホバのみ名がヘブライ語で書いてあった,と調査にあたった研究者たちは語っています。―聖書考古学レビュー誌(Biblical Archaeology Review),1983年3-4月号,18ページ。
神のみ名が用いられている別の例は,いわゆるラキシュ書簡に見られます。陶片に記されたこれらの書簡は,イスラエルの歴史に名高い,防備の施された都市ラキシュの遺跡で,1935年から1938年にかけて発見されました。これらは,ユダの前哨地にいた一士官がラキシュにいたヤオシュという名の上官にあてて送ったものらしく,西暦前7世紀末ごろのイスラエルとバビロンの間の戦いの際に書かれたものと思われます。
文字の判読が比較的容易な八つの破片のうちの七つは,「エホバが我が主にこの時期を健やかに見させてくださいますように」といったあいさつの言葉で始まっています。7通の通信文の中に神のみ名は合計11回出ており,西暦前7世紀の末ごろにエホバの名が日常用いられていたことを明らかにしています。
異教の支配者たちでさえ神のそのお名前を知っており,イスラエル人の神に言及する際にはそのお名前を用いました。例えば,モアブ碑石の中でモアブのメシャ王はイスラエルに対する自らの軍功を誇っていますが,その中でこう述べています。「ケモシュはわたしに言った,『行け,イスラエルからネボを取れ』。そこでわたしは夜のうちに行き,夜の明ける時から昼までこれと戦った。そしてわたしはそこを取り,そのすべてを打ち殺した。……そしてわたしはそこからエホバの[器]を取り,それらをケモシュの前に引いて来た」。
神のみ名が聖書以外のところで用いられているこれらの例に言及して,旧約聖書神学辞典(Theologisches Wörterbuch zum Alten Testament)第3巻,538欄は次のように述べています。「このように,jhwhで表わされる四文字語<テトラグラマトン>の出ているおよそ19の証拠文献は,この点においてMT(マソラ本文)の信頼性を証ししている。今後,さらに多くの証拠,とりわけアラド文書の証拠が付け加えられることを期待できよう」。―ドイツ語からの翻訳。
神のみ名は忘れられなかった
その後マラキの時代においても,人々は引き続き神のみ名に通じており,それを用いました。マラキはイエスの時代より400年ほど前の人です。マラキは,自分の名の付された,聖書中の書の中で,神のみ名を大いに際立たせており,合計48回も用いています。
時がたつうちに,多くのユダヤ人がイスラエルの地から遠く離れた所で生活するようになり,もはやヘブライ語の聖書を読んで理解できないユダヤ人が出て来ました。そこで,西暦前3世紀に,聖書のうち当時存在していた部分(「旧約聖書」)を新しい国際語であるギリシャ語に翻訳することが行なわれるようになりました。しかし,神のみ名がいいかげんに扱われることはありませんでした。翻訳者たちはそれを保存し,ヘブライ文字の形で書き記しました。今日まで残っているギリシャ語セプトゥアギンタの古代の写本がそのことを裏付けています。
では,イエスが地上におられた時の状況はどうでしたか。イエスや使徒たちが神のみ名を用いたかどうかはどうしたら分かるでしょうか。
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西暦前7世紀の後半に陶器の破片に記されたこの書簡には,神のみ名が二度出ている。
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(写真はイスラエル考古博物館局の好意による)
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神のみ名はラキシュ書簡やモアブ碑石にも見られる
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クリスチャンとみ名神のみ名は永久に存続する
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クリスチャンとみ名
正統派のユダヤ教徒がいつ,声を出して神のみ名を口にするのをやめ,神や,主権者なる主を意味するヘブライ語に置き換えるようになったのかを正確に言える人はだれもいません。神のみ名はイエスの時代よりずっと前に日常用いられなくなっていたと考える人もいます。しかし,西暦70年に神殿が滅ぼされる時まで,大祭司が神殿における宗教儀式の際 ― 特に贖罪の日に ― 神のみ名を口にしていたことを示唆する強力な証拠があります。ですから,イエスが地上におられた時,み名はたとえ広範に用いられてはいなかったにしても,その発音は知られていました。
ユダヤ人はなぜ,神のみ名を発音するのをやめたのでしょうか。おそらく,その理由の少なくとも一部に,第3のおきての言葉の誤まった適用があったものと思われます。そのおきては次のとおりです。「あなたの神エホバの名をいたずらに取り上げてはならない」。(出エジプト記 20:7)もちろん,このおきては神のみ名の使用を禁じるものではありませんでした。さもなければ,ダビデなど,神の古代の僕たちがみ名を何のわだかまりもなく用いて,なおエホバの祝福を享受できたのはなぜでしょうか。また,神がご自分のみ名をモーセに宣明し,その名を持つ者がモーセを遣わしたことをイスラエル人に伝えさせたのはなぜでしょうか。―詩編 18:1-3,6,13。出エジプト記 6:2-8。
それでも,イエスの時代までに,神の道理にかなったおきてを極めて道理にはずれた仕方で解釈する強い傾向が生じていました。例えば,十のおきての4番目は週の第七日を休みの日すなわち安息日として守る務めをユダヤ人に課していました。(出エジプト記 20:8-11)正統派のユダヤ教徒はそのおきてを愚かなほど極端に解釈し,ごくささいな行為まで規制するおびただしい数の規則を設けて,安息日にして良いことといけないこととを定めました。神のみ名に不敬を示してはならないという道理にかなったおきてを,道理にはずれるほど極端に解釈し,み名は発音さえすべきでないとしたのは,疑いなくこれと同じ精神によるものでしたa。
イエスとみ名
イエスはそうした非聖書的な伝統に従ったでしょうか。そのようなことは決して考えられません。イエスは実際,安息日にもいやしの業を行なうのを差し控えるようなことはされませんでした。ユダヤ人の人間による規則を破り,ご自分の命を危うくするものであったにもかかわらず,そのことを行なわれました。(マタイ 12:9-14)事実,イエスは,パリサイ人がその伝統ゆえに神の霊感によるみ言葉を踏み越えているとして,彼らのことを偽善者と呼びました。(マタイ 15:1-9)ですから,イエスが神のみ名を発音するのを差し控えられたとはまず考えられません。イエスご自身の名に「エホバは救い」という意味のあることを考えると,なおさらそうです。
ある時,イエスは会堂の中で立ち上がり,イザヤ書の巻き物の一部を読まれました。イエスがお読みになった部分は今日イザヤ 61章1,2節と呼ばれていますが,そこには神のみ名が少なくとも二度出てきます。(ルカ 4:16-21)イエスは,そこに出てくる神のみ名を発音するのを拒み,「主」や「神」という語に読み替えたでしょうか。もちろん,そのようにはされませんでした。そうすることは,ユダヤ人の宗教指導者たちの非聖書的伝統に従うことになったでしょう。むしろイエスについては,「[彼は]権威のある人のように教えておられ,彼らの書士たちのようではなかった」と記されています。―マタイ 7:29。
事実,初めに学んだとおり,イエスは,「あなたのお名前が神聖なものとされますように」と神に祈るようご自分の追随者たちに教えました。(マタイ 6:9)また,処刑される前の晩にささげた祈りの中で,イエスはみ父にこう語りかけました。「わたしは,あなたが世から与えてくださった人々にみ名を明らかにしました。……聖なる父よ,わたしに与えてくださったご自身のみ名のために彼らを見守ってください」― ヨハネ 17:6,11。
イエスがこのように神のみ名に言及していることに関し,「神のみ名」(Der Name Gottes)と題する本はその76ページで次のように説明しています。「我々は次の驚くべき事実を認識すべきである。つまり,神の啓示に関する旧約聖書の伝統的理解は,それがご自身のみ名の啓示であり,そのことが旧約聖書の最後の部分,いや実に新約聖書の最後の部分に至るまでなされているということである。例えばヨハネ 17章6節には,『わたしは……み名を明らかにしました』とある」。
ですから,イエスが神のみ名を用いるのを控えたと考えるのは全く道理にかないません。ヘブライ語聖書中の神のみ名の出ている箇所をイエスが引用している場合はなおのことそうです。
初期クリスチャンたち
西暦1世紀のイエスの追随者たちは神のみ名を用いたでしょうか。彼らはイエスからすべての国の人々を弟子とするよう命じられていました。(マタイ 28:19,20)その伝道を受けることになっていた人々の多くは,エホバという名によってご自身をユダヤ人に啓示された神について何も知りませんでした。クリスチャンはまことの神をそれらの人々にどのように示すことができたでしょうか。神とか主と呼ぶだけで十分だったでしょうか。そうではありません。諸国民にはそれぞれ自分たちの神や主がいました。(コリント第一 8:5)まことの神と偽りの神々との違いをクリスチャンはどのように明らかにすることができたでしょうか。まことの神のみ名を用いることによってのみそうすることができました。
例えば,弟子ヤコブは,エルサレムにおける長老たちの会議の際,こう述べました。「シメオンは,神が初めて諸国民に注意を向け,その中からご自分のみ名のための民を取り出された次第を十分に話してくれました。そして,預言者たちの言葉はこのことと一致しています」。(使徒 15:14,15)使徒ペテロは,ペンテコステの際に行なった有名な話の中で,預言者ヨエルの言葉を引用し,キリスト教の音信に含まれる重要な点を指摘しました。ヨエルの言葉は次のとおりです。「エホバの名を呼び求める者はみな安全に逃れる」― ヨエル 2:32。使徒 2:21。
使徒パウロは,神のみ名が自分にとっていかに重要であったかについて少しの疑念も残していません。ローマ人にあてた手紙の中で,パウロは預言者ヨエルのこの同じ言葉を引用し,その言葉に信仰を働かせるよう仲間のクリスチャンを励ましました。その信仰は,他の人々も救われるようにするため神のみ名をそれらの人々に宣べ伝えることによって示されるのです。(ローマ 10:13-15)後日パウロは,テモテにあてた手紙の中で,「すべてエホバのみ名を唱える者は不義を捨てよ」と書いています。(テモテ第二 2:19)西暦1世紀の末に,使徒ヨハネは自分の記した書の中に神のみ名を用いました。「ハレルヤ」という表現が啓示の書に繰り返し出ていますが,これには「ヤハを賛美せよ」という意味があります。―啓示 19:1,3,4,6。
しかし,イエスもその追随者たちも,背教がクリスチャン会衆内に生じることを預言しました。使徒ペテロは,『あなた方の間に偽教師が現われるでしょう』と書きました。(ペテロ第二 2:1。マタイ 13:36-43; 使徒 20:29,30; テサロニケ第二 2:3; ヨハネ第一 2:18,19もご覧ください。)こうして警告されていたとおりのことが生じました。その結果の一つとして,神のみ名が背後に押しやられました。聖書の写本や翻訳から除かれることさえ行なわれたのです。そうした事態が生じた経緯を調べてみましょう。
[脚注]
a 次のような別の理由を挙げる人もいます。それによると,ユダヤ人はギリシャ哲学の影響を受けていたものと思われます。例えば,イエスとほぼ同時代の人であった,アレクサンドリアのユダヤ人哲学者フィロンはギリシャ人の哲学者プラトンの影響を強く受けていました。フィロンは,プラトンが神の霊感を受けているものと考えていました。ユダヤ教辞典(Lexikon des Judentums)の「フィロン」の項には次のように記されています。フィロンは「ギリシャ哲学(プラトン哲学)の言語体系や理念をユダヤ人の啓示信仰と融合させた」。そして,フィロンはまず第一に,「キリスト教会の教父たちに明らかな影響を及ぼした」。神は説明し難い存在であり,それゆえに,その名を口にすべきではない,とフィロンは教えました。
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「神聖さはエホバのもの」という意味のヘブライ語のしるしをターバンに付けたユダヤ人大祭司のこの絵はバチカンにある
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1805年のこのドイツ語訳聖書に示されているように,イエスは会堂でイザヤ書の巻き物を読まれた際,神のみ名を声を出して発音された。―ルカ 4:18,19
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神のみ名と聖書翻訳者たち神のみ名は永久に存続する
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神のみ名と聖書翻訳者たち
使徒の最後の一人が死んだ後,西暦2世紀の初めに,イエスやその追随者たちの予告どおり,キリスト教の信仰から離れ去る動きが本格的に生じるようになりました。異教の哲学や教理が会衆内に持ち込まれ,分派や分裂が生じ,当初の清い信仰は汚されていきました。そして,神のみ名も用いられなくなりました。
この背教したキリスト教が広まっていく間に,聖書を原語のヘブライ語やギリシャ語から他の言語に翻訳する必要が生じました。翻訳者たちは神のみ名をそれぞれの翻訳の中でどのように訳出したでしょうか。一般には,「主」に相当する語が用いられました。当時,非常に強い影響を及ぼしたのはラテン語ウルガタ訳で,これはヒエロニムスが聖書を常用ラテン語に訳したものです。ヒエロニムスは四文字語<テトラグラマトン>(YHWH)を訳す際,Dominus,「主」という語に置き換えました。
やがて,フランス語,英語,スペイン語といった新しい言語がヨーロッパで生じるようになりました。しかし,カトリック教会は,聖書をこれら新しい言語に翻訳することを妨げました。こうして,ユダヤ人が原語のヘブライ語で書かれた聖書を手にしながら,神のみ名を見てもそれを発音しなかったのに対し,ほとんどの“クリスチャン”は,神のみ名の用いられていないラテン語訳の聖書が朗読されるのを聞きました。
やがて,神のみ名が再び用いられるようになりました。1278年には,スペイン人修道士ライムンダス・マルティーニの著作「信仰の短剣」(Pugio fidei)の中に,神のみ名がラテン語で記されました。ライムンダス・マルティーニはYohouaというつづりを用いました。a その後間もなく,1303年に,ポルケトゥス・デ・サルウァティキスが「不敬虔なヘブライ人に対するポルケトゥスの勝利」(Victoria Porcheti adversus impios Hebraeos)と題する著作を書き上げました。この中で,ポルケトゥスも神のみ名に言及し,それをIohouah,Iohoua,Ihouahとさまざまなつづりで表わしました。次いで,1518年に,ペトルス・ガラティヌスが「宇宙の真理の奥義について」(De arcanis catholicae veritatis)と題する著作を発行し,その中で神のみ名をIehouaとつづりました。
1530年に,ウィリアム・ティンダルが聖書の最初の五書の翻訳を刊行しましたが,それによって英訳聖書に初めてみ名が載りました。ティンダルはこの翻訳の幾つかの節bに,通例,Iehouahというつづりで神のみ名を用いました。この訳の注に,ティンダルは次のように書きました。「Iehovahは神のみ名である。……さらに,LORDという語のあるところは(誤植でないかぎり)常に,ヘブライ語ではIehovahである」。これ以降,エホバのみ名をほんの二,三の節にだけ用い,ヘブライ語本文に四文字語<テトラグラマトン>の出ている他のほとんどの箇所には“LORD”(主)や“GOD”(神)を用いることが慣行となりました。
1611年には,最も広く用いられる英訳聖書となった欽定訳が発行されました。欽定訳の本文には,み名が4回出ています。(出エジプト記 6:3。詩編 83:18。イザヤ 12:2; 26:4)み名の詩的省略形である“Jah”(「ヤハ」)は詩編 68編4節に出てきます。また,み名の省略形でない形は,「エホバ・イルエ」その他の地名にも用いられました。(創世記 22:14。出エジプト記 17:15。裁き人 6:24)しかし,翻訳者たちは,ティンダルの例に倣って,ほとんどの箇所で神のみ名を“LORD”(主)や“GOD”(神)に置き換えました。しかし,もし四つの節で神のみ名を用いることができるのであれば,ヘブライ語本文にみ名の出ている他の幾千もの節すべてにそれを用いることがなぜできないのでしょうか。
同じことがドイツ語にも生じました。1534年に,マルティン・ルターは原語からの聖書の全訳を出版しました。何かの理由で,ルターは神のみ名をそこに含めず,HERR(「主」)といった代用語を用いました。しかし,ルターは神のみ名について十分認識していました。1526年に行なった,エレミヤ 23章1節から8節に基づく説教の中で,こう語っているからです。「エホバ,主というこの名前はまことの神だけに属する」。
1543年に,ルターは持ち前の率直さをもって次のように書きました。「彼ら[ユダヤ人]は現在,エホバのみ名は発音すべきではないと主張しているが,自らの語っている事柄を理解していない。……もしペンとインクで書けるのなら,なぜそれを口にすべきでないのか。ペンとインクで書くよりその方がずっと勝っている。なぜそれを,書いてはならないもの,読んではならないもの,考えてはならないものと呼ばないのか。このすべてを考慮すると,実に不快にさせられる」。ところが,ルターは自分の聖書翻訳の中ではその誤りを正しませんでした。しかし,後代の他のドイツ語訳の聖書には,出エジプト記 6章3節の本文にみ名が含まれています。
過去一,二世紀の間に,聖書翻訳者たちの態度は二つの方向に分かれるようになりました。神のみ名を一切用いようとしない翻訳者たちがいるのに対し,他の翻訳者たちはエホバという形や,ヤハウェまたはヤーウェという形でヘブライ語聖書の部分にみ名を幾度も用いました。み名を用いなかった二つの翻訳について考慮し,なぜそのようにしたのか,翻訳者たちの見解を調べてみましょう。
彼らがみ名を除いた理由
1935年にJ・M・ポウィス・スミスとエドガー・J・グッドスピードによって現代訳聖書が刊行されましたが,それを読む人々は,多くの場所で神のみ名の代わりに「主」や「神」が用いられていることに気づきました。序文にその理由が次のように説明されていました。「この翻訳において,我々は正統派ユダヤ教徒の伝統に従い,『ヤハウェ』という名を『主』に,また『主ヤハウェ』という句を『主なる神』という句に置き換えた。『主』や『神』が原文の『ヤハウェ』を表わす場合はいずれも,大文字体の小さな文字が用いられている」。
YHWHという文字を読んでそれを「主」と発音するユダヤ人の伝統に従う一般の慣行に倣いたくない場合についてはこう述べています。「それゆえ,原文の趣を保ちたいと思う人は,LORDやGODという語を見るたびに“ヤハウェ”と読めばよい」。
この説明を読むと,すぐに次の質問が思いに浮かびます。もし「主」ではなく「ヤハウェ」と読むのが「原文の趣」を保つのであれば,翻訳者たちはなぜ,自分たちの翻訳そのものの中で「ヤハウェ」を用いなかったのでしょうか。神のみ名を「主」という語で,翻訳者自身の言葉を借りて言うなら,「置き換え」,それによって原文の趣を覆い隠すことをなぜしたのでしょうか。
自分たちは正統派ユダヤ教徒の伝統に従っている,と翻訳者たちは述べています。しかし,それはクリスチャンにとって賢明なことでしょうか。正統派ユダヤ教徒の伝統を守っていたパリサイ人こそ,イエスを退けた人々であったのを覚えておかなければなりません。イエスは彼らに対し,「あなた方は,自分たちの伝統のゆえに神の言葉を無にしています」と言われました。(マタイ 15:6)このような置き換えは神の言葉をまさしく水で薄めるものです。
1951年に,ヘブライ語聖書の部分の改訂標準訳が英語で出版されましたが,この聖書にも神のみ名の代用語が用いられていました。改訂標準訳はアメリカ標準訳の改訂訳でしたが,この元の訳がヘブライ語聖書全体を通じてエホバのみ名を用いていたため,これは注目される点でした。ですから,み名を除いたことはひときわ目だつ新方針と言えました。なぜそのようにしたのでしょうか。
改訂標準訳の序文には次のように記されています。「次の二つの理由から,当委員会はジェームズ王訳のより親しみある用法[つまり,神のみ名を省くこと]に戻った。(1)“Jehovah”(エホバ)という語は,ヘブライ人がこれまで用いたみ名のいかなる形をも正確には表わしていない。また(2)他の神々がいて唯一の神を区別しなければならないかのように,唯一の神に対して何らかの固有名詞を用いることはキリスト教時代以前のユダヤ教において行なわれなくなっていた。それはキリスト教会の普遍的信仰にとっても全く不適切なことである」。
これは根拠のある論議と言えるでしょうか。すでに論じたように,イエスという名は,追随者たちが神のみ子の名前として用いたもともとの形を正確に表わしてはいません。それだからといって,同委員会は,その名前を用いるのをやめ,代わりに「仲介者」や「キリスト」という称号を用いるべきであるとは考えませんでした。確かに,そうした称号も用いられていますが,それはイエスの名に代わるものではなく,イエスの名に加えて用いられているのです。
まことの神と区別すべき他の神々はいないという論議について言えば,それは全く正しくありません。人間が崇拝している神々は幾百万もいます。使徒パウロは,「多くの『神』……がいる」と述べました。(コリント第一 8:5。フィリピ 3:19)当然のことながら,パウロが続けて述べているとおり,ただひとりのまことの神がおられます。ですから,まことの神のみ名を用いる大きな利点の一つは,それによってこの方を偽りの神々すべてから区別できるということにあります。さらに,もし神のみ名を用いることが「まったく不適切」であるのなら,それがヘブライ語聖書の原文に7,000回近くも出ているのはなぜでしょうか。
事実,多くの翻訳者たちは,現代の発音によってみ名を聖書に記すのは不適切であるとは考えませんでした。さまざまな訳にみ名が用いられましたが,その結果いつでも,聖書の著者にいっそうの誉れを帰し,原文により忠実に付き従う翻訳が作り出されました。広く読まれている訳でみ名を用いているものにはバレラ訳(スペイン語,1602年に出版),文語訳聖書(日本語,1888年に出版),アメリカ標準訳(英語,1901年に出版),フランシスコ会訳(日本語,1958年から分冊で出版)などがあります。なお,このフランシスコ会訳はヤーウェという形を用いています。有名なエルサレム聖書をはじめとする幾つかの訳は一貫して神のみ名を用いていますが,Yahwehとつづっています。
ここで,自分たちの翻訳にみ名を用いた翻訳者たちの幾人かの人々の注解を読み,その論議を,み名を省いた人々の論議と比べてみましょう。
他の翻訳者たちがみ名を用いた理由
1901年にアメリカ標準訳を出版した翻訳者たちの注解は次のとおりです。「[翻訳者たち]は全員一致して次のことを確信するに至った。すなわち,神のみ名は神聖すぎて口にできないとするユダヤ人の迷信に,英訳その他いかなる訳の旧約聖書ももはや縛られるべきではない。……この記念の名は出エジプト記 3章14,15節で説明されており,それによって神は,個性を持つ神,契約の神,啓示の神,救出者,ご自分の民の友として,旧約聖書の元の本文に幾度も繰り返し示されている。……この固有のみ名は,それに伴う実に多くの神聖な事柄と共に,聖なる本文中の疑問の余地のない然るべき場所に今や復元されている」。
同様に,ドイツ語のエルバーフェルダー聖書の初版の序文にはこう書かれています。「エホバ。我々はイスラエルの契約の神のこの名を引き続き用いた。読者は長年それに親しんできたからである」。
現代英語聖書の翻訳者であるスティーブン・T・バイイングトンは,神のみ名を用いている理由をこう説明しています。「つづりや発音はそれほど重要ではない。非常に大切なのは,それが固有名詞であることを明らかにしておく点である。この名を『主』といった一般名詞で訳したり,さらに悪いことに,名詞化された形容詞[例えば,永遠者]で訳したりすると,正しく理解できない聖句が幾つも生じる」。
J・B・ロザハムによる翻訳の場合は興味深いものです。ロザハムはその翻訳に神のみ名を用いましたが,ヤハウェという形のほうを好みました。ところが,その後,1911年に出版された,「詩編の研究」(Studies in the Psalms)と題する著作の中で,ロザハムは再びエホバという形を用いました。どうしてでしょうか。ロザハムは次のように説明しています。「エホバ ― 詩編のこの訳で記念の名(出エジプト記 3:18)を英語のこの語形で表わすことは,より正しい発音,つまりヤハウェとすることに対する疑念によるものではない。それは単に,この種の事柄では一般の人々の目と耳になじみ深いほうが望ましいという個人的観点に基づく実際的根拠によるものである。ここで最も重要なのは,神のみ名が示しているものを容易に識別できるようにすることである」。
詩編 34編3節で,エホバの崇拝者たちは,「あなた方はわたしと共にエホバを大いなるものとせよ。わたしたちは相共にそのみ名を高めよう」と勧められています。神のみ名を省いている聖書翻訳を読む人々はどのようにしてその勧めに十分応じることができるでしょうか。ヘブライ語聖書を訳す際,そこに神のみ名を含める勇気を持つ翻訳者が少なくとも幾人かはいたことをクリスチャンはうれしく思います。それによって,スミスとグッドスピードが「原文の趣」と呼んだものが保たれるのです。
しかし,ほとんどの翻訳は,たとえヘブライ語聖書中に神のみ名を用いている場合でも,クリスチャン・ギリシャ語聖書,すなわち「新約聖書」においてはそれを省いています。どんな理由によってそうしているのでしょうか。聖書のこの最後の部分に神のみ名を含めるのを正当なこととする何かの根拠があるでしょうか。
[脚注]
a この同じ著作の数世紀後の印刷の版では,神のみ名のつづりはJehovaとなっています。
b 創世記 15:12; 出エジプト記 6:3; 15:3; 17:16; 23:17; 33:19; 34:23; 申命記 3:24。ティンダルはまた,自分の翻訳のエゼキエル 18:23および36:23にも神のみ名を用いました。これらの翻訳は「新約聖書」,アントワープ,1534年の巻末に付け加えられています。
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欽定訳の翻訳者たちはわずか四つの節で神のみ名Jehovah(エホバ)を用い,他の箇所ではみ名をGOD(神)やLORD(主)という語に置き換えた
[22ページの拡大文]
もし神のみ名を用いることが「全く不適切」であるのなら,それが元のヘブライ語本文に7,000回近くも出ているのはなぜだろうか
[20,21ページの囲み記事/図版]
神のみ名に対する敵意?
現在出版されているアフリカーンス語(オランダ系南アフリカ人の間で話されている言語)の聖書のうち,神のみ名を載せている聖書は一つもありません。この国で話されているさまざまな部族の言語に訳された数多くの聖書がみ名を自由に用いている点を考えると,これは意外なことです。そのようになった経緯を調べてみましょう。
1878年8月24日,真正アフリカーナ人協会(G.R.A.)の会合で,アフリカーンス語の聖書の出版を求める熱烈な請願がなされました。6年後にその問題がもう一度取り上げられ,やがて,それを実行に移して,聖書を原語から翻訳するという決定がなされました。その仕事はトランスバール州の教育長であるS・J・ドゥ・トイトに委託されました。
ドゥ・トイトに対する指示の手紙には次の指針が含まれていました。「主エホバもしくはヤハベーという固有名詞は全体を通じて訳さない[つまり,主や神という語で置き換えない]でおくべきである」。S・J・ドゥ・トイトは聖書中の七つの書をアフリカーンス語に翻訳しましたが,エホバのみ名はその全体に用いられました。
南アフリカの他の出版物にも,一時期,神のみ名が用いられました。例えば,J・A・マルヘルベが1914年に著わした「簡明問答書」(De Korte Catechismus)には,「神の卓越したみ名は何か」という問いがあり,次のような答えが載せられていました。「エホバ。我々の聖書では,これは大文字で主[LORD]と書かれている。この[名]は他のいかなる被造物にも与えられていない」。
南アフリカのオランダ改革派教会連合日曜学校委員会発行の教理問答書(Die Katkisasieboek)には次の質問が載りました。「それでは,我々はエホバという名や主[LORD]という語を決して用いてはいけないのだろうか。ユダヤ人は確かにそれを用いていない。……それはおきての意味するところではない。……み名を用いて良いが,みだりに用いることは決してしてはならないのである」。賛美歌集(Die Halleluja)にも,最近まで,新しく印刷された版も含めて,幾つかの賛美歌にエホバのみ名が載せられていました。
しかし,ドゥ・トイトの翻訳は人気がなく,1916年に聖書翻訳委員会が設けられて,アフリカーンス語聖書出版の仕事を完成させることになりました。同委員会は,聖書からエホバのみ名を省く方針を採用しました。1971年には,南アフリカ聖書協会から,聖書の幾つかの書のアフリカーンス語の“試訳”が出版されました。神のみ名は,その序文で触れられていたものの,訳文の中には用いられませんでした。同様に,「新約聖書」と詩編の新しい翻訳が1979年に出版されましたが,神のみ名はそこからも省かれていました。
さらに,1970年以降,エホバのみ名に関する記述が賛美歌集から除かれました。そして,南アフリカのオランダ改革派教会が発行している,教理問答書の改訂版,第6刷からも今ではみ名が省かれています。
事実,エホバという語形を除き去ろうとする試みは書物に限られていません。パールのあるオランダ改革派の教会には,JEHOVAH JIREH(「エホバは備えてくださる」)という言葉が刻まれた礎石がありました。この教会と礎石の写真は1974年10月22日号のアフリカーンス語の「目ざめよ!」誌に載っています。その後,礎石は,DIE HERE SAL VOORSIEN(「主は備えてくださる」)という言葉の刻まれた別の石に替えられてしまいました。聖句の引用と礎石に刻まれている日付はそのままですが,エホバのみ名が除かれたのです。
ですから今日,アフリカーンス語を話す人々の多くは神のみ名を知りません。み名を知っている教会員もそれを用いようとしません。中にはみ名に異議を唱え,神のお名前は「主」であると主張して,エホバの証人はエホバという名を作り出したと非難する人までいます。
[図版]
南アフリカのパールにあるオランダ改革派の教会。初めはエホバのみ名が礎石(右上)に彫られていた。後日,それは別の礎石(左上)に取り替えられた
[18ページの図版]
1278年に出版された「信仰の短剣」(Pugio fidei)には神のみ名がYohouaという形で記されている。この写本(13世紀ないし14世紀)は,フランス,パリのサント・ジュヌビエーブ図書館に収蔵されている(162丁b)
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1530年に,聖書の最初の五書の翻訳を出版した際,ウィリアム・ティンダルは出エジプト記 6章3節で神のみ名を用いた。ティンダルはみ名を用いた理由をその翻訳の注で説明している
[クレジット]
(写真はニューヨークのアメリカ聖書協会図書館の好意による)
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神のみ名と「新約聖書」神のみ名は永久に存続する
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神のみ名と「新約聖書」
ヘブライ語聖書つまり「旧約聖書」の中で,神のみ名は揺るぎない位置を占めています。ユダヤ人はやがてみ名を発音しなくなりましたが,その宗教信念ゆえに,聖書の古い写本を作る際,それを除くことはしませんでした。ですから,ヘブライ語聖書には,神のみ名が他のどの名よりも多く記されています。
クリスチャン・ギリシャ語聖書つまり「新約聖書」の場合は事情が異なっています。啓示の書(聖書巻末の書)の写本には,神のみ名が「ヤハ」という省略形で(「ハレルヤ」という語に含まれて)出ています。しかしそれを別にすれば,聖書のマタイから啓示までの書の古代ギリシャ語写本で今日わたしたちが手にしているものの中に,神のみ名をすべての箇所に含んでいるものはありません。それは,み名がそこにあるべきではないという意味でしょうか。イエスの追随者たちが神のみ名の重要性を正しく認識しており,神のみ名が神聖なものとされるよう祈り求めることをイエスがわたしたちに教えた事実からすると,そのようなことは考えられません。では,何が起きたのでしょうか。
それを理解するには,今日わたしたちが手にしているクリスチャン・ギリシャ語聖書の写本は原本ではないことを覚えておかなければなりません。マタイやルカ,および他の聖書筆者たちが実際に書き記した書物は十分に使用され,すぐに傷んでしまいました。そこで,写本が作られましたが,それも傷むと,それら写本の写本がさらに作られました。写本は普通,使用することを目的に作られ,保存を目的とはしていませんでしたから,これは当然予期できることです。
今日,クリスチャン・ギリシャ語聖書の写本が幾千も存在していますが,その大半は,西暦4世紀以降に作られたものです。これは次の可能性を示唆しています。つまり,西暦4世紀より前にクリスチャン・ギリシャ語聖書の本文に何かが生じ,神のみ名が省かれるようになったのではないだろうかということです。事実は,何かが生じたことを裏付けています。
み名はそこにあった
使徒マタイが自分の記した福音書の中に神のみ名を含めたことをわたしたちは確信できます。というのは,マタイは初めそれをヘブライ語で書いたからです。4世紀の人で,ラテン語ウルガタ訳を翻訳したヒエロニムスは次のように伝えています。「収税吏から使徒になり,レビとも呼ばれたマタイはそもそもキリストの福音書をユダヤにおいてヘブライ語で編さんした。……その後だれがそれをギリシャ語に訳したかは十分定かではない。また,そのヘブライ語の書物そのものは今日に至るまでカエサレアの図書館に保存されている」。
マタイはヘブライ語で書いたのですから,神のみ名を用いなかったとは到底考えられません。「旧約聖書」の,み名の含まれている部分を引用した場合にはなおのことそうです。しかし,聖書の第2区分を記した他の筆者たちは,全世界の読者のために,当時の国際語であったギリシャ語で書きました。そのため,これらの筆者は原語であるヘブライ語の書物からではなく,ギリシャ語セプトゥアギンタ訳から引用しました。そして,マタイの福音書でさえやがてギリシャ語に翻訳されました。これらギリシャ語の書物に神のみ名は記されていたのでしょうか。
セプトゥアギンタ訳の非常に古い写本の断片で,正しくイエスの時代に存在していたものが今日幾つか残っています。そして,それらに神の固有のお名前が記されているのは注目に値する事柄です。新約神学新国際辞典(The New International Dictionary of New Testament Theology,第2巻,512ページ)はこう述べています。「本文に関する最近の発見は,七十人訳[セプトゥアギンタ訳]の編さん者たちが四文字語<テトラグラマトン>YHWHを訳す際キュリオスという語を用いたとする考えに疑いを投じた。今日我々が手にすることのできる七十人訳の最古の諸写本(断片)には,四文字語<テトラグラマトン>がギリシャ語本文中にヘブライ文字で記されている。この習慣は,旧約[聖書]を翻訳した後代のユダヤ人翻訳者たちによって西暦1世紀に受け継がれた」。ですから,イエスや弟子たちは,聖書をヘブライ語とギリシャ語のどちらで読んだ場合も,神のみ名を目にしたことでしょう。
そのため,米国ジョージア大学のジョージ・ハワード教授は次のような注解を述べました。「新約聖書の教会が用い,引用したセプトゥアギンタ訳に神のみ名のヘブライ語形が記されている場合,新約聖書の筆者たちがその引用句に四文字語<テトラグラマトン>を含めたことは疑いない」。(聖書考古学レビュー誌,1978年3月号,14ページ)それ以外のことを行なうどんな権威が彼らにあったでしょうか。
「旧約聖書」のギリシャ語訳には神のみ名がもう少し後の時代まで残っていました。西暦2世紀の前半に,ユダヤ教への改宗者アキュラはヘブライ語聖書の新しいギリシャ語訳を作りましたが,アキュラはその際,神のみ名を古代ヘブライ文字の四文字語<テトラグラマトン>で書き表わしました。西暦3世紀に,オリゲネスは次のように書きました。「そして,最も正確な写本では,み名はヘブライ文字で出ている。もっとも,今日のヘブライ[文字]ではなく,非常に古い古代の文字である」。
4世紀においてさえ,ヒエロニムスはサムエル記と列王記の序文でこう書いています。「また我々は,今日に至るまである種のギリシャ語の書物の中に神のみ名,四文字語<テトラグラマトン>[יהוה]が古代文字で記されているのを目にする」。
み名が除かれる
しかし,このころまでに,イエスによって予告されていた背教が明確な形を取るようになり,み名は,写本に出ているにもかかわらず,しだいに用いられなくなりました。(マタイ 13:24-30。使徒 20:29,30)やがて,多くの読者は,それが何であるかを識別することさえできなくなりました。ヒエロニムスは,当時の「一部の無知な者たちが,ギリシャ語の書物で[四文字語<テトラグラマトン>]を目にすると,文字が似ているという理由で習慣的にΠΙΠΙと読んでいる」と伝えています。
セプトゥアギンタ訳の後代の写本では,神のみ名が除かれ,「神」(テオス)や「主」(キュリオス)という語が代わりに用いられました。神のみ名を含むセプトゥアギンタ訳の初期の断片と神のみ名の除かれているセプトゥアギンタ訳の同じ部分の後代の写本が存在することから,そうした事態の生じたことが分かります。
同じことが「新約聖書」つまりクリスチャン・ギリシャ語聖書にも起きました。ジョージ・ハワード教授はさらにこう語っています。「ヘブライ語で表わされた神のみ名がセプトゥアギンタ訳から除かれ,ギリシャ語の代用語が用いられるようになると,新約聖書中のセプトゥアギンタ訳の引用箇所からもそれが除かれた。……程なくして,神のみ名は異邦人の教会にとって忘れられたものとなり,わずかに短縮形の代用語に名残をとどめるか,学者たちが記憶するだけのものとなった」。
このように,ユダヤ人は神のみ名を発音するのを拒んだのに対し,背教したキリスト教会は聖書の二つの部分のいずれのギリシャ語写本からも,また他の言語の訳からもみ名を完全に取り除いてしまいました。
み名の必要性
既に見たとおり,み名はやがて,ヘブライ語聖書の多くの翻訳の中で復元されました。それでは,ギリシャ語聖書についてはどうでしょうか。聖書翻訳者や研究者たちは,神のみ名がなければ,クリスチャン・ギリシャ語聖書のある部分を正しく理解するのが非常に難しいことに気づくようになりました。み名を復元することは,霊感による聖書のこの部分の明解さを増し,理解を深めるのに大いに役立ちます。
例えば,パウロがローマ人に語った言葉を考えてみましょう。欽定訳では,その部分は,「すべて主のみ名を呼び求める者は救われるのである」となっています。(ローマ 10:13)救われるためにだれの名を呼び求めなければならないのでしょうか。イエスはしばしば「主」と呼ばれており,ある聖句には,「主イエス・キリストを信じよ。そうすれば救われる」とさえ書かれています。それでは,パウロはここでイエスについて語っていたと結論すべきでしょうか。―使徒 16:31,欽定訳。
そうではありません。欽定訳のローマ 10章13節の欄外参照にはヘブライ語聖書中のヨエル 2章32節を見るよう指示されています。その参照聖句を調べれば,ローマ人にあてた手紙の中でパウロはヨエルの言葉を実際に引用していたことが分かります。ヘブライ語原文によれば,ヨエルの語った言葉は次のとおりです。「エホバの名を呼び求める者はみな安全に逃れることになる」。(新世界訳)そうです,パウロがここで意図していたのは,わたしたちはエホバのみ名を呼び求めなければならないということでした。ですから,わたしたちはイエスを信じなければなりませんが,わたしたちの救いは神のみ名に対する正しい認識と密接に結びついているのです。
この例は,ギリシャ語聖書から神のみ名の除かれたことが多くの人の思いをいかに混乱させて,イエスとエホバの区別をつかないようにしてしまったかを示しています。疑いなくこのことは,三位一体の教理の発展に大きな影響を及ぼしたことでしょう。
み名を復元すべきか
現存する写本にみ名が含まれていないという事実を考慮すると,翻訳者にはみ名を復元する権利があると言えるでしょうか。そうする権利があると言えます。ほとんどのギリシャ語辞典は,聖書中の「主」という語が多くの場合にエホバを指すことを認めています。例えば,ロビンソンの新約聖書希英辞典(A Greek and English Lexicon of the New Testament,1859年に印刷)はギリシャ語キュリオス(「主」)の項のもとでその意味を次のように説明しています。「至上者なる主また宇宙の主権者としての神。セプトゥアギンタ[訳]では普通,ヘブライ語יְהוָֹה,エホバを表わす」。ですから,クリスチャン・ギリシャ語聖書の筆者たちがそれ以前のヘブライ語聖書から引用している箇所では,ヘブライ語原文に神のみ名の出ている部分のキュリオスという語を「エホバ」と訳す権利が翻訳者にはあります。
そのようにした翻訳者は少なくありません。遅くとも14世紀から,クリスチャン・ギリシャ語聖書のヘブライ語訳が数多く作られてきました。神のみ名の出ている「旧約聖書」の引用句について,翻訳者たちはどのようにしたでしょうか。多くの場合,神のみ名を本文に復元せざるを得ないと感じました。クリスチャン・ギリシャ語聖書の一部または全巻のヘブライ語訳の多くが神のみ名を含んでいます。
さまざまな現代語訳の聖書,特に宣教師たちが用いる聖書はこの範に倣いました。「エホバ」のみ名を用いている日本語版の聖書としてはナタン・ブラウンによるギリシャ語聖書の翻訳,1906年版があります。その中では,他の翻訳者たちが「主」という語を用いている多くの場所に「エホバ」のみ名が添え書きされています。
正当な権威のもとに神のみ名を大胆に復元している翻訳の一つはクリスチャン・ギリシャ語聖書新世界訳です。日本語を初め,現代の11の言語で現在入手できるこの訳は,ヘブライ語聖書中の神のみ名を含む句がギリシャ語聖書に引用されているすべての箇所で神のみ名を復元しています。ギリシャ語聖書のこの翻訳では,確かな根拠に基づいて合計237回み名が出てきます。
み名に対する反対
聖書中に神のみ名を復元しようとする多くの翻訳者の努力にもかかわらず,み名を消し去ろうとする宗教的圧力も常に存在してきました。ユダヤ人は,み名を聖書にとどめてはいましたが,それを発音しようとしませんでした。西暦二,三世紀の背教したクリスチャンたちは,ギリシャ語聖書の写本の写しを作る際にみ名を取り除き,聖書の翻訳を行なった時にもみ名を省いてしまいました。現代の翻訳者たちは,み名が7,000回近く出ているヘブライ語原文に基づいて翻訳する場合でも,み名を除き去ってしまいました。(新世界訳聖書,英文1984年版のヘブライ語聖書部分には,み名が6,973回出ています。)
エホバは,聖書からご自分のお名前を除く人々をどう見ておられるでしょうか。もしもあなたが何かの本の著者であるなら,あなたの著わした書物からあなたの名前を除き去ってしまうようなことをする人についてどう感じるでしょうか。発音上の問題を理由にしたり,ユダヤ人の伝統を盾に取ったりしてみ名に異議を唱える翻訳者たちは,イエスが言われた,「ぶよは濾し取りながら,らくだを呑み込む者たち」と比較されるでしょう。(マタイ 23:24)彼らはこれら小さな問題につまずき,かえって大きな問題を作り出しています。宇宙で最も偉大な方のお名前をその方の霊感による書物から取り除くという行為によって問題を引き起こしているのです。
詩編作者は次のように書きました。「神よ,いつまで敵対者はそしり続けるのですか。敵はあなたのみ名を永久に不敬な仕方で扱うのですか」― 詩編 74:10。
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「主」―「エホバ」と同等か
神固有の独特のお名前を聖書から取り除き,「主」や「神」といった称号で置き換えることは,聖句を弱々しい不十分なものにしてしまいます。例えば,それは意味のない言葉の結合を作り出しかねません。エルサレム聖書の序文にはこう記されています。「『主は神である』と言えば確かに同義語反復[無用もしくは無意味な繰り返し]であるが,『ヤハウェは神である』と言うことは反復にはならない」。
そうした置き換えは聖句をぎこちないものにしかねません。例えば,欽定訳の詩編 8編9節は次のようになっています。「主よ,我が主よ,なんじのみ名は全地でいかに優れていることか」。このような本文にエホバのみ名を復元するなら,何と改善が図られることでしょう。例えば,ヤングの字義訳聖書はこの部分を次のように訳しています。「エホバ,我が主よ,なんじのみ名は全地でいかに誉れあるものか」。
また,み名を取り除くことは混乱をもたらしかねません。詩編 110編1節にはこう記されています。「主は我が主に言われた。なんじの敵をなんじの足の台とするまで,我が右に座せよ」。(欽定訳)だれがだれに向かって語っているのでしょうか。次のように訳出するほうがずっと優れています。「わたしの主に対するエホバのお告げはこうです。『わたしがあなたの敵をあなたの足台として置くまでは,わたしの右に座していよ』」― 新世界訳。
さらに,「エホバ」を「主」という語で置き換える行為は,聖書から極めて重要なもの,つまり神の固有のみ名を除き取ることを意味します。例解聖書辞典(The Illustrated Bible Dictionary,第1巻,572ページ)はこう述べています。「厳密に言うと,ヤハウェは神の唯一の『名』である」。
インペリアル聖書辞典(The Imperial Bible-Dictionary,第1巻,856ページ)は「神」(エローヒーム)と「エホバ」との違いを説明してこう述べています。「[エホバ]はいずれの場合にも固有名であり,人格を有する神ただおひとりを指す。一方,エローヒームは普通名詞の性格が強く,実際のところ一般には至上者を指すものの,必ずしもそうである必要はなく,一貫してそのように用いられているわけでもない」。
英国トリニティー大学の学長,J・A・モトヤーは次のように言葉を加えています。「代用語[主や神]の背後にある神ご自身の固有の私的な名を見過ごすと,聖書通読の際に多くを得そこなうことになる。神は,ご自分の民にみ名を告げることにより,ご自身の内奥の特質を民に啓示しようと意図された」―「エールドマンズの聖書ハンドブック」(Eerdmans' Handbook to the Bible),157ページ。
独特の固有名を単なる称号に訳すことはだれにもできません。称号は,神の本来のみ名が有する豊かな意味を十分に伝えることが決してできないのです。
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セプトゥアギンタ訳のこの断片(右)はエルサレムのイスラエル博物館にあり,西暦1世紀のものとされている。ゼカリヤ 8章19節から21節および8章23節から9章4節が含まれているが,この断片にはみ名が4回出ていて,そのうちの3回がここに示されている。400年後に作られたセプトゥアギンタ訳の写本,アレクサンドリア写本(左)では,これら同じ節の中の神のみ名が,キュリオス(「主」)というギリシャ語の省略形KYおよびKCに置き換えられている
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19世紀に中国で働いた宣教師ジョン・W・デービスは,聖書中に神のみ名を残すべきであると自分が考えた理由を次のように説明しました。「聖霊がしかるべき箇所においてヘブライ語でエホバと述べるのであれば,翻訳者が英語や中国語でエホバと言わないのはなぜか。この場所ではエホバを用い,別の場所では代用語を用いるどんな権利が翻訳者にあるのか。……エホバという語を用いるのが間違っている事例があるとする人がもしもいるなら,その人にはその理由を示してもらいたい。onus probandi[立証責任]がその人に課せられている。それを果たすのは容易でないことに気づくであろう。その人は次の単純な質問に答えなければならないからである。すなわち,翻訳の際,ある箇所でエホバという語を用いるのが間違っているのであれば,霊感を受けた筆者は原文の中でなぜそれを用いたのか」―「中国見聞録と宣教師の日誌」(The Chinese Recorder and Missionary Journal),第7巻,上海,1876年。
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クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳は神のみ名を正しく237回用いている
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スペイン,ミノルカの教会にある神のみ名
フランス,パリ郊外の彫像に刻まれている神のみ名
イタリア,パルマのキエサ・ディ・サン・ロレンゾにある神のみ名
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神のみ名を知らなければならない理由神のみ名は永久に存続する
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神のみ名を知らなければならない理由
「エホバの名を呼び求める者はみな救われる」。(ローマ 10:13)使徒パウロはこのように述べて,神のみ名を知ることがいかに重要であるかを強調しました。パウロのこの言葉は最初に取り上げた質問にわたしたちの注意を再び向けさせます。その質問は,ほかにさまざまの重要な事柄があるのに,なぜイエスは模範となるその祈りの冒頭で,それらすべてよりも先に,神のみ名が『あがめられる』こと,つまり神聖なものとされることを求めたのだろうかというものでした。これを理解するために,かぎとなる二つの言葉の意味をもう少し正確に把握する必要があります。
まず,『あがめる』,もしくは『神聖なものとする』という言葉は実際には何を意味しているのでしょうか。その言葉には字義的には,「聖なるものとする」という意味があります。しかし,神のみ名は既に聖なるものではないのですか。もちろん,聖なるものです。わたしたちが神のみ名を神聖なものとすると言っても,それによってみ名をいっそう聖なるものにするというのではありません。むしろそれは,わたしたちがみ名を聖なるものとして認め,それを取り分け,最大の敬意を込めて扱うことを意味します。神のみ名が神聖なものとされるよう祈り求める時,わたしたちは,被造物すべてがみ名を聖なるものとして敬う時が訪れることを望み見ているのです。
第二の点として,「名」という言葉には厳密に言ってどのような意味が含まれているのでしょうか。神にはエホバというお名前があり,聖書中にそのみ名は幾千回となく出てくることを知りました。また,み名を聖書本文中の正当な箇所に復元することの重要性についても論じてきました。み名が記されていなければ,詩編作者の次の言葉はどのように成就されるのでしょうか。「あなたのみ名を知る者たちはあなたに依り頼みます。エホバよ,あなたはご自分を捜し求める者たちを決して捨てられないからです」― 詩編 9:10。
しかし,『神のみ名を知ること』には,神のみ名がヘブライ語でYHWH,日本語ではエホバであるという知識を単に頭の中に持つことだけが関係しているのではありません。それよりさらに多くのことを意味しています。モーセがシナイ山にいた時,「エホバは雲のうちにあって下って来られ,[モーセ]と共にそこに立ち,エホバの名を宣明され」ました。エホバのみ名のこの宣明には何が伴っていたでしょうか。エホバの特質に関する次の描写が伴っていました。「エホバ,エホバ,憐れみと慈しみに富み,怒ることに遅く,愛ある親切と真実とに満ちる神」。(出エジプト記 34:5,6)モーセは,死ぬ少し前にも,イスラエルの人々に向かって,『わたしはエホバの名をふれ告げる』と語りました。続いて何が語られたでしょうか。エホバの偉大な属性のことが幾つか述べられ,次いで神がご自分のみ名のためにイスラエルに対して行なわれた事柄が回顧されました。(申命記 32:3-43)このように,神のみ名を知ることは,み名が表わす事柄を学び,そのみ名を持たれる神を崇拝することを意味します。
エホバがみ名をご自分の特質や目的,行ないと結びつけておられることから,聖書が,神のみ名は聖なるものであると述べている理由が分かります。(レビ記 22:32)そのみ名は威光を帯びており,大いなるもので,畏怖の念を起こさせ,達しがたいまでに高いのです。(詩編 8:1; 99:3; 148:13)正しく,神のみ名は単なるラベル以上のものです。それは神を人格的存在として示しています。それは一時期用いられ,次いで「主」などの称号に取って代わられるべき単なる一時的な名前ではなかったのです。エホバご自身がモーセにこう言われました。「『エホバ……』。これは定めのない時に至るわたしの名,代々にわたるわたしの記念である」― 出エジプト記 3:15。
人間がたとえ試みたとしても,神のみ名を地上から消し去ることはできません。次のように記されているからです。「『日の昇る所から日の沈む所に至るまで,わたしの名は諸国民の間で大いなるものとなり,あらゆる所で犠牲の煙が上り,進物,すなわち清い供え物がわたしの名に対してささげられるようになるのである。わたしの名は諸国民の間で大いなるものとなるからである』と,万軍のエホバは言われた」― マラキ 1:11。出エジプト記 9:16。エゼキエル 36:23。
ですから,神のみ名が神聖なものとされることは他のいかなる問題よりはるかに重要です。神の目的すべてはそのみ名と結びついています。人間の抱える諸問題は,サタンがエホバを事実上,偽り者と呼び,人類を治めるにはふさわしくないと主張して,最初にそのみ名を汚した時に始まりました。(創世記 3:1-6。ヨハネ 8:44)神のみ名が正しく立証されて初めて,人間は,サタンの偽りがもたらした悲惨な影響からの完全な安らぎを享受できるのです。それゆえにこそクリスチャンは,神のみ名が神聖なものとされることを熱烈に祈り求めます。しかし,み名を神聖なものとするためにクリスチャンに行なえる事がほかにもあります。
どうすれば神のみ名を神聖なものとすることができるか
一つの方法は,他の人々にエホバについて語り,キリスト・イエスによるその王国を人類の唯一の希望として示すことです。(啓示 12:10)大勢の人がそのようにして,イザヤの次の預言の言葉を現代において成就しています。「そして,その日,あなた方は必ず言う,『あなた方はエホバに感謝せよ! そのみ名を呼び求めよ。もろもろの民の中にその行ないを知らせよ。そのみ名の高く上げられることを語り告げよ。エホバに調べを奏でよ。見事にことを行なわれたからだ。これは全地に知らされている』」― イザヤ 12:4,5。
別の方法は神の律法と命令に従うことです。エホバはイスラエル国民に次のように告げました。「あなた方はわたしのおきてを守って,それを行なうように。わたしはエホバである。そして,あなた方はわたしの聖なる名を汚してはならない。わたしはイスラエルの子らの中にあって神聖なものとされなければならない。わたしはエホバ,あなた方を神聖にしている者であ(る)」― レビ記 22:31,32。
イスラエル人がエホバの律法を守ることは,どのようにそのみ名を神聖なものとすることになったでしょうか。律法はみ名に基づいてイスラエル人に与えられました。(出エジプト記 20:2-17)ですから,律法を守る時,そのみ名に対してふさわしい誉れと敬意を示していたことになります。さらに,エホバのみ名が一国民としてのイスラエル人の上に置かれていました。(申命記 28:10。歴代第二 7:14)正しく振る舞う子供が父親に誉れをもたらすのと同様,彼らが正しく行動するとき,それによって神に賛美がもたらされました。
一方,イスラエル人が神の律法を守らないとき,彼らはそれによってみ名を汚しました。そのため,偶像に犠牲をささげたり,偽り事に対する誓いをしたり,貧しい人々を虐げたり,淫行を犯したりする罪の行ないは聖書の中で『神のみ名を汚すもの』とされています。―レビ記 18:21; 19:12。エレミヤ 34:16。エゼキエル 43:7。
同様に,クリスチャンは神のみ名において命令を与えられています。(ヨハネ 8:28)また,クリスチャンも,『エホバのみ名のための民』に連なっています。(使徒 15:14)ですから,「御名があがめられますように」と誠実に祈るクリスチャンは,神のすべての命令に従うことにより,自らの生活によってそのみ名を神聖なものとするでしょう。(ヨハネ第一 5:3)これには,常にみ父に栄光を帰した,神のみ子,イエスの命令に従うことも含まれます。―ヨハネ 13:31,34。マタイ 24:14; 28:19,20。
イエスは,処刑される前の晩,クリスチャンに対して神のみ名の重要性を際立たせました。イエスは,「わたしはみ名を彼らに知らせました。またこれからも知らせます」とみ父に述べたのち,さらにこう述べました。「それは,わたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり,わたしが彼らと結びついているためです」。(ヨハネ 17:26)弟子たちが神のみ名を学ぶことには,神の愛を個人的に知ることが含まれていました。イエスは,弟子たちが神のことを,彼らを愛する父として親しく知ることができるようにしてくださいました。―ヨハネ 17:3。
み名があなたに及ぼす影響
西暦1世紀にエルサレムで開かれたクリスチャンの使徒や年長者たちの会合において,弟子ヤコブはこう述べました。「シメオンは,神が初めて諸国民に注意を向け,その中からご自分のみ名のための民を取り出された次第を十分に話してくれました」。もしもみ名を用いたり担ったりしないのであれば,その人は自らを,神が取り出された「ご自分のみ名のための民」とすることができるでしょうか。―使徒 15:14。
多くの人がエホバのみ名を用いようとせず,多くの翻訳者が自分たちの翻訳からみ名を除いてはいても,世界中の幾百万もの人々は,神のみ名を担い,崇拝の時だけでなく日常の会話の中でもみ名を用い,他の人々にみ名をふれ告げる特権を喜んで受け入れています。だれかが聖書の神についてあなたに語り,エホバのみ名を用いたなら,その人をどの宗教グループと結びつけるでしょうか。古代における神の崇拝者たちが行なっていたとおりに崇拝において神のみ名を常に用いているのは世界中でただ一つのグループ,エホバの証人だけです。
「エホバの証人」という聖書に基づくその名前は,これらのクリスチャンが『神のみ名のための民』であることを示しています。彼らはそうした名を持っていることを誇りに思っています。なぜなら,エホバ神ご自身がほかならぬその名を真の崇拝者たちにお与えになったからです。イザヤ 43章10節にはこう記されています。「『あなた方はわたしの証人である』と,エホバはお告げになる,『すなわち,わたしが選んだわたしの僕である』」。神はここでだれについて語っておられたのでしょうか。それより前の幾つかの節を考慮なさってください。
同じ章の5節から7節でイザヤは次のように述べています。「恐れてはならない。わたしはあなたと共にいるからである。わたしは日の昇る方からあなたの胤を連れて来る。日の沈む方からあなたを集める。わたしは北に向かって,『引き渡せ!』と言い,南に向かって,『引きとどめるな。わたしの息子たちを遠くから,わたしの娘たちを地の果てから連れて来るように。すべてわたしの名で呼ばれている,わたしがわたしの栄光のために創造し,わたしが形造り,そうだ,わたしが造った者を』と言うであろう」。今日,これらの節は,神がご自分に賛美を帰させるため,またご自分の証人とならせるためにあらゆる国民から集めた,神ご自身のための民に当てはまります。このように,神のみ名は神ご自身を明らかにするだけでなく,今日の地上における神の真の僕たちを識別する助けともなっています。
神のみ名を知ることから得られる祝福
エホバは,ご自分のみ名を愛する人々を保護されます。詩編作者は次のように述べました。「彼がわたしに愛情を傾けたので,わたしも彼を逃れさせる。彼がわたしの名を知るようになったので,わたしは彼を保護する」。(詩編 91:14)また,神は彼らのことを覚えていてくださいます。こう記されています。「その時,エホバを恐れる者たちが互いに,各々その友に語り,エホバは注意して聴いておられた。そして,エホバを恐れる者のため,またそのみ名を思う者たちのために,覚えの書がそのみ前で記されるようになった」― マラキ 3:16。
ですから,神のみ名を知り,み名を愛することがもたらす恩恵は,現在の命だけに限られていません。エホバは従順な人間に楽園の地における幸福な永遠の命を約束されました。ダビデは霊感を受けて次のように書きました。『悪を行なう者たちは断ち滅ぼされるが,エホバを待ち望む者たちは,地を所有する者となる。しかし柔和な者たちは地を所有し,豊かな平和にまさに無上の喜びを見いだすであろう』― 詩編 37:9,11。
このことはどのように可能になるのでしょうか。イエスはその答えを与えておられます。「あなたのお名前が神聖なものとされますように」と祈るようわたしたちに教えたその同じ模範となる祈りの中で,イエスはこう言葉を加えました。「あなたの王国が来ますように。あなたのご意志が天におけると同じように,地上においてもなされますように」。(マタイ 6:9,10)そうです,イエス・キリストの手に託される神の王国は神のみ名を神聖なものとし,同時にこの地上に望ましい状態をもたらすのです。悪を一掃し,戦争,犯罪,飢きん,病気,死を取り除きます。―詩編 46:8,9。イザヤ 11:9; 25:6; 33:24。啓示 21:3,4。
その王国のもとで,あなたは永遠の命を享受できます。どのようにすることによってですか。神を知ることによってです。こう記されています。「彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています」。(ヨハネ 17:3)エホバの証人は,命を与えるそうした知識をあなたが取り入れるのを喜んでご援助いたします。―使徒 8:29-31。
この冊子に載せられている情報から,創造者にはご自身にとって極めて貴重な固有の名があることを,あなたは確信なさったことでしょう。そのみ名はあなたにとっても非常に貴重なものであるはずです。み名を知り,とりわけ崇拝においてそれを用いることの重要性を読者ひとりひとりが十分認識されますように。
そして幾世紀も昔に大胆にも次のように語った預言者ミカと同じように語ることがあなたの決意でありますように。「もろもろの民は皆,それぞれ自分たちの神の名によって歩む。しかしわたしたちは,定めのない時に至るまで,まさに永久に,わたしたちの神エホバの名によって歩む」― ミカ 4:5。
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