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    ものみの塔 1972 | 1月1日
    • 知らされるのは有益なこと

      わずか12時間前に警報を受けた,アメリカ,ミシシッピ州,メキシコ湾沿岸一帯の住民約5万人は,1969年8月17日の夕方,北方地区に避難して,米国史上最大のあらしの一つとなったハリケーン・カミールの猛威を危く免れ,急を知らされたことに深く感謝しました。

      ハリケーンに一番ひどく襲われた都市,パス・クリスチヤンでは,警察署長ジェリー・ペラルタが家々を一巡して最後の報告を伝えていたところ,とある優雅な造りのアパートに何人もの人びとが集まり,パーティーを開いてあらしを見送ることにし,ペラルタの警告に耳を貸そうとしませんでした。そこでペラルタは彼らの近親者の名前を控えたところ,人びとから笑いものにされました。が,ほどなくして,そのアパートは完全に破壊され,死者20人を出しました。

      パス・クリスチャンのある避難民は言いました。「この町はたびたびあらしにあってきたので,あらしのことなど少しも意に介さなかったのですが,今度だけはしてやられました。ほんとうに思い知らされました」。

      今や別の種類の警鐘が世界的な規模で打ち鳴らされています。指導者たちは幾多の面で大災害の生ずるおそれのあることを公に憂慮しています。しかし,聖書はそれ以上に重大な危険のあることを警告しています。もしこの警告が真実であれば,知らされる人は自分自身と自分の家族の命を救うことになります,留意しない人は,のがれ道を失う事態に陥りかねません。

      親切にも神は,警告を発するとともに,のがれる道をもさし示しておられます,したがって,その警告を無視して『意に介さない』のは愚かです。この号の「ものみの塔」誌に掲載されている次の記事の題が示すように,諸国民と神との衝突がまさに迫っているのであれば,これは考えうる最大の危険といわねばなりません。そうした衝突の理由またそれを免れる方法について知らされることは確かに益があります。

      エホバの証人がこの雑誌を携えて人びとの家庭を尋ねるのはそのためです。証人たちは単に意見を述べているのではありません。彼らは,確かに何人の死をも好まず,十分の警告をお与えになる神の証人なのです。―エゼキエル 33:11。

      エホバの証人は人びとの命のことを気づかっています。しかしながら,証人たちにできるのは,問題を知るよう人を助けることだけです。提供された情報を考量し,それに応じて行動を起こすかどうかを決めるのは個人個人の特権です。しかし,『この世界はこれまでにもあらしを切り抜けてきたのだから,この警告もなんら意に介するには及ばない』という態度を取るのは非常に危険です。クリスチャンのこうした警告を一笑に付したり,あざけったりせずに,とにかく「諸国民すべてが神と正面衝突する時」と題する次の記事をお読みください。

  • 諸国民すべてが神と正面衝突する時
    ものみの塔 1972 | 1月1日
    • 諸国民すべてが神と正面衝突する時

      この記事に収められている感動的な音信は,昨年の夏,世界の多くの場所で合計919,755人もの聴衆に主要な講演として提供されたものです。

      「我是を汝に行ふべければ……汝の神に会ふ準備をせよ」― アモス 4:12。

      1,2 (イ)大災害を招くことになるにもかかわらず,多くの人びとは,諸国民すべてが神と衝突するという考えをどうみなしますか。(ロ)そのために,そうした見込みはなくなりますか。今はなぜこの問題を真剣に検討すべき時ですか。

      大災害をもたらす衝突は決して笑いごとではありません。それにしても,諸国民すべてが神と衝突するというこの話は笑いごとではありませんか。そういう考え自体ばかげたことではありませんか。

      2 そうです,そうした考えを単に示唆しただけで,幾億人もの男女は,今すぐにでも笑うでしょう。しかし,それら男女の脳裏にかつて浮かばなかったからといって,そうした事態の起きる可能性,もしくは見込みさえもがなくなるわけでは決してありません。それに,その見込みについていえば,そうした事態が近い将来,つまりわたしたちの世代のうちに生ずるとすればどうですか。もしそうであれば,たとえそれほど大ぜいの人びとにとってどんなに笑い事のように思えようとも,この奇妙ともいうべき考えを真剣に検討するのに今はまさに事宜を得た時といわねばなりません。しかも,衝突する双方の一方の側だけが大災害をこうむるのですから,なおさらです。これは,わたしたちが害を受けずにのがれる者たちの側に立ちうるとともに,このきたるべき衝突のゆえにこそいっそう幸福な前途を迎えうるということを示しています。そういうわけで,時に恵まれている今,この問題を検討するのは確かに価値のあることといわねばなりません。

      3 人類はみずからの福祉に資する方向に進んでいますか。神を信じない人たちはやがて責任を取ることになるという事がらに関してどう考えますか。

      3 被造物であるわたしたち人間はこの地球につながれており,したがって,地球とともに移動しています。わたしたちが立っているこの天体には輝かしい将来があります。しかし,地上に現存する人類社会の現在の世代についてはどうですか。自分たちの永遠の福祉に資する方向に進んでいますか。事情に詳しい科学者,学識ある歴史家,先見の明のある政治家の多くは否と答えます。若者たちでさえ将来に対する恐れの念を吐露し,時には凶暴なデモなどに訴えて否といいます。前途の大災害を認める善意の持ち主の誠実な努力にもかかわらず,人類全体の動きはその方向をそらせることさえできないほど勢いを加えてきました。おそかれ早かれあらゆる徴候からすれば,大多数の人びとが考えているよりもずっと早く ― 人類は何ものか,あるいはだれかに対して責任を取る事態に陥らざるをえません。神を信じてはおらず,それゆえに神に対して責任を感じない人たちは,何ものかに対してそうすることはあっても,神に対して責任を取ることなどはないと言います。

      4 地球は全宇宙の総質量とどのように比べられますか。地球に関するどんな事がらは創造者の必要を示していますか。

      4 神を信じないそうした人びとの存在するこの地球はきわめて小さな物体です。宇宙飛行士が見いだしえた宇宙全体のことをちょっと考えてみてください。この見える全宇宙の総質量と比べて,地球はまさに微小です。目をとめるにさえ価しないほど小さく感じられます。ところが,地球は,理知のある被造物,道徳観念を備えた人間のような被造物の住む惑星として知られている唯一無二の天体です。これは単なる偶然の所産それとも計画の所産ですか。確かに人間は自力でここにやってきたのではありません。人間はここにやってくる前に,生活に適したこのすばらしい自然環境を地表に準備したわけではありません。全質量6×1021トン(6.5×1021小トン)もある地球は確かに人間が作ったものではありません。地球がひとりでにここにやってきたわけでもなければ,獣や鳥や魚もろとも人間をみずからの上に置いたのでもありません。それには人間以上に理知のある創造者を必要としました。あらゆる生命のその創造者また源は神です。

      5 神の存在を否定する人たちはどんなものであることが明らかにされますか。諸国民は神と衝突するからといって神を見る必要はありません。なぜですか。

      5 諸国民すべてと神とが衝突するには,実在する神が存在しなければなりません。神は確かに存在しておられるばかりか,神や創造者はいないという人間は愚か者であるとの発言の正しさを必ず実証されます。「新英語聖書」1970年版の詩篇 14篇1節はこう述べます。「不信心な愚か者はその心の中で,『神はいない』と言う」。「新世界訳聖書」(英文)は原語のヘブル語本文をさかのぼって考察し,この句を次のように訳出しています。「無分別な者はその心の中で言った。『エホバはいない』」。今日,諸国民はすべて言動のいずれかをもって,「神はいない」,エホバはいないと言います。諸国民すべてはまさにそうした理由で盲目のまま,神と衝突するのでしょうか。諸国民が神と衝突するには神を見なければならないというわけではありません。真っ暗やみの中では,人間は目に見えない数多くのものに衝突します。周囲の暗やみのために,衝突するものが見えないからといって,自分がぶつかるものは存在しないとはいえません。衝突して痛いめにあうと,その存在を思い知らされます。実際のところ,暗やみはそうした衝突を助長します。

      6 衝突といえば,衝突するものについてどんなことがいえなければなりませんか。衝突の理由に関してどんな質問が提起されますか。

      6 正面衝突するには,当面の二つのものが同一の道を,互いに相手に向かって進まねばなりません。神と諸国民は互いに向き合って同一の道を進んでいますか。両者が同一の道にあるためには,焦眉の論争,つまり両者に共通の,存亡にかかわる論争点がなければなりません。当事者双方はその論争に関して対立していなければならず,妥協の余地は許されません。両者は対決しなければなりません。実情はまさにそのとおりです。その重大な論争もしくは論争点はなんですか。その決着をつける時が迫っていると言えるのはなぜですか。どのようにして解決されるのですか。

      諸国民すべては結束して共通の敵にあたる

      7 今日,諸国民はどんな世界的論争で分裂していますか。国家群はおのおのどんな決意をいだいていますか。

      7 興味深いことに,人間はある共同体内で意見を異にし,互いに争っていながら,共通の敵が現われると,しばしば結束して敵にあたります。今日の諸国民にもそうした事態が見られます。諸国民はすべて国家主義的な利己主義のゆえに,一つあるいは幾つかの面で互いに対立しています。諸国民がそれぞれ独自の立場を主張する一つの論争があります。すなわち国家主権の問題です。幾つかの例外を除けば,諸国家の大半は世界の係争問題に関して相対立する二つの陣営に分かれています。その問題とはなんですか。世界支配の問題です。たとえば,公表されたところによると,急進派陣営のソ連指導者陣は,1975年までに,全世界の共産化を完遂する見込みであると述べています。しかしながら,民主主義を標ぼうする資本主義陣営の諸国家群は,1975年あるいは他のいかなる年代までにせよ,そうされることを断じて許さないとしています。では,地球は永遠に分割支配を受けるのですか。人間にはそれしか言えないのですか。

      8 諸国民のいかなる陣営であれ,世界支配を求める権利については,なんと言わねばなりませんか。創造者の主権については,なんと言わねばなりませんか。

      8 平和を愛する人たちは,そうでないことを願っています。さもなくば,世界の平和と安全のための機構,国際連合が存続しているにもかかわらず,世界は核戦争の脅威から決して解放されないからです。それにしても,人間は地球の,見える占有者だからといって,全地球を支配する自然権を持っていますか。ある政治理念を固守する諸国民の一陣営が軍事力や人数ゆえに全世界の支配権を有するのですか。それとも,諸国民すべてとは別個の,そうです,人類以外のだれかが世界支配を要求する優先権と資格を持っているのでしょうか。地球とその占有者である人間の創造者についてはどうですか。全地球の支配権を神以上に持っているのはだれですか。世界の人類が命と命を維持する備えの点でお陰をこうむっている,命の源としての神以上に,世界の支配権を要求する正当な資格を持っているのはだれですか。天地の造り主であられる神こそ,限られた地域的な権利である国家主権どころか,宇宙主権の正当な保持者です。

      9 第一次世界大戦以来,諸国民はどんな論争を押し進めてきましたか。だれのためでしたか。

      9 1914年から同18年に及んだ第一次世界大戦は世界支配の論争をめぐって戦われました。その最初の世界大戦以来,諸国民が世界支配の論争を押し進めてきたことを認められない人がいますか。しかもそれはだれのためになされたのですか。創造者で宇宙の主権者であられる神のためでしたか。そうではありません。すべて,諸国民の二つの陣営のいずれか一方で代表される人間のために行なわれてきたのです。

      10 諸国民の考え方からすれば,彼らは何を見過ごしていますか。平和と義を愛する人たちはどんな側に立っていますか。どうしてそう言えますか。

      10 諸国民は明らかに自分たちのことしか考えていません。そして,世界の支配権を行使する譲渡できない神の包括的な権利を無視しています。こうした事態が永遠に続くとは,とても考えられません。こうした利害の対立はいずれその最高潮を見ずにはすみません。その時を定めるのはだれですか。それは諸国民のいかなる特定の陣営でもなければ,国際連合でもありません。それは創造者であられる神です。平和と義を愛する人びとは,この論争を解決する神の時が間近に到来するよう願っています。彼らはそれが当事者の正面衝突によって解決されることに賛同します。世界を震撼させずにはおかないその衝突を生き残れるのはただひとりだけであり,彼らはそうした衝突を無傷で通過するそのひとりのかたの側に今立っています。

      11 観察力の鋭い考え深い人びとはどんな種類の世界支配を非常に恐れていますか。神による世界支配がどういうものであるかは,どうすればわかりますか

      11 観察力の鋭い考え深い男女は,単一の政党集団による全体主義的世界支配を恐れています。今日の諸政府の運営方法を見て,人間の支配者たちのいずれの集団によるにせよ,そうした世界支配がどんなものかを容易に想像できるゆえに,非常に恐れているのです。そうした世界支配には望ましいところが一つもありません。しかし,神による世界支配はどのようなものですか。その神が書きしるした本を調べないかぎり,それを知ることは決してできません。神はその本の中で,人間に対するご自分の目的や,国際間の紛争・暴力行為・無政府状態を今日まで許された理由について述べておられます。その本とは霊感のもとにしるされた聖書です。その中で神はご自身が,霊感を与えて書きしるさせたその本の著者であることを再三再四,しかもご自分のエホバという名前の著名を付して主張しておられます。神が備えてくださったその本を調べないかぎり,わたしたちは無知の深い暗やみの中にとどまらざるをえません。そうした無知は死をもたらします。

      12 その本を調べれば,地球を美化することに関して,どんなことがわかりますか。その本によれば,人間はどこで生活しはじめましたか。

      12 エホバ神が地球を創造して,その上に人間を置かれた理由をその本から学びさえすれば,今日の諸国民すべてがわたしたちの世代の一生涯のうちに地上で神と衝突する致命的な事態に向かっているのはいったいなぜかがわかります。一連のアポロ計画による月への往復飛行のさい,はるかかなたの宇宙空間を飛ぶ宇宙船内の飛行士の目に地球は美しく映りました。神が地上における人類生存の7,000年の期間を満了させるとき,地球はそれにもまして美しくなるでしょう。地上の状態は,ごみの山と楽園の実をたたえた庭園との違いほどの著しい相違を示すでしょう。神は人間を喜びの楽園すなわち「エデンの園」で生活させはじめました。しかしそれがどんな所かは今日知るよしもありません。このことに関して聖書巻頭の書の2章にしるされている神ご自身の報告はこう述べます。「エホバ神は東のほう,エデンに園を設け,彼が形作った人間をそこに置かれた。こうしてエホバ神は,人の目に望ましく,食物として供せるあらゆる木を土地からはえさせ,また……命の木を……はえさせられた」― 創世 2:8,9,新。

      全地にわたる楽園はなぜ依然として実施されないのか

      13 今日の地上の人口や動物についてはなんと言えますか。しかし,地球の自然界の実情についてはどんな疑問が生じますか。

      13 人類生存約6,000年後の今日,「人口爆発」に関する叫びが聞かれるとはいえ,地上には人間が部分的に住んでいるにすぎず,動物は絶滅あるいは絶滅寸前に追いやられている状態です。神がエデンの園に置いた最初の人間はなぜその楽園を地のはてにまで広げなかったのですか。全地を最終的には楽園にすることは,この地球を創造された神の目的でした。

      14 神は地球に関するご自分の目的をいつ明らかにされましたか。神はその楽園をあらゆる場所に広げるわざをだれにゆだねましたか。

      14 最初の男とその妻を祝福し,ふたりに,「ふえて,多くなって,地を満たし,それを従えなさい。そして海の魚と天の飛ぶ生き物と地の上を動いているあらゆる生き物を従わせない」と告げた神は,ご自分のその目的を明らかにされました。(創世 1:27,28,新)神は最初の男女を創造する前に全地を楽園にしたのではありません。神は地表の相当の部分を耕されないままにしておき,最初の人間夫婦が初めに世話しうる程度の広い園を設けられたにすぎません。東西また南北が相会するまで楽園を広げることは,この最初の男女,アダムとエバの子孫にゆだねられました。

      15 神のそうした目的は失敗もしくはざ折しましたか。この件に関する神の処置はなぜ自己撞着とはいえませんか。

      15 今日の人間の周囲の自然環境に見られる状態からすれば,よく考えないと,ともすれば,神の目的は失敗した,もしくは少なからず妨げられたのではなかろうかと考えるかもしれません。しかし,そうでしょうか。このことで憶測するには及びません。書きしるされた神の記録は,そうではないと断言しているからです。喜びの楽園が全地に広がるのを神ご自身が阻止されたのです。それは自己撞着ではありませんか。神はある事がらを行なうようアダムとエバに命じたのちに,ご自分はその反対のことを行なわれたのではありませんか。そうではありません。なぜですか。なぜなら,神はアダムとエバをその楽園から,まだ耕されていない地に追い出す必要を認められたからです。それはアダムとエバが神と衝突したためです。そのためにふたりは追い出されました。

      16 人間を創造するさい,地球の所有権に関して神は何を行なわれましたか。アダムとエバはどんな事がらで神と衝突しましたか。

      16 問題を整理して考えてみましょう。人間としての完全性を備えた人を地上に置いたエホバ神は,人間を地球の所有者とはせずに,地上の単なる居住者また働き人とされました。神はその楽園はもとより,地上の他のいかなる場所の所有権をも手放されませんでした。神は地球の創造者としてそれを所有していましたし,また依然として常にその創造者であられます。人間創造以後2,900年余を経たのち,詩篇作者,ベツレヘムのダビデは次のように書き,かつ歌いました。「地とそれに充つるもの世界とその中にすむものとは皆エホバのものなり,エホバはそのもとゐを大海のうへに置これを大川のうへに定めたまへり」。(詩 24:1,2)今日,諸国民すべてはこのことを無視し,一蹴しようとします。彼らの最初の親になんとよく似ているのでしょう。神が喜びの楽園の所有者であることを無視し,食べることを禁じられた実をあえて食べたアダムとエバは,神に対する服従と従順に関する試験に失敗しました。つまり,両人は神に対して罪を犯しました。自分たちの創造者である神とともに歩みつづけるかわりに,自己主権を欲し,主権の論争で神と衝突したのです。―創世 3:1-14。ロマ 5:12。

      17 楽園の外に出たアダムとエバは地を単に一時的に占有したにすぎません。なぜですか。その子孫であるわたしたちや諸国民についても同じことが言えます。なぜですか。

      17 神は反抗した罪人にエデンの園を地の果てまで広げさせる,もしくはそうするよう試みさせることさえしようとはされませんでした。当然のこととして,神はご自分の所有地である喜びの楽園から,つまり「命の木」のある所から,アダムとエバを地上のまだ耕されていない所に追い出しました。両人はその場所で自分たちの罪深い反抗の行ないに対する事前に通告されていた処罰としての死をこうむる,つまり死なねばなりませんでした。(創世 2:15-17; 3:16-24)こうして約6,000年前の昔,楽園の拡張はいっさい行なわれなくなりました。その楽園の外では人間はみずからを支配し,思いのままに自己主権を行使できたにしても,命の木のあるその楽園の中でそうすることはできませんでした。楽園の外に出たものの,人間は地球の所有者になったわけではありません。そこは人間にとって死ぬ場所ではあっても,永遠の所有者のように永久に占有できる場所ではありません。(創世 5:1-5)アダムは最初,人間としての完全性を備え,地上で永遠に生きる可能性を有していただけに,930年生き長らえましたが,それでもやはり死に,地上のいかなる場所も占有できなくなりました。アダムとエバの子孫は罪のうちに,また死の宣告のもとに生まれたゆえに,同様に地を一時的に占有してきたにすぎません。諸国民についても同じことがいえます。

      神とともに歩むことの益

      18 アダムの子孫の大多数はなぜ神とともに歩みませんでしたか。神はなぜエノクを突然取り去られましたか。

      18 神と衝突しないようにする方法は,神とともに歩むことです。アダムとエバの子孫の大多数は楽園の外で神に逆らう道を歩みました。彼らは神に逆らう反抗者たちから生まれたからです。書きしるされた神聖な記録は,アダムの7代目の子孫,エノクは,「神と偕に歩みしが[365歳の時]神かれを取りたまひければをらずなりき」と報告しています。(創世 5:21-24。ユダ 14,15)エノクの時代までに人類の世はほんとうに「不敬虔」になり,世の人びとは神とともに歩みませんでした。明らかに人びとはエノクを殺そうと考えました。真の神がエノクを取り去られたのはそのためです。こうして神は,エノクが人びとの手にかかって悲業の死を遂げないようにされました。(ヘブル 11:5)エノクには死からの復活の希望があります。

      19 アダムの十代目にあたる人は神とともに歩んだためにどのように報われましたか。その楽園は地から永遠に消失してしまったわけではありません。なぜですか。

      19 また,アダムの十代目にあたる人も創造者とともに歩みました。神聖な記録はその人について,「ノアは義人にして其世の完全き者なりき ノア神と偕に歩めり」と述べています。(創世 6:9)そうした歩みは,エノクの場合のように報いをもたらしましたか。確かにもたらしました。ノアは神と少しも衝突せずにすみました。全地球をおおって,不敬虔な人類社会の人びとすべてを溺死させた大洪水をノアとその家族が生き残ったという仰天すべき事実がそのことを実証しています。(創世 6:13–9:20。ヘブル 11:7。ペテロ前 3:20。ペテロ後 2:5; 3:5,6)地球全域に及んだその洪水のために,南北両極は水でおおわれただけでなく,拡張を見なかった最初の楽園も地上から消失してしまいました。しかしながら,大洪水によって楽園を拭い去ったその創造者で所有者であられる神は,それを回復することもできるのです。神はそうすると約束されました。その約束は,神の最初の目的が妨げられてはいないこと,それどころか,神はやがてご自分の目的を堂々と成し遂げて,全地を人類の永遠の幸福な住みかとして美化されることを保証するものです。刑柱にかけられたイエス・キリストが言及されたのは,この回復される楽園のことです。

      20 ふたりの悪行者を両わきにして死に面したイエスは,回復されるその楽園についてどのように言及されましたか。

      20 聖書のルカ伝 23章38-43節(新)の記録はこのことに関してこう述べます。「また,彼の上方には次のような銘文がしるされていた。『これはユダヤ人の王である』。しかし,かけられた悪行者たちのひとりは彼にあしざまに言いはじめた,『あなたはキリストではないのか。自分自身とわたしたちを救え』。他方の者は返答し(て)……つづけて言った,『イエスよ,あなたが王国にはいられる時,わたしを思い出してください』。すると,イエスは彼に言われた,『ほんとうにわたしは今日あなたに告げます,あなたはわたしとともに楽園にいるであろう』」。

      21 イエスは大洪水前の人類社会の終わりを何と対照させましたか。キリスト教世界の諸国民といえども神との衝突を免れることはできません。なぜですか。

      21 したがってイエスは,ご自分の王国のもとで全世界に確立されようとしている,きたるべき楽園を信じておられました。また,ノアの日の大洪水のことも信じておられました。もしわたしたちが真のクリスチャンであれば,たとえこの世の諸国民は信じないとしても,わたしたちもやはりそれを信ずべきです。(マタイ 24:38,39。ルカ 17:26,27)また諸国民は,イエスがこの事物の体制の終局について預言された事がらをも信じません。イエスはなんと言われましたか。洪水前の事物の体制がその大洪水のさいの世界的な大災害をもって終わったように,長年続いた現在の事物の体制も世界的な規模の大災害をもって終わりを告げるであろうと言われました。キリスト教世界の諸国民はその宗教上の主張からすれば,いわゆる異教諸国民とは異なっていることを実証すべきでした。しかし,みずから異教諸国民と同類のものとなっているゆえに,キリスト教世界もまた,神との衝突は不可避です。キリスト教世界は古代イスラエルの対型だからです。

      神に相会する備えをせよとの挑戦

      22,23 古代のイスラエル人はかつてどんな土地を占有しましたか。彼らはその土地の所有者とともに歩むのにどんな点で失敗しましたか。

      22 古代のイスラエル人はかつて『乳と蜜の流れる』地に居住しました。(エゼキエル 20:6。出エジプト 3:8,17; 13:5; 33:3)それはパレスチナの地です。

      23 西暦前20世紀,エホバ神が不道徳のはびこった都市ソドムやゴモラに滅びをもたらす以前でさえ,ヨルダン川の地域はおおむね楽園のようでした。聖書巻頭の書によれば,その地は『エホバの園のようで』した。(創世 13:10)西暦前15世紀のこと,イスラエル国民をその地に導き入れるにあたり,エホバは彼らに言われました。「地は我の有…なり汝らは客旅また寄寓者にして我とともに在るなり」。(レビ 25:23)それにしてもイスラエル民族は,豊かにものを産するその美しい土地を神の所有物として取り扱いましたか。神の預言者たちはこの質問に否と答えます。イスラエル民族は偶像崇拝・不道徳・暴力・流血をもってその神聖な土地を汚しました。彼らの宗教上の歩み方のゆえに預言者ミカは,「エホバの汝に要めたまふ事は唯正義を行ひ憐憫を愛し謙遜りて汝の神とともに歩む事ならずや」と言いました。(ミカ 6:8)しかし彼らは神が求めたことを返そうとはしませんでした。

      24,25 ゆえに,やがて何が起きることになりましたか。神はご自分の預言者アモスによりこのことを警告して,なんと言われましたか。

      24 ですから,やがて対決を見るのは必至でした。彼らはエホバ神との国家的な契約を破棄しました。契約破棄者に関してその契約の中に明示されている処罰をこうむるのは当然でした。すでに西暦前9世紀,神の預言者アモスが現われました。全地の創造者は不従順なイスラエル民族に対して取ろうとしておられた処置につき,その預言者を通して彼らに警告して言われました。

      25 「我なんぢらの中の邑を滅すことソドム,ゴモラを神の滅したまひし如くしたれば汝らは火焔の中より取りいだしたる燃柴のごとくなれり然るも汝らは我に帰らずとエホバ言たまふイスラエルよ然ば我かく汝に行はん我是を汝に行ふべければイスラエルよ汝の神に会ふ準備をせよ彼は即ち山を作りなし風を作り出し人の思想の如何なるをその人に示しまた[あらしによって行なうように]晨光をかへて暗黒となし地の高処を踏む者なりその名を万軍の神エホバといふ」― アモス 4:11-13。

      26 それはどんな対決を求める挑戦のことばでしたか。それを発したのはどんなかたでしたか。挑戦者は目に見えないからといって,それはばかげたことではありませんでした。なぜですか。

      26 『汝の神に会ふ準備をせよ!』 これは最高司令官「万軍の神エホバ」の挑戦的な命令です。これはまさに軍事的対決を求めることばです。(民数 20:18,20; 21:23,33。サムエル後 10:9,10,17の場合と同様)ここでイスラエル国民は,目に見えない神に会うようにとの挑戦を受けました。だからといって,それは冗談でも,ばかげた考えでもありませんでした。この目に見えない神は,山々など見える創造物をもって,ご自分が真の神であることを証されました。神はイスラエルの地のきわめて高い山々よりもさらに高いかたであり,風を創造してあやつり,朝早くあらしを起こして,あけぼのを暗やみに一変させることもできます。

      27 目に見えないこの神は,契約破棄者であるその国民に対するご自分の裁きを表明するのに何を用いることができますか。神は実際に何を用いましたか。どんな結果が生じましたか。

      27 神はイスラエルの敵の軍隊をご自身の見える代理者として用いて,契約破棄者であるその国民,つまり神から与えられた神聖な土地を汚す者に対するご自分の裁きを執行することもできます。西暦前609年から同607年にかけて神はまさにこのことを行ない,バビロニア帝国の軍隊をユダの地エルサレムに差し向けました。イスラエル民族はあらんかぎりの備えをしたにもかかわらず,バビロンの軍隊が代表した「万軍のエホバ」に首尾よく相会することはできず,エルサレムは崩壊し,ユダの地の住民は絶やさせられました。

      28 今日,キリスト教世界は,軍事的対決を求めるこうした挑戦を受けています。その理由を述べなさい。

      28 今日,キリスト教世界は霊的なイスラエル,つまりクリスチャンのイスラエルであると唱えています。(ガラテヤ 6:16)そして,古代のイスラエル人が崇拝したその同じ神との新しい契約のもとにあると主張します。キリスト教世界は自分たちの聖書をイスラエル民族から得ました。聖書の記述者はすべて生来のイスラエル人だからです。ところが,キリスト教世界の諸国民は聖書とともに,血なまぐさい戦いの武器を携えており,人類史上どの時代の全世界の軍備をもさらに上回る強力な軍備を擁しています。対決に備えようとしているのです。ゆえに,古代イスラエルの現代的対型であるキリスト教世界に対して,『汝の神に会ふ準備をせよ!』との軍事的対決を求める神からの挑戦のことばが発せられるのは当然と言わねばなりません。事態はまさに対決を必要としています。

      29 こうした対決の起こる必然性を増すものとなっている事がらをあげなさい。キリスト教世界がその対決にあずかることは必至です。なぜですか。

      29 この対決の必然性は,占星術者の言う「星による」ものではなく,書きしるされた預言のことば,つまり霊感の書である聖書に基づく事がらです。キリスト教世界は全世界の諸国家の重要な部分を成しています。世俗の機関である国際連合の加盟国の約半数はキリスト教世界の国家であり,残りはキリスト教を奉じない異教国家だからです。事実,キリスト教世界はこの世の諸国民の間で支配的な勢力をふるっている以上,この世界の諸国民すべてに臨もうとしている事態を免れることはできません。聖書の預言のことばは,この世界の諸国民すべてとエホバ神との最終的な対決を繰り返し指摘しています。

      30 この預言はどんな有名な期間のどの年に与えられましたか。この期間の終わりに関してどんな質問が生じますか。

      30 西暦前606年に述べられた聖書の預言をまず考慮してみましょう。その預言が述べられたのは,バビロンの王ネブカデネザルがエルサレムを滅ぼして,有力な世界支配者となってから2年目のことでした。したがって,それは「異邦人の時」もしくは「諸国民のために定められた時」の2年目にあたります。その「時」の期間,エルサレムの都,もしくはその都市によって表わされるメシヤによる神の王国は,非ユダヤ人つまり異邦諸国民によって踏みにじられる,あるいは蹂りんされることになっていました。聖書の時間表によれば,この異邦人の時は西暦前607年にエルサレムの崩壊と荒廃をもって始まり,2,520年を経て,西暦1914年の初秋に終わりました。(ルカ 21:24,新)この異邦人の時が西暦1914年に終わったのち,何が起こることになっていましたか。エルサレム荒廃後の2年目に述べられた預言はそれが何かを示しており,霊感を受けた預言者ダニエルはそれを説明しています。

      31 ダニエルはネブカデネザルの見た預言的な夢をどのように解き明かしましたか。その象徴的な像は,どれほどの長い期間にわたって世界の政治に暗影を投げかけましたか。

      31 世界強国バビロンの王は預言的な夢を見,ダニエルはその意味を王に解き明かしました。王は恐るべき金属製の像を見ました。その頭は金,胸と両腕は銀,腹と腰は銅,すねは鉄,足は粘土をなすりつけた鉄でできていました。ダニエルが金の頭はバビロン王朝を表わすと述べたことからすれば,銀の胸と両腕は次の世界強国メデア-ペルシャを表わし,銅の腹と腰は,それを継ぐ世界強国ギリシアを,鉄のすねは世界強国ローマを,そして粘土をなすりつけた足はローマ帝国から派生したさまざまな形態の政府を表わしていることがわかります。それら諸国家の中で英米二重世界強国が優勢を占めています。種々の政治的世界強国のその象徴的な像は,西暦前607年のエレサレム荒廃にさいする異邦人の時の開始以来,その時の最後の年,つまり西暦1914年に至るまでの世界の政治に暗影を投げかけてきました。その重大な年には何が起こることになっていましたか。

      32 この異邦人の時の終わりに起こるべき事がらとして,ネブカデネザルは夢の中で何が起こるのを見ましたか。

      32 それはこうです。その夢の中でバビロンの王は,一つの石が人手によらずに宇宙的な山から切り出されるのを見ました。その預言的な石はどうなりましたか。その金属製の像めがけて投げつけられました。対決は必至です! その像に向かって,『その石に相会すべく備えよ!』と言えます。

      33 足はその石の衝撃に耐えましたか。次いで,その石は何をしましたか。

      33 像の足の鉄は石の衝撃を受けとめて,その石をはね返せますか。いいえ。足は砕かれ,像はくずれます。次いで,像はその石でことごとく砕かれ,粉々につぶされ,吹き払われてしまいます。その石はといえば,大きくなって一つの山となり,全地を満たしました。―ダニエル 2:1-43。

      34,35 どんな質問をするのは良いことですか。それに対するダニエルの答えからすれば,対決を引き起こす論争に関して何が明らかになりますか。

      34 このすべては何を意味しますか,と尋ねるのは良いことです。わたしたちは,粘土をなすりつけたその象徴的な鉄の足の時代に住んでいるからです。

      35 エホバの霊に動かされたダニエルは正確な解釈を述べてこう言います。「そして,それらの王たちの日に天の神は,決して破滅に至らされることのない一つの王国を建てられます。そしてその王国自体はほかのどんな民にも渡されることはありません。それはこれらの王国すべてを打ち砕いて終わらせ,それ自体は定めのない時まで立つでしょう。……偉大な神ご自身がこののちに起ころうとしていることを王に知らされたのです。この夢は確かであり,その解釈は信頼できます」。(ダニエル 2:44,45,新)この解釈からすれば,わたしたちの世代のうちに必ず起こるこの対決によって解決されるのは,天の神の宇宙主権にかかわる世界支配の論争であるということがいやがうえにも明らかであると言わねばなりません。それは神の建てられる王国に反対する地上の王たちの問題です。全地を支配するのはだれかという議論は今やついに解決されねばなりません。わたしたちは今日,その預言の成就に包含されています。地上の全人類が包含されているのです!

      異邦人の時の終わりはどのようにしるしづけられたか

      36 人手によらずに石が切り出されることは,いつまたどのように成就しましたか。異邦人の終結が世界情勢に関係を持っているということに世の人びとの注意が喚起されましたか。

      36 宇宙的な山から切り出された石の象徴するこの王国が,実際に神の手で『切り出され』て建てられ,支配を開始したのはいつですか。それは異邦人の時の終わり,つまり世界支配をめぐって地上で戦争が勃発した年,わたしたちすべての知っている年 ― 1914年です。神のみ子,イエス・キリストの手による王国は,中東の古来のエルサレムの場所にではなく,神のみ子がその天の父の石に坐している天に建てられました。1917年の終わりごろ,キリスト教世界の僧職者さえ異邦人の時の終結が当時の世界情勢に直接関係をもっているということに世の人びとの注意を喚起しました。英国軍による由緒深いエルサレム攻略の迫った1917年12月9日,G・キャンベル・モルガンおよびF・B・メイヤー両博士と他の6人の英国の著名な僧職者は声明書を提出しました。世界中に再発表されたその声明書の宣言文は次のとおりです。

      37 このことに関してその宣言文はなんと述べましたか。

      37 「(1)現在の危機は異邦人の時の終結をさし示すものである…(5)あらゆる人為的な再建計画は我らの主の再来に付随するものでなければならない。諸国民すべてはその時,主の支配に服するからである…」― 1918年2月号カレント・オピニョン誌。

      38 エホバの証人は「異邦人の時」の終結をしるしづけるものとしてどの年を指摘していましたか。その時,神の王国は何をしはじめましたか。今だれに対して神からの挑戦のことばが鳴り響いていますか。

      38 エホバのクリスチャン証人は,ものみの塔協会の出版物を用いて,1917年ではなく1914年を「異邦人の時」の終結する年として何十年も前から指摘してきました。(ルカ 21:24)異邦人の時の終結は詩篇 110篇1,2節が次のように述べるダビデ王の預言の成就として,エホバ神が,即位したみ子に命令を発する重大な時をしるしづけるものとなりました。「エホバわが主にのたまふ我なんぢの仇をなんぢの承足とするまではわが右にざすべし,エホバはなんぢのちからの杖をシオンよりつきいださしめたまはん汝はもろもろの仇のなかに王となるべし」。したがって,象徴的な「石」つまりキリストによる神の王国は,1914年に政治強国の象徴的な「像」を打ったのではありません。その敵のただ中で支配を開始しただけです。ゆえに,それは神の力によって投げ出され,今やその政治的な「像」めがけて突進しています。その「像」の足が表わす「それらの王たち」に含まれる,キリスト教世界の諸国民に対して,『汝の神に会ふ準備をせよ!』との軍事的対決を求めるエホバの挑戦のことばが鳴り響いています。―アモス 4:12。

      39 「像」のあたりさわりもなさそうな静止した足が打たれるのは,どういうわけですか。

      39 その政治的な「像」の足は静止しており,なんら悪を行っているようにも見えないのに,なぜ足が打たれるのですか。その「像」は偶像崇拝の対照とされる像であり,全世界の人びとはこの政治体制を偶像視しているからです。同時に,偶像視されているその「像」の足は,1914年における異邦人の時の終結以来,立ってはならない所に立っているからです。その足は,神のキリストの治める,神の王国に逆らって立っています。この王国は全地を支配する権利を持つ唯一の政府として1914年に天で生まれました。―黙示 12:1-10。

      40 黙示録 17章では,大いなるバビロンの乗っている獣はなんであると述べられていますか。なぜですか。今日,それは何を象徴していますか。

      40 だれもこのことで考え違いをしてはなりません。「それらの王たち」つまり地上の政治支配者は,樹立された神の王国に反対して戦っていると聖書は断言しています。聖書巻末の書,黙示録 17章を見てみましょう。その章には,地上の政治支配者たちが,古代バビロンに端を発する偽りの宗教の世界帝国,大いなるバビロンを滅ぼすさまがありありと描かれています。大いなるバビロンがみずからの滅びをこうむるまで乗っている緋色の獣は,七つの頭と十本の角を持つものとして描写されています。それら七つの頭は,古代エジプトに始まってアッシリア,バビロン,メデア-ペルシア,ギリシア,ローマそして英米世界強国に至る,人類史上一連の七つの世界強国をさしています。11節は,獣そのものは「第八」の王,つまり第八世界強国であると述べています。その第八世界強国は現代の国際連合,つまり世界の平和と安全のための,またそれゆえに,偶像視されている「像」の「足」をして,もはや立ってはならない所に引き続き立たせようとしている国際機構です。―黙示 17:11。ダニエル 2:33,34。

      41 世界支配および地の所有権に関して,国際連合機構は何を象徴していますか。

      41 この国際連合機構は,神による世界支配ではなく人間による世界支配を象徴するものです。その機構内では諸国民の相対する二つの陣営が,人間の作り出した政治体制および政治理念による世界支配を象徴しています。諸国民はキリストの手による神の王国の世界支配を欲してもいなければ,それを現実的な事がらとみなしてもいません。エホバ神の宇宙主権よりも自分たちの政治的主権を好んでいます。地球の所有者はだれかという問いに対して,諸国民は,われわれだ! われわれは今後も所有し続けるつもりだ,と答えます。

      42,43 大いなるバビロンを滅ぼしたのち,諸国民は自分たちが実際にはどんな者であることを示しましたか。黙示録 17章12-14節によれば,次いで何を予期すべきですか。

      42 政治支配者たちは,大いなるバビロン,つまり偽りの宗教の世界帝国をひとたびなきものにするや,今度は自分たちがいまだかつてなかったほどに神に「敵する者」であることをあらわします。(使行 5:39)次いで何を予期すべきかについて黙示録 17章12-14節〔新〕が述べることに注目してください。その節は,黙示録が与えられた使徒ヨハネにこう告げます。

      43 「汝の見し十の角は十人の王にして未だ[ヨハネの日には]〔王国〕[すなわち世界の平和と安全のための機構の成員としての地位]を受けざれども,一時のあひだ獣[国際連合]と共に王のごとき権威を受くべし,〔彼らは考え〕を一つにして己が能力と権威とを獣[国際連合]にあたふ。彼らは羔羊[イエス・キリスト]と戦はん。而して羔羊かれらに勝ち給ふべし,彼は主の主,王の王なればなり。これと偕なる召されたるもの,選ばれたるもの,忠実なる者も勝を得べし」。

      諸国民は,目に見えないかたに対してどのように戦うか

      44 象徴的な十本の角と獣はキリストの天の王国に対して地上でどんな方法で戦えますか。

      44 ここで次のように尋ねる人がいるかもしれません。小羊,イエス・キリストは天の見えない霊者であり,その王国もやはり天的なものである以上,それら象徴的な角や獣はこの地上で,「世の罪を除く神の羔羊」なるイエス・キリストとどのようにして戦えるのだろうか。(ヨハネ 1:29,36。黙示 5:6-13)彼らはキリストの治める神の王国に席をゆずることを拒み,自分たちの国家主権をキリストに譲ることを拒否し,そのようにして地上におけるみずからの政治的立場を永続させようと努めることによってイエス・キリストと戦うことになります。同時に彼らは,『キリストの大使』を勤める人びとつまりキリストの王国の良いたよりを地上で宣布する人びとに反対し,それらの人たちを迫害することによっても,キリストと戦えます。(マタイ 24:14)それらの人たちはイエス・キリストの油そそがれた追随者であり,黙示録 17章14節は彼らのことを「[彼]と偕なる召されたるもの,選ばれたるもの,忠実なる者」と呼んでいます。クリスチャンの使徒パウロは,献身してバプテスマを受けた,それらキリストの油そそがれた追随者に語りかけて,こうしるしています。

      45 コリント後書 5章20節でパウロはそれらキリストの油そそがれた追随者をなんと呼んでいますか。

      45 「されば我等はキリストの〔大使〕たり,恰も神の我等によりて汝らを勧め給ふかごとし。我等キリストに代りて願ふ,なんぢら神と和げ」― コリント後 5:20〔欽〕。

      46 パウロはそれら大使たちにどんな市民としての身分を付していますか。

      46 使徒パウロはまた,これらキリストの大使たちにもう一つの身分を付しています。パウロは,「千万の御使の集会」とともに,「活ける神の都なる天のエルサレム」について述べています。(ヘブル 12:22)また,仲間のクリスチャン兄弟たちに「神のキリスト・イエスに由りて上に召したまふ召にかかはる褒美」について書いたのち,彼らの注意を天に向けさせて,「我らの国籍は天に在り」と言っています。(ピリピ 3:14,20)したがって彼らは,「活ける神の都なる天のエルサレム」の市民です。

      47 こうして大いなるバビロンを滅ぼしたのち,諸国民は神とキリストに対してどのように明らさまに戦えますか。マタイ伝 25章40節でイエス・キリストはこの点に関するどんな規準を述べておられますか。

      47 キリスト教世界およびこの世界の残りの領域の諸国民は,エホバ神のための証言を行ない,かつキリストによる神の王国の良いたよりを世界中に広く宣べ伝えている油そそがれたクリスチャンを迫害するという点ですでに悪評を得ています。したがって,それら諸国民が大いなるバビロンを滅ぼし,次いで,これら召されて選ばれた油そそがれた忠実な者たちに恐るべき仕方ではむかう時,諸国民は「キリストの大使」に逆らって,つまり「天のエルサレム」なる神の都の市民に敵して不敬虔な行動を取っていることになります。彼らが自分たちのただ中で見ているそれら,忠実な者たちと戦う時,彼らはイエス・キリストもエホバ神をも見ることはできなくても,王の王であられる小羊イエス・キリストと戦っていることになります,目に見えない神とそのキリストとの戦いで,これ以上に明らかな戦いがあるでしょうか。この点についてイエス・キリストご自身,「事物の体制の終局」に関する最後の預言の中で,こう言われました。「わが兄弟なる此等のいと小き者の一人になしたるは,即ち我に為したるなり」― マタイ 25:40; 24:3。

      衝突! その生存者たち

      48 何が生ずるのは必至ですか。それはどんな預言的な場所で起こるのですか。

      48 神との衝突は必至です。それは何を意味しますか。それは「全能の神の大いなる日の戦い」にほかなりません。その時までに諸国民は最後の戦場,すなわち「ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる場所」として預言的に述べられている世界情勢の危機的な段階に達していることでしょう。黙示 16:14-16,新。

      49 諸国民すべてはどこに向かって行進していますか。何をするよう,神は彼らを招いていますか。比較していえば,諸国民は神にとってどんなものといえますか。

      49 今や諸国民はすべてハルマゲドンに向かって行進しています! 聖書の時間表および聖書預言の成就としての世界のできごとからすれば,これだけは確かです。神との対決が迫っています! 神が言われるとおり,神にとって諸国民すべてはいっしょにしても,水をからにしたバケツから落ちるしずくの一滴にすぎません。(イザヤ 40:15)行動すべき時が来たゆえに,神はヨエル書 3章9-12節の預言のことばをもって諸国民すべてに挑戦し,神と相会して戦うよう招いています。いかに徹底的に備えようと,神とキリストによる神の政府とをあなどれるほど強力であると感じようとも,諸国民の立場は,あたかも1匹のありが鉄道線路にじっとすわって,驀進してくる巨大なディーゼル機関車に向かって昂然と,「止まれ! おれをひけるものか! ひけるものなら,ひいてみろ!」と叫ぶようなものです。

      50 いまやどのようにして衝突が生じますか。国際連合が政治支配の「像」の危難を救えるかどうかについて預言はなんと述べていますか。

      50 すさまじい音をたてて正面衝突が起こります! ご覧なさい,国際連合機構が見えます! それは一歩も引かずに,神からの猛攻撃をはねつけられるでしょうか。神の預言は否と答えます。神の宇宙的な山から切り出され,神ご自身の手で投げつけられたその王国の石は,地球に対する人間の支配を表わす象徴的な「像」を今や打つのです。石が鉄に激突すれば,耳をつんざくばかりのごう音がとどろきます。聞こえますか。何かが砕かれています! 砕かれているのはその石ですか。そうではありません。人間の支配者による世界支配を目ざす鉄のような抗争者たちすべてを打ち砕いているのはその石なのです。今度は,何かをすり砕く,あの耳ざわりな音を聞いてごらんなさい。バビロンを表わす金の頭をもって始まった,悪魔に制御される政治支配を表わす倒れた「像」全部を,その石が粉々にすり砕いているのです!

      51 象徴的な「像」の粉のような残存物はどうなりますか。勝利を収めて戦場に残るのはだれですか。

      51 神の義憤の暴風は,神に敵するその政治的な「像」のそれら粉のような残存物を,脱穀場からもみがらを吹き払うように一掃します。古い事物の体制のこん跡はことごとく永遠に拭い去られます。聖書巻末の書に描写されているとおり,(黙示 19:11-21,新)ハルマゲドンにおける「全能の神の大いなる日の戦い」は,戦場に残る唯一の者たちであるエホバ神と天のその軍勢の輝かしい勝利をもって終わります。その時,世界支配の論争は,エホバに利するものとして永遠に解決されるでしょう!

      52,53 生存者の避難所となるのは地上のどこですか。彼らはその戦いに参加しますか。彼らは神の至上権のためのどんな祈りに神が答えられるのを見ますか。

      52 このすさまじい衝突が起こる時,地上にはどこか安全な場所がありますか。その衝突に生き残れる人間がいますか。そのような場所はありますし,そのような人もいます。ただし,それはエホバ神の側だけに限られます。「なんぢの眼はただこの事をみるのみ,なんぢ悪者のむくいを見ん なんぢさきにいへりエホバはわが避所なりと なんぢ至上者をその住居となしたればなり 災害なんぢにいたらず」という神の約束のことばがあてはまるのは,神の側に,そしてキリストによる神の王国の側に立つ人たちだけです。(詩 91:8-10)いまエホバの宇宙主権を擁護して確固とした立場を取る人たちは,側線外の場所に立つので,「全能の神の大いなる日の戦い」に実際には携わりません。それらの人びとは神からの保護を受ける避難所にあって,エホバとそのキリストが,反対する諸国民すべてに対して勝利を収めるのを見ます。こうして彼らは,「神はたたかひを好むもろもろの民をちらしたまへり」という預言の成就を目撃します。(詩 68:30)そして,神の敵に対する詩篇 83篇17,18節の祈りに神が答えられるのを見るでしょう。その句はこう述べます。

      53 「かれらをとこしへに恥おそれしめ惶てまどひて亡びうせしめたまへ 然ばかれらはエホバてふ名をもちたまふ汝のみ全地をしろしめす至上者なることを知るべし」。

      54 像を打った石で表わされているように,勝利を収める神の王国はその時,どれほど広範に及ぶものとなりますか。

      54 象徴的な像の足を打った石で表わされている,勝利を収めた神の王国はその時,その石の場合のように大きくなって,全地を満たす『大いなる山』のようになります。(ダニエル 2:35)キリストによる神の王国は地上のあらゆる場所に及びます。諸国民と神の最後の衝突を生き残って,その王の山で生活するのはなんという特権でしょう。

      55 その時「山」に住む人たちに関して,イザヤ書にはどんな預言がしるされていますか。

      55 その同じ山に喜びのうちに住む人たちについてイザヤ書 11章9節はこう述べます。「[彼らは]わが聖山のいづこにても害ふことなく傷ることなからん そは水の海をおほへるごとくエホバをしるの知識地にみつべければなり」。これに加えて,魂を満足させずにはおかない次のような預言がしるされています。「万軍のエホバこの山にてもろもろの民のために…宴をまうく…[彼は]とこしへまで死を呑たまはん 主エホバはすべての面より涙をぬぐひ全地のうへよりその民の凌辱をのぞき給はん これはエホバの語りたまへるなり」― イザヤ 25:6-8。

      56 正しい立場を取るためにこうむる人間のはずかしめを恐れるべきですか。わたしたちは昔のだれのように歩むべきですか。どんな報いがもたらされますか。

      56 ゆえに,主権者,主エホバとキリストによるその王国の側に立場を取るにあたり,いま人間のはずかしめを恐れないでください。前途の回避できないその衝突に向かって神に逆らう道を諸国民とともに歩まないでください。人間のはずかしめをものともせずに,『真の神とともに歩んだ』忠実なノアのようであってください。(創世 6:9,新)そうすれば,ノアの場合のように,この国際的な事物の体制の終わりを生き残る希望をいだいて歓喜し,統治する王イエス・キリストの王国の治める,神の新しい事物の体制のもとで生活できるでしょう。その時,あなたは神が勝利のうちに死をさえ呑みつくされるのを見るでしょう。それはあなたが永遠の命を享受し,決して消失することのない全地にわたる楽園で完全な健康と幸福のうちに神に仕え,神を崇拝するためです。

      [12ページの図版]

      王国の石が象徴的な像を倒して打ち砕くとは,神と衝突する時,諸国民すべては完全に滅ぼされるということを意味する

      [15ページの図版]

      神がご自分の目的を遂行するのを諸国民がやめさせようとするのは,1匹のありが驀進してくる機関車を止めようとするのに等しい

  • 神はなぜ衝突を阻止されないのか
    ものみの塔 1972 | 1月1日
    • 神はなぜ衝突を阻止されないのか

      宇宙の創造者にとって地球がごく小さなものであるということは,思慮ある人には明らかです。したがって地の諸国民は,創造者と比較すれば取るに足りない存在です。ですから神は,衝突への道をたどる諸国民の進行方向を変えさせるとか,あるいは衝突をさけるために道を譲ることができるのではないでしょうか。神はその優勢な力をもって,衝突を起こるままにし,弱い者いじめをするのでしょうか。

      そうではありません。神はご自身の威厳と正義の要求のゆえに,衝突を阻止するわけにはゆかないのです。神は諸国民に,人間によるあらゆる種類の支配を行なう時間を許されました。神は諸国民のなすがままにさせて何千年にもわたる歴史の証拠をつくり,諸国民が地を平和に治めえないことを実証しておられるのです。それでも諸国民は今歩んでいる道を進むことを欲しており,神は,ご自分の確定された時がくるまで,諸国民の行動の自由を妨げることを差し控えておられるのです。

      とはいえ,諸国民は誤った悲惨な道から離れようと思えば,自らそうすることもできましたし,またその機会もありました。神は諸国の歩むべき道を示されました。異教徒の支配者たちでも,神から与えられた良心をある程度もっています。キリストの使徒のひとりは,そのことを次のように説明しています。

      「律法をもたぬ異邦人,もし本性のまま律法にのせたるところをおこなふ時は,律法をもたずとも自から己が律法たるなり。すなはち律法の命ずるところのその心に録されたるをあらはしおのが良心もこれがあかしをなして,その念,たがひにあるひは訴へ或は弁明す」― ロマ 2:14,15。

      そこで,クリスチャンと呼ばれている諸国民については,さらに言いわけのしにくい立場にあると言わねばなりません。それら諸国民には正しい政治と正義の原則が,神のことばである聖書をとおして明確に示されており,また彼らは聖書の律法に拘束されていると公言するからです。しかし彼らは聖書の原則の大部分を拒否してきました。

      こうした事実を考え合わせると,神が諸国民を専横な態度で,または性急に扱っておられるとは言えません。神が正しい国民に不利なことをしている,と非難できる人はひとりもいません。むしろ神は,エレミヤ記 18章7,8節で述べておられる原則を常に守ってこられました。

      「われにはかに民あるひは国をぬくべし敗るべし減すべしということあらんに,もし我いひしところの国その悪を離れなばわれこれにわざはひを降さんと思ひしことを悔ん」。

      神は諸国民に,ご自分が地の正当な所有者であることを示しておられます。「全地はわが所有なればなり」と神は言われています。(出エジプト 19:5)もし神が人間を地上に置かれなかったなら,人間が地上に存在することはなかったでしょう。諸国民は,自分の所有権を認めて,購入,発見,または征服によって得た領土を熱心に守ります。しかし,神の所有権を認めようとはしません。彼らは,自分たちの従うべき行為の規準を定める神の権威を否定します。

      しかし神は,彼らの権力行使の期間に限りがあること,そして地の支配権は,ご自分がお立てになるメシヤの王によって行使されることを諸国民に知らせておられます。(詩 2:6-8)諸国民はいこじにも,地球が,動揺,国家的猜疑心,紛争,戦争などの絶えない,相争う幾百もの政府に分裂したままでいることを好みます。自分たちの政府が国民を幸福にしなかったことを認めて神に地の支配を願う代わりに,自分たちの支配権を保持するため,依然として同じ古い政策を行使しつづけています。もし諸国民がみずから進んで服するなら,神との衝突を避けることができるのです。神は親切にも諸国民に対して次のように警告しておられます。

      「されば汝等もろもろの王よさとかれ,地の審士輩をしへをうけよ 畏をもてエホバにつかへ戦慄をもてよろこべ,子にくちつけせよ,おそらくはかれ怒をはなち,なんぢら途にほろびん」― 詩 2:10-12。

      神は地球と人間の益のために行動される

      しかし,地球の諸政府は,地が破壊されて,日に日に人間の住みかとして不適当な場所となっていくことに対し,非難に価する無関心ぶりを示しています。犯罪,汚染,世界的飢餓の恐れその他さまざまのひどい事態が,自分たちの手におえないことを認めます。地球の住民を実際に絶滅させずにはおかない第三次世界大戦はいつでも起こりうると考えている人もたくさんいます。それにもかかわらず,諸政府の理念,または運営方法は基本的に言って少しも変わらず,依然として政治的術策をめぐらし,外交的うそを言い,国際スパイ活動を行なっています。

      ですから神は,自分の持ち物を大事にする人と同じように,地が破壊され住めなくなっていくのを手をこまねいて見てはおられません。そういう事態が起こるままに放置するとすれば,それは確かに神の怠慢といわねばなりません。地上で生じている腐敗や忌むべき事柄をきらい,良い生活,正しい生活を望む者たちに対し真実をもって行動しているとは言えないでしょう。神は,諸国民のたどる道をご存じでしたから,そうした歩みを停止するよう命ずる時が来ることを予告して,次のように言われました。

      「諸国の民,怒をいだけり,なんぢの怒もまたいたれり,死にたる者を審き,なんぢの僕なる預言者および聖徒,また大なるも小なるも汝の名を畏るる者にむくいをあたへ,地を亡す者を亡したまふ時いたれり」― 黙示 11:18。

      実際に神は,正しい原則のための断固とした行動により,諸国民がやってくる方向に面と向かう進路を取って一歩も譲らないでしょう。ですから正面衝突が生じます。諸国民が全人類を完全な自滅に追いやるのを阻止する方法はそれ以外にないからです。神はまず,主権の論争を解決する目的で,ご自分のために,そうした行動を取られます。しかし,義と公正を求め,神の主権を認める者たちのこともお忘れにはなりません。

      したがってわたしたちは,神は随意に行使できる全能の力をお持ちになること,また宇宙と比較して非常に小さいにもかかわらず,この地球上に住む人間に神が関心を払ってくださることを喜べます。また,神が,ご自分から進んで,地球の住民の永遠の福祉のために,この小さな地球に注意を向け,その偉大な力を行使してくださることをもわたしたちは喜べます。

      しかし,諸国家の腐敗した政治支配だけが,神の不興を買う原因なのでしょうか。そうではありません。それにはさらに大きな理由があります。次の記事はそのことを明らかにしています。

  • 教会は諸国民を神と衝突する道に導いているか
    ものみの塔 1972 | 1月1日
    • 教会は諸国民を神と衝突する道に導いているか

      人々が神について信じていることは,おもに,教会から,または教会の指導者の言動から学んだことです。しかしその人たちは,神に関する真理をほんとうに学んでいるでしょうか。それとも,ゆがんだことを教えられているでしょうか。もし純粋に聖書だけを読んで神について学ぶなら,神に関するその記述は,教会の教えや神のしていることと衝突するでしょうか。

      キリスト教世界の大多数の教会は,ひとつの神に三つの位格がある,つまり神はいわば『三つの頭』を持つ神であると言います。イエスが死んだのは神が死んだのだ,と教えます。この教理によると,神は宇宙の真の最高支配者,父,あらゆる命の源ではありません。むしろ神は,これらの地位を,子,および三位一体の第三の位格と考えられる,いわゆる「聖霊」と共有していることになります。

      しかし聖書は,「イスラエルよ聴け我らの神エホバは唯一のエホバなり」(モーセのことば)と述べています。(申命 6:4)またクリスチャンの使徒パウロは,「我らには父なる唯一の神あるのみ,万物これより出で,我らもまたこれに帰す。また唯一の主イエス・キリストあるのみ,万物これに由り,我らもまたこれに由れり」と書いています。(コリント前 8:6)イエスは,「父は我よりも大なるに因ると」言い,またエホバのことを「わが神」と呼ばれました。(ヨハネ 14:28; 20:17)また聖書はどこでも,聖霊をひとつの位格としてではなく,理知のない力,神の活動力として示しています。―使行 2:17,33。

      神の名前を隠す,またはあいまいにする試み

      教会は別の方法でも問題をゆがめています。聖書は,神が諸国民にご自分の名前のエホバなること,そしてご自分だけが全地を治める至高者であることを知らされる,と述べています。(詩 83:18。エゼキエル 38:23)テトラグラマトンの形になっている神の固有の名前 ― 英語のJHVHまたはYHWHに字訳され,エホバまたはヤーウェと飜訳されている,ヘブル語の四文字 ― は,ヘブル語聖書の中で7,000回近く出てきます。イエス・キリストは地上におられたとき,わたしは『神の名前』を弟子たちに知らせた,と言われました。また神は,神の名前と,それが表わすすべての正しい原則とが全地で宣布され,『清められる』ようにすることを命令されました。それは人々が,神の道を学び,その道を歩むためでした。―マタイ 6:9。ヨハネ 17:6,26。黙示 14:6,7; 19:6。

      しかし僧職者たちはその名前を隠しました。聖書の飜訳にさいしては,神の名前であるエホバが出てくる箇所には,その代わりにLORD(主)とかGOD(神)という称号を用いました。そのうえ彼らは,神を偽って伝え,地獄の火などの教理によって神の名誉を汚し,神を,ナチスのゲシュタポや強制収容所の熟練した拷問者よりも意地の悪い鬼のように描いてきました。

      しかし神ご自身のみことばである聖書によると,エホバは正義とあわれみの神です。(出エジプト 34:6,7)エホバのおきては,「罪の払ふ価」は責苦ではなくて「死」であると述べています。(ロマ 6:23)悪人は死なねばならないとはいえ,神は彼らの死を喜ばれません。(エゼキエル 33:11)人間を苦しめることに関する神の考えは,イスラエルの人々が,彼らの子どもを火で焼いて異教の神バアルにささげたことを非難されたときに示されました。神は預言者エレミヤをつかわして,彼らに次のように告げさせました。「彼らはバアルのために崇邱を築き火をもて己の児子を焚き燔祭となしてバアルにささげたり,これわが命ぜしことにあらずまたわが心におもはざりし事なり」― エレミヤ 19:5。

      もし読者が聖書の黙示録 20章14節をお調べになるなら,僧職者たちが長いあいだ永却の苦悩の場所と呼んできた「火の池」は,実際には象徴であって,責苦ではなく「第二の死」を意味するものであることがおわかりになるでしょう。事実,地獄すなわちヘーデース(実際には人間のふつうの墓)そのものが,この象徴的な「火の池」で滅ぼされるのです。

      僧職者の多くは,神を偽り者と呼んで,神の怒りを高めています。神のみことばは霊感によるものではないとか,アダムとエバ,人類の堕落,大洪水,奇跡,キリストの処女降誕などに関する記録は単なる神話,頼りにならないぐう話である,と彼らは言います。また「神は死んだ」つまり神は人間や人間の問題となんのかかわりもない,とさえ言います。

      見過ごされる不道徳

      そのうえ教会の指導者は,彼らの会衆内で行なわれる不道徳を,多くの場合,大目に見て,淫行や,虚言や,盗みの常習者を除こうとはしません。なかには婚前交渉や結婚外の性行為まで支持する人がいます。同性愛者の結婚式が牧師によって司式されたこともあります。

      教会内の,そのような行ないをならわしにしている人々は,僧職者のそうした行為を大目に見るでしょう。そして,それは「新しい道徳」にかなっており,宗教思想の現代化だと言うかもしれません。しかし僧職者は,そうしたことを行なったり是認したりすることにおいて神を代表していますか。その逆です。というのは,聖書は次のように述べているからです。「すべての人,婚姻のことを貴べ,また寝床を汚すな。神は淫行のもの,姦淫の者を審き給ふべければなり」。(ヘブル 13:4)そればかりでなく,神の怒りはとりわけ,神について偽りを教え,同時に,人々に対する神の代表という名に隠れてお金を得,物質的な支持を受ける者に対して燃えます。

      嘆かわしいことですが,実際のところ,諸国民が今衝突への道をたどりつつあるのは,おもに宗教の,とりわけキリスト教世界の宗教のせいです。なぜそういえますか。

      背教したキリスト教の起源

      使徒パウロは,死ぬ少し前,真のキリスト教からの背教が生ずることを予告しました。使徒たちの在命中は,彼らが,会衆内の偽りの教理の唱導者たちを押えることができました。しかしパウロは次のように言いました。

      「されど御霊あきらかに,ある人の後の日に及びて,惑す霊と悪鬼の教とに心を寄せて,信仰より離れんことを言ひ給ふ。これいつはりをいふ者の偽善に由りてなり,彼らは良心を焼金にて烙かれ……」― テモテ前 4:1,2。

      パウロはまた,クリスチャン会衆内の指導的な立場にいるある人々に次のように警告しました。

      「われ知る,わが出で去るのち暴きおほかみなんぢらの中に入りきたりて,群を惜まず,またなんぢらの中よりも,弟子たちを己が方に引き入れんとて,曲れることを語るもの起らん」― 使行 20:29,30。

      使徒ペテロも同様の強い警告を与えました。

      「されど民のうちに偽預言者おこりき,そのごとく汝らのうちにも偽教師あらん。彼らは滅亡にいたる異端を持ち入れ,己らを買ひ給ひし主をさへ否みて速かなる滅亡を自ら招くなり。また多くの人かれらの好色に随はん,これによりて真の道はそしらるべし。彼らは貪欲により飾言を設け,汝等より利をとらん。彼らの審判は古へより定められたれば遅からず,その滅びは寝ねず」― ペテロ後 2:1-3。

      この真の崇拝と教理からの背教は生じ,特に4世紀から,背教した偽りのキリスト教が栄え,国家と結合して国教になり,その優勢な地域が「キリスト教世界」(「キリスト教の奉じられている領土」という意味)と呼ばれるようになりました。これは,「わが〔王国〕はこの世のものならず」「彼ら[イエスの弟子たち]も世のものならぬに因りてなり」というイエスのことばに直接反するものです。―ヨハネ 18:36[新]; 17:14。

      歴史の記録によると,それ以来,宗教指導者は,国の支配者たちの相談役となり,また多くの場合,指導者となってきました。しかし権力の振えないところでは,自分たちを受け入れない支配者に対して革命を扇動したり,戦争をしかけたりすることさえ辞しませんでした。今日でも,国家の支配者にまじって,権力のある有利な立場を得られないところでは,現行政府に反抗するグループの中で著名な存在となっていることが少なくありません。

      流血の責任

      この理由で,偽りの宗教すべて ― その中で,背教したキリスト教は最も優勢 ― は,聖書の中で「都」,「大なるバビロン」つまり象徴的な帝国として描かれています。というのは偽りの宗教は,「地の王たちを宰どる〔王国〕」をもつからです。また,偽りの宗教は「淫婦」として擬人化され,その淫婦については次のように述べられています。「預言者・聖徒およびすべて地の上に殺されし者の血は,この都の中に見出されたればなり」― 黙示 17:1,2,5,18〔新〕; 18:24。

      黙示録 17章3節,12-14節によると,その「淫婦」は,地の「王たち」もしくは支配者たちを表わす角をもつ象徴的な「獣」に乗っています。それらの王たちは,その淫婦である乗り手に影響されて,「羔羊」イエス・キリストと「戦い」ます。ここにもまた,地上の偽りの宗教が実際に先頭に立ち,諸国民をして衝突への道を歩ませている証拠があります。

      では,神がこの世の宗教を不快に思われるのは意外なことでしょうか。もし神が,ご自分の名前を清めることをせず,また教会内の不道徳や腐敗,神について教えられている偽りなどを嫌う人々を助けないとすれば,そのほうがもっと意外でしょう。

      ある人はこう言うかもしれません。『たしかに神にはさばきを執行すべき理由が十分あるでしょう。しかし,主として偽りの宗教と政治がもたらした状態のために人々を滅ぼすのは,愛のない行ないではないか』と。次の記事はその点を取りあげます。

  • 国民は支配者とともに責任をもつか
    ものみの塔 1972 | 1月1日
    • 国民は支配者とともに責任をもつか

      もし諸国民が神と衝突すれば,大いなる滅びがあることは必至です。しかし,宗教指導者や政治指導者が先に立って神に敵対しているとすれば,国民の苦しむ理由がありますか。

      では,責めは支配者だけにあるのでしょうか。そうではありません。政府が,その統治下にある国民を反映するにすぎないということは,事務家たちの認めるところです。19世紀末に住んでいたフランスの外交官ジョセフ・ドメストルは,そのことを,「国家はすべてそれ相当の政府をもっている」というふうに表現しています。また,英国の政治家ウィリアム・ペンは,「人民が政府に依存するというよりも,むしろ政府は人民に依存する。人民が善良ならば,政府は悪いはずがない。もし政府が病めば,人民がそれをいやすだろう。しかし人民が悪くて政府が非常に良い場合,人民はそれを自分の好みに合うように曲げ,そこなおうとするだろう」と教えました。問題が人間の立てる政府に適用されるかぎり,聖書の見解もこれと一致します。

      神の律法が国家の“憲法”となっていたイスラエルにおいてさえ,支配者と国民の両方が罪を犯して苦しみました。その理由をエホバは次のように述べておられます。「預言者は偽りて預言をなし祭司は彼らの手によりて治めわが民はかかる事を愛す」。

      神の民,聖なる国民と主張するキリスト教世界にも,同様の状態が存在します。したがってイスラエルに対する神のことばは,そのまま現在のキリスト教世界にあてはまります。「我かくの如きことを罰せざらんや,わが心はかくのごとき民に仇を復さざらんや」― エレミヤ 5:29-31。

      宗教の分野において,人々は神に聞くよりも人間に聞いてこなかったでしょうか。人々は聖書をもっていて,それを読むことができます。にもかかわらず,神に関する偽りの教えや神のことばを拒否することが教えられ,不正直な人や不道徳な人が矯正されることもなく,神を否定する進化論をさえ受けいれている教会をいつまでも離れず,それを支持してきました。神はそのようなことを喜ばれるでしょうか。

      世界政府も地の病気をいやすことはできない

      犯罪,麻薬禍,性病,汚染,その他人類にとって重大な脅威である,世界を悩ます無数の病弊を,政府が除きえないことは,著名な人々の認めるところです。なぜ除けないのですか。なぜなら,それらを除くには,国民自身が全面的に協力し,心をつくして法律を守り,隣人を思いやり,利己主義や貪欲を示す代わりに,真の愛を実践しなければならないからです。しかし実情はそうではありません。

      政府は国民の心に正義の念を植えつけることができません。利己主義が深くしみこんでいるために,この世の諸機関によって作り出されるどんな教育計画もそれを除くことができません。福祉,社会復帰,その他立てられる計画も,ついには情実,利己主義,収賄,腐敗などのために用をなさなくなります。(伝道 1:15)ですから,国民自身にも大きな責任があります。

      肉体的,社会的に国民に影響をおよぼすこうした状態は,実際には,現存する悪い霊的な状態の反映です。聖書は世の人々が“呼吸する”霊つまり精神を大気圏の空気にたとえています。この霊または支配的勢力,世の態度もしくは風潮とは,反抗の精神です。(エペソ 2:2)これは空気のように,わたしたちの周囲に充満し,圧力をかけてきます。聖書の黙示録では,神の怒りが『災い』として『空気の上にそそがれる』ことが示されています。一般の世間を動かしている霊つまり精神はたしかに“病める”霊であって,その病弊はいま,文字どおり堕落という疫病となって,現代社会のあらゆる活動の中に姿を現わしています。―黙示 15:1; 16:17。

      事物の全体制が去らねばならない

      高いところから人類を眺めておられる神は,このことを見,ひとつのグループまたは構成分子だけに責めがあるのでないことを認めておられます。むしろ,今日存在するような事物の全体制が,ひとつの生活様式の中に人々を「閉じこめ」,人々がその様式にそって歩まないようにするのを非常に困難にしているのです。取り替えねばならないのは体制です。その向きを別の方向に変えるわけにはいきません。機関車がレールから離れて国土を横断することができないのと同じです。イエス・キリストは,この世界の事物の体制が,今日わたしたちが目撃している状況のもとで「終結」することを示されました。

      ある人々は,この事物の体制およびその不正直な物事のやり方に同調するのが生き残る唯一の道と考えています。しかし正しい原則を捨てれば,その悪に対する責めをともに負うことになり,前途には滅亡あるのみです。しかしながら,この体制と歩みをともにすることは強制されていて避けることができない,と考える必要はありません。神は個人個人にその行動の責任を問われます。したがって神は,まっすぐな清い道をみずから進んで歩む者たちにのがれ道を備えておられます。(ゼパニヤ 2:3。コリント前 10:13)神は卓越した愛の神です。次に取りあげる主題は神の愛ある親切です。

  • 神はさばきにおいても愛ある親切を示される
    ものみの塔 1972 | 1月1日
    • 神はさばきにおいても愛ある親切を示される

      神の預言者のひとりは,腐敗した悪意のある圧制者や偶像崇拝者たちに対する神のさばきを幻で見たとき,「怒る時にもあはれみを忘れたまはざれ」と神に嘆願しました。(ハバクク 3:2)もうひとりの預言者も,神の民と自称するイスラエル民族の中の悪を神が滅ぼす預言的な幻を見て,「ああ主エホバよ汝怒をエルサレムにもたらしてイスラエルの残余者をことごとくほろぼし給ふや」と叫びました。―エゼキエル 9:8。

      この二人の預言者はどちらも,エホバが愛とあわれみの神であることを知っていたので,そのようなことを言いました。それは,神の友アブラハムが昔,ソドムに臨もうとしていたさばきについて神に語りかけたのに似ていました。「なんぢかくのごとくなして義者を悪者とともに殺すが如きはこれあるまじき事なり また義者と悪者を均等するが如きもあるまじきことなり」。アブラハムは,義人を滅ぼすことが,エホバの原則に完全に反することを知っていました。―創世 18:25。

      アブラハムは,エゼキエルの場合と同じく,神のさばきは選択的であって,滅びに価しない者は救われる,という答えを得ました。結果もそのようになりました。

      これらのできごとからわたしたちは神の性質を伺い知ることができます。神はモーセに宣言されました。「エホバ エホバあはれみあり恩恵あり怒ることの遅く恩恵と真実の大なる神 恩恵を千代までも施し悪と過と罪とを赦す者 また罰すべき者をば必ず赦すことをせ(ざる)者」。(出エジプト 34:6,7)エホバは,最高主権者としての威光と威厳とをもって,宇宙の法と秩序を維持されねばならないのです。エホバは違法を大目に見ることはできません。にもかかわらずエホバは,正しいことをしたいと思う者に,あはれみと救いを施されます。

      イエス・キリストは,「汝らの仇を愛し,汝らを責むる者のために祈れ。これ天にいます汝らの父の子とならんためなり。天の父はその日を悪しき者のうへにも,善き者のうへにも昇らせ,雨を正しき者にも,正しからぬ者にも降らせ給ふなり」と助言されました。

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