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国が滅びる時にも生き残る安全な道ものみの塔 1965 | 2月15日
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なくても,今まで怠ってきたエホバの律法の一部を守ることによって,エホバの恵みを得られると考えました。それは6年間仕えてのち7年目にヘブル人のしもべを自由に去らせることを命じた律法です。そこで彼らは犠牲をささげて人々と契約を結び,ヘブル人のしもべを解放しました。―エレミヤ 34:8-10。申命 15:12-18。
エホバに帰ったのは一時的で,しかも彼らが不誠実なことは,どんな出来事によって明らかになりましたか。
しかし,パロ(エイプリスあるいはホフラ)のひきいるエジプト軍がユダを助けるために来るとの報に接すると,エルサレムのこれらの指導者は偽善者であることをいっぺんに暴露しました。(エレミヤ 37:5,7)ネブカデネザルはこの進撃に対抗するため,やむなくエルサレムから退きました。これに力を得たエルサレムの悪い支配者は,人々との契約また神を全く無視しました。自分たちは全く安全であると考えた彼らは,しもべに自由を与える契約を破り,しもべたちを再び束縛したのです。(エレミヤ 34:11-16)この事はエホバの怒りを招きました。エホバに忠実であるため,また生命の危険にさらされた人々に対して責任を全うするため,エレミヤはエルサレムの有力者に対して神の宣告を公に告げなければなりません。
彼らの不誠実のゆえに,エホバのどんな怒りの裁きの音信がエレミヤを通して告げられましたか。
「あなたがたがわたしに聞き従わず,おのおのその兄弟とその隣に釈放のことを告げ示さなかったので,見よ,わたしはあなたがたのために釈放を告げ示して,あなたがたをつるぎと,疫病と,ききんとに渡す……わたしの前に立てた契約の定めに従わない人々……すなわち〔契約を立てるため〕二つに分けた子牛の間を通ったユダのつかさたち,エルサレムのつかさと宦官と祭司と,この地のすべての民を,わたしはその敵の手……に渡す。その死体は空の鳥と野の獣の食物となる。わたしはまたユダの王ゼデキヤと,そのつかさたちを……あなたがたを離れて去ったバビロン王の軍勢の手に渡す」。
エホバはどのようにこの裁きを執行しますか。
どうしてこのような事があるのですか。エホバは次のように説明されました。
「見よ,わたしは彼ら〔バビロニア人〕に命じて,この町に引きかえしてこさせる。彼らはこの町を攻めて戦い,これを取り,火を放って焼き払う。わたしはユダの町々を住む人のない荒れ地とする」― エレミヤ 34:17-22。
(二つの節)ネブカデネザルの軍隊が一時撤退した時,ゼデキヤの抱いた救いの望みは,どのように砕かれましたか。
このような状態にあって,エレミヤはどんな待遇を受けましたか。しばらくの間エレミヤは人々の中を自由に出入りしていました。ゼデキヤ王はエレミヤに使いを送り,エホバの告げられたことばが撤回されるようにエホバに祈り求めてほしいと頼みました。「あるいは神の恵みを期待できる」と,ゼデキヤは考えたのです。しかしエレミヤはエホバのお告げを語りました。それはゼデキヤの希望を打ち砕くものであり,エレミヤはエルサレムの支配者から脅かされるいっそう危険な立場に陥りました。
「あなたがたを救うために出てきたパロの軍勢はその国エジプトに帰ろうとしている。カルデヤびとが再び来てこの町を攻めて戦い,これを取って火で焼き滅ぼす……あなたがたは,『カルデヤびとはきっとわれわれを離れ去る』といって自分を欺いてはならない。彼らは去ることはない。たといあなたがたが自分を攻めて戦うカルデヤびとの全軍を撃ち破って,その天幕のうちに負傷者のみを残しても,彼らは立ち上がって火でこの町を焼き滅ぼす」― エレミヤ 37:3-10; 44:30。
エルサレムを去ろうとしたエレミヤの行動は,どのように誤解されましたか。そのため預言者はどうなりましたか。
そこでエレミヤが自分の土地であるベニヤミンの地に行こうとしたとき,番兵はエレミヤを捕え,「あなたはカルデヤ人の側に脱走しようとしている」と言いました。エレミヤはそれを否定して「それはまちがいだ。わたしはカルデヤびとの側に脱走しようとしていない」と答えましたが,つかさたちはエレミヤを打ち,かせにつないで「地下の獄屋」に入れ,エレミヤをエルサレムから出さないために,そのひどいところに監禁しました。―エレミヤ 37:11-16。
エジプト人を敗北させてのち,バビロニア人は何をしましたか。なぜですか。
忠実なエレミヤが告げた通り,やがてバビロニアの軍勢はエジプト軍をエジプトに追い帰し,ネブカデネザルはエルサレムを再び包囲するために戻ってきました。エルサレムはエホバの怒りのぶどう酒の杯をまっさきに飲まなければなりません。エジプトが飲むのはその後です。―エゼキエル 30:20,21。
神はそのしもべを養い,保護する
(イ)監禁の身にもかかわらず,エレミヤはゼデキヤの重ねての問いに何と答えましたか。(ロ)この場合,神がそのしもべを保護したことはどのように明らかですか。
それでもなおゼデキヤ王は,エホバのみ心の変わることを求めますが,エレミヤはエホバの音信を手加減せず,「あなたはバビロンの王の手に引き渡されます」と答えました。これらの出来事にも拘わらず,エホバは,敵の只中にあるご自分のしもべエレミヤを保護されました。ゼデキヤはエレミヤの願いを容れて彼を監視の庭に移したからです。また「パンを造る者の町から毎日パン一個を彼に与えさせた。これは町にパンがなくなるまで続いた」― エレミヤ 37:17-21。
エレミヤに対して更にどんな不平が述べられましたか。そのためエレミヤはどんな罰を受けましたか。
監視の庭におかれながらも,エレミヤには人々に語る機会があったに違いありません。エレミヤは,カルデヤ人に降服して自分たちの生命を救うようにとのエホバのことばを人々に告げました。町はかならず陥落するからです。エレミヤのことばは,包囲下にある人々の士気をくじくと言う不平がつかさたちから出ると,ゼデキヤ王は弱気にもエレミヤを彼らの手に渡しました。ゼデキヤは自分が危くなると,もはや神の預言者を保護しようとしなかったのです。「そこで彼らはエレミヤを捕え,監視の庭にある王子マルキヤの穴に投げ入れた……その穴には水がなく,泥だけであったので,エレミヤは泥の中に沈んだ」。穴の中で宣べ伝えることはできまいと,彼らは考えました。
エホバはだれを用いて,エレミヤを助けさせましたか。エレミヤはどんな親切を受けましたか。
エルサレムでは極端な国家主義の空気が支配し,エレミヤの伝道活動が憎しみの的になっていたにも拘わらず,エホバのことばを聞いてそれに従うことを安全な道と考えた人々がいましたか。そうです。神はこのような人の一人を用いて,忠実なエレミヤを泥の中から救いました。それは王の宦官の一人でエチオピヤ人のエベデメレクです。エレミヤの窮状を知った彼は王に申し出ました,「王なるわが君よ,この人々が預言者エレミヤにしたことはみな良いことではありません。彼を穴に投げ入れました。町に食物がなくなりましたから,彼はそこで餓死するでしょう」。王の命令を受けてエベデメレクは30人の人と道具をそろえ,エレミヤをひきあげました。「そしてエレミヤは監視の庭にとどまった」― エレミヤ 38:1-13。
エレミヤに親切を示したエベデメレクに対し,エホバはどんな慰めを与えましたか。
エレミヤのためにこの事をしたエベデメレクは,生命の危険をおかしましたか。そうです。しかし彼は,エレミヤがエホバの真の預言者であることを知っていました。エベデメレクの行動は,エルサレムの支配者たちのエホバに対する不信仰を罪に定めました。エホバはエベデメレクをみ心に留められました。彼に対するエホバの慰めのことばをごらんなさい。「わたしの言った災をわたしはこの町に下す,幸をこれに下すのではない。その日,この事があなたの目の前で成就する……その日わたしはあなたを救う……わたしが必ずあなたを救い,つるぎに倒れることのないようにするからである。あなたの命はあなたのぶんどり物となる。あなたがわたしに寄り頼んだからである」― エレミヤ 39:15-18。
人を恐れたゼデキヤは,どのように致命的なわなに陥りましたか。
バビロニア人に降服して家の者を救い,エルサレムの焼失を免れる機会は,まだゼデキヤにありました。彼はひそかにエレミヤのもとに行き,その事の保証さえ得ています。しかし彼は人を恐れました。降服に同意しない人々の報復を恐れたのです。ゼデキヤが安全を求めた方向は,間違っていました。彼はそのため致命的なわなに陥ったのです。―エレミヤ 38:14-28。
包囲はどのくらいの間つづきましたか。町の中はどのようにすさまじい状態になりましたか。
1年半近くも包囲がつづいて,エルサレムの人々は悲さんな状態に陥りました。人々は飢餓に苦しみました。(列王下 25:1-3)母親は自分の赤ん坊を食べました。(エレミヤ哀歌 2:19,20)エレミヤのとった道は賢明でしたか。彼は包囲を生き延びますか。
エルサレムの陥落
(イ)城壁が破れたとき,ゼデキヤはどのように逃れようとしましたか。しかしどうなりましたか。(ロ)エゼキエルの預言は,どのようにゼデキヤに成就しましたか。
遂にタンムズの月にバビロニア人は城壁の一角を破って侵入し,中の門をとりました。ゼデキヤ王が降服を望んでも,もう間に合いません。ゼデキヤは夜の間に逃げましたが,ヨルダン河近くのエリコの平地で捕えられ,ハマテの地のリブラにいたネブカデネザルのところに連れてこられました。バビロンの王はゼデキヤの息子たちを彼の目の前で殺し,またユダの貴族を一人残らず殺しました。そしてゼデキヤの目をつぶさせ,鎖につないでバビロンに引いて行かせました。ゼデキヤはバビロンで死にます。(エレミヤ 39:2-8)エゼキエルの預言した通り,彼はバビロンに行き,しかもバビロンを見ませんでした。―エゼキエル 12:12,13。
エルサレムの陥落は,エレミヤにどんな影響を及ぼしましたか。
エルサレムの陥落によって,エレミヤは解放されることになりました。バビロニア人はエレミヤの伝道のことを聞いており,エレミヤに親切でした。バビロニアの侍衛の長ネブザラダンはエレミヤを監視の庭から連れ出しました。(エレミヤ 39:13,14)エレミヤは,バビロンに連れて行かれようとしていた人々の中にいましたが,侍衛長は彼を見て次のように言いました。「見よ,わたしはきょう,あなたの手の鎖を解いてあなたを釈放する。もしあなたがわたしと一緒にバビロンへ行くのが良いと思われるなら,おいでなさい。わたしは,じゅうぶんあなたの世話をします。もしあなたがわたしと一緒にバビロンには行きたくないなら,行かなくてもよろしい。見よ,この地はみなあなたの前にあります。あなたが良いと思い,正しいと思う所に行きなさい」― エレミヤ 40:1-4。
エレミヤはバビロニア人からどんな待遇を受けましたか。そして遂にどこに住みましたか。
エレミヤが迷ったとき,侍衛長は,バビロン王がユダの町々の王として立てたゲダリヤの所に帰り,望むところに住むようにとエレミヤに告げました。こうして糧食と贈り物を与えて彼を去らせたのです。それでエレミヤはミヅパにいるゲダリヤのもとに行き,そこに住みました。その後の出来事は,次号にとりあげます。―エレミヤ 40:5,6。
私たちは安全な道をとれます
エレミヤにとって,事態はどのように暗く見えましたか。しかし実際の結果を見ると,エレミヤはなぜ安全でしたか。
それで滅びを目前にしたエルサレムの暗い日に,包囲され,飢えにせまられた町の中で,しかも支配者たちの反感を買って捕われていたエレミヤが生き残るとは思われませんでした。しかしたとえその伝道が国の支配者を罪に定め,エルサレムの滅びを予告するものであっても,エホバへの献身を固く守ったエレミヤは,実際には安全な道をとっていたのです。
(イ)今日,エホバの油そそがれた証者の経験は,どのようにエレミヤのそれと類似していますか。(ロ)今日だれがエベデメレクと同様な道をとっていますか。その人々は,なぜキリストを通してエホバから恵みを受けますか。
私たちはこれから教訓を学ぶことができます。エホバの油そそがれた証者は,現存する事物の制度が,バビロン的な偽りの宗教に影響され,また背いてエホバ神から離れ去ったゆえに滅びることを宣明しています。そのために彼らは,マタイ伝 24章9節に「あなたがたは,わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう」とイエスが言われたことを経験しています。その中には獄につながれ,また迫害に会っている人も多くの国に大ぜいいます。しかし油そそがれた証者にとって,エレミヤの経験は,彼らがこの世と共に罪に定められることを免れ,一つの群れとして,現存する事物の制度の滅びを生き残ることの保証となっています。エレミヤがエホバの預言者であることを認めて彼を助けたエベデメレクは,エレミヤと共に生き延びました。今日においても,神のしもべの側に来て行動し,献身を忠実にはたす人々は,エベデメレクと同じく,またイエス・キリストご自身の言われた次の原則に従って,エホバから必ず恵みと保護を与えられます。「預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は,預言者の報いを受け……るであろう。わたしの弟子であるという名のゆえに,この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は,よく言っておくが,決してその報いからもれることはない」― マタイ 10:41,42。
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読者よりの質問ものみの塔 1965 | 2月15日
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読者よりの質問
● サムエル前書 16章23節の示す通り,ダビデが,すでにサウルの宮廷の琴ひきとなっていたなら,なぜサウルはサムエル前書 17章55節で,ダビデがだれであるかをたずねているのですか。
「新世界訳聖書」,ならびに「欽定訳聖書」など,多くの聖書翻訳は,サムエル前書 第16章において,ダビデがサウルの目にとまり,琴をひき,武器をとる者とされた事を記しています。次いで,サムエル前書 17章15節は,ダビデが自分の父の羊を飼うために家にもどり,そののち,ゴリアテとの戦いの時,サウルのもとに戻った事を示しています。サムエル前書 17章55-58節に示されるごとく,サウルがダビデについて何も知らなかったかのように思われるのは,このダビデのもどってきた時です。さて,どうしてこのような事があるのかという事が問題です。
「新世界訳聖書」,また「欽定訳聖書」などに含まれるこの部分は,マソレティック・ヘブル語写本から来ています。これら二つの翻訳は,いずれもその写本を基にしているからです。しかし,マソレティック写本は,古いヘブル語写本をギリシャ語になおした「ギリシャ語七十人訳聖書」に比べれば,かなり新しい写本である事を忘れてはなりません。4世紀のギリシャ語写本バチカン1209号や,シナイ写本などに含まれる,「ギリシャ語七十人訳」の文面は,問題となる語句をのせておらず,論議中の事件については,少しく異なったすがたを提示しています。別のことばで言いましょう。すなわち,「七十人訳聖書」からこの部分を読むならば,ダビデが牧羊のために家に帰った事は出てこず,従って,問題となることは生じません。それゆえ,ゴリアテが最初に高慢な挑戦の言葉をかけた時,ダビデはその場にいたはずであり,その挑戦に応ずる旨,申し出る事ができたはずです。サウルは若者ダビデを知っていましたが,それは戦士としてのダビデではありませんでした。それでダビデは,自分が羊飼であった時に,エホバの力を得て,獅子と熊とを殺した事をサウルに知らせました。次いでダビデは,巨人と戦うために出てゆきますが,この時,サウルはダビデの身元をただす必要はありません。そして,「七十人訳聖書」に,その種の問答は出て来ません。
前述の事柄は,マソレティック写本にある種の変化の加えられた事を暗示しており,それがここの問題の起こりと言えるでしょう。「新世界訳聖書」初版の脚注は,こうした写本相互の相違を明らかにしています。
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