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クリスチャンの道徳ものみの塔 1968 | 5月1日
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なるあなたの神を愛せよ……自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」。(マタイ 22:37,39,〔新世訳〕)神を愛し,その愛を表わす道は,人間の行ないを律する神の正義の標準を無視してそれにもとることではなく,キリスト・イエスが手本を示された生き方に堅くつき従うことです。それには,不完全な肉体の欲望よりも神の聖霊の導きに注意を払わなければなりません。
31 だれが隣人であるかは,どのように決められますか。
31 だれが隣人であるかについて,わたしたちが狭い考えを持つことのないように,イエスは良きサマリヤ人のたとえを話されました。そして結びに次の適切な問いを出していられます。「この三人のうち,だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。(ルカ 10:36)それですべての人に対して隣人でなければなりません。そのすべてはなんらかの形でわたしたちの援助を必要としています。淫行や姦淫をするなら,人の父,兄弟あるいは夫に対してどんな隣人になりますか。またこのような不法な性関係によって人の自尊心を失わせるなら,その人に対してどんな隣人となっていますか。答えは明らかです。
32 クリスチャンに対する真の道徳の水準について,不明な点がありますか。
32 神の御子は人となられた時,追随者が守るべき道徳の標準をご自身の生き方によって示されました。クリスチャンであると言いながら,イエスの手本と異なる生き方をするのは無益なことです。それは偽善者になることにほかなりません。イエスが天の父から受けた教えに反することがらを教えたり,行なったりする人は,神に敵対する者となります。そのはてには死あるのみです。
33 イエスの追随者は,神が聖であられるようにどのように聖なる者となれますか。
33 他方,神とキリストの心を知るようになったならば,次の熱心なすすめに賢明に聞き従わなければなりません。「無知であった時代の欲情に従わず,むしろ,あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって,あなたがた自身も,あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。聖書に,『わたしが聖なる者であるから,あなたがたも聖なる者になるべきである』と書いてあるからである」。(ペテロ第一 1:14-16)アダムから罪を受け継ぎ,肉体は弱くても,聖なる者になれるのです。神は不可能なことをわたしたちに要求されません。それで神の助けによって,「霊の思い」を保つならば,いま神との平和を得,神の新しい秩序の下で生命と平安を得ます。
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家族がそろって事を行なうものみの塔 1968 | 5月1日
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家族がそろって事を行なう
● 開拓奉仕をすることには,ある程度の自己犠牲が伴います。もし両親がこの特別な奉仕を行なった場合,成長期の子供にどんな影響がもたらされるでしょうか。これは,ちょうど二人のむすこが小学校にはいる時に開拓奉仕を始めたアラスカのある夫婦の必配した問題です。その夫婦は次のように語りました。「開拓奉仕とは混乱した家庭を意味し,学校から帰っても母親は奉仕に出かけて家におらず,家族でそろって楽しい時を過ごすこともないなどと子供たちに感じてもらいたくはありませんでした」。そこで,子供たちが学校に行っている間に奉仕をしたり,できる場合には,子供と一緒に奉仕するように計画し,また時間を作っては家族そろって色々の事を一緒にしました。二人のむすこは今では高校を終え,自ら意を決して開拓奉仕を始めており,両親はこう語りました。「家族で一緒に勉強し,聖書を読み,そして集会や奉仕に行き,また家族そろってレクリエーションを楽しむ夜のひと時を設けたことなどあいまって,家族の絆が強められ,そして,他の多くの親たちが余儀なく対処させられている十代の子供たちのむずかしい問題を最少限に食い止めることができたのだと思います」。その子供たちは学校を終えましたが,この家族は今でも家族そろって色々な事を行なっており,家族で一緒に過ごす夜のひと時を今も楽しみにしています。
― エホバの証人の1968年度年鑑より
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