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暴力に直面した時のクリスチャンのふるまいものみの塔 1967 | 12月1日
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たとえば,この助言に従うクリスチャンは,たとえ圧制的であっても既存の政府を暴力によって打倒するわざにはあずかりません。しかもこのような暴力行為に加わった人の多くは,打倒した政府よりさらに劣悪な支配体制の下にしばしば苦しむ破目になっており,しまいには神の是認を得られないある主義のために命を失うかもしれません。イエスは,神の国を祈り求めよと弟子たちに教えましたが,現存する政府転覆のために戦えとは語りませんでした。(マタイ 6:9,10。ヨハネ 18:36)神がご予定の時に圧制を事とする政府すべてを永久に終息させることをご存じだったのです。ゆえにクリスチャンは「争ってはな」りません。必要なのは,全人類を益する唯一の満足すべき解決をエホバ神がもたらされるまで忍耐強く待つことです。
今日,偏見や差別のない国はありません。自国の正当な制度により問題が正しく解決されない場合,ピケや騒動などの手段に訴えるべきですか。クリスチャンがそのような行為をすれば自らを不法の者にします。キリスト教は遵法を教えるものであって,不法の鑑札ではありません。不法はさらにきびしい抑圧と差別をもたらし,決して正義を生み出しません。神の実際的な知恵はこう語っています。「怒りをやめ,憤りを捨てよ。心を悩ますな,これはただ悪を行うに至るのみだ。悪を行う者は断ち滅ぼされ(る)」。(詩 37:8,9)使徒パウロは書きました。「怒り,憤り,悪意,そしり,口から出る恥ずべき言葉を,捨ててしまいなさい」。(コロサイ 3:8)まことのクリスチャンは,悪の諸制度の誤りを正すのは自分ではなくてエホバ神であることを認め,エホバが正義をもたらされる時を待ち望みます。
自分の住む地域で暴動やデモ騒ぎが生じた場合,クリスチャンは十分の注意を払い,暴力行為の危険に身をさらす愚を避け,賢明に身を処します。できれば安全なところに避難して騒ぎの治まるのを待ちます。このような行動は神の知恵の表われです。「自分に関係のない争いにたずさわる者は,通りすぎる犬の耳をとらえる者のようだ」。ゆえにクリスチャンは暴動やデモに加わらないばかりか,好奇心からそのような現場に自ら近づくこともしません。―箴言 26:17。
では,人からけしかけられたり侮辱され,あるいはひどい目にあわされたりしたならどうしますか。同じように仕返しすべきですか。聖書はこう警告しています。「激しいことばは怒りをひきおこす」。(箴言 15:1)特に今日のように相当数の人が悪霊や麻薬の影響を受けている時代にあっては,受けたとおりの仕返しをする,としばしばさらに激しい憤りを招き,実際に暴力をふるわせることになりかねません。クリスチャンは事をあらだてるかわりに幾つかの肝要なことを行ないます。その一つは,「柔らかい答は憤りをとどめ」るゆえ柔和な態度で応じることです。それでも事態を収拾できなければ,神のことばはこう勧めています。「けんかの起らないうちにそれをやめよ」― 箴言 17:14。
クリスチャンはまた不良その他の危険人物の暴力を避ける方法も講じます。危険な地区ではできるかぎり夜道のひとり歩きを避けます。犯罪の多い地域であれば,神の目的を伝えるために人々を訪れる場合でも,仲間のだれかを伴って行くほうが安全です。とは言っても,クリスチャンはすべてを犠牲にして身の安全を求めるという意味ではありません。事実,もし神への崇拝が問題となる場合,死を賭してでも迫害を甘受しますが,神への忠実ということに何の関係もないのに命の危険を冒そうとはしません。
中立
クリスチャンは,暴動や流血を招く国家的あるいは国際的な論争のいずれの側をも支持しません。神のしもべとしてこの世の争いに関しては中立を保ち,争いに伴う流血の罪を避けます。イエスはご自分の追随者についてこう言われました。「わたしが世のものでないように,彼らも世のものではありません」。(ヨハネ 17:16)ゆえにクリスチャンはこの世の激烈な闘争に荷担しません。ご予定の時にしかも罪のない人々を傷つけることなく神がすべての悪を終わらせることをクリスチャンは知っています。
今日のクリスチャンもこの世の争いにかかわり合わないようにする結果,初期クリスチャンのしたとおりのことを行なっています。ジャスチン・マーターが2世紀に書いたことに注目してください。「我々はかつて戦争,果たし合いその他すべての悪をほしいままにしていたが,世界中どこでも互いに戦いの武器を変え,剣をすきに槍をくわにし,そして,はりつけにされた方を通じて天の御父より受けた資質すなわち敬虔,正義,博愛,信仰,希望を培った」―「ニケア以前の教父」,第1巻,254頁。
国々の権威者の多くはクリスチャンの中立を正しく認めていませんが,理解している人も中にはいます。
たとえば,アフリカのある国で内乱が生じ,警察および軍隊が各地の道路に防さいを築き,かなり時間のかかるきわめて厳重な検閲を実施しました。ところがエホバの証人はほとんどの場合,証人であることの十分の証拠が提出されると,あとはごく簡単な検査を受けるだけで通行を許され,検閲官はしばしばこう語りました。「あなたがたなら信頼できます」。「ご心配いりません。エホバの証人のことならよく知っています」。また,これらクリスチャンの幾人かが奉仕者の大会に向けて旅行中のこと,一検問所でこう告げられました。「あなたがたの仲間の何人かがすでにここを通って行きました。さあ,あなたがたも早く行きなさい!」エホバの証人の中立の立場を熟知しているこれらの官憲は証人たちが内乱に無関係であることを知っており,証人たちは敬意をもって取り扱われました。
しかし逆に政府当局から迫害されてもクリスチャンは各自中立の立場を守ります。その歩むべき道はエホバ神のみことばの中に定められており,彼らはどんなことがあっても妥協しません。こうして世の暴力行為に荷担することを避け,神からの不利なさばきを受けないようにします。
今や神は暴力に悩むこの社会をまもなく終わらせ,かわりに,「義の住む」新しい事物の制度をもたらします。(ペテロ第二 3:13)暴力に面しても正しいふるまいを保つクリスチャンは,命,健康,平和,幸福などのすばらしい益をその時ゆたかに刈り取り,暴力のない新しい秩序における生活を永遠に享受するでしょう。「柔和な者は国を継ぎ,豊かな繁栄をたのしむことができる」― 詩 37:11。
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彼らは血を食べないものみの塔 1967 | 12月1日
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彼らは血を食べない
● 西暦3世紀古代ローマの著作家ミヌシウス・フェリックスは「オクタビウス」と題する対話形式の作品を書いた。その中で彼は,当時クリスチャンである事を公言する人々に対してあびせられていた非難を論破しようと試みている。流布されていたうわさの一つは,彼らが「幼児を殺害しその血を用いて入会式を行なう」ので,血を飲んでいる,と云う事であった。生命と血の神聖さを甚だしく軽視している異教徒の風習についてあらまし述べたのちにミヌシウス・フェリックスは,当時のキリスト教信仰を持つ人々が血に関する神の律法に尊敬心を持っていた事を示した。彼は次のように書いている。「彼ら[異教徒]もまた,血に濡れ,血で汚れ,そして人間の手足や内臓で肥えた円形闘技場の獣をむさぼる者と異なるところがない。我々の持つ法律は殺人を見物したり,承認したりすることを許してはいない。それで食物として食べて良い動物の血でさえ用いない我々は,人間の血からはもっと遠ざかる。(ミヌシウス・フェリックスのオクタビウス,30章「ニケア信条以前の教父たち」4巻,191,192頁)3世紀になってもキリストの追随者であると公言する人々の持っていた血に対する態度が聖書的であり今日の真のクリスチャンと異なっていない事は注目に値する。―創世 9:3,4。使行 15:28,29; 21:25。
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