ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 聖書中の幾つかのエルサレムを見分ける
    ものみの塔 1976 | 12月1日
    • 人々の額にしるしをつけよ」。a エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら逃れるようクリスチャンに警告を与えたイエスの預言もやはり,文字通りのエルサレムに直接当てはまり,ひいては今日のキリスト教世界にも当てはまるのです。―ルカ 21:20-22。

      「上なるエルサレム」

      エルサレムによって代表される,忠実であったときのイスラエル国民は,王イエス・キリストの栄光に輝く14万4,000人の追随者からなるエホバの霊的イスラエルの予表,すなわち象徴でした。(ダニエル 7:13,14,27)彼らの霊的な「母」は,奴隷女ハガルの女主人,すなわちアブラハムの本妻で,イサクの母であるサラによって予表されていました。この点は,ガラテア 4章26節で,キリストの追随者にあてられた言葉によって実証されます。「上なるエルサレム[対型的なサラ]は自由であって,それがわたしたちの母です」。これこそ,今日人々が流れのように集まって来ている天のエルサレムです。―ミカ 4:1。

      国々の民は地上におり,「上なるエルサレム」は天にあるのに,どうしてそのようなことが言えるのか,とお尋ねになるかもしれません。それは,キリストの足跡に従う油そそがれた追随者たちの「残りの者」が,地上でこの「上なるエルサレム」(「自由な」女サラの対型)を代表しているからです。ですから,イザヤなどの預言および啓示の書の中で,神の女であるこの天のエルサレムに起こるとして述べられている事柄は,実際にはまだ地上に残っているその「子たち」の身の上に起きるのです。

      その良い例は啓示 12章に見られます。その中で神の「女」,つまりその天の組織は名前をもって呼ばれてはいませんが,神のメシア王国である一人の男の子を産むことが示されています。それから,女は荒野に行って,千二百六十日間,「へびの顔から離れ」て養われました。その後もサタンはこの女を迫害し,自分の口から吐き出した川のような水で,彼女をおぼれさせようとしました。もちろんこうした事柄が神の「女」,すなわち天にある宇宙的な組織に起こるはずがありません。しかし,聖書預言の成就は,こうした事柄すべてが彼女の「胤」,地上にいる子供たちの身の上に起きたことを示しています。この点を実証するものとして次のように書かれています。「龍は女に向かって憤り,彼女の胤のうちの残っている者たち,すなわち,神のおきてを守(る)……者たちと戦うために出て行った」。(啓示 12:1-17)同様に,イザヤや他の預言者たちの預言も,当時の地上の「エルサレム」,二部族のユダ王国の上にまず成就しましたが,神の天の「女」の上に大規模な成就を見ます。その天の「女」は,自らの霊的な子たちである,キリストの油そそがれた追随者によって代表されているのです。

      「新しいエルサレム」

      聖書に現われる別のエルサレムは,「新しいエルサレム」です。啓示の書の中で言及されているエルサレムは,新しいエルサレムだけです。(啓示 3:12; 21:2,10)新しいエルサレムは,神のみ子イエス・キリストの「妻」です。それは,聖なる霊の被造物からなる天の宇宙的な組織がエホバ神の妻,あるいは「女」であると言うのと同様に組織的な意味においてです。それゆえに,使徒パウロはこう書くことができました。「あなたがた[霊によって生み出された,キリストの弟子たち]を貞潔な処女としてキリストに差し出すため,わたし自身があなたがたをただひとりの夫に婚約させた(の)です」。(コリント第二 11:2)この比喩的表現と呼応して,使徒ヨハネは次のように述べています。「また,聖なる都市,新しいエルサレムが,天から,神のもとから下って来るのを,そして自分の夫のために飾った花嫁のように支度を整えたのを見た」。(啓示 21:2,10)この新しいエルサレムの正体を見分けるのに役立つ別の事柄は,そこにイスラエルの12部族の名が書き込まれた12の門があるという事実です。とはいっても,それは古代イスラエルの部族ではなく,啓示 7章4節から8節に述べられている霊的イスラエルの12部族を指しています。この点をはっきりさせているのは,この新しいエルサレムに12の土台石があり,その上に12使徒の名が書き込まれているという事実です。―啓示 21:12-14。

      聖書の中では,字義通りのシオンの山が地上のエルサレムとたびたび結び付けられていますが,霊的なエルサレムについても同じことが言えます。時としてそれは,都市や組織を指すのではなく,ある場所を指している場合があるようです。ヨハネはこう書いています。「またわたしが見ると,見よ,子羊がシオンの山に立っており,彼とともに,十四万四千人の者が,彼の名と彼の父の名をその額に書かれて立っていた」。言い換えるならば,14万4,000人の霊的イスラエル人から成る新しいエルサレムが,シオンの山に花婿とともに立っている場面が描かれているのです。―啓示 14:1。

      この点と関係があるのは,クリスチャンになったユダヤ人に対して述べられたヘブライ 12章22節と23節の次の言葉です。「あなたがたは,シオンの山,生ける神の都市なる天のエルサレム,幾百万ものみ使いたち,すなわちその全体集会,天に登録されている初子たちの会衆,すべてのものの裁き主なる神,完全にされた義人たちの霊的な命(に近づいたのです)」。

      この聖句をどのように理解したらよいでしょうか。次のように理解できます。「幾万ものみ使いたち」を伴った,「生ける神の都市」,そして「天のエルサレム」は,対型的なサラであるエホバの宇宙組織,すなわち「上なるエルサレム」を指していると思われます。キリストの花嫁である14万4,000人の成員は,「天に登録されている初子たちの会衆」によって表わされています。彼らも,「生ける神の都市」の住民の一部です。同様に,「完全にされた義人たちの霊的な命」という言葉も,14万4,000人を指す別の言い回しです。その中には,義と宣せられ,霊的円熟に達した,まだ地上にいる残りの者たちも含まれています。

      ルカ 21章24節には次のように書かれています。「エルサレムは,諸国民の定められた時が満ちるまで,諸国民に踏みにじられるのです」。この預言はイスラエル共和国の首都であるエルサレムの上に成就するのではありません。この聖句を理解するための手懸かりとなるのは,エゼキエル 21章27節の聖句です。そこでエホバ神は,ユダヤの最後の王が倒されることを予告し,さらにこう語っておられます。『権威を持つべき者の来る時までこれはあることなし 彼に我これをあたう』。この預言の言葉からすれば,異邦人つまり諸国民の定められた時が満ちるまで,足の下に踏みにじられるのは,単なる地上のエルサレムでないことは明らかです。むしろそれは,エホバがダビデと結ばれた契約に従って,ダビデの王統の上におかれたメシアの王位に対する権利を表わしています。その契約は,ダビデの王朝が永遠に続くことをダビデ王に保証するものでした。実際のところ,それゆえにこそ,イエスはダビデの直系から生まれなければならなかったのです。メシアの王位に対するこの権利は,地上のエルサレムが倒され,その王ゼデキヤが取り除かれた,西暦前607年以来踏みにじられるようになりました。諸国民はいつまで,こうして踏みにじることを続けましたか。それは,権利を持つべき者,イエス・キリストが来る時までです。啓示 11章15節から12章10節までの言葉のような預言の成就は,キリストが1914年に,天でその権利を執行し始めたことを示しています。その時エホバ神は,敵のただ中にあって征服をしに出掛けて行くようイエスにお命じになりました。―詩 2:7,8; 110:1,2。

      以上の事柄は確かに啓発を与えるものです。エルサレムという言葉は文字通りの都市そのものの名前であり,時としてイスラエル国民,あるいは二部族から成るユダ王国を表わしていることが分かります。それはまた,古代のエルサレムが不忠実になったのと同じように不忠実なキリスト教世界をも表わしていました。さらに,その都市の名は,エホバの宇宙的な組織に当てはまり,時には新しいエルサレムとして,キリストの「花嫁」を表わします。そしてまた,「エルサレム」は,メシアの王権を表わすこともあります。

      これまでの論議は単に興味深いというだけではなく,わたしたちにとって非常に重要なものです。エホバ神は,西暦前537年に故郷に戻ったユダヤ人に当てはまる,エルサレムの復興に関する預言を,より偉大で,より壮大な仕方で成就させました。それは,今日「天のエルサレム」を代表する人々,つまりキリストの体のまだ地上にいる残りの者たちの復興をもって成就しました。それら残りの者たちは,自分たちの仲間である,「ほかの羊」の「大群衆」と共に,今日霊的パラダイスを享受しています。神に神聖な奉仕をささげる際に,『上にあるエルサレム』を代表する「残りの者」と交わり,協力することは,創造者エホバ神を誠実に崇拝する人々すべてにとって特権であり,責務でもあります。―ヨハネ 10:16。啓示 7:9,15。

  • フィレモンへの手紙はクリスチャンの兄弟愛を示すもの ―「社会改革的な福音」ではない
    ものみの塔 1976 | 12月1日
    • フィレモンへの手紙はクリスチャンの兄弟愛を示すもの ―「社会改革的な福音」ではない

      聖書の正確な知識をもつクリスチャンは,世を変化させるという使命が自分たちに与えられていないことを知っています。クリスチャンはこの世に住んでいますが,世のものではありません。(ヨハネ 15:19; 17:16)それで彼らは,世界の状態を改善するために全力を注いだりはしません。聖書の言葉および人間の経験は,そうした試みが徒労に終わることを示しているからです。むしろ今日のクリスチャンは,イエスとイエスの使徒たちに見倣って,神の王国の良いたよりだけでなく,永遠の命を得るために救い主としてイエス・キリストを受け入れることの必要性をも宣べ伝えています。恵まれない人々でもこの良いたよりを受け入れるなら,裕福で社会的な地位はあってもエホバ神への信仰やその王国の希望をもたない人々より,はるかに恵まれた立場を得ることになります。―マタイ 24:14。ヨハネ 3:16。

      こうした原則を認めれば,パウロが奴隷所有者フィレモンへの手紙の中で,「社会改革的な福音」を宣べ伝えてはいなくても,クリスチャン愛を表わした理由を理解できます。また,パウロが逃亡奴隷オネシモ(パウロにより転向するよう援助された)に,非合法的な方法で奴隷状態からの自由を享受し続けるよう諭さず,彼をクリスチャンである主人の下に送り返した理由をも理解できます。

      フィレモンへのパウロの手紙は,愛情と巧みさの点で傑出した作品であると言われてきました。キリスト教に関する良いたよりを最初にフィレモンの下に携えて行き,偶像崇拝と罪との束縛から彼を解放したのはパウロでした。それでフィレモンはこの使徒に大いに負うところがあったと言えますか。フィレモンはオネシモに対して腹を立てていたとしても,それは無理からぬことです。しかも,その理由は一つだけではなかったと考えられます。オネシモは逃亡することにより,自分の主人に果たすべき多くの重要な奉仕の務めを拒んだだけでなく,恐らくローマまでの旅費として用いるために,主人の財産を幾らか取ったことが暗に示されています。それでパウロは,フィレモンが親切な仕方でその奴隷を迎えるようにと,この手紙を書いているのです。

      パウロは手紙の冒頭で,フィレモンの家にある会衆を含めて特定の人々にあいさつを送っています。次いでパウロは,自分と他の人々に示されたフィレモンの愛,信仰そして愛情のゆえにフィレモンをほめています。このように巧みな方法で手紙を書き始めた使徒は,続けて自分は「当然行なうべきこと」を命じる資格がありながら,むしろ説き勧めていることをフィレモンに気付かせます。何をするよう説き勧めているのですか。フィレモンの奴隷オネシモを,親切な仕方で迎えるようにです。オネシモはパウロにとって極めて有用な者であったため,パウロは本当はオネシモの奉仕をずっと受けていたいと思っていました。しかしパウロは,フィレモンの同意なしに,そうしたことを行ないたくありませんでした。

      オネシモの逃亡は実際には良い結果をもたらしました。今やフィレモンは,いやいやながら仕える,恐らくは不正直な奴隷としてではなく,喜んで仕える正直なクリスチャン兄弟としてオネシモを受け戻すことができたからです。パウロは,オネシモが戻ってきたら,パウロ自身を迎えるように彼を迎えて欲しいとフィレモンに頼み,その願いをさらに強いものとしています。オネシモが主人に何らかの損害を被らせたのであれば,フィレモン

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする