-
確信を抱いて将来を待ち望むものみの塔 1975 | 9月15日
-
-
ことです。(箴 1:1-4; 3:25,26)彼のことばをそのように見れば,彼がイスラエル人に助言を与えていたのだということが分かります。その助言は,正しい生活をするよう彼らを助け,日常生活において彼らを益するものです。このようにして彼らは「とらわれ」ないように保護されたでしょう。何にとらわれないのでしょうか。例えば,えじきを求めて歩く娼婦の誘惑にとらわれないですみました。(箴 5:3-14)彼のことばが,今日のわたしたちにとってもすぐれた助言であることは分かります。しかしそのことばは,わたしたちが逮捕されないことの保証ではありません。それはちょうど忠実なエレミヤがエルサレムの「終わりの時」に逮捕を免れることができなかったのと同じです。(エレミヤ 37:15,21)また「大患難」中に,ある人々は,クリスチャンとしての忠誠を忠節に保つために,使徒ヤコブが命を失ったように自分の命を失わなくてもいいということを期待することはできません。(使徒 12:1,2)それでも,わたしたちは確かに神の保護を得ます。ではどのようにそれを得ますか。
12 (イ)わたしたちが一つの級として保護されていることはどうして分かりますか。(ロ)忠実であっても命を失う人たちをエホバはお忘れになりますか。どんな備えを設けておられますか。
12 わたしたちには,神が現在わたしたちを一つの級として保護していてくださることを示す証拠があります。例えば,もし保護されていなかったなら,わたしたちはサタンによってとうの昔に地の表から拭い去られていたでしょう。それでも,個人的には「大患難」中に老齢や病気で,あるいはマラウィの兄弟たちのように迫害を受けて,死ぬ人があるかもしれません。わたしたちはそのような可能性に直面してもなお確信を抱いて将来を待ち望むことができますか。確かにできます。イエスは,死者がイエスの声を聞いて復活して来ると断言されました。(ヨハネ 5:25-29)ではこれは死の影響力をなくし無効にしますか。いいえ,聖書はサタンがきたるべき「患難」の間にわたしたちひとりびとりに対する試みをやめることを約束してはいません。しかし,もしわたしたちがその時神に忠実に奉仕するがゆえに死ぬとしても,エホバ神はわたしたちをお忘れにならない,ということを知っているのは慰めではありませんか。
13 (イ)大いなるバビロンが滅びる時に,神の民も全体が滅びますか。(ロ)これは神の民のどんな反応を呼び起こしますか。
13 一つの集団としてのわたしたちに対する保護は,大いなるバビロンの破滅とハルマゲドンを通過して新秩序に至るまで続けられます。バビロンが力を失って横たわり,世界の問題を支配する能力をすっかりなくしてしまうとき,それは約束を果たすかたとしてエホバ神に対して深い信頼を抱かせるものとなるでしょう。「天よ,また聖なる者と使徒と預言者たちよ,彼女について喜べ。神はあなたがたのため,彼女に司法上の処罰を科したからである」という叫び声が出て,神のしもべたちが彼女の転覆に歓喜するように言われているのも不思議ではありません。(啓示 18:20)ですからそれらの人々は,神が邪悪な者を処刑される間保護され,神の義の新秩序に導き入れられるということを確信できます。―マタイ 25:46。
新秩序の状態に合うように今調整する
14 義の規準に従うための必要な変化を今行なうことを怠る人は,どうなる可能性がありますか。
14 しかしながら,将来に対して確信のある見方を持つには,エホバ神がそのみことばと組織とを通してわたしたちに示しておられる規準に合わせて,自分の生活と考え方を調整することも今始めなければなりません。長い間行なってきた悪い習慣や態度を改めるのは確かにむずかしいことですが,わたしたちは,『まあ,わたしは新秩序が来るまで習慣を変えるのを待とう。そのほうが容易だろう』などと言って言いわけをしてはなりません。神の目的をそのように意識的に軽視することは神のみ前に罪となる恐れがあり,神の新秩序に入る権利を没収されることになるかもしれません。―ヤコブ 4:17。
15 教義や預言の理解だけが,わたしたちが調整を行なう必要のある分野ですか。わたしたちは,自分の考えや行動を調整するのにどんな助けを与えられていますか。
15 そのような調整は,必ずしも,『忠実な奴隷』が説明する教義上の解明や預言の解明を頭におさめて従うことのみに限られません。それには心の変化,たとえば,わたしたちが人種や社会的身分に関係なくすべての人を心を尽くして愛するのに妨げとなる偏見や性向を完全に捨てさることを要求する変化も含まれるでしょう。(使徒 10:34)あるいは,矯正が必要なのは,神のみ前に不潔なものとされた,古い世の何かの汚れであるかもしれません。エホバ神は,わたしたちに対する限りない愛により,わたしたちがそうした必要な調整を行なうのを助けるために,有能な会衆の監督たちを与えてくださいました。パウロは,彼らの援助を進んで受け入れるようにわたしたちを励まし,次のように書いています。「あなたがたの間でほねおって働き,主にあってあなたがたの間で主宰の任に当たり,あなたがたを訓戒している人たちを重んじなさい。……その働きのゆえに,ひときわ深い考慮を愛のうちに払いなさい」。(テサロニケ第一 5:12,13)思いやりのあるその導きに積極的に応ずるなら,それは彼らの仕事を容易にするばかりでなく,新秩序の生活に関する神の取り決めにわたしたちの生活を調和させることにも役立ち,わたしたちはエホバがその民を扱われる仕方がすぐれているのを見るゆえに,将来を大いに期待するようになります。
16 イザヤやキリスト・イエスの模範に倣い,わたしたちは仕事の割り当てについてどんな態度を示すべきですか。
16 また,新秩序にはおそらくしなければならないあらゆる種類の仕事がたくさんあるでしょう。わたしたちは進んで奉仕し,働き,割り当てられたことを何でもする態度を示すでしょうか。過去の神のしもべたちは,与えられた責任の立場が重いものであろうと,軽いものであろうと,非常な意欲を示しました。イザヤは,『われここにあり,我をつかわしたまえ』と言って,むずかしい預言者の仕事を引き受けることに熱意を込めて同意しました。(イザヤ 6:8)イエスは弟子たちから「主」と認められていましたが,彼らの足を洗うことによって,奴隷の立場においてさえ奉仕する気持ちがあることを示されました。(ヨハネ 13:3-17)イエスはなんとりっぱな模範をわたしたちのために残されたのでしょう。
17 自分が好きでない割り当てを果たすには,自分の側に何が要求されますか。ほかにどんな調整を行なうことが必要ですか。
17 なるほど割り当てられる仕事は,自分で選んだものではないかもしれません。少なくとも最初のうちは,地球を楽園の状態にするのに必要な骨のおれる仕事を喜んでできないかもしれません。また,わたしたちの努力の多くは自分個人の益ではなく,復活してきた大ぜいの人々のための準備やその世話をすることに向けられるので,わたしたちの側には無私の態度が要求されるでしょう。復活した人のほとんどは,エホバ神に関する知識を持っていないでしょう。それらの人々の思いや心を新秩序の考え方に変えることだけでもどれほど膨大な仕事か想像できますか。怠惰な傾向のある人はその時うまくやってゆけないでしょう。なぜなら,箴言は『惰者の情慾はおのれの身を殺すこはその手をあえて働かせざればなり』と警告しているからです。(箴 21:25)それでわたしたちは,現在,また将来において行なうべくエホバがわたしたちに与えてくださる仕事への自分の態度に関し,今考えを再調整しておく必要があるかもしれません。そのようにすればわたしたちは喜びをもって将来を期待することができます。
18,19 (イ)楽園になった地のどこに住むかについては,どんな可能性がありますか。(ロ)新秩序内で指定された場所をわたしたちはどのように見るべきですか。わたしたちがそこで自力で立つように放置されることはありません。なぜですか。
18 将来の楽園でどこに住むかについて言えば,わたしたちは自分の選択にまかされるのではなくてむしろ住む場所を指定される可能性が大いにあります。そのような取り決めにわたしたちがどれほどよく順応できるかは,現在わたしたちが出席するように言われている会衆や書籍研究に進んで行くかどうかによって示されるでしょう。もしわたしたちが新秩序内の指定された場所に順応するなら,その場所はわたしたちにとってすぐに「故郷」となり,愛着を感じるようになるでしょう。今日でさえ宣教者たちは,宣教を行なうべく任命された土地について,そのような感じを抱くようになります。
19 またエホバ神が,わたしたちに奉仕しわたしたちを導くところの「君たち」を選ぶよう取り計らってくださる,ということを知るのも慰めです。エホバ神は再び,わたしたちの必要とするもの,わたしたちにとって最善のものを知っていることを示されます。そしてこれはわたしたちが確信を抱くもう一つの理由です。なぜなら,わたしたちは自力で立つように放置されるのではなく,わたしたちの利益に気をつけてくれる忠実で信頼しうる人々がいるからです。
胸のおどるような将来の見込み
20,21 (イ)なぜわたしたちは将来について推測する必要はありませんか。(ロ)聖書が将来についてわたしたちに告げている事柄の中には胸をおどらせるようなどんな事柄がありますか。
20 将来を見るとき,わたしたちの前途には,心を誘う多くの見込みがあります。ですから,聖書が示していない詳細な事柄についていろいろと推測する必要はありません。そのようなことで気をもんだり心を騒がせたりしないで,エホバを待つ気持ちを持つことです。だれが復活を受けるか,子どもたちの世話はどのようになされるか,どんな様式の家が建てられるか,機械が使われるかどうか,といった問題についてなぜいろいろと推測するのでしょう。もしわたしたちがこうしたことについて知る必要が本当にあるなら,エホバはその答えを準備されていたでしょう。
21 知らされていないことを推測するよりも,聖書が実際に述べている,心をおどらせるような事柄に注意を集中するほうがどんなにかよいでしょう。その中でも最もすばらしいのは,神の是認を受けて生きる見込みです。生物が豊富に住む地球,これが聖書の描く地球です。戻ってくる死者を迎えるのはどんなにか大きな喜びでしょう。愛する者たちが再会するとき,喜びの涙が流されることでしょう。そして聖書に述べられている神の忠実なしもべたちに会うところを想像してごらんなさい。またわたしたちの体が『その若き時の形状に帰る』のを見るのはどんなに胸のおどることでしょう。(ヨブ 33:25)完全な食物,満足のいく仕事,喜んで交われる仲間,そしてなによりも良いこととして,わたしたちの神エホバを崇拝する完全な自由のある楽園の中で住むことは,どんなに大きな喜びでしょう。
22 わたしたちには,確信を抱いて将来を見ることのできるどんな保証がありますか。
22 わたしたちは,将来がこのようになるということを本当に確信できるのでしょうか。確かにできます。そのことはエホバ神が約束されたからです。『神は偽ることができない』ので,必ず成し遂げられます。(ヘブライ 6:18)ではわたしたちは,将来をつくられる方に全き信頼を寄せて,前途に起こる多くの事柄を熱心に待ち望みましょう。
-
-
神を専心の献身の対象とするのはふさわしいことものみの塔 1975 | 9月15日
-
-
神を専心の献身の対象とするのはふさわしいこと
エホバ神は,わたしたちの愛情の対象として比類のない位置を占めるに値する方です。これには数多くの理由があります。神は命の源であられ,神が意図されたからこそ,命を持つ被造物は存在しているのです。神の支配の仕方は愛に基づいており,神の命令はそれに従う者たちの幸福と福祉を促進するのに役立ちます。(詩 19:7-11)創造者,命の源そして立法者であられるエホバ神は,確かに,わたしたちの献身,強い愛慕の情そして熱烈な愛を受けるにふさわしい方です。(啓示 4:11)神に対するわたしたちの愛は,ほかのだれに対する愛をも,しのぐものでなければなりません。
エホバ神を専心の献身の対象とするのはふさわしいことですが,それは必ずしも容易ではありません。イエス・キリストの弟子として,神に忠節に奉仕するなら,非難や身体的な虐待を受けるかもしれません。近親者でさえ,敵対するようになるかもしれません。イエス・キリストは次のように言われました。「あなたがたは,わたしが地上
-