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忠実な婦人の奉仕者 ― 新世社会の祝福ものみの塔 1964 | 7月1日
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忠実な婦人の奉仕者 ― 新世社会の祝福
「エホバを畏るる女はほめられん」箴言 31:30,文語
1 どんな資質を持った婦人は「ほめられ」ますか。このような婦人はどんな面でクリスチャン会衆にとって益となりますか。
神をおそれる婦人は大きな祝福となります。若くても年老いても,未婚でも既婚でも,あるいは健康に恵まれて丈夫な人でも病弱な人でも,エホバをおそれ,エホバに忠実に仕える婦人は「ほめられ」ます。(箴言 31:30)神をおそれる婦人は,結婚するとき夫と子供にとって大きな祝福となるでしょう。また既婚,未婚を問わずこのような婦人はクリスチャン会衆にとって大きな祝福となります。エホバの証者の間に忠実な婦人の奉仕者がいるのは感謝すべきことです。その熱心とゆるぐことのない忠実は他の人々にとって励みとなります。また「羊」をさがして養うためにすべての人が力を合わせて働くとき,婦人の奉仕者の示す女らしいやさしさと理解は会衆を豊かにすると共にうるおいを与えます。
2 婦人の本当の美しさを決めるものは,なぜ容色ではありませんか。
2 エホバの目に美しく,また敬虔な男子の目に美しいのは,このような婦人です。美しさは人をひきつけます。そして魅力があるのは望ましいことです。美しくありたいと願わない女の人はありません。「しとやかな女は,誉を得」ると,箴言に述べられています。(箴言 11:16)しかし箴言 31章30節は次のようにも述べています。「つややかはいつはりなり,うるはしきは呼吸のごとし,ただエホバを畏るる女は誉められん」。(文語)容ぼうの美しい魅力的な人でも,エホバをおそれることを知らなければ,その美しさは空しいもの,偽りのものです。従って容姿がいかにすぐれていても,円熟した見方をする男の人はこのような女の人に魅力を感じないでしょう。口やかましく,気だての悪い妻ならば,ほかにいくら取柄があっても,夫は雨のもる屋根の下から離れるのと同じく妻から遠ざかるに違いありません。―箴言 27:15。
婦人の神権的な座
3 エホバ神によって定められた婦人の地位は何ですか。
3 どんなものでも,ふさわしい背景の中に置かれるとき美しさを加えます。それは似合うからです。ふさわしい背景の外に取り出されると,ものは美しさを失って平凡になるか,みにくくさえなります。それと同じくエホバは物事の神権的な秩序の一部として婦人の占めるべき座を定められました。霊感を受けた使徒はコリント前書 11章3節に次のことを書いています,「すべての男のかしらはキリストであり,女のかしらは男であり,キリストのかしらは神である」。
4 エホバはご自身の組織の中になぜかしらの地位を設けられていますか。男が女のかしらに定められているのは,婦人をいやしめることですか。
4 男と女の立場を定めた神のことばのこの原則は,ある人にとって受け入れ難いかも知れません。「婦人の解放」を唱える人々はこれに反対し,これは後退の一歩であると考えるかも知れません。しかし使徒の書いた事柄は,婦人の地位を抵くしようとの意図に出たものではありません。キリストをかしらにすることが男の地位をいやしくしないのと,それは同様です。またキリストもエホバをかしらとすることに不満を抱いてはいません。もちろん男はキリストではなく,そのことについて言えば,キリストも神ではありません。同時に「神は無秩序の神ではなく,平和の神」です。秩序を保つにはかしらが必要です。二人以上の人が何かをしようとするとき,指図する責任を持つ人がいなければなりません。―コリント前 14:33。
5 (イ)そこでエホバの定めに従えば,婦人はどのように満足と幸福を得ますか。(ロ)男とかしらの地位を争う婦人はどうなりますか。
5 男と女との関係についていえば,神は最初に男を創造し,一家のかしら,また妻のかしらの地位を男にお与えになりました。同時にかしらの地位にともなういろいろな責任も男にゆだねられました。これは家族にとって祝福となり,家族全員の平和と幸福をすすめることでした。この事を認める既婚の婦人そしてクリスチャンのかしらの務に忠実な人を夫に持つ婦人は本当に祝福されています。このような婦人は神から与えられた座についており,たしかに満足と幸福を味わえるはずです。分別のある婦人はこのことを認め,また感謝の心を抱きます。エホバから与えられた女の地位をしりぞけ,かしらである男と競争しようとする婦人は,女としての美しさを失います。彼女はもはや「弱い器」ではありません。(ペテロ前 3:7)賢人の次の言葉はきわめてあからさまに述べてはいますが,それは真実です。「美しい女の慎みがないのは金の輪の,ぶたの鼻にあるようだ」― 箴言 11:22。
6 ペテロは,既婚婦人の神権的な美しさをどのように描いていますか。
6 婦人がエホバの定めを認め,喜んでそれに従うことは,自分自身の喜びと満足のために肝要であり,またこのような婦人は新世社会にとって貴重な存在となります。使徒ペテロは,この神権的な座についている既婚の婦人の価値と美しさを次のように述べました。「同じように,妻たる者よ。夫に仕えなさい。そうすれば,たとい御言に従わない夫であっても,あなたがたのうやうやしく清い行いを見て,その妻の無言の行いによって,救に入れられるようになるであろう。あなたがたは,髪を編み,金の飾りをつけ,服装をととのえるような外面の飾りではなく,かくれた内なる人,柔和で,しとやかな霊という朽ちることのない飾りを,身につけるべきである」― ペテロ前 3:1-4。
婦人の奉仕者にふさわしい飾り
7 婦人が身を飾ることに心を用いるのは悪いことですか。しかしどんな飾りに最も心を用いるべきですか。
7 使徒ペテロのこの言葉から,婦人は身を飾ることに心を用いるべきではないと結論すべきですか。決してそうではありません。ペテロは髪を編み,金の飾りをつけること自体が悪いとは述べていません。それは服装をととのえることが悪くないのと同様です。ペテロの時代また昔の女にとって髪を長くするのは普通のことであり,髪を編むことは美しさのためばかりでなく実用的でもありました。しかし昔も今と変らず,髪をととのえることに多くの時間を費やし,また金の飾りをつけるなどして身を飾ることに専念し,人柄よりも外見に心を奪われた女の人がいました。そこでペテロは何を重視すべきかを示し,「かくれた内なる人,柔和で,しとやかな霊という朽ちることのない飾りを,身につける」ことに心を用いるよう教えたのです。
8 婦人の奉仕者はなぜ服装に分別を用いるべきですか。
8 戸別訪問して神の国の福音を語るとき,婦人の奉仕者は男の奉仕者の場合と同じくキリストを代表しています。そこで婦人の奉仕者は光栄ある自分の務を認識して,上品な服装をすることに心を用いるべきです。奉仕者の伝えるせっかくの音信も,その服装のために聞いてもらえないという事があってはなりません。宣教は公に行なわれるために,奉仕者は衆人環視の中におかれています。人は奉仕者の外見を見てその伝える音信を判断しようとするでしょう。
9 婦人の奉仕者は世のどんな傾向を避けますか。なぜですか。
9 婦人の奉仕者は女らしく上品に身を飾ることはしても,こい化粧や扇情的な服装によって性を強調するこの世的な傾向を避けます。もし慎しみに欠けるならば,真じめなクリスチャン奉仕者と見られないばかりか,正反対の印象を与えないとも限りません。(イザヤ 3:16-23)そこで性のはんらんしているこの世の傾向を避け,このような事に夢中になったり,あるいは外見に心を奪われて容姿の美しさをみにくさに変えてしまうような極端を避けなければなりません。
10 どんな他の極端を避けますか。テモテ前書 2章9,10節においてパウロは服装に関してどんな助言を与えていますか。
10 身だしなみに無頓着なのも,悪い印象を与えます。音信を人々に伝えようとする私たちは,この事にも注意すべきです。宝石など美しさをひきたてる飾りも,分別を用いてひかえ目に使うならば,聖書から見ても決して悪いものではありません。(創世 24:22。出エジプト 35:22)どの程度の関心を払うのがよいかは,クリスチャンの監督パウロの言葉に明らかに示されています。「女は恥を知り,慎みて宜しきにかなふ衣にて己を飾り,編みたる頭髪と金と真珠と価たかき衣とを飾とせず,善き業をもて飾とせんことを。これ神を敬はんと公言する女にかなへる事なり」。(テモテ前 2:9,10,文語)どんな国においても,また人々の服装の習慣がどんなものであっても,慎しみと神を敬うことを忘れなければ,婦人の奉仕者はその場その時にふさわしい服装をすることでしょう。
11 (イ)婦人が神のしもべであることを示し,また婦人を真に美しくするものは何ですか。(ロ)「柔和でしとやかな霊」を持つとはどういうことですか。
11 しかし婦人が神のしもべであることを真に示すものは,宣教のよいわざです。「柔和で,しとやかな霊という朽ちることのない飾り」を身に着けた婦人の奉仕者は,女として本当の美しさと魅力を持っています。クリスチャンの婦人がほかの婦人と異なるのはこの点です。「柔和でしとやかな霊」を持つとは,もの静かで落着いていることであり,何かが起きても心を乱されないことです。それは満足と安らぎのある心,ねたみ,誇り,悪意のない心です。このような人はエホバのみ心に喜んで従い,新世社会の人々とすすんで協力します。心の善良な,そして性質の柔和な婦人は,まわりの人々にとって祝福となります。それだけでなく,エホバの恵みを得て,正義の新しい秩序の下に永遠の生命をかち得るでしょう。
昔の忠実な女たち
12 サラはどの点ですぐれた手本ですか。彼女はどのように祝福されましたか。
12 昔をふり返って使徒ペテロは次のようにつづけています。「むかし,神を仰ぎ望んでいた聖なる女たちも,このように身を飾って,その夫に仕えたのである。たとえば,サラはアブラハムに仕えて,彼を主と呼んだ。あなたがたも,何事にもおびえ臆することなく善を行なえば,サラの娘たちとなるのである」。(ペテロ前 3:5,6)忠実なサラがアブラハムから受けた祝福を考えてごらんなさい。忠実な族長アブラハムの妻であったサラは,「霊によって生れた」イサクの母となり,イエス・キリストの先祖となりました。(ガラテヤ 4:29)今日サラと同じ性質とくにペテロがここに論じているような,夫に従順に仕える貞節な妻の性質を持つクリスチャンの婦人は,アブラハムの信仰を持つ者がアブラハムの「子」と呼ばれるようにサラの「娘たち」となるのです。―ガラテヤ 3:7。
13 リベカはそのどんな資質のために,イサクの花嫁としてふさわしい人でしたか。
13 これもイエスの先祖となったリベカのことを考えてみましょう。アブラハムのしもべが会った時のリベカは,「非常に美し」い娘でした。しかしリベカが美しかったのは容姿のためばかりではなく,また彼女が祝福されたのは肉体的な魅力のためではありません。アブラハムのしもべが,イサクの花嫁の候補としてリベカを見定めたのは,リベカがよく働く,そして慎しみ深い娘であったからです。
14 リベカは,これらの資質をあらわすことを要求するどんなテストを与えられましたか。
14 アブラハムのしもべがリベカをためした簡単な方法を見ても,容姿の美しさは決め手ではありませんでした。「娘に向かって『お願いです,あなたの水がめを傾けてわたしに飲ませてください』と言い,娘が答えて,『お飲みください。あなたのらくだにも飲ませましょう』と言ったなら,その者こそ,あなたがしもべイサクのために定められた者ということにしてください」。その通りのことが起きました。しもべが水を飲ませて下さいと頼んだとき,リベカは「わが主よ,お飲み下さい」と丁重に答え,「らくだもみな飲み終るまで」水をくみましょうと申し出ました。これは楽な仕事ではありません。らくだは10頭もいたからです。後でアブラハムのしもべがその使命を明らかにしたとき,リベカはイサクの妻となる特権を喜んで受け入れました。イサクがリベカを「愛した」のも不思議ではありません。―創世 24:14-21,58,67。
15 イサクとリベカに関する記述は,結婚を考えている若い男の人にとって時宜を得たどんな教訓となっていますか。
15 聖書にしるされたこれらの事柄は,結婚を考えているクリスチャンの男子に,どんな人を妻に選ぶべきかを教える教訓となります。リベカは美しい人でしたが,アブラハムのしもべはそれだけで満足しませんでした。そこで主人の息子の妻となるにふさわしい,心の美しい人であることを確かめたのです。自分の結婚しようとする女性が心の美しい人であることを確かめる若い人は賢明です。また両親が決めるのでなければ,自分でこのような決定を下せるまでに円熟していなければなりません。多くの国では,イサクがリベカの場合に持っていなかった自由すなわち結婚の相手を選ぶ自由が与えられています。しかし最後の決定は自分で下すにしても,年長者ことに円熟したクリスチャンである両親の意見に耳を傾けるのは,円熟を示すことです。
16 (イ)デボラはどんな特権を得ましたか。(ロ)ミリアムにはどんな特権がありましたか。しかしその記録は何を教えていますか。
16 昔の忠実な女たちの中で,エホバから特別な奉仕の特権を与えられた人がほかにもいます。たとえばデボラは女預言者となり,士師バラクと共に働きました。バラクはイスラエルの軍勢の長であり,カナンのヤビン王の軍勢を破って,20年にわたる圧迫からイスラエルを救いました。(士師 4:1–5:31)イスラエル民族をエジプトから導き出し,荒野の旅のあいだ彼らを導いた人モーセの姉妹ミリアムは,モーセと共に奉仕する祝福された特権を得ていました。ミリアムは女預言者であり,歌をうたう女たちの指揮者でした。(出エジプト 15:20)しかしミリアムは警告を与える例ともなっています。神によって定められた立場をふみはずして,神のしもべモーセに反対したとき,彼女はらい病にとりつかれました。このけがらわしい病気になったことは,エホバの目とモーセの目から見て彼女の行いがみにくいものであったことを示しています。このためミリアムは一時のあいだイスラエルの天幕から遠ざけられていました。―民数 12:1-16。
17 ドルカスとルデアはどんな良い資質を示しましたか。二人はどのように祝福されましたか。
17 またイエスおよび初期クリスチャン会衆時代の,祝福された忠実な女たちを考えてごらんなさい。施しを好んだタビタすなわちドルカスの身に何が起きましたか。ヨッパの町で裁縫婦をしていた働き者のドルカスはイエスの弟子であり,「数々のよい働きや施しをしていた婦人」でした。ところが病気になって死んだとき,使徒ペテロの手でよみがえされ,思わぬ祝福を得ました。(使行 9:36-42)またテアテラ市の「紫布の商人」で,これも働き者のルデヤがいます。パウロの伝えた福音をすぐに受け入れたルデヤは,使徒の一行を自分の家に宿泊させて,もてなしを示しました。事実ルデヤは「懇望し,しいてわたしたちをつれて行った」と,ルカは書いています。後に彼女の家は信者の集まる場所となりました。また彼女の名はその良い働きと共に聖書に記録されて今日に残っています。―使行 16:14,15,40。
18 プリスキラはどの点において良い手本ですか。どのようにその手本を示しましたか。その結果どんな奉仕の特権を得ましたか。
18 クリスチャン・ギリシャ語聖書の中にしばしば出てくるもう一人の婦人はプリスキラです。その名前は6回出ていますが,興味深いことにそのいずれの場合にも彼女は夫と一緒にしるされています。パウロがコリントに滞在したあいだ,彼女は夫と共にパウロをもてなしました。またコリントの新しい会衆を強めるために力をつくしたに違いありません。少なくとも一度,この二人はパウロを救うために「自分の首をさえ差し出し」,諸会衆から感謝の的となりました。プリスキラは夫と共にパウロについてエペソに旅行し,有力な人であったアポロが真理の正確な知識を得るのを助けることもしています。彼女の家は会衆の人々の集まる場所でした。このようにプリスキラは,今日,会衆の監督,旅行する奉仕者あるいは外国で働く宣教者を夫とする婦人たちの良い手本です。その忠実な働きは奉仕の特権と喜びをもたらします。―使行 18:2,18,26。ロマ 16:3-5。コリント前 16:19。テモテ後 4:19。
19 イエスの宣教のあいだ,マルタの妹マリヤは祝福を受けるどんな二つの行いをしましたか。
19 イエス時代の忠実な婦人といえば,ベタニヤのマリヤを思いおこします。彼女はマルタとラザロの姉妹でした。イエスがマルタの家を訪れたとき,物質の事柄のみに心を奪われることのなかったマリヤは,「主の足もとにすわって,御言に聞き入って」いました。この話は余りにも有名です。イエスはその時マリヤをほめています。後にマリヤは,らい病人シモンの家でイエスに高価な香油をそそぎました。これを見てイスカリオテのユダをはじめ他の人々がマリヤを非難したとき,イエスは次のように言われました,「わたしによい事をしてくれたのだ……この女はできる限りの事をしたのだ……よく聞きなさい。全世界のどこででも,福音が宣べ伝えられる所では,この女のした事も記念として語られるであろう」― ルカ 10:38-42。マルコ 14:3-9。ヨハネ 12:1-8。
20 (イ)今日,新世会内にも同様な婦人がいますか。(ロ)これらの婦人にどんな奉仕の特権がありますか。
20 今日ではどうですか。現代のクリスチャン会衆と共にこのような婦人が働いていますか。従順に夫に仕えたサラ,美しいだけでなく骨身惜しまずに働いたリベカ,もてなす心のあつかったルデヤ,施しを好んだドルカス,忠実なプリスキラ,真の崇拝のために「できる限りの事をした」マリヤのような婦人が今日にもいることを,エホバに感謝できます。今日の忠実な婦人たちにも,すばらしい奉仕の特権があります。信仰のある男子と共にこれらの婦人もエホバのみ心を行なうために献身し,バプテスマを受け,福音の奉仕者となることができます。善意者のために家庭聖書研究を司会し,また献身した奉仕者となるように子供を訓練することにも参加できます。開拓者,特別開拓者となり,あるいは外国に宣教者となって全時間の宣教に従事することも可能です。またベテル奉仕をできるかも知れません。
21 それで献身した婦人はエホバに奉仕する機会をどのように見ますか。
21 このすべてを考えるとき,献身した婦人がエホバに奉仕する機会はいくらでもあります。婦人の奉仕者が奉仕の特権を拡大する機会に不足することはありません。献身したすべての婦人は円熟にすすみ,神の民の中で自らの役割を忠実にはたして神の目に貴重なものとなり,仲間のクリスチャンからほめられるものとなることを願うでしょう。
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クリスチャン婦人の特権ものみの塔 1964 | 7月1日
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クリスチャン婦人の特権
1 既婚のクリスチャンの婦人はどんな妻になることを願いますか。
聖書の箴言 31章には理想的な妻が描かれています。しかし人間は男女とも不完全であり,このような妻はなかなかいません。そこで霊感によって聖書のこの本を書いた人は次のように述べています。「だれが賢い妻を見つけることができるか,彼女は宝石よりもすぐれて尊い。その夫の心は彼女を信頼して,収益に欠けることはない。彼女は生きながらえている間,その夫のために良いことをして,悪いことをしない」。(10-12節)結婚したクリスチャンの婦人はこのような妻になることを願うことでしょう。それは夫に全く信頼され,二人が生きているかぎり夫にとって祝福となる妻です。
2 家はどのように良い妻の存在を物語るものとなりますか。
2 妻が夫と子供たちにとってこのように祝福となる方法は,実際にいくらでもあります。またそうする事には大きな喜びと満足があります。きちんと整頓され,掃除のゆき届いた家は,たいていの場合,賢い妻の存在を物語っています。それは妻が「家の事をよくかえりみ,怠りのかてを食べることをしない」証拠です。忠実な婦人の奉仕者にとって,これは自分が献身したエホバのしもべであることを周囲の人々に示す証ともなります。―箴言 31:27。
3 献身したエホバのしもべを夫に持つ妻には,良い妻であることを示すどんな機会がありますか。
3 夫もまた献身したエホバの証者であれば,クリスチャンの婦人はなおのこと良い妻の本領を発揮できます。それで夫の宣教活動を支持し,一緒に家から家に伝道し,興味を抱いた人を重ねて訪問し,家庭聖書研究を司会することでしょう。おそらく夫は1日中勤めに出ており,他の時に伝道活動をするのに加えて,会衆の監督あるいは補佐の僕かも知れません。そのため夫の時間はますます忙しくなります。夫の第一の務は家族に対するものであり,事実,家族を正しく顧みない人は会衆を正しく治めることもできません。しかしやさしい妻が夫を忠実に盛りたてるとき,夫はすべての責任をはたせるでしょう。妻は夫がいろいろな割当を準備するのを容易にし,またきちんとした計画を立てて事を運び,夫と自分の貴重な時間を節約します。こうして食事の時間も一定し,会衆の集会に出かけるにもあわてる必要はありません。また家族の勉強を有益なものにするため,夫と協力するでしょう。献身した夫でさえも,時にはこれらの面で励ましが必要です。巧みさのある賢明な妻は,親切に,また神権的にこのような励ましを与えます。ラピドテの妻デボラは,エホバから与えられたわざをした士師バラクをこのようにし激励しました。―士師 4:8,9。
4 夫の指図の下にクリスチャンの妻は,エホバの喜ばれる道に子供を歩ませるため何をすることができますか。
4 エホバを喜ばせる道,その行くべき道に従って子供を教えるために,クリスチャンの妻は夫の指図を受けて多くのことをできます。まず父親を正しく尊敬することを子供に教えねばなりません。一家のかしらである父親の地位を低くするような言動をしないように注意すべきです。ことばだけでなく手本を示すことによって,子供に正しい振舞いを教えて下さい。子供と過す時間は夫よりも妻のほうに多くあるのですから,妻はこの時間を活用して,真理とエホバの組織,集会,良いたよりの伝道に対する子供の認識を深めさせ,また子供ができるだけ集会や宣教に参加するように援助できます。―テモテ前 5:10。
5 (イ)クリスチャンの妻は家庭にどんなふんい気を作り出そうと努めますか。なぜですか。(ロ)子供たち,また夫に関連して,彼女はどんな豊かな報いを得ますか。
5 幸福と平和に包まれた家庭を作るために,クリスチャンの妻は大きな働きをします。子供たちの精神的また霊的な円熟のためには,このようなふんい気が必要です。かしらである夫を常にもりたてながら,やさしい理解を示す妻は,家族を幸福にします。また巧みさのある,賢明なことばを口に出すでしょう。「彼女は口を開いて知恵を語る,その舌にはいつくしみの教がある」。このゆえに彼女は大きな報いを得,子供たちが成人するとき,すすんでエホバのみ心を行なうために献身するのを見ることでしょう。そのはたした役割を知って,子たちは「彼女を祝し」,夫も彼女をほめます。たしかに良い妻は,クリスチャン奉仕者また一家のかしらである夫にほまれをもたらします。「その夫はその地の長老たちと共に,町の門に座するので,人に知られている」― 箴言 31:26,28,23。
会衆内における特権
6 忠実な婦人の奉仕者は,会衆内の他の人々にどのように祝福となりますか。このような婦人は御国のわざをすすめるために自分たちのはたす分をどのように増し加えますか。
6 忠実なクリスチャンである婦人が会衆内にいること,そして福音の奉仕者として会衆と共に働いていることは,会衆と交わるすべての人によい感化を与えます。これらの婦人が集会に何時も出席し,奉仕のとりきめを支持していることだけで,私たちはそれに気づかなくても,他の人は同じ活動に励まされます。しかし献身した婦人が宣教に上達するにつれて,その特権は増し加えられるでしょう。たとえば良いたよりを伝道する方法を会衆内の他の婦人に教えるように割当てられるかも知れません。また集会に参加するという面で自分自身を改善するとき,他の人を愛とよいわざに励ます特権に与ることもできます。(ヘブル 10:23-25)また開拓奉仕の特権に与るなら,いっそう大きな喜びと祝福を得るでしょう。
7 (イ)会衆との交わりにおいて,クリスチャンの婦人は何を心に留めますか。(ロ)会衆のとりきめに関して,エホバが性別を考慮されているのはなぜですか。
7 しかしクリスチャンの婦人は,エホバの定められた神権的な秩序に何時も従います。それで兄弟に言いさからったり,あるいは兄弟と競い合ってミリアムのようになることを望みません。むしろ行いにおいても言葉においても,会衆内のしもべをはじめとして組織に全幅の支持を与えるでしょう。エホバは最も偉大な組織者であり,どのようにすれば各人が力を合わせて働き,すべての人の益と喜びに貢献するかをご存知です。最初の女を創造したエホバはどんな人間よりも女のことをご存知であり,何が女を幸福にするかをご存知です。またどうすれば婦人が神に奉仕して神のほまれとなるかをご存知です。ゆえにご自身の組織内に奉仕のとりきめを設けるにあたって,性別を考慮されました。
8 肉のイスラエルの会衆においては,婦人にどんな制限が課せられていましたか。しかしキリスト・イエスと共になる人々について,パウロは何と述べていますか。
8 イスラエル国民の時代にエホバの宮における崇拝に婦人のはたす特権はごく限られていました。たとえばレビ人の祭司として奉仕することはもちろん,宮の奉仕に関連した務をすることは婦人に許されていなかったのです。イスラエルの支配者の位につくことも婦人に許されていませんでした。この事をした唯一の女で王位を横領したアタリヤは,その僭越のために死にました。(民数 3:1-10。列王下 11:1-20)しかし霊的イスラエルに関連して,使徒パウロは,献身した男子と献身した婦人にむかって等しく次のことを述べています,「あなたがたはみな,イエス・キリストにある信仰によって,神の子なのである。もはや,ユダヤ人もギリシャ人もなく,奴隷も自由人もなく,男も女もない。あなたがたは皆,キリスト・イエスにあって一つだからである。もしキリストのものであるなら,あなたがたはアブラハムの子孫であり,約束による相続人なのである」― ガラテヤ 3:26,28,29。
9 (イ)御国および祭司職に関して,クリスチャンの婦人にはどんな特権がありますか。(ロ)献身した婦人は,御霊の働きの結果いまどんな活動に加わっていますか。
9 これは天の御国においてキリスト・イエスの共同相続者となるすばらしい希望が婦人にもあるという意味です。御国を相続する14万4000人の一人となりキリスト・イエスと共に治める王また祭司として婦人たちも選ばれました。しかしこれは婦人としてではなく,天に住む栄光ある霊者としてです。(ロマ 8:16,17。黙示 20:6; 14:1)今日の新世社会の中にも,14万4000人の残れる者の一人に数えられる忠実な追随者,この大いなる希望を抱く婦人がいます。聖霊によって油そそがれたこれらの婦人はキリストのからだの成員であり,残れる者の中の男子と共に「神の子」となっています。聖霊のそそがれたあの五旬節の日,奇跡的な賜物を授けられた人々の中には婦人もいました。それと同じく今日でも婦人が男子と共にみ霊を授けられており,「神の大きな働きを」述べるためみ霊に力づけられ,導かれてエホバに奉仕しています。―ヨエル 2:28,29。使行 1:14; 2:1-11。
会衆内における婦人のふるまい
10 テモテ前書 2章11-13節およびコリント前書 14章33,34節には,会衆内における婦人の振舞いに関して何が教えられていますか。
10 初期クリスチャン会衆の時代に献身してバプテスマを受けた婦人は男子と同じく聖霊によって生み出されました。しかしなお肉体を持つ人間であったことを考慮して,エホバは正しい神権的なふるまいに関し,使徒を用いて教訓を授けられました。テモテ前書 2章11-13節に次のことがしるされています。「女は静かにしていて,万事につけ従順に教を学ぶがよい。女が教えたり,男の上に立ったりすることを,わたしは許さない。むしろ,静かにしているべきである。なぜなら,アダムがさきに造られ,それからエバが造られたからである」。またコリント前書 14章33,34節にも次のように出ています。「神は無秩序の神ではなく,平和の神である。聖徒たちのすべての教会で行われているように,婦人たちは教会では黙っていなければならない。彼らは語ることが許されていない。だから……服従すべきである」。
11 (イ)婦人が会衆の集会で発言できないという意味にこれをとることはできません。それはなぜですか。(ロ)そこで婦人が会衆で「黙って」いるとはどういう意味ですか。
11 これは会衆の集会において婦人は決して発言してはならぬという意味ですか。その意味にとることはできません。当時,婦人も男子と同じくみ霊の賜物を授けられ,その中には異言を語ることと預言をすることが含まれていました。従って婦人も会衆内で語ることが必要だったに違いありません。ではどんな意味において,「教会では黙っていなければならない」のですか。明らかにそれは語ることが従順の欠如を示すような場合です。ゆえに姉妹は兄弟と言い争うことをせず,集会においても,あるいは他の時にも会衆の人々の前で兄弟を批判することをしません。また教える者,指図する者として兄弟の上に権威をふるうことをしません。会衆の男子のメンバーの言った事に疑問があるならば,婦人は家で夫に尋ねることができます。―コリント前 14:35。
12 たとえば婦人はどのように研究に参加し,なおその神権的な立場を守ることができますか。
12 しかしこれは全く発言してはならぬという意味ではありません。たとえば会衆の集会において,献身している婦人は研究または復習の際に司会者の尋ねた質問に答えることができ,それによって集会を活発にすると共に出席者全員に益を与えます。「ものみの塔」の研究などにおいて,聴衆の中の男子が間違った答をした場合,あとから指名された姉妹もそれにならって間違った考えを述べる必要はありません。しかし姉妹は述べる言葉や口調に注意し,批判めいた注解をしないようにします。それで「ものみの塔」のことばを巧みに引用し,おそらく次のように注解を始めることができるでしょう。「この点について何節には……のように書かれています」。もちろん兄弟が正しくない答をしたことに注目した司会者は正しい答を出してすべての人の益をはかるため,出席している円熟した兄弟を指名して,だれにも気まずい思いをさせないように配慮するのが良いのです。
13 忠実な婦人の奉仕者は何を願いますか。しかしどんな疑問が生じますか。
13 新世社会内の忠実な婦人の奉仕者は,エホバの定められた神権的なかしらの原則に従って振舞うことを望んでいます。この世の多くの婦人と異なり,この点で神の定めに忠実に従うことは新世社会にとって祝福となり,そこに見られるすばらしい一致と調和に大きく貢献しています。しかしかしらの地位の問題に関して時おり次のような疑問が生じます。姉妹はどんな場合にかぶりものが必要ですか。婦人が他の人の前で祈ってもよいのは何時ですか。その場合いつもかぶりものが必要ですか。
かぶりものに関する聖書の原則
14 どんな原則に関連してパウロは婦人のかしらのおおいの問題を考慮していますか。またこれに関してコリント前書 11章4-7節に何と述べていますか。
14 服従のしるしとして,特定の場合に婦人がかぶりものをすべき事は聖書から見て明らかです。コリント前書 11章3節においてかしらの地位に関する原則を述べたのち,使徒は会衆内における振舞いの問題にこの原則を適用しています。この助言の与えられたとき,み霊の奇跡的な賜物を制御することも同時に考慮されていました。そのことに留意して下さい。しかし基本的に言って,かぶりものについて述べられている事は今日の会衆にも適用されます。ではコリント前書 11章4節から7節に述べられている事に注目して下さい。「祈をしたり預言をしたりする時,かしらに物をかぶる男は,そのかしらをはずかしめる者である。祈をしたり預言をしたりする時,かしらにおおいをかけない女は,そのかしらをはずかしめる者である。それは髪をそったのとまったく同じだからである。もし女がおおいをかけないなら,髪を切ってしまうがよい。髪を切ったりそったりするのが,女にとって恥ずべきことであるなら,おおいをかけるべきである。男は,神のかたちであり栄光であるから,かしらに物をかぶるべきではない。女は,また男の光栄である」。
15 (イ)会衆において祈るとき,あるいは司会するとき,男子が頭をおおうことはなぜ正しくありませんか。(ロ)同じ事情のもとで,婦人が頭におおいをつけるべきなのはなぜですか。(ハ)頭におおいを着けずに会衆内で祈る婦人が,剃髪の女にたとえられているのはなぜですか。
15 神のかたちであり栄光である男は妻と家族に対して神の代表者となるべきであり,このとりきめに従って委ねられたかしらの責任を受け入れることになっていました。そのうえ会衆内において男は,会衆のかしらであるキリストの代表として行動しました。従って会衆の集会において祈り,あるいは司会するとき,出席している人々に対して敬意を表するかの如く,男が頭に服従のしるしを着けることはふさわしくありません。そうすることは男のかしらの地位をあたかもおおいかくし,これが男の通常の務ではないかの如く振舞うことになります。それで会衆に対し,キリストの代表として,正しく振舞っていないことになり,男のかしらであるキリストをはずかしめることになります。他方,女は会衆において祈ったり,預言したりするとき,通常はこれが男のつとめであることを定めた神権的な原則を尊重して,かしらにおおいを着けるべきでした。それは女が男になろうとし,男の地位を奪おうとしているかの如く見えないためです。これは会衆の男子の成員のみならず,夫をもはずかしめることになるでしょう。彼女は夫に従う必要を認めないかの如くに振舞っているからです。そこでパウロは,もし女がそのように振舞うとすれば,それを押しすすめて男あるいは奴隷の女のように髪を短かく刈るのがよかろうと論じています。しかしそうすることは女の恥ではありませんか。パウロの時代にはたしかにそうでした。女が頭をそったり,髪を短かく刈ることは奴隷のしるしであり,もっと悪いことには不品行あるいは姦淫をしてとらえられ,見せしめとして頭をそられた女のしるしであったからです。
16 頭におおいを着けるという事柄において,問題となっているのは何の原則ですか。これに関連して,自然は何を示していますか。
16 初期クリスチャンの時代に,婦人はどこへ行くにも頭におおいを着けました。人中で頭におおいを着けない女はふしだらな女であり,父親また夫のかしらの地位を認めない女と見られました。しかし論議の中心となっていたのはこの事ではありません。問題は神の定めたかしらの地位の原則を認めることであり,パウロは13節から15節において,このことは自然を見てもわかると論じています。「あなたがた自身で判断してみるがよい。女がおおいをかけずに神に祈るのは,ふさわしいことだろうか。自然そのものが教えているではないか。男に長い髪があれば彼の恥になり,女に長い髪があれば彼女の光栄になるのである。長い髪はおおいの代りに女に与えられているものだからである」。会衆内で祈ったり預言したりするとき,女の長い髪がおおいのかわりになるというのではありません。さもなければ6節の言葉が無意味になってしまいます。むしろ女の長い髪は,このような場合に服従のしるしとして頭におおいを着けるべきことを思いおこさせるものとなるのです。
17 謙遜な婦人は自分がどんな立場を持つことを認めますか。
17 たしかに頭をそった婦人は美しいとは言えません。同じく初期会衆において頭におおいを着けずに預言する女は神権的な秩序を尊重しない女であって,エホバの目に,また会衆の他の成員の目に最も美しくない女と映ったことでしょう。その女はけんそんでないからです。忠実な婦人はエホバの定められた女の地位を認めます。パウロは8節から10節にそのように述べています。「なぜなら,男が女から出たのではなく,女が男から出たのである。また,男は女のために造られたのではなく,女が男のために造られたのである。それだから,女は,かしらに権威のしるしをかぶるべきである。それは天使たちのためでもある」。
18 「女は,かしらに権成のしるしをかぶるべきである。それは天使たちのためでもある」と述べたパウロは,明らかに何を考えていましたか。
18 なぜ「それは天使たちのため」ですか。天使に対する服従を示すためではあり得ません。コリント前書 11章3節において,パウロは,地上の女に対して天使がかしらの権を持つとは述べていません。クリスチャン会衆を統率したり,御国の福音伝道するつとめは天使に与えられていないのです。それで婦人が天使のかわりをつとめることはなく,天使に対する尊敬のために頭におおいを着けるという事はあり得ません。しかし献身した人は男女を問わず「全世界に,天使にも人々にも見世物にされ」ています。(コリント前 4:9)たとえば忠実な婦人は,天使のために良い手本を示すことができます。エホバの神権的な服従の型に従って夫に服従し,また会衆の男子の成員に尊敬を示す婦人は,天に住む天使によい手本を示し得るのです。天使はエホバを支配する王イエス・キリストに服従しつつ,忠実な奉仕をつづけます。
19 コリント前書 11章11,12節において,パウロは男女の正しい立場につき何を述べていますか。何を考えるとき,男女ともに神の定めに従って謙遜に行なうことができますか。
19 しかしいちばん大切なのは男であって女はとるに足りない者であるかのような間違った印象を男が受けないため,パウロはコリント前書 11章11,12節に次のことを述べました。「ただ,主にあっては,男なしには女はないし,女なしには男はない。それは,女が男から出たように,男もまた女から生れたからである。そして,すべてのものは神から出たのである」。そうです,心に留めなければならないのはこの事です ― かしらの地位にしても,男と女の立場にしても,会衆内における振舞いと秩序にしても,物事の定めは神から出たのであり,人間から出たのではありません。この見方を持つならば,男であっても女であっても,私たちは釣合いを失うことなく,謙遜を保ち,エホバの祝福に感謝できます。
20 いま頭のおおいについて論ずるのは何のためですか。
20 明らかにコリントでは,会衆内における婦人の地位について若干の論争がありました。そこで使徒パウロはすべての人が理解できるように原則を述べ,最後にこう結んでいます,「しかし,だれかがそれに反対の意見を持っていても,そんな風習はわたしたちにはなく,神の諸教会にもない」。(コリント前 11:16)今日エホバの証者のあいだでこの論争がおきることはないにしても,この問題が今日のクリスチャン会衆に実際にどう適用されるかをややくわしく考察するのは良い事と思われます。そこで次号の「ものみの塔」には,かしらのおおいが問題となる事情をとりあげてそれを考慮します。それによって新世社会内の忠実な婦人は,聖書およびクリスチャンの良心に一致してどのように正しく振舞うべきかを知るでしょう。
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眠らなかった教区民ものみの塔 1964 | 7月1日
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眠らなかった教区民
◆ アメリカの一人のエホバの証者は,南ダコタ州のインデアン保留地で伝道した時の経験を次のように語りました。「私は,カトリック教会の一信徒にあいました。保留地では村ごとに教会堂がありますが,牧師がいません。牧師はいくつかの村を順にたずねて話をしています。牧師の来ない日には,この信徒がかわって壇に立ち,牧師から送られる印刷された説教文を読み上げます。私はこの信徒に『ものみの塔』と『目ざめよ!』誌を配布し,またたずねて雑誌に対する意見を聞きたいと言いました。
「2週間して再びこの村に行って見ると,彼は大喜びで私を迎え,こう言いました。『先週の日曜日,牧師は村に来ませんでした。いつも郵便で来るはずの説教も届きませんでした。それで私は,カトリック教会で「ものみの塔」を朗読しました。普通なら聴衆はたいてい眠ってしまいますが,私が「ものみの塔」を読んだときは,だれも眠りませんでした』。そののち私たちは村を伝道しましたが,全部で90冊の雑誌を配布し,予約もいくつか得ました。教会で聞いて以来,『ものみの塔』に対する関心をたかめていた人がたくさんありました」。
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子供も一緒に聖書を学ぶものみの塔 1964 | 7月1日
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子供も一緒に聖書を学ぶ
◆ アメリカ,インディアナ州のあるエホバの証者は,姉と妹の二人と聖書の研究をしていますが,その研究がどのように始まったかを次のように話しています。「約15年前,一人のエホバの証者は,二人の若い娘を持つ婦人と聖書の研究を始めました。娘たちも加わり,研究は1年半ほど続きましたが,その後中断しました。ご主人が亡くなり,婦人がかわって家族を養わねばならなくなったからです。忙しい生活が始まり,神の言葉に対する婦人の関心は次第にうすれてゆきました。研究はその後再開されませんでした。しかし,いったんまかれた真理の種は家族の心の奥にはいり,母親は決して娘たちを偽りの宗教に入れませんでした。時に娘たちは,友だちにさそわれて教会に行くこともありましたが,説教に嫌悪をさえ感じて帰ることがすくなくありませんでした。その後,娘たちはそれぞれ結婚しましたが,結婚後は二人とも一度も教会に行きませんでした。この二人は会うごとに,よく聖書の真理について話し,ついにエホバの証者をさがして聖書を勉強することに決めました。15年もたっていたのに,二人は母親が一緒に勉強していたエホバの証者の名前を忘れず,その証者に電話をかけました。その後,私がたずねることになり,研究が始まりました。今二人は,機会が許すごとに偶然の証言をし,母親には,再び勉強を始めて,自分たちの得た喜びと満足を知るようにすすめています」。
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