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  • クリスチャン崇拝と美徳の保存
    ものみの塔 1957 | 2月1日
    • ヱホバの崇拝,また基礎的な愛の特質を含み,かつ忠実を守ることを含む美徳の行使,ヱホバの言葉への信仰,ヱホバの約束に対するたしかな希望,ヱホバとその義への忠節,ヱホバと人間の前における正直,そして個人的なものや公共のものに対する道徳,ということです。

      模型的な保存

      10 イスラエルにどんな特権が与えられましたか。

      10 ヱホバは御自分の目的を進捗せしめられると共に,自らヱホバとその崇拝に一致していることを示す人々を用いました。そして,イスラエルの模型的な神権の国民を組織されたのです。ヱホバは悪鬼崇拝していたエジプトの世界勢力という束縛から,彼らを救い出しました。それは,実際のことであると共に,予影的なものでもあつたのです。かくして,異教の世を全部排除して取除かれると共に,御自分の民なるイスラエルを異教の世から取分けられました。模型的な神権の国民イスラエルは,唯一の真の神の崇拝を清く保ち,自分の国の中に清い崇拝の高い特質,すなわち正義の美徳を保存しなければなりまん。

      11 模型的なイスラエル内の裁きの目的と発展を説明しなさい。

      11 神の律法は,仲立なるモーセを通してイスラエルに与えられました。それは,変ることのない正義の原則にもとづいています。ヱホバはイスラエルの神,律法の与え主,王にして裁き主でした。(イザヤ 33:22)イスラエルの各人のする不手際な裁きや,利己的な行によつて正義の原則が破られることのないようにするため,個人的な問題や国家的な問題はモーセの許に提出されて裁定をうけました。モーセの心は,神の霊の指示を受けたもので,神の律法の原則通りに行使されました。この思い遣りのある援助は,ひとりの人間にとつて大き過ぎる仕事でした。それで,モーセはヱホバの是認の下に宗教的な行政権限を分け,他の者たちを神権制度内の責任の地位に任命しました。かくして,神の律法を適用させることと,神の律法を大小のいろいろな事柄に一致させることについての援助を受けたのです。モーセや,モーセの任命した人々の有した地位は,空虚なもので名誉職というものでは決してありません。それは,重要なもので,かつ実際的なものであり,宗教的な裁きという特定な目的の為でした。これらの神権的な任命について,聖書にはこう書かれています,『モーセすなわちイスラエルの中よりあまねく賢き人を選みて,これを民の長となし,千人の司となし,百人の司となし,五十人の司となし,十人の司となせり。彼らつねに民を裁き,難事はこれをモーセに述べ,小事はすべて自らこれを裁けり。』― 出エジプト 18:25,26。

      12 神の律法に関連して,イスラエルの人人にはどんな責任が課せられましたか。

      12 イスラエルの制度を制御する行政の規則は,ヱホバの律法でした。制度内の責任を持つ人々は,律法を人々に教えたのです。人々の責任は,神の律法を良く知つて理解することでした。人々は,崇拝の原則が何であるかを知つており,またそれらの原則の詳細な適用をも知らねばならなかつたのです。その適用は,律法の取扱ういろいろの事柄,すなわち国家的な事柄,家族の事柄,そして個人の事柄に関するものです。堕落したイスラエル人の罪や弱点をあがなう準備ももうけられました。律法のいろいろな特色は,国民をして神と一致せしめて,神を崇拝させ,つねに神を認めさせ,そして更に,神と隣人の愛の特質と美徳の諸要素をあらゆる事柄に保存し,活力あるものにするために,設けられていたのです。ヱホバは御自分の崇拝とその良い特質が地上より排除されるのを許しません。むしろ,模型的なイスラエルの内に保存せられました。

      13,14 どんな峻烈な手段が用意されましたか。それはどんな目的の為ですか。

      13 これらの良い特質を保存するため,時折に峻烈な手段を取ることが必要でした。神権的な標準を下げて,正義を愛するよりも不義を愛する人々をよろこばす,ということは決してなかつたのです。悪行をする者共が,あがないの御準備でかばうことのできる罪以上の罪を固執するなら,それらの者たちは殺されました。イスラエル人の会衆は,その死については直接の責任を有していたのです。宗教なる崇拝は,国家の政府的な事柄や,経済的な事柄と切り離されていませんでした。なぜなら,生活のあらゆる面でいつもヱホバを認めることが必要だつたからです。それで,律法は次のように規定しました,『なんじの中に,予言者あるいは夢見る者起りて,……なんじに告て,我らは今より汝と我とがこれまで知ざりし他の神々に従いてこれに事えんと言うことあらんに……汝その予言者または夢見る者の言葉に聴きしたがうなかれ。そは汝らの神ヱホバ汝らが心をつくし,精神をつくして汝らの神ヱホバを愛するや否やを知んとてかくなんじらを試みたもうなればなり。……その予言者または夢みる者をば殺すべし。…なんじかくして汝の中より悪を除き去べし。』― 申命 13:1-5。

      14 死の刑罰は,偽りの予言者や夢見る者だけに限定されたわけではありません。なぜなら,『なんじの母の生る汝の兄弟,または汝の男子女子または汝の懐の妻または汝と身命を共にする汝の友ひそかに汝を誘いて言あらん,汝も汝の先祖たちも知らざりし他の神々に我ら往きて事えん。……汝これに従うなかれ,これに聴くなかれ,これを惜しみ視るなかれ。これを憐れむなかれ。これをおおいかくすなかれ。汝かならずこれを殺すべし。これを殺すには,汝まずこれに手を下し,しかる後に民みな手を下すべし。彼はエジプトの国,奴隷の家より汝を導き出し給いし汝の神ヱホバより汝を誘い離さんと求めたれば,なんじ石をもてこれを撃殺すべし。しかせば,イスラエルみな聞きて恐れ,重ねてかかる悪しき事を汝らの中に行わざらん。』(申命 13:6-11)一つの群全部が悪を行つて,正義の神ヱホバの崇拝に反するようになつたなら,どういうことになりますか。その時には,その群全部が絶滅されました。―申命 13:12-18。

      15 美徳を定義しなさい。その行に宗教がどのように関係しているか,を示しなさい。

      15 前述の事柄は,ヱホバの崇拝を汚れなく保存するためであり,また正義のいましめを保つためでした。かくして,一般的な美徳を保存したのです。美徳とは,善の標準,そして行為の卓越と忠実,行動の実直,および廉直,道徳に則る道徳的な行すなわち行為を言及しております。それは,有害なことを慎しむということだけでなく,身体上にもせよ道徳上のものにせよ,力,勇気,そして胆力の活動的な特質,すなわち力なのです。それは,価値,値打,価,貞節,廉潔など,あらゆる種類において,卓越していることを指します。正義の神ヱホバは,これらの美徳の要素をみな創造したのですから,ヱホバ神の崇拝がそのすべてに含まれています。ヱホバ神の崇拝から離れるなら,すべての美徳からも離れます。それですから,イスラエルから悪鬼崇拝者たちを取り除いて,偽りの宗教的な行をする者たちを殺すことによつて,真の崇拝と美徳を保存することができたのです。

      16 僭越に関する律法は,清い崇拝について,どんな強調を置いていますか。

      16 申命記の17章は,いろいろの手続きを述べています。それによると,イスラエル人は勇気をもつて,ヱホバの目の前に憎むべき事柄を行う者に対し真実の証しを立て,かつ悪を為す者共に手をかけて殺さねばならなかつたのです。そして,国民はみな『悪事を汝らの中より除く』ために,この行に加わりました。(申命 17:7)祭司たちの義しい裁きに不服を申し立てる者たちも,殺されました。『訟え争う事おこるに当り,その事柄もし……汝に裁きかぬるものなれば汝起あがりて汝の神ヱホバの選びたもうところに上り往き,祭司なるレビ人とその時の裁き人とにいたりて問うべし。彼ら裁きの言葉を汝に示さん。……彼らが汝に示す命令の言葉のごとくに汝行い……彼らが汝に教うる律法の命令に従い,彼らが汝に告ぐる裁きによりて行うべし。彼らが汝に示す言葉に違うて右にも左にも偏るべからず。人もし自らほしいままにし,その汝の神ヱホバの前に立ちて事うる祭司またはその裁き人に聴き従わざる有らば,その人を殺し,イスラエルの中より悪を除くべし。然せば,民みな聞きて畏れ,重ねてほしいままに事をなさざらん。』― 申命 17:8-13。

      17 模型的なイスラエルに与えられた律法内の厳格な取極により,どんな良い結果が更に得られましたか。

      17 これは流血に飢え渇いた,というものではありません。それは,約束の胤の系統を守る為のヱホバ神の御行為であつて,その胤は,遂にはキリスト・イエスになつて来ました。このあがないの御準備と,ヱホバのこの忠実な僕の有する祭司のごとき職務によつて,人間は正義の新しい世における永遠の生命という見込を得ることができたのです。約束の胤の系統を疵と汚れをつけずに保存するため神は積極的な処置を取られました。そして,神聖な正義に専心されている故に,御自分の崇拝をこの地上に保存せられたのです。私たちは,これらのことにつき神に感謝します。

      18 実際の非行が禁ぜられましたか。或は象徴的な非行が禁ぜられましたか。それとも,その両方が禁ぜられましたか。

      18 イスラエルに与えられた律法の中で神の禁ぜられた個人的な罪,つまり非行の中には次のようなものがありました。それはまた,清い状態で真理の中にヱホバを崇拝する人々の避けるべきことがらだつたのです。すなわち,三つだけを挙げるとすれば,盗み,姦淫,そして泥酔でした。このように美徳を破ることは,それ自体でも悪いことでしたが,また聖書的には霊的な罪の象徴にもなりました。霊的な罪とは,ヱホバ神と個人との関係に影響をおよぼす物質に関する罪ではなく,ヱホバ神と個人との関係に影響をおよぼす見えざる事柄についての罪です。実際にそのようなことをなすことは,たとえ霊的な非行を表象するようになつた後でも,イスラエルの中で許されなかつたのです。このことは,実体の神権的クリスチャン制度において強調されています。このクリスチャン制度は,イスラエルを組織したモーセの律法契約の終結と共に生じたものです。

      クリスチャン実体

      19 ヱホバは,キリスト・イエスを通してどんな大きな変化を生ぜしめましたか。

      19 ヱホバは,御自分の目的を進捗せしめられると共に,御名の全き立証を見こしておられます。そして,時が来るとヱホバは愛する子キリスト・イエスの中にイスラエルの律法を終結させ,かつ予言的な成就をなさしめたのです。イエスは,新しいものを発展し始めましたが,それは模型的なイスラエルの神権国家とは違うもの,すなわち実際の神権的なクリスチャン制度です。イスラエルとの律法契約は,キリスト・イエスと共に終結してしまい,イエスが杭にかけられて,昇天して後は,実施されませんでした。しかし,律法の正義の原則は,全部存続したのです。実際のところ,それらの原則は,クリスチャン制度の者たちに対して,以前よりも大きな力と効果をもたらしています。ヱホバは,イエス・キリストの,贖の犠牲を基礎にして,新しい契約の下にクリスチャン会衆を発展せしめました。

      20 クリスチャンの美徳に関して,どんなことをはつきり言うことができますか。

      20 『神は私たちに力を与えて,新しい契約に仕える者とされたのである。それは,文字に仕える者ではなく,霊に仕える者である。文字は人を殺し,霊は人を生かす。』(コリント後 3:2-6,新口)注意すべきは,律法の文字と律法の霊があり,そしてこの二つは対照をなして著しい相違をなすものである故,私たちは神の律法の文字を破ることができる,しかしその霊を守らねばならない,などとパウロは言つていません。そうではありません。パウロがここで指摘していることは,モーセを通してイスラエル人に与えられた律法の書かれた文字と,神の霊には著しい相違がある,ということなのです。クリスチャンたちに注がれる神の霊は,クリスチャンたちに正義の実を生ぜしめ,かつクリスチャン達に,処罰されたこの不敬虔な世から分離することを可能ならしめています。書かれた文字は,イスラエル人を死に定めました。しかし,キリスト・イエスのあがないに基づく新しい契約の働きを通して注がれる神の霊は,人々を永遠の生命にみちびます。これは,著しい相違です。私たちは,一瞬間でも次のように推定することができますか,すなわち,律法契約下にいたイスラエルの国民の一人一人は,当時の一般人類が行つていた堕落した行を禁ぜられていた,しかしクリスチャンたちがそのような行をつつしむ必要性はイスラエル人の時ほど大きくない,などと推定できますか。もちろん,そのように推定することはできません。それとは逆に,正義をすすめる積極的なクリスチャンのいましめは,モーセの律法の消極的ないましめよりもはるかに強烈です。そして,現在新しい世の社会の活動をしつつクリスチャン崇拝を行つて神に仕える人々には,神の霊が注がれるのです。この霊によつて,彼らは忠実を保つことができ,かつ栄光に輝く将来において完全になると共に正義に達する,という確かな希望を持つことができるのです。

  • 子供たちはこらしめに応ずる
    ものみの塔 1957 | 2月1日
    • 子供たちはこらしめに応ずる

      ひとりの母親は,4人の子供たちを訓練した努力について,次のような手紙を送つてきました,『良く言うように,子供たちの行儀を直すため,私はできるだけの手をつくしてきた,と思いましたが,毎日いろいろな事柄で子供たちは言うことを聞かず,親に手向うのでした。私は5年間ヱホバの証者でしたが,夫はひどく反対しており,子供たちに「ものみの塔」の出版物を読んではいけないと言っていました。子供たちに聖書を毎日教えるのは両親の責任である,と強調されたとき,私は毎日聖書を読む為の時間を設けようと決めました。丁度その時間は子供たちが一番楽しむ時にカチ合つたため,7歳,5歳,3歳の男の子は,猛然と反対しました。創造の記録が終つた後は,子供たちは興味を失つてしまい,私が毎晩テレビジョンを切つて,さあ聖書を読む時間ですよ,と言うと,大声でわめき散らして反対しました。片手に聖書を持ち,片手に鞭を持つて座つたことは,しばしばでした。しかし,日が経つにつれ,子供たちは反対しなくなり,3年後の今では,子供たちはよろこんで聞くどころか,子供たちの方から聖書を読みたいと言つてきて,代わるがわるに読んでおり,読んだところについて質問してもらいたい,と私に願う程です。この習慣の結果は,本当に大きいものでした。聖書についての子供たちの知識が深まるだけでなく,家の中も大へん良くなり,こらしめる必要がずつと少くなりました。そして,子供たちは学校の級で首席になつています。それも,難しい言葉を声を出してはつきり読んできたお陰です。』

  • 対照
    ものみの塔 1957 | 2月1日
    • 対照

      聖ペテロ大会堂でなされた15分間の話の中で,ローマ・カトリック教会は政治を排斥することができない,と法王は最近に語りました。1956年7月23日のニューヨーク・タイムス紙によると,『法王ピオ12世は,ローマ・カトリック信徒が政治に積極的な参加をするよう,今日強くすすめた。』しかし,キリスト・イエスは,御国の福音伝道に積極的な参加をするよう弟子たちに強くすすめたのです。政治については,キリストの一人の弟子は,霊感を受けて次のように書きました,『世を友とするのは,神への敵対であることを,知らないか。おおよそ,世の友となろうと思う者は,自らを神の敵とするのである。』― ヤコブ 4:4,新口。

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