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  • 「地獄」からの復活の受益者たち
    ものみの塔 1973 | 4月15日
    • はだれでもその人たちに加わることができますか。

      20 その人たちは,神の愛するみ子イエス・キリストの天の王国を心をつくして支持し,それに仕え,この世の政治に手を出さない,羊のような,神を恐れる人びとです。(マタイ 25:31-46)宇宙的戦争ハルマゲドン前の現在,彼らは心から,天のみくらに座し給うエホバ神と,小羊のようなみ子イエス・キリストをほめたたえています。エホバのクリスチャン証人のこの級は,現在の世界の事物の体制が激しい終わりをつげる時に保護されて,義の住む神の新秩序に入れられます。(黙示 7:9-17)そこでは,アダムとエバから受け継いだ,そしてすでに幾十億の人びとを「地獄」に入れている死は一掃されますから,それら生存者たちは「地獄」を恐れる必要がなくなります。義の道と,キリストによる神の王国への献身の道を歩みつづけることによって彼らは生きつづけ,海と「地獄」がその中の死者を出すのを見るでしょう。そうです,現在正しいことを行なえば,あなたもその祝福された生存者の中にはいることができるのです。

  • からだの訓練,それとも敬虔の生活 ― そのどちらを選びますか
    ものみの塔 1973 | 4月15日
    • からだの訓練,それとも敬虔の生活 ― そのどちらを選びますか

      エドリアン・トムソンの経験

      ラグビーはわたしの父にとって人生の重要な関心事でした。ですから,やっと歩けるようになったころから,わたしは父とともに月曜日の夜には体育館に,また土曜日の午後にはラグビー場に行きました。わたしが物心ついて以来,毎年誕生日の朝,目を覚ますと,まくらもとには新しいラグビーのボールが置かれていたものでした。ラグビーのシーズン中は,たいていおそく帰宅して夕食を取り,それ以後はあまり暗くてボールが見えないので,しかたなく家にとどまりました。

      わたしの父は聖書よりもスポーツに関心がありましたが,母は神の真理のみことば聖書に深い関心を持っていました。わたしがまだ4歳のとき,わたしたちは,当時ニュージーランドのウェリントン市を訪れていた,ものみの塔協会の代表者,A・ホウレットによって行なわれた「現存する万民は死することあらじ」と題する聖書講演を聞きに行きました。母はその講演の中で述べられた音信が真理であることを認めたのです。

      こうして,わたしは,時々雨がひどくて外に出られない時などソファーに腰をおろして,「創造の写真-劇のシナリオ」と題する本を読んだのを今でも思い起こします。それは聖書の実話を説明文と写真を用いて描写した本でした。その後,日曜日には,わたしは家族といっしょにクリスチャン会衆の集会に行き,いろいろの人が神に仕えるために自分の時間をどのように用いているかについて述べるのを聞きました。

      しかし,わたしは聖書の知識を少しずつ取り入れる一方,ラグビー選手として普通以上の才能を発揮させていました。ニュージーランドの気候は屋外スポーツにとっては理想的なほど恵まれていますから,事実上わたしは一年中,土曜日といえばラグビーをして時間を過ごしていました。大学にはいってからは,大学対抗試合のため他の都市へよく旅行しました。次いで大学卒業後,南アフリカへ遠征試合に行くニュージーランド代表選手選考試合に参加する州代表選手に選ばれました。聖書のことを喜んで学んではいましたが,スポーツ,それも特にラグビーが確かにわたしの生活の主要な関心事でした。

      決定の時

      わたしが決定を下さなければならない時が到来するのは必至でした。クリスチャンの使徒パウロは青年テモテに向かって,はっきりと次のように述べていたからです。『からだの訓練は少しは益するところがあるが,〔敬虔〕は,今の命と後の命とが約束されてあるので,万事に益となる』。(テモテ前 4:8〔文語〕)それでは,わたしはどちらを選びますか。世界状勢がわたしにこの決定を迫まりました。

      第二次世界大戦が勃発したのです。軍隊にはいるのを奨励するため,運動選手には将校の地位が提供され,わたしは陸軍大尉の地位が提供されました。それはひとつの挑戦でした! わたしはどうしたでしょうか。

      それまでに聖書から学んだ事がらから考えて,わたしは,戦争に参加するのはクリスチャンの原則と合致しないということを知っていました。また,イエス・キリストの献身した追随者としてバプテスマを受けてはいませんでしたが,神の王国の良いたよりを宣べ伝えるわざに多少携わっていました。それで,みずから決定を下さねばならない時が来たことを知りました。わたしは敬虔の生活の道を歩むことに決め,1940年1月にエホバ神への献身の象徴としてバプテスマを受けました。

      当時,ニュージーランドはオーストラリアのシドニーにある,ものみの塔協会の支部事務所の管轄下にあったので,わたしは直ちにシドニーの支部事務所で働きたいと申し込んだところ,その願いは受理されました。支部のことをベテルと呼びますが,そのベテルでのわたしの最初の割当てのひとつは,白髪のジョンソン兄弟といっしょにジャガイモの皮をむくことでした。ジョンソン兄弟は何年間か南アフリカで奉仕したことがあり,後にオーストラリアの支部の監督として働きました。ベテルのどんな種類の仕事でも,それをするのは大きな特権だと考えていると,よくジョンソン兄弟が言っていたのを今でも思い出します。

      やがてオーストラリアは戦争政策を強化したので,ほどなくして徴兵問題が再び持ち上がり,わたしを含め,ベテルの5人の独身の男子が出頭するよう要求されました。わたしは「神学生」であるという根拠に基づいて徴兵猶予を要請し,問題は数か月にわたって法廷で論議されました。ところが,1941年1月,政府は突如エホバの証人の活動を禁止し,わたしは4人のクリスチャンの仲間の兄弟たちといっしょに刑務所に入れられました。

      禁令下のクリスチャンの仲間の兄弟たちを訪問する

      刑務所から釈放された後,わたしはオーストラリアにあるものみの塔協会の農場のひとつで働くよう割当てられました。その後,1942年になって,ものみの塔協会の代表者が諸会衆を訪問して援助したり,激励したりする取り決め(現在では巡回監督の仕事として知られている)が再開されるとの知らせがあり,わたしはその仕事に携わるよう招かれました。当時は依然としてクリスチャンの宣べ伝えるわざは禁令下に置かれていたので,さまざまの挑戦に直面することになりました。

      サウスオーストラリア州のアデレード市でのわざを例にとってみましょう。同市における公の宣教は事実上中止されていました。というのは,その地のエホバの証人は支部事務所との連絡が絶たれたため,どうしてよいのかわからなかったのです。しかし,わたしが同市の二つの会衆の監督たちと会合した後,公の宣教を再開するための計画が立てられ,エホバは彼らの努力を豊かに祝福されました。

      1943年6月に禁令が解かれてからは,各地を旅行

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