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天からもたらされる助けものみの塔 1972 | 12月1日
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エホバの証人の大会の時期がやってきました。その青年が開会日に出席しているのを見て人々は非常に驚きました。彼はその前日に釈放されたのです。そして,大会で自分の経験を話しました。その若者は知りませんでしたが,大会には警察官がひとり出席していました。後日,その警察官は若者の会衆の主宰監督にこう話しました。「彼がクリスチャンとしてりっぱにふるまい,決心を変えなかったのを見て,私の妻がなんといったと思いますか。こうですよ。『あなたがたが自分の意志であの処置を取ったのだと考えてはなりません。それをなさったのはあの人の神エホバです。彼が大会に出席できるよう取り計らわれたのです。彼の神エホバは,わたしたちの神より強いかたです』」。
26 ペテロ前書 4章7節の良い助言を忘れるべきでないのはなぜですか。それで,危機が訪れたとき,わたしたちは何をすべきですか。
26 自分ひとりにされたり,迫害や誘惑にあったり,また圧力を受けたりしても,エホバの忠実な証人であるあなたはそれに勝ち抜き,エホバに輝かしい誉れをもたらすことができるのです。あなたの助けは天から来ます。しかし,使徒ペテロの,「慎みて祈りせよ」という良い助言を忘れないでください。(ペテロ前 4:7)ペテロはこの重要さを,目ざめているように,また『誘惑に陥らないよう目をさまし,祈るように』と主イエスに告げられた夜,つらい経験を通して学ばされました。(マタイ 26:41)危機が訪れたときには,眠ってしまわないで祈ってください。そうすれば,天から助けを得,エホバのおかげで,試みや誘惑に勝ち抜くことができます。エホバはあなたのためにのがれる道を備えてくださいます。『神は忠実であられる』のです。
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『神の力は弱さのうちに全うされた』ものみの塔 1972 | 12月1日
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『神の力は弱さのうちに全うされた』
ベネット・ブリッケルの経験
1932年,私はものみの塔協会より選ばれて,外国宣教奉仕をすることになりました。行く先はマレーシアです。私はオーストラリアをあとにし,900万の人口の中でただひとりエホバのクリスチャン証人を代表するものとして任地におもむきました。しかし,シンガポールおよび,そこから北方のクアラルンプルにかけて神のことばを宣べ伝える積極的な計画は,重病のために中断せざるをえませんでした。この病気で私は心臓を悪くし,一生病人でとおさねばならないということを医師から証明されました。このように長い間病弱であったにもかかわらず,私は今,40年にわたる全時間の宣教奉仕を回顧することができます。キリストをとおしてくるエホバの力は,『私の弱さのうちに全うされた』,私は心からそう言うことができます。―コリント後 12:9。
1925年,まだ16歳の若者であったときに,「パラダイスへの道」という,ものみの塔協会発行の本を手にしたことがきっかけとなって,私は命への道を歩み始めました。それから2年後,ニュージーランドのオークランドにいたとき,通りがかりの古本屋で,「世々に渉る神の経綸」という本を求めました。私はその本を熟読し,その中で「コルポーター」の仕事のことが述べられているのに特に注意を引かれました。コルポーターというのは,ものみの塔協会の指導のもとで行なわれた全時間の宣教奉仕のことです。私はエホバに献身して全時間奉仕をすることを考え始めました。しかし,当時聖書研究生と呼ばれていたエホバの証人とは,交わりを持っていませんでした。いくら捜しても見つからなかったのです。
しかし,1929年の10月,ウェリントンの一新聞に,聖書研究生たちの集会場の案内が載っているのを見つけました。私は喜び勇んで彼らのところへ行き,それから2週間以内に,神のことばを戸口に宣べ伝える仕事を始めました。私のために,バプテスマの手はずも整えられました。それから2か月ほどして,私は全時間の伝道奉仕を申し込みました。
全時間の伝道を生涯の仕事とする
1930年1月,私は神のことばの全時間伝道者としての生涯にはいりました。ニュージーランドにおける伝道の2年半は,たちまちに過ぎ去りました。当時は,神の王国の音信を載せた印刷物を人々の手に渡すことに重点が置かれていました。1931年には,私はそうした印刷物を配布するため,絵のように美しいマルボローの入り江を囲む,細長い海岸地帯にある農場を訪問しながら,300㌔以上歩いたことがありました。エホバは私の努力を祝福してくださいました。その1年の間に私は毎月平均174時間を伝道奉仕に費やし,偶然に書籍も毎月174冊配布しました。
1932年には私はオーストラリアに派遣され,辺地を伝道するために,クィーンズランド州の北部へ向かいました。まだ一度もエホバの証人の訪問を受けていない町がいくつかありました。それで私は,ロックハンプトンからノーンマントンまで,山脈を越え,水のない荒野を通り抜ける,2,000㌔に近い自転車の旅をすることになりました。毛布,衣類,食料,野外奉仕に用いる書籍60冊など,荷物がたくさんありました。余分の書籍は行く先々に郵送してもらうようにしました。
5か月で私はその割当てを果たしました。最後の300㌔は,自転車を押しながら歩きました。タイヤがすり減ってしまって,その地域では取り替えることができなかったからです。そうして歩いている時に,牧畜を営んでいる人に何人か会いましたが,彼らは,同じことを試みて途中で死んだ人たちの例をあげ,悪いことは言わないからこの旅はおやめなさい,と言いました。しかし私には託された務めがありました。それでエホバの導きを全く信頼して,最後まで旅を続けました。
私がマレーシアに行ったのは,このクィーンズランド州からでした。そしてマレーシアで重病をわずらい,1934年にまたオーストラリアにもどってきました。全時間奉仕者としての私の経歴はそこで終わるでしょうか。そう思えました。ものみの塔協会の計らいにより,私はしばらくの間休養しました。そして,ある自然療法を行なったところ,病状が非常によくなったので,また全時間伝道を始めました。
1936年の6月,私はビクトリア州のミーニヤンという町で,聖書の講演を放送するため,仲間の奉仕者たちとともに,自動車に音響装置を組み込みました。するとひとりの警官が近づいてきて,「もしやめないなら,この辺の店の人たちが君たちの車をひっくりかえしてしまうよ」と言いました。そして,「悪いことは言わない。町から出て行ったほうがいい」とつけ加えました。
「私たちのしていることが非合法になるような条例でもあるんですか」と私は尋ねました。
「いや,そういうわけではないが,商店の経営者たちがこのことにずいぶん神経をとがらせているので,問題が起きるかもしれない」と警察官は答えました。
それで私は,私たちは自分の権利を越えたことをしているわけではないから,警察の保護を受ける権利があると思いますが,と言いました。それから車を運転して商店街に行き,そのまん中で車を止めました。まもなく,
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