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単調さと空虚さか,それとも安定性かものみの塔 1971 | 9月1日
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がありますので,人の関心はそこに集中させられます。このことは家庭または家族生活を安定させるものとなり,安心感を高めます。
自然の事物の反復が祝福である,いや必要であることをわからせるもう一つの面があります。地球は実際には巨大な宇宙船と言えます。地球は空気,水,季節の循環の中に自分自身のすばらしい浄化システムをもっており,それによって地球の住人のために新鮮な空気,水,食物を保持することができます。
地球の水の循環を考えてごらんなさい。地球の水は,わずか3%が淡水で,2%は氷原の中に閉じ込められており,わずか1%が湖,川,地下に,そして大気中の蒸気として存在しています。海水は塩分を含んでいますが,太陽が蒸発させる水は淡水です。塩分が海中に残されるからです。毎日海上を通過する太陽は,1秒間に約1,500万トンの割合でこの水をひき上げます。『常にめぐっている』風の流れがそれを陸地の上に運び,水はそこで凝縮し雨となって降ります。こうして地に落ちた水はまたもとの海に流れ込みます。人間は水と食物となる植物の生育,そして生活に適した気候状態をこの循環にたよっています。―詩 147:18。箴言 25:23。
エホバは安定性の源
それに加えて,人間は生きつづけるために,霊的および肉体的なエネルギーの不動の源に常にたよっていなければなりません。神はその不変の源であられます。神は目に見える天体に注意をひき,次のように言われました。「なんぢ眼をあげて高をみよ,たれかこれらのものを創造せしやをおもへ,主は数をしらべてその万象をひきいだし,おのおの名をよび給ふ,主のいきほひ大なり,その力のつよきが故に一も欠くることなしエホバはとこしへの神地のはての創造者にして倦み給ふことなく,また疲れ給ふことな(し)……疲れたるものには力をあたへ勢力なきものには強きをまし加へたまふ…エホバを俟望むものは新なる力をえん」― イザヤ 40:26-31。
こうしたことはすべて,人間を愛し,人間に関心をもたれる神が存在することを現わします。神は宇宙の中心の存在であり,安定性と安全性を備えるかたです。神は人間を祝福するためにみ子をとおして,「震はれぬ〔王国〕」を備えることを意図しておられます。イエスはざせつすることのない働きを指摘されました。「朽つる糧のためならで永遠の生命にまで至る糧のために働け。これは人の子の汝らに与へんとするものなり」― ヘブル 12:28〔新〕。ヨハネ 6:27。
したがって,安定と安全を得,単調さと空虚さからのがれるために人になしうる一番よいことは,この体制の中における出世競争をやめて,メシアの王国の良いたよりを宣布する神への奉仕に加わることです。「この世の状態は過ぎ行く」からです。生活を簡素にし,神が設けられた平常な循環の範囲内で働き,仕事を楽しみ,現在の秩序の人工的なものや空虚さがなくなった体制の中で,神が永久的なものをもたらしてくださるのを待ちましょう。―コリント前 7:31。
ですから,ソロモン王が次の結論に達したのは神の知恵によりました。『人の食飲をなしその労苦によりて魂を楽しましむるより幸福なるはなし……神は己に適ふ人には知恵と知識と喜楽を賜ふ 然れども罪を犯す人には労苦を賜ひて斂めかつ積ことを為しむ 是は其を神の己に適ふ人に与へたまはんためなり』。イエス・キリストのことばもこれと一致します。「あなたがた,苦労し,かつ,重荷を負わされているものはみな,わたしのもとに来なさい。そうすれば,わたしはあなたがたを元気づけましょう」。―伝道 2:24-26。マタイ 11:28-30,新。
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「彼らが訪問してくださったことをたいへん感謝しています」ものみの塔 1971 | 9月1日
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「彼らが訪問してくださったことをたいへん感謝しています」
アメリカのニューヨーク市ブルックリンにあるものみの塔協会に,ニュージーランドに住む一婦人から次のような感謝状が届きました。
「あなたがたのすばらしい組織に対するわたしの感謝を表わすために,この手紙を書いています。わたしは,3人のむす子を持つ25歳の母親です。かなり長い間,わたしは聖書を理解したいと思っていました。夫はバプテスト教会の信者でしたが,わたしはどんな宗教にも属していませんでした。夫から聖書をもらったとき,わたしは夫といっしょに教会へ行きはじめましたが,そこでは聖書について何も学びませんでした。むす子たちが生まれてからは,わたしたちは教会に行けなくなりました。それにわたしたちはたいへん引っ込み思案でしたので,移転した新しい土地のバプテスト教会の人々と接触するということもしませんでした。
「ある日,若い女の人が回って来て,むす子たちを日曜学校に入れたいかどうか聞きました。わたしたちが同意すると彼女は,むす子を連れて来ていただく日をお知らせしますと言いました。しかし何の通知もありませんでした。教会の人々はわたしたちにそれほど深い関心をもっていなかったのです。エホバの証人がわたしたちを尋ねてくれましたが,わたしは彼らの話を一度も聞きませんでした。彼らの文書を求めましたが決して読みませんでした。エホバの証人は変人の集まりにすぎないと思っていたのです。
「バプテスト教会に失望した後,わたしたちはどうすればよいのかわかりませんでした。わたしには真の宗教を見いだす方法がわかりませんでしたし,自分があらゆる教会の門をたたくことなど思いもよりませんでした。それは不可能でした。ある日,わたしたちは聖書を理解したいと強く願うあまり,真理を示してくださいと神に祈りました。3日後,戸口をノックする人がおり,ひとりの男の人が立っていました。彼は『わたしは聖書を研究している者です』と言いました。わたしは感激のあまり彼を引き入れるようにして家の中にはいってもらい,聖書研究を援助したいとの申し出にすぐに応じました。彼が立ち去ってから,わたしはその人がエホバの証人であることに気づきました。そのことはわたしをいくらか不安な気持ちにしましたが,わたしは聖書を研究しはじめ,その後夫も研究しはじめました。
「やがて,わたしたちは真の信仰を見いだしたことがわかりました。1969年の『地に平和』大会でわたしたちふたりがバプテスマを受けた時は,わたしの人生で最も幸福な日でした。あの日のわたしたちの祈りを聞かれたことを,わたしはエホバ神にひざまずいて感謝します。そうです,神の証人がわたしたちを定期的に訪問してくださったことを神に感謝しています。どんな天候の時にも,証人はわたしたちの援助に来てくださいました。そうです,彼らはわたしたちに純粋の関心を抱いていたのです。
「もしあの愛する証人がその朝伝道に出なかったとしたら,今日わたしたちは神の真理を持っていなかったかもしれません。エホバの証人は人間のもたらしうる最大の贈り物,すなわち神の新しい秩序において子どもたちとともに永遠に生きる希望をわたしたちにもたらしてくださいました。
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読者からの質問ものみの塔 1971 | 9月1日
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読者からの質問
● 使徒パウロは十二使徒のひとりでしたか。
証拠を調べてみると,パウロはイエス・キリストの使徒ではありましたが,聖書では「十二使徒」のひとりとしては述べられていないということがわかります。
使徒と訳されているギリシア語,アポストロスは「送り出された者」という意味です。バインの「新約用語解説辞典」は「使徒」の項で次のように述べています。「パウロはコリント前 9:1; 15:8が示すように主イエスを見たが,イエスの地上における宣教の期間中「常に」十二使徒と『偕に在った』わけではない。したがって,使行 1:22にある,必要な資格に関するペテロの説明に従えば,パウロは十二使徒のひとりとしての資格は持っていなかった。パウロは主の昇天後,福音を異邦人に伝えるべく主ご自身によって直接任命されたのである」。
イスカリオテのユダは使徒としてイエスによって最初に選ばれた12人のうちのひとりでした。(マタイ 10:2-5。ルカ 6:13-16)しかしユダは盗人となり,次に裏切者となってイエスを敵に売り,最後には自殺したので,11人の忠実な使徒たちがあとに残りました。―ヨハネ 12:4-6; 18:1-5。
キリストの死後,しかし西暦33年の五旬節の前に行なわれたクリスチャンの会合のさい,使徒ペテロは詩篇 109篇8節の預言的なことばに基づき,ユダに代わる後任を立てる必要があることを持ち出しました。「爰に[彼ら(明らかに,出席していた男子のクリスチャン)]バルサバと称へられ,またの名をユストと呼ばるるヨセフ及びマッテヤの二人をあげ(たり)」。集まっていたそれらクリスチャンは祈りをささげ,後任を指名していただくようエホバに願い求めました。次いで彼らはそのふたりに関して,「鬮せしに鬮はマッテヤに当りたれば,彼は十一の使徒に加へられ」ました。―使行 1:15-26。
生来のイスラエルにはその始まりにさいして,その
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