ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 神の目的とエホバの証者(その40)
    ものみの塔 1962 | 6月15日
    • が油注がれた者の「仲間」であることが示されてから,その大いなる群衆からも幾人かがそのような奉仕の地位につけられました。

      次第に新しい世の社会は強められ,一致した強固な交わりになって行きました。聖書中に記録されている神の原則を人々に教えることが強調されたので,この新しい世の社会が成功することはたしかでした。神権制度は,第1世紀の原始的な会衆の型に従ったので,全世界の御国伝道者はみな本部から指示を受けました。また,その指示を遂行するため,彼らは協会の任命した兄弟たちからの援助を受けました。

      協会によって,任命された者と,会衆内の兄弟たちとの関係は,1936年に強調されました。その年の7月,「監督」という名前は「会の監督」と「地方的な奉仕の監督」を示すために使用されないと,協会は発表しました。そのかわり,これらの地位にいる兄弟たちは「会の僕」および「地方的な僕」と呼ばれるようになりました。同時に,月1度の奉仕機関紙「監督」は,「通知」に変えられました。

      1933年から1935年まで行なわれた分団運動の経験から分かったことですが,会衆が結束して野外で奉仕すると,迫害や反対に耐えることができ,強い一致と力が示されて深められました。このようにして,地帯奉仕のわざが始まりました。

      特定な地域内にある20位の会衆は,「地帯」を形成しました。協会は「地帯の僕」を任命して,各会衆で1週間を過ごさせ,会衆を制度的に強めさせると共に,野外の証言の活動を援助させました。時折り「地帯大会」が開かれて,20かそれ以上の会衆がその大会に参加することにより,さらに多くの指示を受け,霊的に建て起こされました。これらの大会で兄弟たちに奉仕するため,協会の本部から特別の僕たちが派遣されました。

      1938年10月1日,協会は148名の地帯の僕と11名の地方的な僕をして国内の全会衆を定期的に訪問させる取決めを設けました。1939年中,区域を再区分したので,153の地帯と六つの区域がつくられ,それぞれ一人の僕の訪問を受けました。

  • 愛と忠実
    ものみの塔 1962 | 6月15日
    • 愛と忠実

      モード・ジョンストンの経験談

      「エホバの証者の年鑑」にのせられる北部アイルランドやエールの報告は,いつも特別に私の興味を引きます。というのも,私が「かしの棒の国」に生まれたからです。しかも,非常に裕福な家庭に生まれました。ほんとうに,信仰の深い両親を持つことは,多額の財産を相続するのと同じことです。

      1905年頃,私の父の兄弟のひとりエディおじさんが真理を受け入れました。それは私が10歳の時でした。その頃,北部アイルランドには,聖書研究生は(当時はそう呼ばれた)ごくわずかしかいませんでした。でもおじは,そのおとずれを父に伝え,父は深い興味をもつようになりました。はじめの頃母は「エディおじさんの宗教」にまゆをひそめていました。しかし,父の親切や,巧みさや忍耐に助けられて,母の気持ちも徐々に変わってきました。父がよく「サラ,ちょっとすわりなさい。ここのところを読んであげるから」といっていたのがいまでも聞こえるようです。そして「サラ」は腰をおろしてそれに耳を傾けるのでした。のちになって父は,日曜毎に,以前自分が役員をしていた教会に行き,礼拝を終わって出て来る人々に聖書を説明した冊子をくばりました。母はそのことをひどくはずかしがって,教会に行くのをやめてしまいました。そして,その後間もなく真理を受け入れました。

      1911年,ラッセル兄弟は,ベルファーストを訪問しました。同兄弟が,全部の「エクレシア」― ほんの少数 ― を自分のホテルに招待して,一緒にお茶を飲んだのをいまでもおぼえています。小さなグループではありましたが,それでも公開講演が行なわれた時は,ウルスター・ホールはいっぱいになりました。この群衆の大部分は,新聞に出した有料広告を見てやってきたのです。

      基礎を置く

      翌年父とおじは,昔の発見者たちが「長い白雲の国」と呼んだニュージーランドに家族を連れてきました。4人の家族を養わなければならなかったにもかかわらず,おじは,文書販売者つまりいまで言う開拓者でした。そして,何年もの間全時間奉仕をつづけました。おじは,当時真理にはいっていた少数の兄弟たちを強めるのに大きな努力を払いました。おじが絶えず強調した一つの点,そして私にとって常に貴重であったのは,エホバの制度に対する忠実の重要性でした。ですから,真理に対する愛と,エホバの制度への忠実は,幼い時から私の生活のいわば心棒のようになりました。

      その頃私たちは,「聖書研究」というテキストを使っていましたが,私がすっかり心を奪われたのは,その第2巻にのせられていた年表で,私はそれをむさぼるように読みました。そして献身し,水の浸礼によって献身を表わし,当時行なわれていた伝道活動のあらゆる分野に参加しました。

      試練

      1914年の秋の訪れと共に,第一世界大戦がぼっ発し,「異邦人」の時が終わりました。その時私たちは,ウェリントンで,人々に創造の写真 ― 劇を見せるために忙しく働いていました。それから私は,「牧羊のわざ」に参加しました。これは,書籍を求めた人々の中から,聖書研究をする人を見つけ出して援助する仕事です。しかし,明確に理解していなかった点がたくさんあったので,いまその頃を振返って見て,エホバがいかに愛と忍耐をもって私たちを用いつづけて下さったかを知り,感謝の気持ちでいっぱいです。

      1916年10月のラッセル兄弟の死は,私たちにとって一つの試練でした。いままでよりかかっていたものが取られたような気がしました。ついで,支部の僕が,神の制度に対する忠実を失って失脚し,多くの兄弟を連れ去ったのを見ました。また,研究するために集まる時にさえ,探偵が集会にまぎれこむこともしばしばありました。多くの人は,人間への恐れ,および真理に対する愛と認識の不足によって,信仰から脱落しました。しかし一方,「疲れた地にある大きな岩の陰」のようになった,強くて忠実な兄弟たちのいたことを,どんなに感謝したことでしょう!(イザヤ 32:2,新口)こうした多くの経験を経て,私たちの考え方はしばしばため直され,エホバとその制度に対する愛と忠実は,ますます強くなっていきました。

      オーストラリアにおける拡大に参加

      1923年私は結婚して,主人と一緒にオーストラリアに移りました。メルボルンにある協会の支部で働くというすばらしい特権を与えられたからです。1925年に娘のルースが生まれましたが,ルサフォード兄弟は,私たちがベテルにとどまって,ベテルの家族と共に生活するように取計らって下さいましたので,娘は彼らの間で成長することになりました。これも大きな特権でした! こうして娘は,幼い時から,生命に通ずる道を歩みはじめたため,またエホバの過分の御親切によって,いまでも忠実にその道を歩みつづけています。

      オーストラリアは,アメリカを少し小さくしたほどの広大な島大陸ですが,人口はわずか1000万余りにすぎません。一度など,出席者の数が300人あまりという全国大会に出席したこともありました。今日では,オーストラリアのエホバの証者の数は,1万5000以上になっています。多数の愛すべき若人 ― まったくのところ「諸国民のねがわしきものたち」― が,エホバを賛美するのを見るのは喜びです!(ハガイ 2:7,新世)兄弟たちに奉仕し,近年におけるわざのめざましい発展を見守る喜びは,言葉には表わせません。

      聖書の真理の理解が進んだことによっても,私たちは強められてきました。「国民の誕生」という記事をのせた1925年の「ものみの塔」は,忘れることができません。立証の主題の研究,定期的な日曜日の朝の証言,その他進歩をしるしづけた事柄は無数にあります。それらは,私たちの誠実な愛を築き上げてくれました。

      1928年に,ミシガン州デトロイトで開かれた大会後,協会は支部をメルボルンからシドニーに移しました。ニューヨークから私たちの書籍を運ぶ船が,シドニーに寄港したからです。それに,メルボルンの北部1000マイルのところに境界線をもつクインスランド州は,広大な地域で,伝道活動に関する限り,実質的に処女地だったからです。1932年に開始されたラジオ放送 ― 主人も私もそれに参加する特権を得た ― は,そうした地域に御国の音信を広める

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする