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エチオピアの教会を見るものみの塔 1978 | 6月1日
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エチオピア教会は,19世紀に至るまでその権力を増大させてきました。皇帝は同教会に所属し,その信仰の擁護者となることを誓うよう定めた法律が実施されました。同教会の信仰を愚ろうすることを禁じる条項が刑法の一部に組み込まれました。他の宗教による改宗運動は,同教会で定めた“開放区”でのみ行なうことができました。
変化のあらし
16世紀にわたってその生活を厳しく縛られてきたエチオピアの人々は,その生み出した実を評価し始めたようです。人々はどう考えていますか。
最近明らかにされた推定によると,成人の男子の中で読み書きのできる人は全体のわずか10%ほどにすぎません。教会当局や一握りの有力教会員が私腹を肥やしている一方で,エチオピア国民の大半は貧困にあえいでいます。エチオピアを襲った最近の干ばつとききんの際,蓄財を浪費し,必要な助力を拒んだとして,同教会は特に若い世代から厳しく糾弾されました。そのため,同教会は,以前にも増して急速にその支持者を失うようになりました。
その結果,多数の修道僧や司祭は教会を捨て,逃れ場所を故郷の村に求めています。特に若い人々は,自分たちの人生の指針を教会以外の所に求めるようになりました。若年層の人々が大挙して教会から離れていくのを食い止めようとする教会当局の努力にもかかわらず,現在,人々の耳を捕らえているのは無神論的な教えです。
エチオピアの教会の歴史を簡単に振り返って分かったように,これは,東方正教会の慣行にアニミズムやへびの崇拝,ユダヤ人の宗教などを取り入れた独特の宗教です。
こうした状況の中で,エチオピアのエホバの証人は喜びのうちに聖書の真理を隣人に伝えています。エホバの証人たちはこの国において個々の人との聖書研究を多数司会し非常に忙しく働いています。こうして,多くのエチオピア人は,「霊と真理をもって父を崇拝する」方法を知り喜んでいます。(ヨハネ 4:23)もはや彼らは,形式的な崇拝行為にあずかることはありません。彼らは,イエスの語られた次の言葉の真実さを自ら経験したのです。「わたしのことばのうちにとどまっているなら,あなたがたはほんとうにわたしの弟子であり,また,真理を知り,真理はあなたがたを自由にするでしょう」― ヨハネ 8:31,32。
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真の自由が見いだされるところものみの塔 1978 | 6月1日
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真の自由が見いだされるところ
● 多くの人にとって真の自由とは,自分の思い通りに物事を行なえることを意味しています。ニュージーランドの一人の若者もそのように考えていました。しかし時たつうちに,その若者は自分が本当の意味で自由でないことに気付くようになりました。その若者は次のように語っています。
「私は自分で物事を自由に行ないたいと思っていました。15歳のとき家を出,オークランドの親類と同居するようになりました。そこで私はパーティーへ出掛けたり,ホテルで酒を飲んだりしては,本当に生きているのだと感じていました。やがて,かたくなな態度を取るようになり,警察を敵とみなすまでになりました。その後,いわゆる友人と思っていた人々の勧めで,麻薬を使用するようになりました。それ以来,麻薬にひたっていなければ,酒に酔っているという状態が自分の時間の大半を占めるようになりました。ある晩,私はパーティーで,エホバの証人と聖書を学び始めたばかりの少女に出会いました。彼女の言葉によって聖書に対する関心を再び呼び起こされた私は,正気に戻るよう助けられました。
「パーティーのすぐ翌日,私は彼女の聖書研究に参加するように取り決め,それ以来進歩してゆきました。思い返してみるに,私は友人を持ちたいと願っていましたが,間違った場所で求めていたのです。いわゆる“自由”なるものも,この世で知り合った仲間たちも,私にとって楽しいものではありませんでした。真の自由と同様に,真の友人や仲間はエホバの民の間に見いだされます」。
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