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  • 本当に心身をそう快にするレクリエーション
    ものみの塔 1979 | 9月15日
    • と感じている人は少なくない」と述べています。ですから,個々のクリスチャンはこうした危険に対して用心し,天のみ父の崇拝にあずかることを“重視”していかなければなりません。

      また,次の事実も直視する必要があります。つまり,この「終わりの日」に神の王国を宣明するという緊急な使命を持つ者として,わたしたちクリスチャンであれ,子供であれ,娯楽に費やす時間は,最少限度に押さえなければならないということです。また,世が“娯楽”と呼ぶすべてのものをクリスチャンが行なえるわけでないことも明白です。ですから,レクリエーションはそのあるべき位置に保たれなければなりません。そのためには,肉的な見方ではなく,霊的な見方を絶えず保ち,子供の心にそうした見解を教え込むことが必要です。

      では,個々のクリスチャンがレクリエーションに対して平衡の取れた見方を保てますように。時折,築き上げるレクリエーションを楽しみながら,心に真の喜びと満足をもたらす事柄を中心とした生活を築いていけますように。加えて,クリスチャンとして清い生活を送り,壮大な王国の希望を他の人に宣明する業に熱意を込めてあずかることに最大の幸福を見いだせますように。やがて,この王国の下で,全人類は,わたしたちの神エホバに永遠の賛美となるよう平衡の取れた価値ある生活を送るよう助けられることでしょう。

  • ナイジェリアの村で証言する
    ものみの塔 1979 | 9月15日
    • ナイジェリアの村で証言する

      ゴスタは広々とした庭の中に車を乗り入れると,マンゴーの木の下に止めました。二軒の土壁の家から人々が出てきました。一人の老人が別の木の下に座っており,私たちは「ワ ドモ・オ」(「こんにちは」)と言ってあいさつをしました。彼はしばらくの間私たちをじっと見ていましたが,やがてそのしわだらけの顔の表情が和らぎ,「オボキヤン」(「ようこそ」)と言いました。

      私たち四人は,村人たちと聖書の音信について話し合うためにやって来たのです。この最初の家は村の他の部分から孤立しており,またここには車を止められる場所があったので,最初に全員でこの家を訪問し,それから他の村人に証言するため分かれて家から家の奉仕を行なうことにしました。

      村へ出掛ける前に,私たちは話し合いの際どんな聖句や話題を用いるかについて打ち合わせをしました。真の神に関する正確な知識を得るよう村人たちを援助することの大切さを私たちは考えました。(ヨハネ 17:3)そこで,私たちは証言活動の上に祝福と導きがあるようエホバに祈り求めました。

      村人たちの風習

      ナイジェリアの東部や南東部では,丘やゆるやかに起伏した田園地帯,澄み切った空,そしてほかの場所で経験した蒸し暑さを幾分忘れさせてくれる新鮮な空気が楽しめます。また,ありとあらゆる種類の鳥や,時折り姿を見せるサルにはいつも好奇心をそそられます。都会と違って村には家の密集した地域はほとんど見られません。道路から50㍍ないし100㍍ほど入った所に一軒家または二軒以上の家が固まっている所があり,家まではキャッサバやヤムイモやココナッツの農場の中をよく掃かれた細い道が通じています。家々に近付いて行くと,うれしいことに必ずモクレン属の木々に覆われた小さな色鮮やかな花壇が見られますが,私たちはこうした木々の下に腰を下ろして聖書について討議します。

      入口でノックをするのと同じように,私たちは家に入る前に入口に立って手をたたきます。家の主人と子供が三,四人すぐに出て来ます。それから家の中へ招き入れられ,握手で迎えられます。私たちのような全く見知らぬ者にはすぐにいすが用意され,手を洗うための水と石けんが出されます。また,果物やゆでたトウモロコシなど食べ物も出されます。私たちはまず出されたものを食べなければなりません。それから家の人は音信に耳を傾けます。食べ物が出されない場合でも,必ず水は出されますが,訪問者が全く見知らぬ人であったりお年寄りであったりすると,家の主人は敬意を表わして両手でコップを手渡します。

      人々は必ずといっていいほどよそから来た人の話す話を聞きたがります。地元のエホバの証人の後について家から家の伝道を行なっていると,家の人たちは自分たちの言語でなされる討議に注意深く耳を傾けた後,同伴している訪問者もぜひ話すようにと求めることに私たちは気付きました。そこで話し合いはもう一度始めからやり直しということになります。

      また,鶏やヤギや犬や幼い子供たちが私たちの周りで活発に動き回るので,こうした訪問は一層興味深いものとなります。幼い子供たちは大抵裸です。後ろから犬にじゃれつかれながら家の周りを元気に走り回っているのを見ていると,子供たちには疲れを感じることなどないように思えます。彼らは時々そばへやって来ては,私たちをじっと見つめます。

      話し合いが終わるころに私たちは聖書研究のための文書を提供します。人々はあまりお金を持っていないので,ヤムイモや卵や魚,また時には鶏などと交換します。それから別れのあいさつをしてもう一度握手をしてから,私たちは元気のあり余った大勢の子供たちや何人かの大人のいる次の家へ向かいます。家々を訪問する私たちの後ろについて来る子供たちの数がだんだん増えてゆくことがよくあります。彼らは一生懸命に私たちを紹介し,神について話すために来ていることを近所の人々に話してくれます。

      神について話す

      ナイジェリア中西部のこの村である老人の歓迎を受けたとき,私たちは興味深い話し合いになると予想しました。自己紹介をしてから訪問の目的を説明すると,彼は他の者たちに合図をしていすを持って来させ,私たちはすぐに木の下に腰を下ろしました。その家族の人々は話を聞きたがっている様子でした。家族の成員としてはその老人と二人の若い女性と二人の少年,二人の若い男性,そしてここでは仮にヨセフと呼ぶことにしますが,もう一人男の人がいました。その人は酒に酔っているように見えました。

      ヨセフは私たちを家の中に招き入れたい様子でしたが,その老人の指示に従うことになりました。年寄りの言葉には深い敬意を抱いて答え応ずるのです。屋外に腰を下ろして良かったと思ったのは,木の葉を揺らす心地良いそよ風で涼をとることができたからです。午後の澄んだ青空の下,青葉の茂るその場所は創造者について語るのにうってつけでした。

      エホバを知ることの重要性について話を切り出したのはナスでした。ゴスタとエレミヤと私は会話を楽しむために,と言うよりはむしろ家族の人々の反応を見るために黙って見ていました。エレミヤは会話を楽しむことができました。彼の自国語であるエド語で話し合われていたからです。ゴスタと私はいずれもラゴス出身のエホバの証人の宣教者ですが,まだエド語を学ぶ機会はありませんでした。それでも,読まれる聖句の後を注意深くたどることによって話し合いの内容をかなり理解できましたし,話し合われた事柄を後でナスがすべて説明してくれました。

      ナスはこの村で育ったため,土地の習慣を知っていました。彼はこうした知識を活用して,現在行なわれているヤムイモの収穫に注意を向けてこのように話しました。「この村の人々にとって今はとても喜ばしい時です。ヤムイモが収穫できるほどに生長し,彼らは自分たちの骨折りの実を刈り取ることを期待しているからです」。「確かにその通りです,豊作になりそうなので大変感謝しているんです」と老人が答えました。

      「感謝すべき事柄は非常にたくさんあるものです」とナスが話を続けました。「作物を植えたり生長させたり収穫したりするには適切な季節や状況が必要であることはよくご存じであると思いますが,こうしたものを備えでくださっているのは神の大きな愛の表われではないでしょうか」。

      「エムワンタ・ノ」(「確かにその通りだ」)と人々の中から数人が小声で言いました。

      「そのような愛のある神は,人間としての私たちの命にも関心を持っておられるのです」とナスは言いました。「神は現在私たちが生きてゆくのに必要なものや,現在幸福であるために必要なものを備えてくださっているだけでなく,永遠の命を得るのに必要なものも備えてくださっているのです。私たちがここへ来たのもこのような愛のある神について皆さんにお知らせするためなのです」。

      「来てくださってうれしいです」とその老人が言うと,他の人々も口々に感謝の言葉を述べました。ところが,ヨセフがゴスタのひざをしっかりつかんで,「この男の話を聞きたい」と口をはさみました。ヨセフは視点の定まらない目で人々を見回した後,立ち上がろうとしましたが,だれかが彼の肩を強く押さえたために再びいすの上に倒れてしまいました。彼がひょうたんの酒入れに入れたしゅろ酒を飲み過ぎていることに,私たちは最初から気付いていました。こうした邪魔が入ったことに対して二人の少年は不満の声を上げましたが,ゴスタは後で自分も必ず話すと言って彼をなだめました。

      ナスはさらにこのように言葉を続けました。「私たちが神からどれほど多くの恩恵を受け,神にどれほど依存しているかを理解していただくためにこの詩篇 145篇15,16節(新)で聖書が述べている事柄を読んでみたいと思います。エレミヤはエド語に訳して朗読し,ナスは英語で朗読しました。『すべてのものの目はあなた[エホバ]を見,あなたは時期にしたがって彼らにその食物を与えておられます。あなたは御手を開き,あらゆる生きているものの願いを満たしておられます』。さらにナスは,エホバ神がいかにすばらしい仕方で衣食住を備え,人間の生きていく場所として,また人間の生活を楽しいものとするために地球をいかにすばらしく造られたかを説明しました。

      私たちはこうした話し合いをするのに本当にふさわしい環境の下にいました。そのとき太陽は西の空に沈みかけ,木々の間から差し込む柔らかな光によって,大気にはまるで金粉が満ちているかに見えました。遠くの雲はサーモンピンク色で縁どられており,その後ろに広がる青い空は,目を楽しませてくれる美しい情景を完ぺきなものにしていました。そうした美を鑑賞する能力を私たちの中に備えてくださったことを神に心から感謝せずにはいられません。

      老人の示した認識

      こうした話し合いが続けられている間に,二人の若い女性は家事をするためにその場を離れましたが,後ほどまたもどって来ました。オートバイに乗っていた人を含めて通り掛かりの人が数人話を聞きにやって来たため,少なくとも五家族,15人ほどの人々が話を聞くことになりました。その後,もう一人の老人が,片足が不具のためひどいびっこをひきながら一軒の家から出て来て私たちの所へやって来ました。そしてすぐに話し合いに加わりました。

      これは,敬意と関心の程を示すまれな行為でした。普通,ナイジェリア人の年寄りは,訪問者を迎えるために家の外へ出るということをしません。訪問者のほうが年寄りの所へ行かなければならないのです。ヨセフが最初私たちを家の中へ入れようとしたのは恐らくこのためだったのでしょう。しかし,最初に会ったお年寄りは初めから外で腰を下ろしていて,私たちを歓迎してくれたのです。

      二人目のお年寄りがやって来たとき,ナスは人類が一般にエホバの愛ある備えに感謝してこなかったことを,エレミヤの示す絵を教材として用いながら説明していました。人間は「霊と真理をもって」仕えるために神に関する真理を学ぼうとはしませんでした。(ヨハネ 4:24)このために地上にはこれほど多くの苦悩や圧迫が見られるのです。しかしナスは,喜ぶべき理由があることを説明しました。なぜですか。神はすべての人のために必要物を十分に備え,神に仕える人には保護を約束し,また,「作物に害になる雑草を取り除くように」邪悪な事柄をならわしにする者たちを取り除くことによって不義を終わらせようとしておられるからです。それから彼は,「エホバはご自分を愛する者すべてを守っておられる。しかし邪悪な者すべてを根絶やしにされる」という詩篇 145篇20節(新)の言葉を読みました。

      聞いている人々にとってこれは確かに良いたよりでした。彼らは,エホバがご自分の僕たちを実際に保護され,問題を引き起こす邪悪な者たちを滅ぼされるということを納得したようでした。「しかし,神が私たちを保護してくださることがどうして分かるのですか」と一人の人が尋ねました。

      神を知るようになる

      その答えとして,ナスは神を正しく知るようになることがいかに重要かを説明しました。彼はこのように話しました。「聖書には神に関する教えがすべて書かれていて,私たちがなぜ,またどのように神を崇拝すべきかが書かれています。神の保護を得るために,神を求め義を学ぶことを神がどのように勧めておられるか,この聖句をご覧ください。ゼパニヤ 2章3節(新)にはこう書かれています。『地の穏和な者たち,神の司法上の定めを守り行なってきた者たちすべてよ,エホバを求めよ。義を求め,穏和を求めよ。おそらくあなた方はエホバの怒りの日に隠されるであろう』」。

      この後,活発な話し合いが行なわれましたが,そのとき,農夫が作物を栽培するときに季節や土じょうの状態,その他の事柄を支配する自然の法則に従うように,私たちも自分の行動や神への崇拝に関してエホバの律法に従わねばならないことが指摘されました。『エホバを求める』ことが必要なのです。ナスは最後に,「つまり私たちは神について学ぶために聖書を勉強して,神のご意志と調和して生きるよう努力しなければならないのです」と言いました。

      これを聞いて,最初のお年寄りは次のような意見を述べました。「あなたの言われることはみなもっともだが,私らはもう先が短いからねえ。新しいことを学び始めるには,年を取り過ぎていますよ。でも子供たちには教えてやってください」。

      二人目のお年寄りもこれに同意して,こう言いました。「関心がない訳ではないですよ。でなかったら,外へ出てあなた方の話に加わったりはしませんよ。でも,もう年ですから読めませんよ。でも,どうしたらこのような教えを学んで,あなたが今説明してくださったような神を知ることができるんだろうかね。これまでにもエホバの証人の訪問を受けたことがあり,本を受け取ったこともありますよ。あとは子供たちに読ませてこういう事を学ばせるんだね」。

      今度はゴスタと私が話をするようにと勧められました。通訳してもらいながら,私たちは多くの老人が聖書を学び,他の人にも教えられるほど多くの事を学んだことを説明しました。この二人の男の人は私たちの推測では70歳位でしたが,70を越えた老人の中にさえ読み書きを習得している人々がいたのです。

      エホバは年老いた人々を見捨てたりはされないとゴスタが説明していたとき,ヨセフは注意深く話に聞き入っていました。むしろ,神の目的を知らせる業にあずかる資格を得させるため,神はそれを望む者を援助してくださるのです。ゴスタはさらにこのように説明しました。「エホバは私たちに深い関心を払ってくださっているのです。今ここでしているように私たちが神について話し合うために集まるときに,またそのみ言葉を学んだり他の人々に説明したりしているときに神は注意を払ってくださるのです。神を恐れみ名に敬意を示すような生き方をするなら,神を知って神に仕えようとするあなたの努力を神はきっと覚えていてくださるでしょう」。

      二人のお年寄りが再び話をして,私たちの訪問に対して感謝を表わし,また聖書研究のための援助を受けたいと言いました。そこにいた別の人々も雑誌を受け取り,私たちはエホバの証人が彼らを定期的に訪問して聖書を教えるように取り計らうことを約束しました。それから私たちは一人一人と握手を交わし,「オキエンデイア!」(「さようなら!」)という皆の声と共にこの大変興味深い訪問を終えました。

      予定していた奉仕時間はこの一件の訪問で終わってしまいました。私たちはいつものように喜びに満たされ,神と神の言葉にこうした深い敬意を払う謙そんな村の人々に証言する特権を感謝しつつ家路につきました。

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    ものみの塔 1979 | 9月15日
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      “ホロコースト”に関する疑問

      ● 最近,ヒトラーのユダヤ人絶滅計画を題材にしたテレビ劇が放映されました。これを見た幾百幾千万ものドイツ人の多くが恐怖の念に打たれました。「青年たちは,年配者の多くがその虐殺に反対しなかったことを知らされて衝撃を受けた」と,ニューズウィーク誌は報じています。衝撃を受けた一人の若い視聴者は,「この種の出来事が,どのように,またなぜ生じ得たのか。教会は何をしていたのか」と問いました。

      カナダの歴史家J・S・コンウェイは,「諸教会に対するナチの迫害: 1933年-1945年」と題する本の中で同じ質問を提起しています。コンウェイはこう語っています。「あれほど多数の責任の重い高名な教会人が,たとえ消極的であるにせよ,集団虐殺という犯罪に肩入れしたのはどうしたことであろうか。福音教会員[ルター派]とカトリック教徒の双方を含めた幾百万ものドイツのクリスチャンは,ナチの独裁支配下にあったあのわずか数年の間,何の熱にうかされていたのだろうか」。コンウェイは自分の得た結論をこう語っています。「教会はこうした事態に何の備えもしておらず,対処すべきすべを全く持っていなかった」。

      一方,コンウェイは次のようにも報告しています。「大きな教会が黙従していたのに対し,エホバの証人は,自分たちの教理に基づいて,狂信的なまでにそれと反対の立場を堅持した。……どんな形であれ,ナチスとの協力を拒否することが証人たちの抵抗の要であった」。証人たちは,ヒトラーの組織の前に堅く立つこうした力をどこから得たのでしょうか。歴史家コンウェイはこう答えています。「行動の根拠を聖書の命令に求める彼らは,武器を取ることを拒否した。……こうして,彼らは,全員死刑の宣告下に置かれたも同然であった。事実,多くの者が刑罰を課せられ,……多数がダハウ[強制収容所]に送られた」。こうして,証人たちは,“ホロコースト”に加担してヒトラーの共犯者になるのでなく,その犠牲者となったのです。

      狭量なギリシャ正教会

      ● ギリシャの定期刊行物アテネニューズは,最近,二人のエホバの証人が「軍役を拒否したかど」で,それぞれ10年と18年の懲役刑に処されたと報じました。アテネニューズは,後者の刑罰を,「迫害されているそのキリスト教宗派の当地における近年の歴史上最悪の懲役刑」と呼びました。アテネニューズの報道によると,「欧州会議やヨーロッパ各地の議会,国際アムネスティの抗議をかわすために,ギリシャ政府がこの種の犯罪の最高刑を四年としたにもかかわらず」,これらの刑が課せられました。

      自己の良心ゆえに投獄されているこれらの人々を人道的に取り扱うよう求める声が国際的に高まっているにもかかわらず,こうした狭量な態度がみられるのはなぜでしょうか。最近,その答えを示唆する情報が,米国で発行されているギリシャ正教会の定期刊行物ザ・ワードに載りました。そこにはこう書かれていました。「アテネ発 ― ギリシャ正教会の聖職者団はエホバの証人派を“反宗教的,反国家的な危険分子”とする布告を出した。また,同聖職者団は,エホバの証人を良心的兵役忌避者として兵役から免除する法律を一時無効にするよう,エバンジェロス・アベロフ国防相に要請した」。事態のこうした成り行きを見ていると,ギリシャは,ヨーロッパのより自由な社会の成員として宗教的に寛容な態度を取るという面で大きな進歩を遂げているのだろうか,それとも偏屈な宗教家の圧力に屈しているのだろうか,といぶかりたくなります。時の経過がその答えを与えてくれるでしょう。

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