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あなたはお年寄りをどう見ますか目ざめよ! 1979 | 9月22日
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ているのが目に留まりました。それから,その婦人が越えなければならない雪と氷の山に気付きました。そこで老婦人に,「お手伝いいたしましょうか」と尋ねると,婦人はすぐに,「ええ,お願いしてもよろしいかしら」と答えました。
訪問にはとても価値がある
お年寄りを訪問することによって,お年寄りに多くのものを与えることができます。あるお年寄りは訪ねて来る人々についてこう述べています。「子供や孫が遠く離れた所にいる者にとって,そうした訪問客がどれほど喜びをもたらしてくれるか,分かっていただけないでしょう」。話してあげられる興味深い経験があるかもしれませんし,ニュースの中にはお年寄りに役立つものがあるかもしれません。しかし,最も重要な奉仕が,単に良い聴き手になることである場合も少なくありません。
視力が以前ほどではなくなったときに,お年寄りの多くが有り難く思うのは,朗読をしてもらうことです。あなたの受け取った手紙の中に,人を励ますような事柄が書かれているかもしれません。あるいは,お年寄りが読んでもらいたいと思っている資料もあることでしょう。聖書の一部を読んで,一緒に話し合うこともできます。「目ざめよ!」誌や聖書を扱った雑誌である「ものみの塔」誌に掲載された様々な情報が,朗読するのに興味深く,啓発的であることに気付いた人も少なくありません。
時には,自分の関心の心ばかりのしるしとして,贈り物をすることもできます。食べ物でも,植物でも,手作りの品物でも良いのです。そうです,必要と思えるなら,お金でも差し支えありません。また,食事を作ってあげるか,あるいはお年寄りが外出できるなら,外へ食事に連れて行くことを申し出るのもよいでしょう。また,お年寄りは他の人の家や集まりに招かれるのを喜ぶかもしれません。一緒に付き添って行くことを申し出るのです。そして,そうしたなら,その集まりでお年寄りに配慮が払われているかどうか確かめてください。
老化のせいで体をこわし,買い物など必要な用事を済ますために外出できなくなる場合もあります。それをすることを申し出たり,それが行なわれるように世話することは本当に親切な行為です。
そうです,お年寄りの人生をもっと楽しいものにするため,周りの人々にできる事柄はたくさんあります。そうすることは,与えるという敬虔な精神の表われです。それは与える側にも有益です。正しい事柄を行なっているのを知っているので,自分の人生により一層の満足感がもたらされるからです。そして,受ける方の側からより大きな愛を示されるのが普通です。イエスはこう言われました。「受けるより与えるほうが幸福である」― 使徒 20:35。
12歳になる少年が示した立派な行為,二人の老婦人の家の小道の雪かきをしたという行為の背後にあったのはその精神でした。その少年は,エホバの証人の息子として,聖書の原則に基づいて受けた訓練から,そのような敬虔な態度を学びました。その子の父親は,神のしもべとなることには,神を信じるだけでなく,良い業も含まれる,ということを教えていました。―ヤコブ 2:26。
財政面の援助
多くの国には,財政面の援助を差し伸べることのできる様々な政府機関があり,それを利用するのは正しいことです。
しかし,外部からの財政援助が不十分であるとか,皆無であるとかいう場合もあります。そのような場合,成人した子供には特に,年老いた親や場合によっては祖父母に対して,どんな財政面での責務があるでしょうか。この重要な問題について,神のみ言葉は次のように述べています。
「やもめに子どもや孫がいるなら,彼らにまず,自分の家族の中で敬神の専念を実践すべきこと,そして親や祖父母に当然の報礼をしてゆくべきことを学ばせなさい。これは神のみまえで受け入れられることなのです。
「当然のことですが,自分に属する人びと,ことに[年老いた両親や祖父母など]自分の家の者に必要な物を備えない人がいるなら,その人は信仰を否認していることになり,信仰のない人より悪いのです」― テモテ第一 5:4,8。
年老いた親という重荷を受け入れる必要はないと言うのは,実際のところ道理にかなっていません。子供たちは数多くの面で親の世話を受けてきました。18年から20年,ないしはそれ以上にわたって,子供は,衣食住,教育,金銭などの点で親に依存していました。その中には,無力な赤ん坊だったころ,また病気にかかった時などに受けた世話も含まれます。それでは,子供が成人したときに,その年老いた親の世話をするという責任を取ることが,どうして間違っていると言えるでしょうか。
もちろん,高齢者の体が不自由になるなら,その人の必要としている世話を個人として与えることがもはやできなくなる時が来るかもしれません。こうした分野を専門にしている養護施設に入れたほうが,よりよい世話のできる場合もあります。そうすることが必要になったとすれば,度々訪問してあげなければなりません。晩年を養護施設で送るのは,決して気持ちの良いことではないのです。
年を取り,場合によっては寝たきりになって,若いころ楽しんだ活動に携われなくなり,最終的な結末として死を迎える,というのが,いつまでも変わらない人間の運命なのでしょうか。
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どのように若返ることができますか目ざめよ! 1979 | 9月22日
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どのように若返ることができますか
年を取って死にたいと本気で思っている人はいません。これは偽りのない事実です。わたしたちは,若さから来る活力を,できるだけ長い間失わずにいたいと思います。
だれの胸の奥にも宿っているこの願望は,もう一つの基本的な事実と調和します。すなわち,人間は年を取って死ぬように造られているわけではない,という事実です。老齢と死は,望ましくないばかりか,自然なことでもないのです。
しかし,神はそのようなものとして,つまり少しの間生き,年を取って死んでゆくよう人間を創造したのではありませんか。神は,老化の過程とそれに続く死を,人の定めとされたのではないでしょうか。
神ご自身の霊感によるみ言葉からは,否,という答えが返ってきます。人間は死すべき者として造られたのではありません。また,わたしたちが現在経験しているような意味で年を取るようにさえ造られてはいないのです。老齢と死は,当初,人類とは無縁のものだったのです。
聖書の創世記冒頭の三章に記されている,神が男女を創造された記録をお読みになってください。人間は人生の当然の順序として年老いて死ぬよう造られた,と述べている箇所はどこにもありません。
むしろ,聖書の明示するところによると,老齢と死は,神の律法を破ったこと,つまり神に対する反逆の結果でした。(創世 2:15-17; 3:1-5,17-19)人類の最初の両親が神の律法に対する従順を示し続け,神に服従したままでいたとしたら,二人は今日でも生きていたことでしょう。二人は,幾千年生きてきたとしても,年を取って死ぬことのない,完全な人間であったでしょう。
間近に迫った突破口
地上に人間を創造されたときの神のお目的は,そこに完全な人類を住まわせ,パラダイスの状態のただ中で,永遠に生活させることでした。それはいまだに神のお目的です。それでイエスは,信仰を表明した,ひん死の男の人に,「あなたはわたしとともにパラダイスにいるでしょう」と言われたのです。(ルカ 23:43)イエスは,老齢と死が再び人類とは無縁のものとなる来たらんとする時代のことを念頭に置いていました。最終的には,地上に生きているすべての人が完全で活気に満ちた健康を享受し,老齢や死の問題に二度と再び責めさいなま
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