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  • 自由な民 ― しかし従順を保つ
    ものみの塔 1973 | 6月15日
    • と思うなら,あなたの福祉は会衆とつながっているのです。

      13 与えられる助言を無視する人は実際にどんなことを言っているのですか。聖書のどの教えを真剣に考慮すべきですか。

      13 もし前述のような態度を示すとしたら,その人は実際に何をしていることになりますか。その人は実際は,神は自分の会衆を導いていない,神は会衆をとおしてわたしたちに正しい道を教えていない,と言っていることになります。それは信仰の不足の表われです。わたしたちの中にそういうことを言いたいと思う人がほんとうにいますか。その人は,ヘブル書 3章16節から19節,4章11節から13節,12章1節の使徒のことばを真剣に考えるべきです。

      すべての自由は必ずしも権利ではない

      14 (イ)わたしたちは,身体的には行なう自由があるとしてもそれを行なう権利はない事柄をどんな原則によって知ることができますか。(ロ)交わりにかんする会衆の助言を無視するならどういうことにぶつかりますか。

      14 会衆がわたしたちに,ある事をしなさい,あるいはしてはならないと命令することのできない場合を考えてみましょう。わたしたちには,人から止められることはまずないという意味で自由に行なえる事柄があります。たとえば,わたしたちには自分の好む人と交わる身体的な自由があります。しかし,クリスチャンとしてはこの世と交わりをつづける権利はありません。悪い交わりは,その人自身にも,会衆内のその人の兄弟たちにも有利ではなく,また徳を高めるものでもありません。もちろん会衆は,『悪しき交際は善き風儀を害う』という原則を破った人にその責任を取らせることはできませんが,しかしいずれその人はよくない結果を刈り取るでしょう。神はすべてのおきてを施行することができ,また施行されるからです。「神は侮るべき者にあらず」― コリント前 15:33。ガラテヤ 6:7。

      15 もし“とっぴな”スタイルをするなら,だれと交わっていることになりますか。

      15 もしわたしたちが,この世の“とっぴな”スタイルの流行やこの世の物事の仕方に従いたい,あるいはそれを模倣したいと思えばできます。しかし,それは徳を高めるでしょうか。わたしたちはだれと交わっていることになりますか。おもに芸能界です。芸能界は多数者の中にあり,テレビや映画でわたしたちが見るのは彼らですから,彼らの声は多数者を代表しているように思えるかもしれません。しかし,先頭に立って世の中を腐敗させているもののひとつは何ですか。これもまた芸能界です。舞台やスクリーンでヌードや性交場面,性倒錯などを見せ,映画をいよいよショッキングで,気味の悪い,胸の悪くなるようなものにすることに力を入れています。ある映画などは,観覧中にはき気をもよおした時のために,各お客様に「遭難袋」を差し上げますと宣伝しています。

      16 もしある人が,この世的な人びとを模倣し始めたなら,その人についてどんなことを考えてみるとよいでしょうか。

      16 さて,人がもし芸能界の人びと,あるいは彼らが表現するものを好む人びとを模倣し始めたなら,どこまで行くでしょうか。彼らが服を脱げば自分も脱ぎますか。ニューヨーク市のある劇場が観客にすすめたようなこと,つまり舞台に上がって演技に参加しますか。そういうことをしたいと思う人はおそらくいないでしょう。しかし,そうした人びとが示す型に部分的に従っているなら,とどまるところはどこでしょうか。そして,彼らの態度を少しでも自分の生活に持ち込むクリスチャンは,自分の生活を汚してしまいます。したがってクリスチャンにはそのようなものを会衆内に持ち込む権利はありません。むしろそうしたものを入れないように防御する義務があります。

      17 ある行ないが良いか悪いかは,どうすればわかりますか。

      17 使徒は,わたしたちがある習慣に従うべきかどうかを決定するものをわたしたちに告げ,「各人おのが益を求むることなく,人の益を求めよ」と述べています。ひとりびとりが自分の行動を検討してみることができます。もしそれがほんとうに他の人びとを霊的に助けているなら,その人は正しく行動していると言えます。―コリント前 10:24。

      会衆の戦いを助ける

      18 現在における極めて重大な問題は何ですか。わたしたちはその問題とどのように関係していますか。

      18 この世の事物の体制が悪に染まり,堕落し,腐敗していっている現在,問題は,神の会衆にもそうしたものが侵入して会衆が堕落するかどうかということです。神の会衆は,神のみ名と義の原則をたたえる,世界唯一の組織としてその清さを保つでしょうか。これは極めて重大な問題であって,神の主権にかんする重大な論争と直結しています。悪魔が会衆に対して激しい戦いをしかけていないなどと片時も考えてはなりません。また,自分は戦いに参加していないと考えてもなりません。なぜなら,悪魔はあなたを,個々のクリスチャンを汚そうとして戦っているからです。―黙示 12:17。

      19 エホバは会衆を清く保つためにどんな手段を設けられましたか。これはわたしたちに何を要求しますか。

      19 神の会衆は聖書の預言どおり戦いに耐えるでしょう。(テモテ後 2:19)神は男子を会衆の責任ある立場に置かれています。それは会衆が清さを保ち,会衆の各成員がこれらの霊の人びとによって守られるようにするためです。ですから,この人びとが助言を与え,罪を犯している人を叱責し,あるいは反抗的な人を会衆から追放する場合にも,わたしたちすべてが協力すべきです。わたしたちは神がそのような保護のための取り決めを設けてくださっていることを喜ぶべきです。

      20 コロサイ書 3章2節の助言は,わたしたちが会衆に十分に協力するのにどのように助けになりますか。

      20 わたしたちは,『地にあるものではなく,上にあるものをかたく思いつづける』ことにより会衆に協力することができます。『地にあるもの』は多くの場合魅力のあるものです。わたしたちに与えられているこれらの事を行なう自由と,これらの事を行なう権利との相違を知るのは,最初のうちは困難かもしれません。しかし,『上にあるもの』,神のものを勉強し,黙想し,それに注意を集中するなら,わたしたちはどんな態度を取るべきかをはっきり理解することができます。―コロサイ 3:2。

      21 ある兄弟が,責任ある立場にいる人びとに正された時,あるいは叱責された時,わたしたちはどのように会衆に対する忠誠を示すことができますか。

      21 またわたしたちは,会衆が自らの清さを保ちかつ助言や懲らしめによって,罪を犯している人びとを助けるために行なっている戦いを支持することにより,神の会衆に対する忠誠を示すことができます。与えられた懲らしめはまちがっていたという気持ちを兄弟に持たせるのではなく,むしろ親切な態度でその兄弟のしていたどんなことが賢明でなかったかを示したり,責めたりして,その兄弟が,どうすれば自分の歩みを正してもっとしあわせになれるかを悟るように,助けることがたいせつです。わたしたちは,その兄弟を『正す』ための会衆内の長老たちの努力を支持することができます。(ガラテヤ 6:1)その兄弟に,自分は正しいと感じさせてはいけないのです。もしわたしたちが矯正措置に反対するようなことを言うならば,わたしたちはその兄弟のためにならないことをしているのです。聖書が述べているように,わたしたちは『心にわたしたちの兄弟をにくんで』いるのです。―レビ 19:17。

      ちがう権威のもとに置かれる危険

      22,23 コリント前書 6章12,13節の使徒のことばを説明しなさい。

      22 クリスチャンとしてのわたしたちの自由はどの程度のものか,神への従順はどこでそれを制限するかという問題に対する,もうひとつの見方があります。使徒の次のことばを考えてください。『一切のもの我に可からざるなし,されど一切のもの益あるにあらず。一切のもの我に可からざるなし,されど我は何物にも支配せられず』。使徒は食物を食べることを例にとっています。これほど明確に確立しうる権利はありません。それでもパウロは,もしある食物を食べることが会衆内の他の人びととの争いの原因となるなら,クリスチャンは進んで譲るべきであると言っています。王国の関心事の前には,また兄弟たちの利益と比較するなら,それは全く取るに足りない事柄です。パウロは,『食物は腹のため,腹は食物のためなり。されど神はこれをも彼をも亡し給わん』と述べています。―コリント前 6:12,13; 10:23。

      23 食物は食べるとなくなるもので,永続するものではありません。肉の食欲もしくは欲望を満たすことだけにふける人もまた,神により定めの時に滅ぼされます。したがって,会衆の感情を無視して,つまりそうしてはいけないという聖書の助言にまっこうから反対して,あくまでも特定の方法を固執するクリスチャンは,実際には何をしているのでしょうか。その人は,そういう態度により,つまり自分が利己的にも望んでいるある事柄を行なうことを決意する,もしくは主張することによって,ちがう権威のもとに連れてこられているのです。その人は神に対して不従順なふるまいをしているのです。ですから,その人はだれに従い仕えているでしょうか。神の敵です。その人は実際に良くない行ないのとりこになったのです。もしそういう態度を持ちつづけるなら,その人はほんとうに困った問題に陥るでしょう。

      24 「終わりの日」の危機の時代にかんするパウロのことばはだれに当てはまりましたか。そのために,わたしたちはどういうことを真剣に考えねばなりませんか。

      24 そういうわけでパウロは,エペソの監督テモテに手紙を書き送り,「終わりの日に」人びとは,「片意地な者」,「自分を愛する者」,「うぬぼれる者」,「容易に合意しない者」になるであろうと警告しています。この状態は,キリスト教世界の,クリスチャンをもって任ずる人びとの間に広く見られるようになるだろうと,パウロはテモテに警告しています。しかし,真のクリスチャン会衆自体には,こうした状態を入り込ませてはなりません。したがって,会衆内のある人がもし強情であるなら,その人はこの世の強情な人よりもさらに悪い立場にあることになります。というのは,使徒ペテロは,「審判は神の家より始まるべし」と述べているからです。そのような人は,会衆外の人よりも神に対してより大きな責任を負っているのです。その人は極めて危険な立場にいます。―テモテ後 3:1-5。ペテロ前 4:17。

      「変革」を支持しないように気をつけなさい

      25 クリスチャンは,世界をよいほうに変えようとしている人びとに加わるべきではありません。なぜですか。

      25 危険はすべての人にありますが,若い人びとにはとりわけそれが大きいと言わねばなりません。なぜかというと,いたるところで,「変革」を求める感情が高まっているからです。変革を求める人びとの多くは,堕落や不正を見,よりよいものを求めながらも,それが何であるかを知らない,正直な心の人びとであるにちがいありません。しかし,神の王国について教えられている人びと,そして神の会衆と交わる人びとは,その神権的構造について知っており,それが神のことばの示す原則と一致していることを知っています。それらの人たちは次のことに気づくべきです。つまりこの世には,義の原則とは正反対の利己主義が徹底的にしみ込んでいて,良いほうに変えることはできないということです。それを試みる理由はありません。またその人たちは,自分個人の考えに従って,あるいは世界の変革をめざして積極的に動いている人びとの考えに従って,神の会衆の変革を試みるべきでないことも,知っていなければなりません。そうすることは,この世のものであってはならない会衆の中に,この世の精神を持ち込むことになるでしょう。

      26 自分自身の考えやこの世の人びとの考えに従って会衆内に変革をもたらすことを望む人びとに対して,聖書はどのようにその危険を警告していますか

      26 神の会衆は“古風”である,あるいは少なくとも,現代的なやり方や考え方と十分に一致していないと考えて,変革を要求する危険な行為は,どんな結果を生むでしょうか。そういう態度はおそらく,会衆内である個人的「権利」を確立する試みとなって現われるでしょう。箴言の中で,賢人が自分のむすこに言っていることに注意してください。「わが子よ,エホバと王とを恐れよ。変革を支持する者たちに干渉してはならない。彼らの災厄は不意に起こるからである。変革を支持する者たちの絶滅をだれが知りえようか」― 箴 24:21,22,新。

      27 神が与える自由を行使し,それと同時に全き従順が要求されていることを認める人びとは,最後にどうなりますか。

      27 エホバは自分に従順な者たちを愛されます。エホバのことばを読み,それを黙想し,そしてその良い助言がどんなに自分にひどくこたえても,自分自身に直接に当てはめて考える人びとを愛されます。エホバはご自分に従順な者に何という自由を与えられるのでしょう。エホバは地球を汚す者たちを一掃することによって,地球の姿を一変させられるでしょう。そして時がくれば全人類は,「神の子たちの光栄の自由」に入れられるでしょう。愛情深い父と従順な子たちの関係は回復されるでしょう。従順な子たちに対する比類のない愛のゆえに,エホバは彼らの上に,尽きることのない霊的,物質的な富を永遠にそそがれるでしょう。―ロマ 8:21。黙示 11:18。

  • 『わたしは神とキリストに感謝しています』
    ものみの塔 1973 | 6月15日
    • 『わたしは神とキリストに感謝しています』

      ジョン・チャラックの経験

      エホバの証人のゾルゾル会衆に関する巡回監督の報告書をまとめていると,アフリカの太鼓のシンコペーションを加味した響きが夜のしじまを縫って流れては,かなたに消え去っていきます。ゾルゾルはアフリカ西海岸のリベリア共和国の奥地にあり,わたしの故郷,カナダのアルバータからは何千㌔も離れています。わたしは仲間のクリスチャンの兄弟たちに仕えるため,どのようにしてここにやって来たのでしょうか。

      事の始まりは約36年前にさかのぼります。1937年のこと,「黄金時代」と題する雑誌(現在の「目ざめよ!」誌)が1冊わたしの家に持ち込まれました。その雑誌に載せられていた「諸国民の希望」と題する記事を読んだわたしは,新秩序に対する視野を開かれ,新しい希望で満たされました。その記事は,大学で勉強して科学者になりたいと考えていたわたしの青春の夢を消し去り始めました。今や,神の王国に関する考えと地上で永遠に生きる希望がわたしの思いをすっかり占めてしまいました。そうした新しい真理のゆえにわたしの心は喜びでおどり,わたしは王国の良いたよりを宣べ伝える点でイエス・キリストや使徒たちの手本に従いたいという切実な願い,燃えるような願いをいだきました。

      数日後,わたしはある家のパーティーに出席しました。信じがたいことでしたが,その家でもう1冊の「黄金時代」を見つけたのです! わたしはすぐさまそれを手にしました。そして,その晩のあとの時間中,他の客の陽気な騒ぎをよそに,「ハルマゲドン」と題する記事を繰り返し読みふけりました。その記事の中では,残されているわずかな時間内に良いたよりをふれ告げることの重要性が強調されていました。このきわめて重要なわざを,どのようにして始めればよいのでしょうか。わたしを教えてくれる人はだれもいませんでした。わたしは非常な動揺を感じました。そして,ハルマゲドンの来る前にエホバへの奉仕に携われるよう,道を開いていただきたいと,涙ながらにエホバに何度も祈りました。

      1年半後,わたしたちは,エホバの証人の小さな会衆が設立されていた土地に移りました。初めての集会に出席するのに,片道6.5㌔近くの道のりを歩かねばなりませんでした。集会中,聖書の公開講演を宣伝する取り決めが発表されました。だれかその活動に参加したい人がいますか。とっさに,わたしは手を上げました! 後刻,指定された場所に着いてみると,証人たちのグループは出かけたあとでした。ほかに来る予定の人がい

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