ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • エホバに最上のものを捧げる
    ものみの塔 1979 | 8月15日
    • エホバに最上のものを捧げる

      「『こうかつに振る舞って,自分の群れの中に雄の動物があるときにも,誓約を立ててエホバに傷ついたものを犠牲として捧げる者は呪われる。わたしは大いなる王なのである』と万軍のエホバは言われた。『わたしの名は諸国民の間で恐れを抱かせるものとなる』」― マラキ 1:14,新。

      1 人間は本当に何かをエホバに捧げることができますか。

      不完全な人間が偉大な創造者エホバに何かを捧げるなど,考えることさえ奇妙に思えないでしょうか。全宇宙に,まだ神のものとなっていないものは一つもないからです。エホバはそのみ言葉の中で次のように宣言しておられます。「銀はわたしのもの,金もわたしのもの」。(ハガイ 2:8,新)「森林のすべての野生動物はわたしに属する……千の山々の獣もである。わたしは,山々にいる翼を持つすべての生き物をよく知っている。そして原野の動物の群れはわたしと共にいる。たとえわたしが飢えたとしても,わたしはそれをあなたに言わない。産出的な地とその満ち満ちたさまはわたしのものだからである。わたしが力の強い雄牛の肉を食べるだろうか。そして雄やぎの血を飲むだろうか」。(詩 50:10-13,新)確かにエホバ神はだれからも贈り物をもらう必要はありません。というのはエホバは完全な方だからです。エホバは自存する方なのです。

      2 ダビデはエホバへの自発的な捧げ物についてどんなことを認めていましたか。

      2 ユダヤ人エッサイの子で,モーセの律法を教えられていた若者ダビデは,全地がエホバの所有であることを知っていました。(出エジプト 19:5)後年,エルサレムに建てられる神殿のために捧げ物をするにあたって,ダビデは至高者に次のような言葉で祈りをささげました。「私は何者なのでしょう。私の民は何者なのでしょう。このように自発的な捧げ物をする力を保っていたとしても。すべてのものはあなたから出ていますので,あなたご自身の御手から受けて,あなたに献じたのです。わたしたちの神エホバよ,あなたの聖なるみ名のためにあなたに家をお建てしようと私たちが用意したこのすべてのおびただしいもの,これはあなたのみ手から出たものですし,これは皆あなたのものです」― 歴代上 29:14,16,新。

      3 (イ)エホバへの供え物についてどんな質問が生ずることが考えられますか。(ロ)それらの質問に対して聖書はどのように答えていますか。

      3 ですから,わたしたち人間はどんな方法によっても全能者を富ませることはできない,とダビデは認めていました。確かに,わたしたちが何を捧げようと,それは「あらゆる良い賜物,またあらゆる完全な贈り物」の源からいただいたもののほんの一部をお返しするにすぎません。(ヤコブ 1:17)ということは,創造者に捧げ物をすることには価値がないという意味でしょうか。創造者は献身的なしもべたちの捧げ物を,にべもなくはねつけるのでしょうか。神の言葉はそうではないと答えています。エホバ神は謙そんな崇拝者たちに,供え物を携えて来ることを勧めておられます。詩篇 96篇8節(新)には次のように書かれています。「エホバにそのみ名に属する栄光を帰せよ。供え物を携え,その中庭に入れ」。

      4 エホバにとって喜ばしい供え物はどんなものですか。

      4 むろんエホバは,感謝の心から捧げられる優れた捧げ物をお望みになりました。それらの犠牲は,祈りをこめて注意深く準備されただけでなく,無私の気持ちで捧げられたものでもありました。例えば,モーセの律法が効力を有していたとき,いい加減な動物を幕屋の中庭の門のところへ連れて来たイスラエル人が,神から好意的な是認を得ることは期待できませんでした。律法は次のようになっていました。「人が,誓約を果たすため,あるいは自発的な捧げ物として,酬恩祭の犠牲をエホバに差し出すような場合,それは,是認を得るためには,牛の群れもしくは羊の群れの中の健全なものであるべきである。その身には何の欠陥もあるべきではない。めしいのもの,破砕のあるもの,切り傷のあるもの,こぶのあるもの,かさぶたに覆われたもの,白癬のできたもの,これらのいずれをもあなたがたはエホバに差し出してはなら(ない)」― レビ 22:21,22,新。

      5 穀物の捧げ物に関して律法は何を規定していましたか。

      5 穀物の捧げ物について言えば,それは上等の粉でなければなりませんでした。(レビ 2:1,4; 6:14,15。民数 15:4)そういう条件があったので,粗い粉,よくふるいにかけられていない粉は認められませんでした。聖なる方エホバへの捧げ物は,最善のものしかふさわしくありませんでした。

      6 イスラエル人の捧げる犠牲が受け入れられるかどうかは,心の動機がどのように関係していましたか。

      6 エホバに受け入れられる捧げ物をするための別の重要な条件は,正しい動機を心に抱いていることでした。創造者を喜ばせたいという願いを心に深く抱いていなければ,イスラエル人の捧げる犠牲はむだになりました。このことが次の言葉の中でどのように強調されているかに注目してください。「『おびただしいあなたの犠牲は,わたしに何の益になろう』とエホバは言われる。『雄羊の全焼の捧げ物も肥え太った獣の脂ももう十分である。わたしは若い雄牛や雄の小羊や雄やぎの血を喜びとはしなかった。あなたがたがわたしの顔を見るために入って来つづけるとき,このことをあなたがたの手から要求したのはだれか,わたしの中庭を踏みつけることを。無価値な穀物の捧げ物をこれ以上持って来ることをやめよ。香 ― それはわたしにとって憎悪すべきものである。……あなたがたの新月とあなたがたの祭りの時節を,わたしの魂は憎んだ。わたしにとってそれらは重荷となり,わたしはそれを負うことに飽きた。そしてあなたがたがたなごころを伸べるとき,わたしはあなたがたから目を覆う。たとえあなたがたが多くの祈りをしても,わたしは聴いてはいない。あなたがたの手は,流血で満たされている』」。(イザヤ 1:11-15,新)真の献身と寛大な精神が欠けている場合,外面だけの崇拝形式は,神の恵みを買収するためのわいろに似ていました。それらは全く受け入れられないものでした。

      エホバに対する供え物

      7 わたしたちが今日,動物の犠牲を捧げないのはなぜですか。

      7 わたしたちイエス・キリストの弟子は,イスラエル人と違い,物質でできた祭壇に犠牲を供えることはしません。そのような捧げ物を要求した律法契約は,刑柱上におけるイエスの死に基づいて解消されました。(コロサイ 2:13,14)そこで,わたしたちはどんな犠牲を捧げることができるか,という質問が生じます。

      8 使徒パウロはローマ 12章1節に,犠牲について何と書いていますか。わたしたちは彼の言葉をどのように理解すべきですか。

      8 キリストの使徒パウロは,霊によって油そそがれた信者たちを次のように励ましました。彼らは自分の肉の体を捨て去り,死人の中からよみがえらされるときに栄光ある霊の体を与えられることになっていました。「兄弟たち,わたしは神の情けによってあなたがたに懇願します。あなたがたの体を,神に受け入れられる,生きた,聖なる犠牲としてささげなさい。これがあなたがたの理性による神聖な奉仕です」。(ローマ 12:1)こうして彼らは,自分のエネルギーと能力を創造者への奉仕に用いるよう励まされました。身体の器官は,人が用いて話したり行動したりすることのできる道具です。したがって『彼らの体を生きた犠牲としてささげる』には,それらのクリスチャンは,『すべての事を神の栄光のためにする』ことに活発でなければなりませんでした。(コリント第一 10:31)その犠牲が「聖」であるためには,道徳的,霊的清さを保つ必要がありました。偽善のない愛を動機として行動するときにのみ,そのように体を捧げることは「神に受け入れられる」ものとなりました。(コリント第一 13:3)神が自分たちに示してくださった深いあわれみに照らしてみれば,態度や言葉や行動において神に全く献身した生活を送るのは理の当然だとして,慎重な考慮の末にそうした生活を選んだ人は,「理性による」神聖な奉仕を捧げていたことになります。わたしたちも,現在の希望が天のものであるか地のものであるかにかかわりなく,魂をこめて神への奉仕を行なえるのではないでしょうか。

      9 ヘブライ 13章15,16節にはわたしたちに対するどんな励ましが与えられていますか。

      9 ヘブライ人への手紙からも,受け入れられる奉仕についてさらに学ぶことができます。13章15,16節には次のように書かれています。「[キリスト]を通して常に賛美の犠牲を神にささげましょう。すなわち,そのみ名を公に宣明するくちびるの実です。さらに,善を行なうこと,そして,他の人と分かち合うことを忘れてはなりません。神はそのような犠牲を大いに喜ばれるのです」。―ホセア 14:2と比較してください。

      10 「くちびるの実」には何が含まれますか。この点について,わたしたちはどんなことを自問してみるとよいでしょうか。

      10 わたしたちが「くちびるの実」を捧げることには,マタイ 24章14節の,「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう」という言葉の成就にあずかることも含まれています。この重要な宣べ伝える業に,わたしたちは本当に最善を尽くしているでしょうか。証言の機会を捕らえることに熱心でしょうか。クリスチャンとしてのわたしたちの生活は,「くちびるの実」が,受け入れられる賛美の犠牲となるほど立派なものでしょうか。―ローマ 2:21,22。

      11 クリスチャンの集会に関するわたしたちの態度を調べてみるのはなぜ有益ですか。

      11 クリスチャンの集会で公然と自分の考えを言い表わすことも,わたしたちが捧げる犠牲の一部です。この犠牲を捧げるためには,仲間の信者が崇拝のために集まるとき,自分も出席する必要のあることは言うまでもありません。わたしたちは,同様の価値ある信仰を抱く他の人々と共に過ごすことを切に望むでしょうか。それとも,兄弟たちと過ごせる時間を,必要もないのに他の活動や関心事に取られてしまいますか。詩篇作者の手本に倣うのは良いことです。詩篇作者は,仲間の崇拝者たちと共にエホバ神と交わりたいという切なる願いを,鹿が水を慕い求めることになぞらえています。(詩 42:1,2)「生ける水の源である」エホバなくしては生きられないことを,わたしたちは本当に理解しているでしょうか。―エレミヤ 2:13,新。

      12,13 どうすれば,クリスチャンの集会から最大の益を得られますか。

      12 集会に出席している間に,わたしたちは確かに最大の益を得たいと思います。霊感による次の助言に従うことに努めるなら,それを得ることができます。「互いのことをよく考えて愛とりっぱな業とを鼓舞し合い……互いに励まし合い,その日が近づくのを見てますますそうしようではありませんか」。(ヘブライ 10:24,25)裁きを執行するエホバの大いなる日は必ず来るのですから,兄弟たちを強め励ますのにどうすればよいか,祈りをこめて熟考すべき十分の理由があるのではないでしょうか。その日が来るとき,一人でも是認されない状態にあることがないよう,わたしたちは切に望んでいます。(ルカ 21:34-36)わたしたちの口から出る言葉は,兄弟たちの霊的福祉を心から気遣っていることを示すでしょうか。わたしたちは集会での注解を通して愛を,つまり他の人々の永遠の福祉に対する私心のない関心を示すという点で貢献しているでしょうか。わたしたちの言うことは,りっぱな業を続けるように,「良いたより」をふれ告げることに常に熱心であるように,また日常生活のあらゆる面で常に模範的であるように,すべての人を励ますものでしょうか。―テトス 2:1-14と比較してください。

      13 「愛とりっぱな業」に他の人々を鼓舞するとき,わたしたちは信仰と一致した業の重要さを自分の思いと心に銘記して,自分をも奮起させることになります。他の人々を鼓舞することによって自分をも吟味し,クリスチャンとしての生活と活動の向上に努めることになりますから,自分自身にも極めて有益な影響があります。また他の人たちの言うことに耳を傾け,そして聖書の励ましに従うなら,「みことばを行なう者」の幸せを得ます。―ヤコブ 1:22-25。

      14,15 わたしたちの「犠牲」には,霊的な施しのほかにどんなものが含まれますか。

      14 ヘブライ人への手紙は,他の人々の必要にこたえて分け合うことを勧めています。この手紙を受け取る人々は次のように言われました。「啓発を受けたのち数々の苦しみのもとで大きな闘いに耐えたさきの日々をいつも思い出しなさい。ある時には,非難にも患難にも,劇場にあるかのようにさらされ,またある時には,そうした経験をしている人びととともに分かち合う者ともなりました。あなたがたは,獄にある人びとに思いやりを示し,また自分の持ち物が略奪されても,喜んでそれに甘んじたのです。自分たちに,さらに勝った,永続する所有物のあることを知っているためでした」。(ヘブライ 10:32-34)わたしたちもこのように,苦しんでいる人々に同情を示し,助けを差し伸べるでしょうか。

      15 神のしもべたちの境遇はかなり異なっています。非常に貧しい人たちもいれば,悲しい憂うつな気持ちになっていて,慰めと交わりを切実に必要としている人たちもいます。深刻な個人的問題をかかえて失意している人たちもいるかもしれません。正しい人が捨て去られることのないようにエホバ神がご配慮くださるのは事実です。(詩 37:25)しかしわたしたちは,神に用いられる者として,思いやりを示し助けを差し伸べる責任を個人的に感ずるべきではないでしょうか。この点にむとんちゃくであることは,小さな問題ではありません。使徒ヨハネは次のように書いています。「だれであろうと,生活を支えるこの世の資力があるのに,自分の兄弟が窮乏しているのを見,しかもその兄弟に向かって優しい同情の戸を閉じるなら,その者にはどんな意味で神の愛が残っているでしょうか。子どもらよ,ことばや舌によらず,行ないと真実とをもって愛そうではありませんか」― ヨハネ第一 3:17,18。

      供え物を携えて来るように勧められている理由

      16,17 エホバはなぜわたしたちに「犠牲」を捧げることを勧められますか。

      16 霊の犠牲を捧げる点で忠実であるためには,そうすることをエホバ神がわたしたちに勧めておられる理由を理解する必要があります。わたしたちの天の父はすでに,わたしたちの心の奥底にある思いや態度をご存じです。しかし神は,わたしたちが他の人々に積極的に善を行なうことによって,ご自分への愛を示すことを望んでおられます。親切や寛大さを示す点でご自分のしもべたちがご自分に似ることを願っておられます。(マタイ 5:43-48)これは父が人間をご自分に引き寄せる手段になります。なぜそうなるのでしょうか。他の人々がわたしたちの賞賛に値する生き方を見て,真の幸福は神のご意志を行なうことから生まれると認めるようになる可能性があるからです。―マタイ 5:16。

      17 エホバ神は人間をおつくりになりましたから,人間にとって最善の益となるものは何かをご存じです。このことも,エホバ神がわたしたちに供え物をご自分のところへ携えて来ることを勧めておられる理由の一つです。寛大な精神は,現在における真の幸福に寄与するばかりでなく,思いと心の平安を得る助けにもなります。聖書には,「受けるより与えるほうが幸福である」とあります。(使徒 20:35)さらにわたしたちは,天の父が,現在においても永遠の将来においても,豊かに報いてくださることを確信できます。神のみ子はこうおっしゃいました。「あわれみの施しをするさい,あなたの右の手がしていることを左の手に知らせてはなりません。あなたのあわれみの施しがひそかになされるためです。そうすれば,ひそかに見ておられるあなたがたの父が報いてくださるのです」。(マタイ 6:3,4)「あなたがごちそうを設けるときには,貧しい人,かたわ,足なえ,盲目の人などを招きなさい。そうすればあなたは幸いです。彼らにはあなたに報いるものが何もないからです。あなたは義人の復活のさいに報いを受けるのです」― ルカ 14:13,14。

      18 わたしたちの施しは実際にどのようなものであるべきですか。なぜですか。

      18 ですからわたしたちは犠牲に関して包括的な見方をし,集会で,また「良いたより」を他の人々に伝えるときに,そして態度や言葉や行ないにおいて,そうです,生活のあらゆる分野で最上のものを捧げる決意を抱かなければなりません。こういう重要な事柄に関して不熱心であるべきではありません。エホバの是認と,命が与えられるかどうかがかかっています。ですからわたしたちは,聖書の次の約束に調和して生きたいものです。「神は不義なかたではないので,あなたがたがこれまで聖なる者たちに仕え,いまなお仕えつづけているその働きと,こうしてみ名に示した愛とを忘れたりはされない」― ヘブライ 6:10。

  • 清さを保って供え物を捧げる
    ものみの塔 1979 | 8月15日
    • 清さを保って供え物を捧げる

      「エホバにそのみ名に属する栄光を帰せよ。供え物を携え,その中庭に入れ。聖なる飾りを着けてエホバに身を屈めよ」― 詩 96:8,9,新。

      1,2 神の民はなぜ清くなければなりませんか。イスラエル人はこのことをどのように心に銘記させられましたか。

      エホバの神聖さ,純粋さ,清さは,その民にも純粋さを保つことを要求します。(ペテロ第一 1:14-16)イスラエル人はこの事実を,モーセの律法の条項によって心に深く銘記させられました。彼らは周囲の国々の,不道徳で低劣な習慣に染まらないように,またできれば死体その他自分の身を汚すものには一切触れないように,清くない動物は食べないように,しなければなりませんでした。―レビ 11:4-8,10-20,24,25; 18:3-24。

      2 遠征の際にはイスラエル人は,陣営の中をいつも清潔に保たねばならない,という命令の下にありました。律法は,「あなたの陣営は聖なるものでなければなりません。あなたのうちに[エホバが]見苦しいものを何もご覧にならず,またあなたに伴うのを決してやめてしまわれることのないためです」と命じています。(申命 23:14,新)もしあるイスラエル人が何かのことで身を汚したなら,その人は「自分の衣を洗う」ことが必要でした。また「晩まで汚れたもの」となりました。(レビ 11:40,新)洗うことでさえ十分ではなかったのです。ヘブライ人の日の数え方によると日没に日が改まりますが,その時に初めてその人はエホバのみ前に再び正しい立場を取ることができました。イスラエルが荒野をさまよっていたときに張られた天幕はおびただしい数に上りましたから,神がお定めになった清潔の規準を守ることは小さな問題ではありませんでした。

      3 清潔に関する事柄において,アロン系の祭司たちにはどんな責任がありましたか。

      3 受け入れられる犠牲を捧げるためには,イスラエル人は宗教的に清くなければなりませんでした。(レビ 15:31)神のお定めになった清潔に関する規準を守って自ら清さを保ち,また仲間のイスラエル人をも,神に是認される捧げ物を捧げるにふさわしい状態にあるよう助けることは,祭司たちの務めでした。―マラキ 2:7。

      4 エホバのご要求に従っていなかったイスラエル人の犠牲を,エホバ神はどのようにご覧になりましたか。

      4 正しい振る舞いに関する神の戒めを無視するなら,イスラエル人の捧げる犠牲は無意味なものになるばかりか,エホバ神にとって本当にいとわしいものになりました。聖書には次のように述べられています。「邪悪な者たちの犠牲はエホバにとって忌むべきものである。しかし廉潔な者たちの祈りは彼にとって喜びである」。(箴 15:8,新)「雄牛をほふる者は人を打ち倒す者のようである。羊を犠牲とする者は犬の首を折る者のようである。供え物を捧げる者は怪しげな言葉をもって祝福を述べる者のようである。彼らはまた,自分自身の道を選んだ者であり,その嫌悪すべきものを彼らの魂は喜びとした」― イザヤ 66:3,新。

      5 わたしたちはなぜ今日エホバのみ前における自分の立場を考えてみるべきですか。

      5 神がイスラエルにお与えになった律法に含まれている義の原則は変わっていません。それらの原則はあらゆる時,あらゆる状況,そしてあらゆる状態に当てはまります。ですから,エホバのクリスチャン証人は今日,神のみ前における自分の立場を真剣に考えなければなりません。ひとりびとり,次のように自問してみるのは良いことです。『わたしは精神的に,道徳的に,肉体的に,霊的に,いつも清くあるように努力しているだろうか。クリスチャン会衆の清さに ― よこしまで不潔な世代と比較するとき,クリスチャン会衆を際立たせるものとなる清さに,個人的に貢献しているだろうか。自分の家の,そしてまた身体を含む他の所有物の手入れの仕方や用い方は,エホバの道にしっかり従っていることを示しているだろうか。自分の生き方全体がそうだろうか』。これらの質問に肯定的な答えができるなら,それはわたしたちが,「肉と霊のあらゆる汚れ」に警戒しなさいという,霊感による勧めを守るよう努力している証拠です。―コリント第二 7:1。

      律法の他の条項から,受け入れられる犠牲について学ぶ

      6 律法はそそぎ油についてどんなことを定めていましたか。

      6 モーセの律法に含まれている,そそぎ油に関する規定も,神聖さに関する神の規準を守ることの大切さを明らかにしています。そそぎ油の特殊な調合法を教えられたとき,モーセはその油の用途を左右する厳重な規則を与えられました。その内容は次の通りです。「あなたがたの幾世代もの間,これはわたしに対して聖なるそそぎ油として保たれる。それは人の肉にすり込まれず,またその配合をもってそれに似たものを作ってはならない。それは聖なるものである。それは,あなたがたにとって聖なるものとして保たれる。それに似た塗り油を作り,それをよそ者に用いる者はすべてその民の中から絶たれる」。(出エジプト 30:31-33,新)そそぎ油の聖なる目的を尊重しないことは死罪に当たりました。

      7 そそぎ油に関する神の命令から,わたしたちはどういう重要な教訓を学び取ることができますか。

      7 このことからわたしたちは重要な教訓を得ます。聖書はその油がエホバの聖霊を象徴するものであることを明らかにしています。(ゼカリヤ 4:2-6と比較してください)偉大なる王兼祭司であるイエス・キリストは,そそぎ油をそそがれたのではなく,聖霊で油そそがれました。(マタイ 3:16,17。ルカ 4:18。ヘブライ 1:8,9)ですからわたしたちは,霊の導きに従うよう最善を尽くして,神の霊に心から最高の敬意を払うべきです。このことには,霊を軽んじない,言い換えれば『霊を憂えさせない』ように,正しい良心を保つことも含まれます。(エフェソス 4:30)また,エホバ神はその霊によってクリスチャン会衆を築き上げておられるのですから,成し遂げられる事柄に関し人間に名誉を帰することがないように気をつける必要があります。(コリント第一 3:5,6)霊感による預言に対する固い信仰も,その預言を可能にした霊を正しく受け止めていることの動かない証拠です。(ペテロ第二 1:21)わたしたちの言葉や行動は,わたしたちが「新しい天と新しい地」を待ち望んでいること,またこのすばらしい希望をできる限り多くの人が学ぶように願っていることを示すものでしょうか。―ペテロ第二 3:13,14。

      8 律法は香についてどんな指示を与えていましたか。

      8 イスラエルに与えられた神の律法には,そそぎ油の場合と同じく香についても明確な指示が与えられています。香を調合する際に用いるべき材料と方法をあらまし述べたあと,聖書はさらにこう言います。「それはあなたがたにとって極めて聖なるものとなるべきである。また,この配合で作る香を,あなたがたは自分のために作ってはならない。あなたがたにとって,それはエホバに対して聖なるものとして保たれる。だれでも,そのにおいを楽しむためにそれに似たものを作る者は,その民の中から絶たれねばならない」。(出エジプト 30:34-38,新)こうして聖なる香の乱用は厳重に禁止されました。わたしたちはこのことから何を学べるでしょうか。

      9 (イ)詩篇 141篇2節と啓示 5章8節から,香の意味について何を学ぶことができますか。(ロ)祈りの特権を認識していることをどのように示せますか。

      9 香は,神の忠実なしもべたちが捧げる,受け入れられる祈りを表わすものでした。この事実は詩篇 141篇2節(新)に示されています。「わたしの祈りがあなたの御前に香として整えられますように。わたしのたなごころを上げることが夕べの穀物の捧げ物として」。また啓示の書(5:8)にも,「その香は聖なる者たちの祈りを表わしている」と書かれています。祈る特権を高く評価することはなんと重要なのでしょう! わたしたちはこの認識を,神のご意志に自分の願いを一致させて絶えず祈ることにより示すことができます。(ヨハネ第一 3:21,22; 5:14,15)自己中心的な,間違った動機から捧げられる祈りは,香の誤用にたとえられ,わたしたちの天の父に好意をもって聞き届けられることはないでしょう。―ヤコブ 4:3。

      10 だれが会衆を代表して祈れるかについて,聖書はどのような助言を与えていますか。

      10 祈りは真の崇拝の非常に重要な部分ですから,会衆を代表して祈る人は模範的な人でなければなりません。使徒パウロはテモテに対して,霊感による次の助言を与えました。「わたしはどの場所でも男が祈りをなし,忠節な手を挙げ,憤りや議論から離れているように望みます」。(テモテ第一 2:8)神と人とに対する不忠節な行為で汚れていない人,悪感情を抱かない人,そういう人は会衆を正しく代表することができます。ほかの人がわたしたちのためにエホバ神に祈願しているときには,わたしたちは祈りの重要さにふさわしく心をほかにさまよわせないように努めましょう。

      11,12 (イ)誓約とは何ですか。(ロ)律法によると,誓約を履行しないことはどれほど重大なことですか。

      11 犠牲を捧げる取り決めと密接な関連があったのは,誓約に関する律法の条項でした。「特別の誓約をするため,焼燔の捧げ物でも,犠牲でも……エホバに火による捧げ物を捧げなければならない」と,イスラエル人は命令されました。(民数 15:3,新)神に恵みと助けをこいねがうための誓約がたくさんなされました。自発的に誓約をする者は,至高者が願いを聞き届けてくださるならという条件で,ある特別の事柄を行なう義務,あるいは普通なら携わる権利のあるなんらかの活動を差し控える義務を自分に課しました。

      12 実質的には,誓約には宣誓の意味がありました。誓約を完全に果たさないことは重大な問題でした。律法の次の言葉からもそのことはうかがえます。「あなたの神エホバに誓約を立てる場合,あなたはそれを果たすのに遅くあってはなりません。あなたの神エホバは必ずあなたにそれを要求され,それはまさしくあなたの側の罪となるからです。しかし,誓約を立てない場合には,それはあなたの罪にはなりません」― 申命 23:21,22,新。

      13 誓約に関する神の律法に調和して,クリスチャンであるわたしたちの言葉は,どのようであるべきですか。

      13 このことからわたしたちが学べる原則は,わたしたちの天の父は,わたしたちが生活のあらゆる面において正直であり,方正であることを期待しておられるということです。わたしたちは,「わたしの口の述べる事柄と,わたしの心の黙想とがあなたのみ前で,快いものとなりますように。ああ,わたしの岩,また,わたしを受け戻す方であるエホバよ」と述べた詩篇作者の願いを自分の願いとしなければなりません。(詩 19:14,新)もしそのようであれば,わたしたちはキリストの弟子ヤコブが,「あなたがたの,はい,は,はいを,いいえ,は,いいえを意味するようにしなさい。あなたがたが裁きのもとに倒れることのないためです」と諭したその諭しを守っていることになります。(ヤコブ 5:12)そうです,わたしたちの言葉は,署名のある書類と同じほど有効なものであるべきです。あの人の言うことは本当に確かで信頼できる,と人から思われるようでなければなりません。エホバはご自分のしもべたちが「おのおの隣人に対して真実を語る」ことを期待しておられますから,真実を語ることや正直である点で欠けている人は,自分の供え物を至高者が好意をもって見てくださると期待することはできません。

      14,15 (イ)祭りの取り決めについて律法はどのように説明していましたか。(ロ)それらの祭りは今日行なわれるクリスチャンの大会に似ていますか。コリント第一 5章7,8節はこのことに関して何を示していますか。

      14 わたしたちが律法の述べるところを熟考すべき,クリスチャンの活動分野がもう一つあります。エホバはご自分の民イスラエルに,三つの祭りを年ごとに行なうことをお命じになりました。イスラエル人の男子は一人残らずそれらの祭りに出ることを求められていました。(申命 16:16)このことは多くの人にとって,家を離れた不便を忍びながら相当長い旅をすることを意味しました。今日わたしたちは毎年二つか三つの大会に出席しますが,それにはある程度の犠牲を払うことが必要かもしれません。わたしたちは,兄弟たちとの交わりや,豊かに備えられる霊的食物を楽しみたいという気持ちで,大会に出席するのに必要な努力を払うでしょうか。

      15 これにはもちろん,神の民の大会の価値を認識することだけでなく,さらに多くの事が関係しています。なぜでしょうか。わたしたちには,イスラエル人と違って,特定の日と祭りを守らなければならないという制約は課せられていないからです。(コロサイ 2:16,17)使徒パウロは次のように書いています。「古いパン種を除き去りなさい。あなたがたは酵母を持たない者なのですから,それにふさわしく新しい固まりとなるためです。実に,わたしたちの過ぎ越しであるキリストはすでに犠牲にされたのです。ですから,古いパン種や悪と邪悪のパン種を用いず,誠実さと真実さの無酵母パンを用いて祭りを行なおうではありませんか」。(コリント第一 5:7,8)イエス・キリストは,過ぎ越しの子羊の実体として,ただ一度だけ犠牲にされました。したがって,クリスチャンとしてのわたしたちの全生涯は,無酵母パンの祭りに例えることができます。わたしたちには,自分個人と会衆の清さを保つために,罪深い事柄を進んで除く気持ちがあるでしょうか。わたしたちの奉仕が神に受け入れられるものであるためには,神の義の戒めを日々守ることが絶対に必要です。

      エホバがわたしたちにもっておられる深い関心

      16 (イ)西暦前5世紀に,エホバはだれを通して強い忠告をお与えになりましたか。(ロ)当時,支配に関する状況はどんなものでしたか。

      16 エホバがわたしたちに捧げ物をもって来ることを勧めておられるのは,ご自分の益のためではなく,むしろわたしたちの永遠の福祉のためですから,何がわたしたちの供え物を受け入れられるものにするかについてエホバの親切な警告に注意を払うのは良いことです。西暦前五世紀に,エホバはこのことに関し,エホバを崇拝すると公言していた人々に,預言者マラキを通して強い忠告をお与えになりました。当時はペルシャ世界強国が支配していました。かつて多くの弱小国によって支配されていた地域は,ペルシャ王を代表する総督たちのいる州の統治下にありました。その総督たちが帝国の支配を維持し,国庫に納められる税金を徴収できるように,それらの役人には,おのおのの州の市民に対する生殺与奪の権が与えられていました。そういう強大な権限を総督が有していたので,市民のほとんどは税金を納め,総督のために余分の贈り物さえ持って来るほどでした。総督の不興を買って自分の命を危険にするようなことは望まなかったのです。

      17 マラキの時代に,イスラエルの民と彼らの祭司たちは,エホバに受け入れられる供え物を捧げるという点で,どのように欠けていましたか。

      17 こういう背景に照らしてみると,マラキを通してエホバの言われたことが,いかに適切であったか理解できます。至高者はイスラエル人に抗議されました。人々が盲の動物やびっこの動物,病気の動物を携えて来,また祭司たちがそういう欠陥のある捧げ物を受け取ることがいかに罪深いことであるかを,至高者はマラキを通して指摘し,次いで挑戦を投げかけられました。「それ[あなたの供え物]を,どうか総督のもとに携えて行け。あなたをねんごろに迎えるであろうか」。(マラキ 1:7,8,新)イスラエル人は,大して想像力を働かせなくても,人間である総督に対してそのようなことをすれば望ましくない結果になる,ということはすぐにわかりました。ではどうして偉大な王エホバの是認を受けることが望めるでしょうか。それはとても不可能なことでした。「ゆえに今,どうか,神の顔を和めて,わたしたちに恵みが示されるようにせよ」というマラキの励ましに従って行動することこそ,彼らにとって最善の益となることでした。(マラキ 1:9,新)エホバの戒めに従って行動することによってのみ,神の恵みを取り戻すことができました。

      18 クリスチャンもどのようにマラキの時代のイスラエル人と同じ失敗を繰り返す恐れがありますか。

      18 今日わたしたちは,聖書に記述されている教訓的な例から益を得ているかどうか,確かめてみなければなりません。(ローマ 15:4)実際には利己的な益を追い求めていながら,アナニアとサッピラのように,寛大な贈り物をしているふりをすることはできません。(使徒 5:1-11)他の人々を物質的に霊的に援助するのに必要なものがほとんど何も残らなくなるほど,自分のエネルギーや資産や能力を自分の快楽のために用いるのは,妥当ではありません。これはエホバに対して,『さあ,残り物を差し上げます』と言うのに似ています。それは侮辱ではないでしょうか。そういう名ばかりの奉仕を神が好意的に見てくださることを,わたしたちは本当に期待できるでしょうか。わたしたちの生き方全体,日々の生活,態度,動機などが,エホバに対するわたしたちの捧げ物と結びついていることは明らかではありませんか。わたしたちはすべての面で清さを保たねばなりません。

      19 自分が最善のものを捧げているかどうかを見定めるのに,どんなことが役立ちますか。

      19 イスラエル人と同じくわたしたちの場合も,『各人の手の供え物は,エホバの祝福に応じたもので』ありますように。(申命 16:17,新)それで天の父がわたしたちに与えてくださった祝福を,一つも見逃すことなく,感謝の念を抱いて数え上げてみましょう。そうすれば,わたしたちはそれぞれ自分がエホバからいただいたものに応じて捧げ物をしているかどうかを,見定めることができます。エホバが,わたしたちの能力をご存じでありながら,わたしたち各自が何を捧げるべきかを明確に説明しておられないということは,なんとすばらしいことでしょう。エホバはわたしたちが心から感謝を表わすようにしてくださっているのです。ですからわたしたちはエホバにふさわしいもの,つまり最善のものを捧げたいと思うのではないでしょうか。それ以下のものでは十分とは言えません。では,わたしたちが持っているものをすべて与えてくださった方に,わたしたちの最善のものを捧げるようにしましょう。

      [25ページの図版]

      油(エホバの霊)

      香(受け入れられる祈り)

      焼燔の捧げ物(全き献身)

      無酵母パン(清い生涯)

  • エホバの栄光のために建てる
    ものみの塔 1979 | 8月15日
    • エホバの栄光のために建てる

      神への奉仕に捧げた生涯の晩年に至ってダビデは次のように感嘆の言葉を発することができました。「ああ,エホバよ,偉大さと力強さと麗しさと卓越性と尊厳とはあなたのものです。天と地にあるものは皆あなたのものだからです」。ダビデは愛あるこの神が地上のご自分のしもべたちのため常に霊的,物質的必要物の両方をいかに備えてくださるかを認識できました。ご自分の民イスラエルのために備えをされたエホバの愛ある親切に喜び,また感謝して全国民が,エホバの崇拝の栄光ある神殿の建立を目ざし,こぞって寄付を携えて来ていました。人々は『自発的な捧げ物をしたことを歓びました。彼らが全き心をもってエホバに自発的な捧げ物をしたからです』。この国民すべての態度は,ダビデが今や表現した通りのものでした。「それで今,ああ,私たちの神よ,私たちはあなたに感謝し,あなたの麗しいみ名をたたえております」― 歴代上 29:9-13,新。

      この20世紀末の何十年間においても,わたしたちにはエホバに感謝すべき多くの事柄があります。エホバの霊的な祭壇に捧げ物をする時,わたしたちは幸福です。そしてエホバの崇拝のために携えて来た物質的な捧げ物のゆえにも,エホバはわたしたちを祝福されました。世界各地に何千とある明るい,清潔な王国会館は,このような建物の建設資金を供給したエホバの証人の寛大さを証しするものです。ものみの塔協会も,同法人がローンの取決めによりこのような建設計画の実現を多くの場合,援助できたことを喜んでいます。

      近年において他の建設事業もエホバの証人によって遂行されてきました。その顕著なものは,ものみの塔協会の支部事務所がある世界中の多くの土地で行なわれてきた建物の新築,あるいは既存の建物の増築です。これらの建物は,多くの場合“誇示する”目的で,また人々を形式的な宗教に引き付けるために,キリスト教世界の内外で建てられる堂々とし

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする