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あなたはお年寄りをどう見ますか目ざめよ! 1979 | 9月22日
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年老いた親という重荷を受け入れる必要はないと言うのは,実際のところ道理にかなっていません。子供たちは数多くの面で親の世話を受けてきました。18年から20年,ないしはそれ以上にわたって,子供は,衣食住,教育,金銭などの点で親に依存していました。その中には,無力な赤ん坊だったころ,また病気にかかった時などに受けた世話も含まれます。それでは,子供が成人したときに,その年老いた親の世話をするという責任を取ることが,どうして間違っていると言えるでしょうか。
もちろん,高齢者の体が不自由になるなら,その人の必要としている世話を個人として与えることがもはやできなくなる時が来るかもしれません。こうした分野を専門にしている養護施設に入れたほうが,よりよい世話のできる場合もあります。そうすることが必要になったとすれば,度々訪問してあげなければなりません。晩年を養護施設で送るのは,決して気持ちの良いことではないのです。
年を取り,場合によっては寝たきりになって,若いころ楽しんだ活動に携われなくなり,最終的な結末として死を迎える,というのが,いつまでも変わらない人間の運命なのでしょうか。
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どのように若返ることができますか目ざめよ! 1979 | 9月22日
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どのように若返ることができますか
年を取って死にたいと本気で思っている人はいません。これは偽りのない事実です。わたしたちは,若さから来る活力を,できるだけ長い間失わずにいたいと思います。
だれの胸の奥にも宿っているこの願望は,もう一つの基本的な事実と調和します。すなわち,人間は年を取って死ぬように造られているわけではない,という事実です。老齢と死は,望ましくないばかりか,自然なことでもないのです。
しかし,神はそのようなものとして,つまり少しの間生き,年を取って死んでゆくよう人間を創造したのではありませんか。神は,老化の過程とそれに続く死を,人の定めとされたのではないでしょうか。
神ご自身の霊感によるみ言葉からは,否,という答えが返ってきます。人間は死すべき者として造られたのではありません。また,わたしたちが現在経験しているような意味で年を取るようにさえ造られてはいないのです。老齢と死は,当初,人類とは無縁のものだったのです。
聖書の創世記冒頭の三章に記されている,神が男女を創造された記録をお読みになってください。人間は人生の当然の順序として年老いて死ぬよう造られた,と述べている箇所はどこにもありません。
むしろ,聖書の明示するところによると,老齢と死は,神の律法を破ったこと,つまり神に対する反逆の結果でした。(創世 2:15-17; 3:1-5,17-19)人類の最初の両親が神の律法に対する従順を示し続け,神に服従したままでいたとしたら,二人は今日でも生きていたことでしょう。二人は,幾千年生きてきたとしても,年を取って死ぬことのない,完全な人間であったでしょう。
間近に迫った突破口
地上に人間を創造されたときの神のお目的は,そこに完全な人類を住まわせ,パラダイスの状態のただ中で,永遠に生活させることでした。それはいまだに神のお目的です。それでイエスは,信仰を表明した,ひん死の男の人に,「あなたはわたしとともにパラダイスにいるでしょう」と言われたのです。(ルカ 23:43)イエスは,老齢と死が再び人類とは無縁のものとなる来たらんとする時代のことを念頭に置いていました。最終的には,地上に生きているすべての人が完全で活気に満ちた健康を享受し,老齢や死の問題に二度と再び責めさいなま
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