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  • 老齢の問題
    目ざめよ! 1979 | 9月22日
    • 老齢の問題

      本当に年を取りたいと思う人はいないはずです。なるほど,長い人生から来る経験や知恵は得たいと思うかもしれませんが,老齢によって心身にもたらされる過酷な制約を受けたいとは思いません。さらにまた,それに続くもの,すなわち死を望むこともありません。選択の余地があるとすれば,わたしたちは年齢に伴う知恵と若さに伴う活力を兼ね備えることを選ぶでしょう。幾世紀も昔に,フロリダで“青春の泉”を探した際,ポンセ・デ・レオンが脳裏に描いていたのはそのことでした。

      老化を終わらせ,それを逆行させることは可能ですか。いつの日か,年齢に伴う知恵と若さに伴う活力が一体となり,その状態が定めなく続くようになるでしょうか。確信をもって,その通りです,とお答えいたします。それはいつのことですか。思ったよりずっと近い将来にです。この点についてはこの雑誌の後の方で説明いたします。

      しかし,老化が逆行するようになるまでの間,老齢の問題は解消されることはありません。わたしたちはそれに対処しなければなりません。

      “最良の時”か否か

      老年期を“最良の時”と呼ぶ人もいます。数々の病気や後悔,恐れにさいなまれるのでなければ,老年期は確かに優雅で平穏な時期となるでしょう。それは,族長アブラハムが経験したはずの期間です。聖書は,アブラハムが『かなりの高齢で,年老いて満ち足りて死んだ』と述べているからです。―創世 25:8,新。

      しかし,老年期を“最良の時”どころか,“不運な時代”と呼ぶ人もいます。ある有名人は,70歳になった時,老齢をどう見るかと尋ねられ,「難破船のようだ」と答えました。この人は,老化を,海岸に打ち寄せられた船が風や波でばらばらにされてゆく様になぞらえています。または,ボストン在住の心理学者,リベッカ・ブラック博士が次のように述べるとおりです。

      「人々は,退職すればその後いつまでも幸せに暮らせると思い込まされているが,退職の現実に人々を備えさせるために行なわれている事柄はごくわずかである。そして大抵の場合,その現実は惨たんたるものである」。

      ですから,老齢について考えると,矛盾する二つのイメージが浮かび上がります。一つは,若さを失い体力が衰え,最後には孤独な死を迎えるというイメージです。もう一方は,人生において何かを成し遂げ,尊敬と名誉を得るというイメージです。

      社会・民族・生命科学研究所のダニエル・キャラハンは,46歳を過ぎたとき,ある論説欄の中でこの矛盾に注目し,こう述べています。

      「最近46歳という年齢に達した者にとって,足早に近づいて来る老齢の見込みは,喜ばしくもあり,恐ろしくもある。

      「子供たちは成人し,人生は再び自分のものになる。それは喜ばしいことである。

      「しかし,自分の周りのお年寄りの幾人かを見ているとどうも不安になってくる。その人たちは,暇な時間の大半を,病院へ通い,古い友人の葬式に参列し,それでも余った時間を何でつぶそうかと絶えず探しながら過ごしている。……

      「お年寄りの中には養護施設に入っている人も少なくないが,それらの施設はお年寄りが家庭のやっかい者であることを明らかにするため造られたこうかつな施設である。そのような場所で ― 壁を見つめたり,テレビに見入ったりして ― 一生を終えると考えるだけでも恐ろしい。しかし,老化そのものの見込みもそれと同じほど恐ろしい」。

      増えるお年寄り

      ある意味で,現代の科学は,年老いて恵まれない環境にある人々の問題を複雑なものにしたと言えます。どうしてですか。医学は寿命を延ばしはしましたが,お年寄りの生活の質はあまり変えられなかったからです。例えば,米国で今日生まれる子供の平均余命は,1900年に生まれた子供よりも24年も多くなっています。しかし,お年寄りがその余分の年月の多くを惨めな状態の中で過ごさねばならないのなら,一体得るところがあったと言えますか。

      高齢者が増えているので,老化に関連する問題も増加します。米国だけでも,今,65歳以上の人々は2,400万人ではききません。事実上,どの家族も老齢の影響を受けています。家族の中に65歳を超える人が一人もいないという家庭は例外的な存在だからです。国勢調査局によると,65歳を超えるこれらアメリカ人のうち,500万人を優に超える婦人たちがひとりで暮らしています。約150万人の男性にも同じことが言えます。

      多くの国々でお年寄りが長生きするようになっており,その数も増えているので,お年寄りが余生をどのように過ごしてゆくかは現実の問題となっています。65歳になってから,自分が成人するまでの年月に匹敵するほど長い余生を送る人も少なくありません。その時間すべてで何を行なってゆくのでしょう。

      問題をさらに深刻にしているのは,精神面の能力は体力ほど早く衰えないという事実です。心理学者の一グループによると,精神が最大限の能力を発揮するのは60歳ごろのことで,その後もその能力はごくゆっくりと衰えてゆくにすぎません。そこで,体が昔のように反応しなくなったまさにその時に,精神面の活動をどのように満たしておいたらよいか,という問題が持ち上がってきます。

      周りの人々にとっての問題

      言うまでもなく,お年寄りの問題に直面しているのは,お年寄りばかりではありません。家族の若い世代の者たちもその問題に直面しています。例えば,ビジネス・ウィーク誌は次のように述べています。

      「35歳を過ぎた管理職の直面する最大の家庭問題は,十代の子供を養育し,その大学教育の学資を出すことであり,年老いた両親の世話をすることである。

      「ニューヨークの一保険会社の管理職は次のように語っている。『91歳になる母親の面倒を見ることで,私たちは ― 感情面においても財政面においても ― 引っかき回されている』。この反応はあまりにも典型的である」。

      ですから,老齢は確かに問題となっています。そして,その問題に直面しなければならない人は増加の一途をたどっています。どうすればこの問題に直面しながら,アブラハムのように「満ち足りて」いられますか。どんな手を打てるでしょうか。成人した若い世代の人々は,年老いてゆく親に関して何ができますか。

      そして,いつの日か若返ることができますか,という質問は何にも増して肝要です。

  • お年寄りを悩ませているのは何か
    目ざめよ! 1979 | 9月22日
    • お年寄りを悩ませているのは何か

      お年寄り自身が,特に深刻な問題とみなしているのはどんなことでしょうか。最もよく挙げられるのは,お金が足りないこと,健康面の世話が行き届かないこと,犯罪に対する恐れ,孤独感,役に立たないとみなされること,生活様式の大きな変化などです。

      お年寄りの多くは,特に退職後の自分たちの生活のリズムが著しく変化したことに心を乱されています。日課となる仕事がなくなってしまうために,問題が起きるのです。それまでの人生で多岐にわたる関心事を抱かなかった場合にはなおのこと,暇な時間をつぶすのが一仕事になってしまいます。

      また,妻帯者が退職した場合,それはその人の妻に深刻な影響を及ぼすことがあります。毎日夫が家でごろごろし,何かと口をはさんだり,あらさがしをしたり,自分に注意を引こうとしたりすれば,夫婦の間が緊張することもあるでしょう。明らかにされたところによると,結婚全体の三分の一は退職後に破綻をきたしています。

      多くの国で,高齢者の多くを悩ませているのは定年の問題です。そうしたお年寄りは働くことができ,働くことを望んでいますが,職に就けないのです。1900年当時,65歳を過ぎたアメリカ人の丸々70%は働いていました。現在その数は20%に過ぎません。ところが,定年を過ぎたこれらの人々の三分の一は,仕事さえ見付かれば働きたいと言っているのです。

      一教師は起こり得る事態についてこう語っています。

      「私の頭の中はアイデアではち切れんばかりだというのに,それを望む人は一人もいない。死ぬまでの間,暇つぶしをするのは真っ平だ。その時間を活用したい。私は働かねばならない。不必要な仕事や趣味などではなく……。

      「自分が訓練を受け,長年の経験を持つ仕事,まさにその仕事に適していないとみなされるほど残酷なことはない」。

      しかし,生活様式が変化するとか手持ちぶさたにさせられるという問題が極めて現実的なものであるにもかかわらず,それらはもっと急を要する諸問題のために影が薄くなってしまうのが普通です。中でも筆頭に挙げられるのはお金の問題です。

      お金の問題

      大抵の場合,退職すると,即座に財政上の重荷がのしかかってきます。収入は突然落ち込み,以前のわずか半分ほどになってしまう場合もあります。そうなると,定年退職者は,厚生年金か“社会保障”のような政府の援助で食べてゆかねばならないのです。しかし,それは以前の収入とは比べものになりません。それに加えて,インフレがお金の問題を生み出すこともあります。

      例えば,US・ニューズ・アンド・ワールド・リポート誌の明らかにしたところによると,米国のニューオーリンズ市では,65歳を過ぎた人の69%がぎりぎりの線以下の収入で生活しています。他の多くの都市でも,お年寄りの四分の一ないし半分はそのような生活をしています。

      典型的な事例はサンフランシスコの“老人街<グレー・ゲットー>”に見られます。そこに住む72歳の男性は,退職した当初,ゆとりのある年金を得ていると思っていました。ところが,インフレがその購買力を低下させてしまったのです。それで,この人は次のように述べるようになりました。「月末になると,最後の数㌦しか残っていないのが常です。そうなると,夕食を抜かすこともあります」。同市の一人の老婦人はこう語っています。

      「路頭に迷って飢えている人もいます。ごみ箱の中の物を食べている人もいるのです。信じられますか。ごみ箱から直接ですよ!」

      これは大げさな話,あるいは特殊なケースですか。ニューヨーク・タイムズ紙の編集者に寄せられた手紙は次のように述べています。

      「ニューヨーク市のお年寄りの多くは,余分の収入がなければ,生きてゆくことができない。……

      「貧しいお年寄りが実際に飢餓に頻することがないようにするため,緊急な援助が必要とされる」。

      さらにまた,フロリダ州セントピーターズバーグに,80歳になる婦人がいました。この人は未亡人で,少額の年金で生きてゆかねばなりませんでした。そして,食事を抜かし,前にも増してわずかな量ですませるようになりました。とうとうこの婦人は自分の荒れ果てた部屋で倒れ,息を引き取った時には34㌔しかありませんでした。解剖してみると,その胃の中には食物の跡もありませんでした。検死官は,“栄養失調”と判断しました。しかし,年老いた友人はそれを「降伏」と呼びました。その友人は,「あの人は,明日はもっと良くなると信じられなくなっただけだ」と言いました。

      健康が損なわれる

      老齢期の健康問題は遺伝に起因するものもありますが,重要な要素となるのは人が年を取る前にどんな生き方をしたかということです。喫煙をしていたのなら,晩年に支払う代償は,肺ガン,膀胱ガン,慢性の心臓病,肺気腫かもしれません。飲み過ぎは脳細胞の死を早め,肝臓病をもたらします。食べ過ぎは,心臓障害や糖尿病などの病気の一因になりかねません。

      栄養不良は,お年寄りが健康を害する重大な原因です。多くのお年寄りはきちんと食事を取るだけのゆとりがないため,なおさらそう言えます。しかし,たとえ食べてゆけるだけのゆとりがあっても,特に独り暮らしのような場合,自分の食事をなおおろそかにするお年寄りもいます。そのため,そうした人々ははるかに病気にかかりやすくなります。

      老衰についてデューク大学の調査が示すところによると,老衰してゆくお年寄りは全体の15%にすぎません。また,老衰は老齢の直接の結果ではなく,病気であると結論付ける人もいます。

      悲劇的とも言えるのは,不健康や退屈,恐れ,憂うつなどが,お年寄りの間で増大する問題と結びついていることです。その問題は,アルコール中毒です。米国では,現在,十人のお年寄りにほぼ一人の割合でアルコール中毒患者がいます。

      犯罪に対する恐れ

      大都市など多くの土地では,お年寄りがどの年齢層の人々よりも多く犯罪の被害者になっています。お年寄りには自衛能力があまりありません。

      ニューヨークの犯罪対策係官は,同市に住む130万のお年寄りについてこう語っています。「ほとんどが恐れを抱いており,犯罪を,自分たちの直面する問題の中でも特に深刻なものとみなしている」。お年寄りに対する犯罪の中には,ひったくり,追いはぎ,詐欺,強盗目当ての不法侵入,さらには強姦まであります。ですから,サンフランシスコの一住民はこう述べています。「自分で自分を守ることができません。大抵の年寄りは,三時過ぎには出歩かないようにしています」。

      孤独感

      お年寄りにとって特につらい問題の一つは孤独感です。愛されても必要とされてもいないと感じるお年寄りがあまりに多くいます。配偶者を亡くすと,その感情は深刻なものになりかねません。特に,夫婦仲が良かった場合などはなおさらです。

      “昔”は,普通,年老いた親は成長した子供と一緒に住んでいましたから,話し相手には事欠きませんでした。アフリカ,アジア,中南米の様々な国では,今でもそうしています。しかし,それらの地域でさえ,変化は歴然としています。例えば,日本では,独り暮らしのお年寄りの数が前年度より20%増加し,100万人を超えました。そうした人々について,東京の英文読売は次のように述べています。

      「日本が老人の満ちた社会へと着々と転じつつあることは明らかであるが,公営住宅も民営住宅も,ほとんど老人には門戸を閉ざしている。そのため,住む場所を見いだすのに苦労している人は跡を絶たない。……

      「日本は福祉国家になろうと努めているはずだが,老人が最も必要としているもの,すなわち住宅を供給する点で,ほとんど何も行なわれていない」。

      西欧の社会では,これまでになく多くのお年寄りが独り暮らしをしているか,さもなくば老人ホームに入れられています。また,それに関連した傾向として,年老いた親の世話ができなかったり,それをしたくないと考えたりする成人した子供たちも増えています。

      今日の世界に見られるこのような傾向についてどう思われますか。そうです,お年寄りに対してあなたはどんな見方を持っていますか。そして,お年寄りに対する神の見方はどのようなものですか。

  • あなたはお年寄りをどう見ますか
    目ざめよ! 1979 | 9月22日
    • あなたはお年寄りをどう見ますか

      現代になって,急速な変化が数々見られました。その中には,お年寄りに対する人々の見方があります。だれもがお年寄りに敬意を抱いていた時代もありましたが,今日はそうではありません。多くの国で,それとは全く反対の態度が見られるようになりました。この点について,老齢の一教授はこう述べています。

      「米国では,老齢は病気のようなものである。老人は隔離患者になり,施設か,もし運よく裕福であれば,高級隔離地へ入れられ,外部の人々と分け隔てられる」。

      メリーランド大学老化センターが学齢期の子供を対象にして行なった調査によると,子供たちは普通,お年寄りを,「病気で,悲しそうで,疲れており,薄汚れた醜い」人と見ています。年のゆかない人々がお年寄りをいよいよ尊敬しなくなっていることは,この時代の悲劇と言えます。それにも増して悲劇的なのは,老いゆく親の世話を義務とみなさない子供が増えていることです。

      しかし,少なくとも,聖書預言の光に照らして今日の出来事を見極めることのできる人々にとって,そうした態度は予期せぬものではありません。聖書は,わたしたちの時代,すなわち,この現在の邪悪な事物の体制の「終わりの日」に,多くの人が「自分を愛する者……親に不従順な者,感謝しない者,忠節でない者,自然の情愛を持たない者」になる,と予告していました。―テモテ第二 3:2-5。

      年老いた人に対する神の見方

      お年寄りに対する神の見方を理解するのは,大変興味深く,重要なことです。

      古代イスラエル人が神と契約関係にあったときに,イスラエル人は次のように命ぜられていました。「あなたは,白髪の前では立ち上がるべきである。また,老人の身を思いやり,あなたの神エホバに恐れを持たねばならない」。(レビ 19:32,新)ですから,年老いた人に対して敬意を示すことは,神に従うことにつながる神聖な務めだったのです。同様に,使徒パウロはこう述べています。「[たとえ間違っているとしても]年長の男子を厳しく批判してはなりません。むしろ,父親に対するように懇願し……年長の婦人には母親に対するように(しなさい)」― テモテ第一 5:1,2。

      両親に対するふさわしい敬意は,十戒の一つとして,その五番目に含まれています。それは次のようなものです。「あなたの父と母とを敬いなさい。それは,あなたの神エホバの与えようとしておられる土地で,あなたの日数が長くなるためである」。(出エジプト 20:12,新)また,両親に対する子供たちの関係について,神のお考えを反映する次の幾つかの聖句に目を留めるとよいでしょう。

      「あなたを誕生させた父に聴き従いなさい。単に年取ったという理由で母をさげすんではならない」― 箴 23:22,新。

      「父を悪く扱い,母を追い払う者は,恥ずべき行為,また自らを辱める行為をしている子である」― 箴 19:26,新。

      「父をあざ笑い,母に対する従順をさげすむ目は ― 奔流の谷のわたりがらすがつつき出し,鷲の子たちが食べ尽くす」― 箴 30:17,新。

      「また,自分の父や母を討つ者は必ず殺さるべきである。また,自分の父や母に災いを叫び求める者は必ず殺さるべきである」― 出エジプト 21:15,17,新。

      今日,わたしたちは,そうした制裁規定を伴うモーセの律法の下にはいません。(ローマ 6:14。コロサイ 2:13,14)とはいえ,これらの規定は,この問題を神がどれほど重要視しておられるかを,明確に教えています。

      他の文化圏に見られる敬意

      神の律法によって治められてはいなかった古代の数多くの国民の間でさえ,年老いた人にはふさわしい敬意が示されました。古代エジプトの若者は,年長の人の前では敬意のしるしとして立ち上がり,第一の場所を年長の人にゆずるよう教えられていました。古代ギリシャの若者は,年上の人の前では口数を少なくし,うやうやしい態度を示すように教えられました。

      今日でも,世界のある土地では,依然として年長の人に対する深い敬意が示されています。ソ連のある地方では百歳を超す人が大勢いますが,その長寿の一因は,その人たちに払われる敬意にあると言われています。お年寄りは自分たちが有用で必要とされていると感じることができ,社会でも威厳のある立場を保っています。

      米国史も初期のころには,お年寄りは普通,尊敬され服従の対象となっていました。親は子供の面倒を見るのですから,子供が成長したときには子供が親の面倒を見る,という了解がありました。

      ある都市での,お年寄りに対する今日の見方について,ニューヨーク・デーリー・ニューズ紙は次のように論評しています。

      「奇妙なことだが,ニューヨークにあっては人生のこの段階[年寄りであること]において,黒人かスペイン系であるほうが有利である。黒人やスペイン系の人々は,自分たちのお年寄りの世話をする。

      「白人は一般にそれをしない。家賃の固定した団地や荒れ果てたホテルや簡易宿泊所などで独り暮らしをしている65歳を超す人の数は約30万人と言われているが,その多くは白人で占められている」。

      当然のことながら,お年寄りは,自分が必要とされており,愛されていると感じなければなりません。そうでないと,お年寄りは全く人生をあきらめてしまいます。米国家庭医アカデミーのエイモス・ジョンソン博士はこう述べています。

      「かなり健康な状態にある老人が,保護管理施設に隔離されると,人生に対して全く興味を失ってしまうのを私は見てきた。

      「そうした人は,意思の疎通や食事を拒み,完全に寝たきりになり,やせ衰えて死んでゆく。これは“隔離”と呼ばれる病気の過程であって,死亡診断書にそう記されねばならない」。

      隠れた宝

      年老いた人に関心を払う人々は,それが有意義な経験になるのによく気付かされます。ある中年の男性の意見によれば,自分の人生の中でもひときわ興味深く有益な“ゴールデン”アワーの中に,年老いた人々と共に過ごした時間がある,とのことです。

      どうしてそんなことが言えるのでしょうか。年老いた人はより長い間生きており,概してより多くの人生経験を積んでいます。年老いた人々の見解や思い出は非常に有益なものになるでしょう。そして,年老いた人が神の律法や原則と調和した生き方をしてきたのであれば,特にそれは有益です。そのような人について,聖書はこう述べています。「白髪は,義の道において見いだされるとき,実の冠である」― 箴 16:31,新。

      お年寄りは隠れた宝のようなものになる場合があります。しかし,宝が有用なものになるには,見いだされ,用いられねばなりません。年老いた人の持つ,情報や知恵や見解の宝庫は開発される必要があります。ですから,子供も,十代の若者も,青年も,中年の人も,自分より年長の人と意見を交換するのは良いことです。そして,年老いた人が自分の意見を述べることをためらうようなら,巧みにその意見を求めてください。それがどれほど報いの多いことかを知って驚かされるかもしれません。それはお年寄りにも励みを与え,元気を出させるものです。

      年老いた人が与えることのできるのは優れた助言や情報だけではありません。気を取り乱した若い人々の多くは,年老いた人と一緒にいると,心が大いにやすらぐことに気付いています。年老いた人には大抵,非常に人をひきつける暖かさや愛情や思いやりがあるのです。そのような人の親切なひとことが,今日の諸問題を和らげるのに役立つこともあります。おじいさんやおばあさんが,普通,非常に優れた子守りとなる理由はそこにあります。

      とは言っても,お年寄りであれば常に含蓄のある,人を元気付ける言葉を口に出すというわけではありません。(伝道 4:13)そのような人は一人もいません。お年寄りはしばしば誤った見解を持っている場合もありますが,それもお年寄りだけに限られることではありません。お年寄りにはまた,風変わりなところがあるかもしれませんが,他の人々にも同じことが言えます。しかし,その不完全さ,しかもその多くが老齢のせいでひどくなっているとしても,年老いた人はわたしたちの配慮と敬意を受けるに値するというのが神の見解です。

      どうしたら助けになれるか

      友だち同士である二人の老婦人が,同じ町の別々の家に住んでいました。ある日,大雪が降りました。翌朝,その婦人の一人は外を見て驚きました。自分の家の戸口から道路へ出る小道の雪がきれいにシャベルでかかれていたからです。

      その婦人は,自分に知らせることも報酬を求めることもなく,こんな親切をしてくれたのは一体だれだろうと思いました。そして,そのことについて話すため友だちに電話をしました。ところがその友だちも,同じように驚いた様子で,自分の家の小道も同じように雪かきがしてあった,と言いました。

      数週間後,再び大雪が降った翌朝,老婦人は二人とも,家の小道の雪かきがしてあることに気づきました。後日,もう一度大雪が降るとの予報があり,その通り大雪になりました。その晩,老婦人の一人は早目に床に就き,翌朝六時前に目を覚ましました。窓ごしに見えたのは,12歳になる少年が雪かきをする姿でした。

      老婦人とその友だちは,そのような奉仕をするほど気遣ってくれる者がいると考えるだけで,どんなにうれしかったことでしょう。でも,どうしてそんなに朝早くから働いていたのでしょう。それは,年老いた婦人たちが自分を見付け,お礼をしなければならないと感じることがないようにです! その少年の行なった奉仕は,大変実際的な助けになりました。これは,寄る年波のもたらす重荷を軽減するために,他の人々にできる数多くの事柄の一例です。

      巧みな援助

      しかし,それと同時に,平衡と巧みさも必要とされます。援助の手を差し伸べるに当たって,横柄だったり,親分風を吹かせたりしてはなりません。できるだけどんな場合にも,年老いた人に,依然として自分の生活は自分の自由になると感じさせることが大切です。

      一例として,ある日,一人の男の人は年老いた婦人が重い包みを運んでいるのを目にしました。それで,「失礼ですが,お手伝いいたしましょうか」と丁重に尋ねました。その婦人はにっこり笑い,その申し出に感謝の意を表しながらも,「大丈夫,これぐらいまだ自分でできますわ」と言って辞退しました。

      また別の例ですが,真冬に,男の人が都会の交通量の多い交差点を渡ろうとしていました。すると,老婦人が不安そうな顔付きで,歩道に立ちつくしているのが目に留まりました。それから,その婦人が越えなければならない雪と氷の山に気付きました。そこで老婦人に,「お手伝いいたしましょうか」と尋ねると,婦人はすぐに,「ええ,お願いしてもよろしいかしら」と答えました。

      訪問にはとても価値がある

      お年寄りを訪問することによって,お年寄りに多くのものを与えることができます。あるお年寄りは訪ねて来る人々についてこう述べています。「子供や孫が遠く離れた所にいる者にとって,そうした訪問客がどれほど喜びをもたらしてくれるか,分かっていただけないでしょう」。話してあげられる興味深い経験があるかもしれませんし,ニュースの中にはお年寄りに役立つものがあるかもしれません。しかし,最も重要な奉仕が,単に良い聴き手になることである場合も少なくありません。

      視力が以前ほどではなくなったときに,お年寄りの多くが有り難く思うのは,朗読をしてもらうことです。あなたの受け取った手紙の中に,人を励ますような事柄が書かれているかもしれません。あるいは,お年寄りが読んでもらいたいと思っている資料もあることでしょう。聖書の一部を読んで,一緒に話し合うこともできます。「目ざめよ!」誌や聖書を扱った雑誌である「ものみの塔」誌に掲載された様々な情報が,朗読するのに興味深く,啓発的であることに気付いた人も少なくありません。

      時には,自分の関心の心ばかりのしるしとして,贈り物をすることもできます。食べ物でも,植物でも,手作りの品物でも良いのです。そうです,必要と思えるなら,お金でも差し支えありません。また,食事を作ってあげるか,あるいはお年寄りが外出できるなら,外へ食事に連れて行くことを申し出るのもよいでしょう。また,お年寄りは他の人の家や集まりに招かれるのを喜ぶかもしれません。一緒に付き添って行くことを申し出るのです。そして,そうしたなら,その集まりでお年寄りに配慮が払われているかどうか確かめてください。

      老化のせいで体をこわし,買い物など必要な用事を済ますために外出できなくなる場合もあります。それをすることを申し出たり,それが行なわれるように世話することは本当に親切な行為です。

      そうです,お年寄りの人生をもっと楽しいものにするため,周りの人々にできる事柄はたくさんあります。そうすることは,与えるという敬虔な精神の表われです。それは与える側にも有益です。正しい事柄を行なっているのを知っているので,自分の人生により一層の満足感がもたらされるからです。そして,受ける方の側からより大きな愛を示されるのが普通です。イエスはこう言われました。「受けるより与えるほうが幸福である」― 使徒 20:35。

      12歳になる少年が示した立派な行為,二人の老婦人の家の小道の雪かきをしたという行為の背後にあったのはその精神でした。その少年は,エホバの証人の息子として,聖書の原則に基づいて受けた訓練から,そのような敬虔な態度を学びました。その子の父親は,神のしもべとなることには,神を信じるだけでなく,良い業も含まれる,ということを教えていました。―ヤコブ 2:26。

      財政面の援助

      多くの国には,財政面の援助を差し伸べることのできる様々な政府機関があり,それを利用するのは正しいことです。

      しかし,外部からの財政援助が不十分であるとか,皆無であるとかいう場合もあります。そのような場合,成人した子供には特に,年老いた親や場合によっては祖父母に対して,どんな財政面での責務があるでしょうか。この重要な問題について,神のみ言葉は次のように述べています。

      「やもめに子どもや孫がいるなら,彼らにまず,自分の家族の中で敬神の専念を実践すべきこと,そして親や祖父母に当然の報礼をしてゆくべきことを学ばせなさい。これは神のみまえで受け入れられることなのです。

      「当然のことですが,自分に属する人びと,ことに[年老いた両親や祖父母など]自分の家の者に必要な物を備えない人がいるなら,その人は信仰を否認していることになり,信仰のない人より悪いのです」― テモテ第一 5:4,8。

      年老いた親という重荷を受け入れる必要はないと言うのは,実際のところ道理にかなっていません。子供たちは数多くの面で親の世話を受けてきました。18年から20年,ないしはそれ以上にわたって,子供は,衣食住,教育,金銭などの点で親に依存していました。その中には,無力な赤ん坊だったころ,また病気にかかった時などに受けた世話も含まれます。それでは,子供が成人したときに,その年老いた親の世話をするという責任を取ることが,どうして間違っていると言えるでしょうか。

      もちろん,高齢者の体が不自由になるなら,その人の必要としている世話を個人として与えることがもはやできなくなる時が来るかもしれません。こうした分野を専門にしている養護施設に入れたほうが,よりよい世話のできる場合もあります。そうすることが必要になったとすれば,度々訪問してあげなければなりません。晩年を養護施設で送るのは,決して気持ちの良いことではないのです。

      年を取り,場合によっては寝たきりになって,若いころ楽しんだ活動に携われなくなり,最終的な結末として死を迎える,というのが,いつまでも変わらない人間の運命なのでしょうか。

  • どのように若返ることができますか
    目ざめよ! 1979 | 9月22日
    • どのように若返ることができますか

      年を取って死にたいと本気で思っている人はいません。これは偽りのない事実です。わたしたちは,若さから来る活力を,できるだけ長い間失わずにいたいと思います。

      だれの胸の奥にも宿っているこの願望は,もう一つの基本的な事実と調和します。すなわち,人間は年を取って死ぬように造られているわけではない,という事実です。老齢と死は,望ましくないばかりか,自然なことでもないのです。

      しかし,神はそのようなものとして,つまり少しの間生き,年を取って死んでゆくよう人間を創造したのではありませんか。神は,老化の過程とそれに続く死を,人の定めとされたのではないでしょうか。

      神ご自身の霊感によるみ言葉からは,否,という答えが返ってきます。人間は死すべき者として造られたのではありません。また,わたしたちが現在経験しているような意味で年を取るようにさえ造られてはいないのです。老齢と死は,当初,人類とは無縁のものだったのです。

      聖書の創世記冒頭の三章に記されている,神が男女を創造された記録をお読みになってください。人間は人生の当然の順序として年老いて死ぬよう造られた,と述べている箇所はどこにもありません。

      むしろ,聖書の明示するところによると,老齢と死は,神の律法を破ったこと,つまり神に対する反逆の結果でした。(創世 2:15-17; 3:1-5,17-19)人類の最初の両親が神の律法に対する従順を示し続け,神に服従したままでいたとしたら,二人は今日でも生きていたことでしょう。二人は,幾千年生きてきたとしても,年を取って死ぬことのない,完全な人間であったでしょう。

      間近に迫った突破口

      地上に人間を創造されたときの神のお目的は,そこに完全な人類を住まわせ,パラダイスの状態のただ中で,永遠に生活させることでした。それはいまだに神のお目的です。それでイエスは,信仰を表明した,ひん死の男の人に,「あなたはわたしとともにパラダイスにいるでしょう」と言われたのです。(ルカ 23:43)イエスは,老齢と死が再び人類とは無縁のものとなる来たらんとする時代のことを念頭に置いていました。最終的には,地上に生きているすべての人が完全で活気に満ちた健康を享受し,老齢や死の問題に二度と再び責めさいなまれることがなくなるのを,イエスはご存じだったのです。

      うれしいことに,老齢と死が終わり始める時のしるしである劇的な突破口の開かれる時が間近に迫っています。その突破口が作られることによって,そうした災厄がそれを限りにぬぐい去られる道が開かれます。そうなれば,ポンセ・デ・レオンの“青春の泉”がなくても,生きている人はすべて,完全な体からもたらされる健康と活力を享受し,長年,そうです,無限に生きることから来る経験と知恵をそれに加えることができます。

      しかも,今日の不快な状態がもはや幅をきかせることのない世界で,そのすべてを享受するのです。そうした状態は除き去られているでしょう。その代わりに,豊かな平和と安全があり,「それをおののかせる者はだれもいない」でしょう。(ミカ 4:4,新)「温和な者たちは……平和の豊かさに必ずや無上の喜びを見いだす」でしょう。(詩 37:11,新)どれほどの期間ですか。「義なる者たちは自ら地を所有し,そこに永久に住まう」のです。―詩 37:29,新。

      わたしたちは,空想的な,科学による突破口が作られようとしていると論じているのでしょうか。いいえ,今論じているのは,はるかに深遠で永続的なものです。科学による突破口はある面で役に立つかもしれませんが,他の面で幾多の問題を引き起こします。また,どんな科学者であっても,老齢と死に終止符を打つ公式を見いだすことは決してないでしょう。また,あらゆる国籍の人々を,平和,幸福,偽善のない愛という世界的なきずなで結び合わせることは,どんな科学者にもできないでしょう。

      だれの手で?

      人類の現在の惨めな状態からの来たらんとする変化は,単なる死すべき人間の手でもたらされるのではありません。(ダニエル 2:44)人間は,自分たちの力だけで何ができるかを示す十分の時間を与えられてきました。人間の憎悪や戦争,利己心,犯罪,偽善,偏見など,過去の記録をふり返ってみると,その記録がとても確信を抱かせるものではないことを認めねばなりません。実のところ,その記録は全く悲惨なものです。老齢と死について言えば,有意義な突破口を人間に求めることはできません。

      そのような突破口を開く能力のある方が,ただひとりだけおられます。この方は,人間の心身両面の構造を,ほかのだれよりも深く知っておられます。それは人類の創造者,全能者なるエホバです。必要とされる変化をもたらす立場におられるのはこの方です。エホバには,老化と死に終止符を打つための知恵と力,愛,意志があります。

      こうした事柄を実現させるための神の時は近づきましたか。その通りです! 聖書預言と現代におけるその成就を見極めている人々は,わたしたちが人類史上,老齢と死の支配する最後の世代に生きていることを悟っています。間もなく,現在の,意に満たないこの世界に対する神の寛容と制限時間は尽き,神はそれを壊滅させ,その存在を終わらせます。イエスは,「事物の体制の終結」に関するその預言の中で,それが「この世代」,つまりわたしたちの生きている間に起きることに言及されました。ですから,現在のこの世的な事物の体制が終わるとき,老化と死にも終わりがもたらされることになります。―マタイ 24:3,34。

      この体制が終わることにより,「新しい地」への道が開かれます。これは,霊感による使徒ペテロの手紙の中で予告されていました。(ペテロ第二 3:13)「新しい地」とは,神の支配権の下における新しい人間社会のことを意味しています。地上に生きる人々にその時満ちあふれる益は,エデンのパラダイスで最初の男女に与えられたもののようになるでしょう。―創世 2:8。

      地上での祝福

      数多くの聖書預言は,直接的あるいは間接的に,神の「新しい地」において人類が経験することになる胸の躍るような進歩の様子を明らかにしています。そのうちの幾つかに注目してください。

      「そのとき,盲人の目は開かれ,耳しいの耳もあけられる。そのとき,足なえは雄鹿がするようによじ登り,口のきけない者の舌はうれしさの余り叫ぶ」― イザヤ 35:5,6,新。

      「そして居住者はだれも,『わたしは病気だ』と言わない。その地に住んでいる民は自分の誤りを赦された者たちである」― イザヤ 33:24,新。

      「彼の肉は若いころよりもみずみずしくなり,その若々しい精力の日に返るように」― ヨブ 33:25,新。

      若さを取り戻し,申し分のない健康を享受するという見込みは,あまりにすばらし過ぎて信じられませんか。決してそのようなことはありません。西暦一世紀に起きた出来事を思い出してください。その時イエスは,神の力によって,そうしたいやしと回復が人類に対する神の目的の一部であることを示されました。

      聖書は,イエスの行なわれた事柄について次のように述べています。「すると,大群衆が,足なえ,不具者,盲人,おし,その他さまざまの人を連れて彼[イエス]に近づき,それらの人を彼の足もとに投げ出さんばかりにして置いた。そして[イエス]は彼らを治された。そのため群衆は,おしがものを言い,足なえが歩き,盲人が見えるようになったのを見て非常に驚(いた)」― マタイ 15:30,31。

      イエスが行なわれた事柄はそれだけではありません。イエスは病気や障害のある人のために驚くべきいやしを行なわれただけでなく,神がもたらされる「新しい地」では死者のためにも配慮が払われることを示されました。聖書は,イエスか地上で死者を命へよみがえらせた例を幾つか挙げています。ラザロはその一人でした。ラザロは死んで四日たっていましたが,イエスはラザロを復活させました。―ヨハネ 11:38-44。

      別の折に,イエスはこう言われました。「記念の墓の中にいる者がみな,彼の声を聞いて出て来る時が来ようとしているのです。良いことを行なった者は命の復活へ,いとうべきことをならわしにした者は裁きの復活へと出て来るのです」。(ヨハネ 5:28,29)後日,使徒パウロは同様にこう言明しています。『義者と不義者との復活があるのです』― 使徒 24:15。

      死者を命へ回復させることは,創造者にとって少しも問題となりません。そもそも男と女を創造されたのはこの方だからです。人間を超越したその記憶に基づいて人間を再創造するのは,神にとってわけもないことです。確かに単なる人間でさえ,現在,映画や録音を利用してある程度まで人の容貌,しぐさ,声,人格などを再生できるのですから,それをはるかにしのぐ無限の力と知恵を備えた,人間の創造者はそれをもっと上手になさるのではないでしょうか。

      神のみ言葉は,死と老齢の征服を,美しい言葉で描写しています。この点を扱った幾つかの聖句に注目してください。

      「彼は実際,死を永久に呑み込み,主権者なる主エホバはすべての顔から必ず涙をぬぐってくださる」― イザヤ 25:8,新。

      「また神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死もなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」― 啓示 21:4。

      「最後の敵として,死が無に帰せしめられます」― コリント第一 15:26。

      「『死は永久にのみ込まれる』。『死よ,おまえの勝利はどこにあるのか。死よ,おまえのとげはどこにあるのか』」― コリント第一 15:54,55。

      死んだ愛する者たちが生き返って歓迎され,その人たちも神の偉大ないやしと回復の計画の恩恵に浴するようになる日,その日はすばらしい日になるでしょう!

      老齢と死の束縛からの解放というこの壮大な希望は,今の苦しい時代にあってお年寄りに大きな励ましを与えます。例えば,夫の死後,聖書の約束を調べるようになったフロリダ州の一婦人によると,神の新秩序に対して本当に関心を抱くようになったきっかけは夫の復活に関する希望でした。その慰めとなる希望は,悲嘆に暮れていたこの婦人を元気付け,生きてゆくための最善の目的を与えるものとなりました。

      考えてみてください! 老化の過程が逆行し,時と共にしわが一本ずつ少なくなってゆくのを年老いた人々が見る日は近づいているのです。視力は回復し,眼鏡を捨て去ることができるようになります。聴力も向上しますから,補聴器は不要となります。病気は除き去られるので,杖に頼らずに歩けるようになります。そのすべてに加え,死んだ愛する人々が生き返るのを迎えることもできるのです。

      それは胸を躍らせるような,満足をもたらす時になるので,神の言葉はこう述べます。「以前のことは思い出されず,それは心の中に上ることもない」。(イザヤ 65:17,新)神の新秩序では,良い事柄があふれんばかりに起きるので,現在の憂うつで苦しみに満ちた,失望をもたらす生活はおぼろげにしか思い出されなくなるでしょう。その記憶が,その時の生活の新たな日々の大きな喜びを,いかなる仕方であれ,損なうことはありません。

      神を信頼する

      そのような約束を信頼することができますか。あなたはどちらを信頼したいと思われますか ― 当てにならないことをすでに示してきた人間ですか,それとも,聖書の言うような,「偽ることのできない」神ですか。―テトス 1:2。

      神のすばらしいみ業の幾つかを目撃した,イスラエル人の指導者ヨシュアの出した答えはこうです。「あなた方は心を込め,魂を込めてよく知っているように,あなた方の神エホバがあなた方に語られたすべての良い言葉のうち,一つとして果たされない言葉はありませんでした。それは皆,あなた方にとってその通りになりました。その一つとして果たされない言葉はありませんでした」― ヨシュア 23:14,新。

      心臓病,ガン,その他もろもろの病気を治すことのできる医師を知っているなら,その医師の治療を受けに行かないでしょうか。その医師に老化の過程を逆行させ,死を除き去ることができるなら,その医師に助けを求めないでしょうか。またそれに加えて,あなたが住むための喜ばしいパラダイスを造る力がその人にあるなら,そうした有益な活動に対してどれほどの報酬を与えますか。「忙しすぎて時間がありません」と言いますか。あるいは,「関心がありません」と断わりますか。

      治癒や回復を図る段になると,エホバ神には,どんな医師よりもはるかに優れた能力があります。しかも,その仕事を正しく行なってくださると信頼を置くことができます。神はそれに対してどんな見返りを求められますか。信仰をもって神に転じ,神の関心事のために働くことです。「神のご意志を行なう者は永久にとどま(る)」からです。―ヨハネ第一 2:17。

      現在におけるより良い生活

      この信頼の置ける希望は,今日の多くのお年寄りの人生における「いかり」となってきました。それは,動機付け,精神の高揚,現在の生活には目的,そして将来には希望を与えるものとなります。それに加えて,この希望のお陰で,同様の希望を抱く他の多くの人々との,慰めをもたらす交わりに導き入れられます。

      神の新秩序の希望が,「失望に至ることはありません」。(ローマ 5:5)それは,抑うつ状態や不安を一掃するのに大いに役立ちます。また,同じ希望を持つ他の人々との交わりに加わるなら,寂しさや自分には価値がないという感情を吹き飛ばすような,愛のきずなを作り上げることができます。また,この希望は,極めてやりがいのある活動に携わる機会を人に与えます。新秩序の希望は,他の人々と分かち合うことのできるものだからです。

      カリブ海のある国に住む老婦人は,主に老齢のために教職を退きましたが,それは発声に障害があったためでもありました。新秩序,および神の偉大な回復計画に関する聖書の真理を学ぶに及んで,この婦人は他の人々に教えるようになりました。その後多年にわたり,この婦人は“現役”のままで,毎日,学校で教えていたと同じほど,また大抵の場合にそれ以上の時間を費やして,他の人々に神の真理を教えています。

      スペインでは,74歳になる男の人が,神の新秩序について他の人々に伝えるために全時間を費やしたいと願っていました。その業を始めた当初,体力の続く限り,人を築き上げるこの業に携わりたいと語っていました。七年後,81歳になっても,この人は依然として元気に業を続けていました。神の来たるべき「新しい地」の良いたよりを他の人々に分かつ以上に,人を築き上げ,満足をもたらす業はないことを見いだしたのです。この人の老年期を損なう,退屈で手持ちぶさたな状態,孤独感,自分が無価値であるという感情などはありませんでした。

      南アフリカの96歳になる一婦人は,聖書を教える者として引退する気があるかどうか尋ねられ,決してそのようなことはできないと答えました。こう語っています。「話す力があり,手が震えるようにならない限り,私は『良いたより』を宣べ伝え続けます。私はエホバのご援助により,その王国の下で経験することになるすばらしい祝福について人々に語り続けます」。関節炎から来る痛みに絶えず悩まされ,あまりひんぱんに出歩けないものの,この婦人は他の人々を慰めるために数多くの手紙を書き,その中で聖書に関連した人を築き上げる話題を説明し,印刷物を同封してより詳細な情報を提供しました。また,手紙の中で用いる興味深い話題を準備するため,多くの時間を有効に用いました。それは,憂うつにならないよう心を強めるのに役立ちました。また,この婦人は,同じ希望を抱く人々と共に,定期的に集会に出席しました。集会では,他の人々の信仰の表明に耳を傾けることにより,また同様の信仰を持つ非常に多くの“兄弟”や“姉妹”と交わることにより,大きな励ましを得ました。この婦人がそれらの集会に出席しているだけで,すべての人に励みを与える模範ともなりました。

      また,お年寄りにとって励みになるのは,神の律法と原則によって訓練された若い人々から得る協力です。カリフォルニア州フレスノで開かれた,エホバの証人の大会の後,一老婦人はこう書いています。

      「奉仕を続け,忍耐し続けるよう私を助けてくれるのは,若い人々の存在と,皆が一致して働く組織の協力だと思います。

      「この大会で,数人の若い証人たちと接触したことがありました。階段を昇り降りするのは私にとって大儀です。私が階段を降りようとしていたとき,二人の幼い少年が別々の折に二度私のところへやって来ました。私はその子たちと面識はありませんでしたが,少年たちは,『姉妹,階段を降りるのをお手伝いさせていただけますか』と言ってくれたのです。若い人たちが,年老いた人々の世話をしているのはすばらしいことです」。

      神の新秩序に関する生きた希望,同じ希望を抱く他の人々との交わり,世界中の幾百万もの“兄弟”や“姉妹”と共にする愛と一致などは,年老いてゆく人々にとって人生が生きがいのあるものとなり得,確かにそうなるという事実を示す証拠です。

      そうです,神の目的について知っていれば,老年期を本当に“最良の”時にすることができます。そして,たとえ死が一時的に征服者となるように見えても,復活という方法によって,神の新秩序での命は依然として保証されています。その新体制では,老齢と死を含む今日の災厄から,すべての人が完全に,また恒久的に解放されるのです。

      [13ページの図版]

      「彼の肉は若いころよりもみずみずしくなり,その若々しい精力の日に返るように」― ヨブ 33:25,新。

  • ムラサキウマゴヤシ 驚異の飼料
    目ざめよ! 1979 | 9月22日
    • ムラサキウマゴヤシ 驚異の飼料

      牧草地から,刈り取ったばかりのムラサキウマゴヤシの新鮮な香りが,甘く暖かく漂ってきます。暖かい香りですって。そうです,まばゆい陽光を浴びながら,草を刈り取った牧草地を歩いていると,ミネソタの黒ずんだ柔らかいローム土壌が足下に暖かく感じられます。風も暑気を帯びており,そのため牧草のにおいまでが暖かく感じられるのです。

      これまでわたしは,干し草に大きな価値があるとは考えていませんでした。干し草と聞くと,“コハナバチ”や激しい労働,腹をすかせて鳴き騒ぎ,尾をしきりに振る牛の姿を思い浮かべるぐらいでした。干し草に関するわたしの記憶は,テネシー州の東部で過ごした少年時代にまでさかのぼります。ラバに引かれた機械がカタコト音を立ててクローバを刈り取っていたのを覚えています。

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