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近づく一千年の平和ものみの塔 1970 | 1月1日
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神との平和を保つ者は楽園と化した地上にとどまり,その永遠の管理者とされるでしょう。
47 より偉大なソロモンに関する詩篇 72篇7節のことばによると,地上の平和はいつまで続きますか。
47 その時,平和な惑星を求めて,月にロケットを飛ばす必要はないでしょう。ソロモンより偉大な王であるイエス・キリストのためになされた詩篇 72篇7節の次の祈りがかなえられるからです。「彼の世に義は栄え,平和は月のなくなるまで豊かであるように」。(口語)月がいつまでもなくなることがないのと同じように,この平和はいつまでも続きます。メシヤの統治する安息の千年間にこうして確立され維持される地上の平和は,以後永遠に保たれるのです。
48 いま平和の千年期を迎える備えをしているのはだれですか。このことにともに加わるように招かれているのはだれですか。
48 今日,エホバのクリスチャン証人は,喜びをいだいて,この近づく一千年の平和のために備えをしています。そして,『[神]のよろこびたまふ人』に予告された『地上の平和』を待ちこがれる人すべてに対し,ともに加わって,この祝福された平和な千年期を迎える備えをすることを心から勧めています。
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神とはどのようなかたですかものみの塔 1970 | 1月1日
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神とはどのようなかたですか
多くの子供にとって神はきわめて現実的な存在であり,威厳のあるものではあっても,決してこわいものではありません。10歳未満の子供に神にあてた手紙を書かせたところ,その文面には,率直さと,尊敬心と,人を引きつける力とが表われていました。たとえば,ひとりの子供はこう書きました。
「神さま,地球をつくり,人をそこにおき動物や草や星をみんなつくったとき,神さまはとてもつかれましたか。ぼくは,聞きたいことがまだたくさんあります」。この子供にとって,神が現実的な存在であることは明らかです。この子供は神について多くを知りませんが,なんとかして知ろうとしています。この子供には,「聞きたいことがまだたくさんあ(る)」のです。
別の子供も同じような気持ちを表わしてこう書きました。「神さま,人は死んだらどうなるのですか。だれも教えてくれません。ぼくは知りたいです。そして,ぼくは死にたくありません」。
子供は一般に,神に関しおぼろげながらほのぼのとした考えをいだいています。しかしおとなになると,神に対するそうした確信と信頼感をなくしてしまう人が多いようです。少年期以後の教育が神に対する信仰を失わせる場合も少なくありません。
子どもじみた考えですか
これは,神を実在者,また地上の物事に関心をいだいておられるかたと信じるのが,子供じみた考えであるという意味ですか。そのような神は童心の空想にすぎませんか。神は,サンタクロースと同じように架空の存在にすぎませんか。
では考えてください。宇宙には整然とした秩序と驚くべき設計がいたるところに見られます。今はなき科学者アルバート・アインシュタインはこう語りました。「宇宙の驚くべき構成について我々はただおぼろげに認識するにすぎないが,これについて熟考し,自然界に表わされる英知をほんのわずかでも把握しようと謙遜に努めるだけで,わたしにとっては十分である」。この壮麗な秩序,および壮大な英知はなんの証拠ですか。
わたしたち自身の経験から言えば,英知は頭脳と結びついており,頭脳は身体の一部としての脳と結びついています。それで,宇宙の秩序と設計の背後にある偉大な頭脳は,至上者,もしくは明確なからだと個性とさまざまな能力とを備えた偉大な神格者なる神のものであるに違いありません。
あいまいな概念
神の存在を信ずる人は多いとしても,その人々は神をどのようなかたと考えていますか。神を実際の人格的な存在と考えていますか。神についてより深く知り,神に仕えようとしていますか。あなたは,神をどのようなかたと考えていますか。
宗教指導者のある者は,神は「実在の根元」,「生命の力」,もしくは「究極的実在」であると唱えます。しかし,これはどういう意味ですか。こうした表現は,実際には,神がどのようなかたであるかについて真実を隠し,神について誤った概念をいだかせるものです。この種の説明は人々を惑わし,多くの人々に,神に関するあいまいな概念をいだかせてきたに違いありません。
同時に,たいていの人は神について知るためにほとんど努力していません。神のみことばである聖書を調べて,神がご自身について述べておられる事柄を知ろうとしないのです。結果として,人々は祈りの形で神に語りかける気持ちになっていません。これは一つには,どのような方法で神に呼びかければよいかがはっきりわからないということにもよるでしょう。たとえば,神に語りかけるのにどんな名を使ったらよいかを知らないのです。
また人々は,神に対してどんなことを語るべきかという点でも問題をもっています。なぜかそうした人々は,神が人類のために備えられたすばらしい物事を見落としているのです。
実際に,多くの人々は,自分の仕事や生活上の他の事柄について考えても,神や神がなさった事柄についてあまり考えません。かろうじて考えるのは,よほどの難問題をかかえた時です。たとえば,重病にかかり,医師の力でもどうにもならなくなった時に初めて,神に熱烈な祈りをしたりします。他のすべてのことがうまくゆかなくなった時にはじめて神に祈るというのが,人々の態度と思われます。しかし,そうした態度は,神に対する純粋の感謝や認識を表わすものですか。
実を言えば,たいていの人は神を,自分の子供たちについてやさしく気づかう身近な父親としてではなく,自分から遠く離れた関係のうすい存在と見ているようです。確かに多くの人は,宇宙が神の創造物であり,地上の諸生物に見られる英知と精巧さは神によるものであることを信ずると唱えるでしょう。しかし同時に人々は,人類は今や神から独立し,神は地上の問題から隔絶し,地上の事態を正すために何か処置をとられるようなことはないと考えているようです。
これは真実ですか。神は人々を助けるやさしい父親ではなく,冷淡な傍観者にすぎないのですか。神に関する真実はなんですか。神はいったいどんなかたですか。神についてどんな概念を持つべきですか。わたしたちは神の前でどんな責任をもっていますか。
人格的な存在
神は単なる抽象的な力ではなく,実在する人格的な存在です。これは,神が人間と同じような血肉のからだを備えているという意味ではありません。神は人の目に見えないかたであり,聖書は,「神は霊者であられる」と説明しています。(ヨハネ 4:24,新)そして聖書が別の所で述べるとおり,神は「ご自分の天使を[御自分と同じような]霊者」としておられます。―詩 104:4,新。
天使には名前があり,そのひとりは聖書の中で「ガブリエル」と呼ばれていますが,同じ
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