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愛ある父の寬容な態度ものみの塔 1963 | 10月15日
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た。―ルカ 15:8-10,新口。
放蕩むすこ
最後にイエスは,天の御父の愛に満ちた寛大さをたたえるために,人の心をより強く感動させ,また神への奉仕を励ます言葉で,放蕩むすこのたとえを話されました。「ある人に,ふたりのむすこがあった」とイエスは話を始められます。「ところが,弟が父親に言った,『父よ,あなたの財産のうちでわたしのいただく分をください』。そこで,父はその身代をふたりに分けてやった。それから幾日もたたないうちに,弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き,そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。何もかも浪費してしまったのち,その地方にひどいききんがあったので,彼は食べることにも窮しはじめた。そこで,その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが,その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。彼は,豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが,何もくれる人はなかった。
「そこで彼は本心に立ちかえって言った,『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに,わたしはここで飢えて死のうとして,立っている。父のところへ帰って,こう言おう,父よ,わたしは天に対しても,あなたにむかっても,罪を犯しました。もう,あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ,雇人のひとり同様にしてください』。そこで立って,父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに,父は彼をみとめ,哀れに思って走り寄り,その首をだいて接吻した。むすこは父に言った,『父よ,わたしは天に対しても,あなたにむかっても,罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。しかし父は僕たちに言いつけた,『さあ,早く最上の着物を出してきてこの子に着せ,指輪を手にはめ,はきものを足にはかせなさい。また,肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。このむすこが死んでいたのに生き返り,いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。
「ところが,兄は畑にいたが,帰ってきて家に近づくと,音楽や踊りの音が聞えたので,ひとりの僕を呼んで,『いったい,これは何事なのか』と尋ねた。僕は答えた,『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので,父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。兄はおこって家にはいろうとしなかったので,父が出てきてなだめると,兄は父にむかって言った,『わたしは何ヵ年もあなたに仕えて,一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに,ともだちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。それだのに,遊女どもと一緒になって,あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると,そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。すると父は言った,『子よ,あなたはいつもわたしと一緒にいるし,またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし,あなたの弟は,死んでいたのに生き返り,いなくなっていたのに見つかったのだから,喜び祝うのはあたりまえである』」。―ルカ 15:11-32,新口。
ゆるす父
イエスは天の御父の人をゆるすご性質をなんと美しく描写されたのでしょう! 宇宙の偉大な創造主が,悔い改めた罪人をそのような思いやりのあるやさしい態度で受け入れられることなど考えられるでしょうか! しかし御父をいちばんよく知っておられたイエスは,この感動的なたとえ話によって,御父が,心を入れかえて彼に仕えるために「家」に帰る者をどのように扱われるかを示されました。
しかし,神はすぐにゆるしを与える父のようだ,という考えは,別に新しい考えではありませんでした。ずっと昔,エホバご自身が,自分の罪のゆえに心砕けたへりくだる者と共に住んだ,と言われています。「わたしは高く,聖なる所に住み,また心砕けて,へりくだる者と共に住み…」。―イザヤ 57:15,新口。
父のゆるしを得る
放蕩むすこは,本心に立ちかえったとき,「心砕けて,へりくだる」気持になりました。彼は自分の愚かな行いを心から後悔し,父のむすこと呼ばれる価値などないと感じました。そこで父のどれいになることを自発的に申し出るために,悔い改め,へりくだった心をもって父の所に帰りました。
同様に第1世紀には,天の御父を捨てて悪い道を歩んでいた人々が,神の民イスラエルの中にたくさんいました。けれども,バプテスマのヨハネとイエスが伝道した御国の音信を聞いたとき,それから大きなショックを受けて本心に立ちかえり,自分の罪深い行いを後悔し,放蕩むすこと同じく,神のどれいとなることを自発的に申し出るために戻ってきました。イエスは,彼らがへりくだった心をもち,真実に悔い改めていたので,天の御父が霊的な方法で行なわれるのをたとえで示したとおりに,彼らを暖かく迎えいれられました。彼らはイエスの弟子となり,神の御国について伝道するために,イエスによって送り出されました。
キリストの再臨されている現在も事情は同じです。とくに1931年以前,ある人々は神の御言葉の真理を知るようになって,キリストの兄弟の油そそがれた残れる者と密接な交わりをもちました。ところが彼らは,放蕩むすこと同様に,天の御父への奉仕をつづけるかわりに,この組織制度が提供する快楽を楽しむことを望みました。彼らは,御国の支配の祝福を与えられるまで待つのを望まずに,物質的祝福をすぐに得ることを望みました。
しかし,これらの現代の放蕩むすこたちは,キリスト教国を襲った霊的ききんのために飢えました。彼らは心を変えました。そして自らへりくだり,帰ってきて,自分の罪を告白し,神のどれいになることを自発的に申し出ました。彼らは受け入れられたでしょうか。もちろんです! 愛の深い父親が,その放蕩むすこをやさしく迎え,宴を開いて彼を尊くしてやったように,悔い改めた主の「他の羊」たちは,肥えたものの霊的な宴と多くの奉仕の特権とによって尊くされました。彼らも活発な神の御国の伝道者になりました。ゆるしを得る必要を認めて父の所に戻る者たちに対し,父はなんと愛情深く,あわれみがあるのでしょう!
すべての人が罪を犯したのですから,すべての人が,放蕩むすこのようにへりくだり,悔い改めることから益を得られます。放蕩むすこは自分の罪を後悔しただけでなく,自分の悪行を告白し,父に仕えることをゆるしてくださいと願うことによって自分が悔い改めたことを証明しました。もしあなたが天の御父のゆるしを願い求めるなら,それと同じことをしなければなりません。ためらう必要はありません。自分はそれに価しないという気持に妨げられて,神に頼り,神に奉仕することを思いとどまってはなりません。勇気を出してください。エホバは,「恵みふかく,寛容であって」彼に「呼ばわるすべての者にいつくしみを豊かに施されます」。―詩 86:5,新口。
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エペソの町の悪鬼崇拝ものみの塔 1963 | 10月15日
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エペソの町の悪鬼崇拝
◆ エペソで発見された昔の碑文の中には,小鳥の飛び方によって判断する吉凶うらないがあり,大理石の石材などにほり込まれています。「鳥が右から左の方に飛べば,飛び上がる時でも,どこかにとまるときでも,それはなにか悪いことのあるしるし」などとあります。―ハフ・J・スコンフィールド著,「聖書は正しい」,第37章『魔術のふるさと』。使徒行伝 19章18,19節をごらん下さい。それによるとエペソの町は「魔術」が盛んなことで知られていました。
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