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    ものみの塔 1973 | 8月15日
    • 無実の者たちの血の復讐をする

      『見よ エホバはそのところをいでて地にすむものの不義をただしたまわん 地はその上なる血をあらはにして殺されたるものをまたおおわざるべし』― イザヤ 26:21。

      1 預言者イザヤが示しているとおり,エホバは命に対してどんな態度を取っておられますか。

      エホバは人類と交渉を始めた時から,命を非常に重視していることを実証してこられました。同時にエホバは,人間も命を尊重しなければならないこと,さもなければ命を軽視した責任をエホバに対して負わねばならないことを明らかにされました。諸国民はエホバの律法を考慮に入れなかったためエホバの公正な裁きを招いており,何世紀にもわたって流されてきた無実の者たちの血をおおったり,あるいは復讐をせずに放置したりすることはもはやできません。預言者イザヤの述べた次のことばは事実上このことを確証しています。『見よ エホバはそのところをいでて地にすむものの不義をただしたまわん 地は上なる血をあらわにして殺されたるものをまたおおわざるべし』― イザヤ 26:21。

      2 (イ)カインとアベルは命に関するどんな問題に関係するようになりましたか。カインの態度の動機づけとなったのは何ですか。(ロ)その件でエホバはどんな裁きを下しましたか。

      2 人類の成員として生まれたことで知られている最初のふたりの男子は,無実の人の血を流すというこの問題に関係するようになりました。それはアベルの用意したエホバへの供え物は受け入れられたのに,カインの供え物は喜ばれなかったため,カインが『はなはだ怒りかつその面をふせた』時のことでした。カインの怒りがアベルの命を脅かすものとなったのを見て取ったエホバは,カインに対して,善を行なうよう歩みを変えさえすれば高められるであろうと,警告しました。しかしながら,『人の心を読み取る』かたであるエホバに供え物をささげたカインが恵みを受けなかった理由は,その悪い態度がさらにあらわになるにつれ,いよいよ明らかになりました。(サムエル前 16:7)彼はエホバの律法を認めてへりくだり,弟の模範に従うかわりに,『門口に伏して』いた罪を制するようにとの神の助言を無視する道を選び,ついには自分の弟を虐殺するに至る道を取りました。(ヨハネ第一 3:12。ユダ 11)さらに,その態度を明示するものとなったのは,アベルの居どころについてエホバから尋ねられた時,『我しらず 我あにわが弟の守りてならんや』と,偽って答えたカインの冷淡な返事です。これは悔い改め,あるいは悔恨の情を表わすものとは決していえません。また,カインは潔白を装いましたが,責任は免れられませんでした。エホバの裁きは直ちに下されました。『汝の弟の血の声地より我に叫べり されば汝はのろわれてこの地を離るべし この地その口をひらきて汝の弟の血を汝の手より受けたればなり』― 創世 4:4-11。

      3 (イ)カインはどうして有罪とされずにはすみませんでしたか。彼はエホバからの裁きをどう見ましたか。(ロ)ノアの日に,暴虐で満ちるようになった地を清めるため,エホバは何を行なわれましたか。

      3 とくにエホバが,地に流されたアベルの血に注意を喚起していることに注目してください。それはなぜですか。なぜなら,命は血の中にあるうえ,アベルの血は正当な理由なしに流されたからです。カインはアベルから命を,つまり神に属する命を取ったので,アベルの殺害現場の地を染めた血は,流し出された命について無言の,しかし雄弁な証言を行ない,復讐をエホバに叫び求めました。カインは自分がアベルの命を取ったために今度は自分自身の命が危険にさらされていることを悟ったにちがいありません。なぜなら,彼はエホバに向かって,『我地にさまようさすらいびととならん およそ我にあう者われを殺さん』と苦情を言ったからです。(創世 4:14)しかし,エホバはカインに言われました。「『だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう』。そして〔エホバ〕はカインを見つける者が,だれも彼を打ち殺すことのないように,彼に一つのしるしをつけられた」のです。(創世 4:15,口語〔新〕)エホバがカインにつけたしるしが何を意味するかはまちがえようのないものでした。後代になって,次のように述べた,カインの子孫レメクが証言したとおりです。「わたしは受ける傷のために,人を殺し,受ける打ち傷のために,わたしは若者を殺す。カインのための復讐が七倍ならば,レメクのための復讐は七十七倍」。(創世 4:23,24,口語)地上ではやがて暴虐が増大し,ついにノアの日に至ってエホバは,人間から獣に至るまで,そのうちに「命の力の息」の働いていたものをことごとく拭い去りました。ただノアと,ノアとともに箱船の中にいた人たちだけが,洪水で地が覆われた時,命を救われました。―創世 7:22,23,新。

      血の尊厳にかかわる定めが施行される

      4 (イ)エホバはいつ,またどのようにして,ご自分の創造物である物質に命の力を導入されましたか。(ロ)植物に活力を与えている命に比べて,「魂」の命はいっそう優れていることを,エホバはどのようにして明示されましたか。

      4 この「命の力の息」は神によって創造されたもので,まず最初,海生動物,翼のある飛ぶ生物,そして陸生動物にそれぞれ付与されました。それは人間がこの賜物を神からいただいた時よりも何千年も前のことでした。とはいえ,地上で命の力が作用し始めたのは,その時でもありませんでした。それは神が,『地は青草とたねを生ずる草とその類に従い実を結びみずからたねをもつところの実を結ぶ樹を地にいだすべし』と言って,物質を構成する生命のない原子に神が命の力を添加された,創造の3日目のことでした。(創世 1:11)植物,中でも特に樹木の場合,汁つまり樹液と呼ばれる循環する大切な液体が本質の中を流れ,非常に小さな枝や葉や花に必要不可欠な養分を運ぶことになりました。ですから,樹木の命は,植物の生命の維持に必要な物質を植物の全組織に運ぶ樹液の中にある,ということができるでしょう。ところが,およそ1万4,000年後の,創造の5日目,海生動物や飛ぶ生物が創造され,またさらに7,000年後の,創造の6日目,陸生動物が創造され始めたとき,エホバはそれらの生物に別の種類の循環系統を用意されました。そして,それらの生物の複雑な循環系統に,樹液に替わる新しい媒体を満たしました。それはからだのあらゆる器官や部位の組織に酸素や養分を運ぶ血です。しかし,血の中にある命は,樹木や草本に活力を与えている命よりも,いっそう優れたものです。それは「魂」の命なのです。それに人間には,植物を切り倒してその命を取ることに関しては何ら制限を課されませんでした。それどころか,『たねのなるすべての草と……すべての樹』は食物として人間と獣の両方に与えられました。(創世 1:29,30)しかし,エデンでは,また人間が罪を犯してエデンから追放された後も,植物に関する場合と同様に何の制限もなく自由に動物の命を取る権限は,人間には与えられませんでした。神は魂の命を神聖視されたのです。

      5 (イ)洪水後,ノアはどんな新しい律法を受けましたか。それはどんな許可に関連して与えられましたか。(ロ)このおきては,血と,血によってささえられる命の尊厳をさらにどのように強調するものとなりましたか。

      5 ノアが箱船から出たとき,エホバは彼に新しい律法をお与えになりました。そのさい,エホバは「魂」のことを「血」として語られました。それというのも,「魂」もしくは「命」は血の中にあるからです。魂は人間の内に宿る,非物質的で,目に見えない,また触れることのできないものであるというわけではありません。動物や魚類や鳥類は「魂」と呼ばれています。(創世 1:20-24,新)また,人間の創造にさいして,エホバは塵で作られた人体に命の息を吹き込まれたので,「人は生きた魂となった」のです。すなわち,その人間は魂だったのです。魂を持っていたのではありません。(創世 2:7,新)しかし大洪水後,血を流すことに関して,エホバは人類を取り扱う仕方に変更を加えました。そして,故意の殺人者を処刑するエホバの刑執行者として直ちに行動する神聖な責任を人間にお与えになりました。不定の期間続くこの契約は,動物の肉を食べることに関する許可に関連して述べられましたが,エホバは特に,血の神聖さ,および血によってささえられている命に関してノアにこう警告されました。『おおよそ生ける動物は汝らの食となるべし あおもののごとく我これを皆汝らに与う されど肉をその〔魂〕なるその血のままに食らうべからず 汝らの〔魂〕の血を流すをば我必ず討さん 獣これをなすも人これをなすも我討さん おおよそ人の兄弟 人の〔魂〕を取らば我討すべし おおよそ人の血を流す者は人その血を流さん そは神の像のごとくに人を造りたまいたればなり』。(創世 9:3-6〔新〕)今や人類は,神からの要求として死刑を行なうよう求められ,また時たつうちに,その要求を履行しないと再び重大な流血の罪をもたらすということが明白になりました。

      流血の罪を負う者のための贖いはない

      6 モーセの律法によれば,どのようにしてのみ,地は流血によって汚されないようにすることができましたか。その規定はどれほど広範にわたるものでしたか。

      6 何世紀も後のこと,エホバ神は,モーセを仲介者として成立したイスラエルの律法の違反行為に対する処罰を規定して,「魂」の命を非常に重視しておられることを再び強調されました。エホバはこう言われました。『汝憫れみ見ることをすべからず〔魂〕は〔魂〕目は目 歯は歯 手は手 足は足をもて償わしむべし』。(申命 19:21〔新〕)エホバはさらに,約束の地にはいる用意をしていたご自分の民に次のように警告されました。『汝らそのおるところの地を汚すべからず 血は地を汚すなり 地の上に流せる血はこれを流せる者の血をもてするにあらざれば贖うことをえざるなり』。(民数 35:33)住民の流血の罪ゆえに地が汚されることのないよう地を守るために設けられたエホバの規定は非常に広範にわたるものでした。ですから,エホバは,殺人者がわからない場合のための規定をさえ設けられたほどです。無実の人の命が失われて,地がいつまでも汚されたままに放置されることは許されなかったのです。―申命 21:1-9。

      7 (イ)イスラエルでは,殺された者の復讐をすることはだれに許されましたか。その人はどのようにして自分の責任を果たしましたか。(ロ)イスラエルの律法は後代の習慣,特に中世の時代のそれとどのように異なっていましたか。

      7 殺された者の血のために復讐することをイスラエルの律法のもとで許された人は,「血の復讐をする者」もしくは「ゴーエル」と呼ばれました。それは殺害された人の最近親の男子でした。(民数 35:19,口語)最近親者は殺害された人と個人的な関係を持っている以上,そうした責任を果たすことに深い関心をいだき,自分の親族の男子の命のために,怒りに燃えて立ち上がって復讐をする場合さえあるのはもっともなことです。もし殺人者がわからない場合には,殺害された人の血をすみやかに,そして必ず贖わなければなりませんでした。こうしるされています。『もし人その隣人を悪みてこれをつけねらい起かかり撃ちてその〔魂〕を傷いてこれを死なしめ しかしてこの[のがれの町]の一つに逃れたることあらば その町の長老たち人をやりてこれをそこより引ききたらしめ〔復讐する者〕の手にこれをわたして殺さしむべし 汝かれを憫れみ見るべからず 罪なき者の血を流せるとがをイスラエルより除くべし 然せば汝にさいわいあらん』。(申命 19:11-13〔口語〕)故意の殺人者のための聖域は設けてはなりませんでしたし,その魂のために贖いを払うことはできませんでした。(民数 35:31)古代および中世の多くの土地にはだれでも,殺人の罪を犯していると思われる人でさえのがれることができた避難所がありました。たとえば,キリスト教世界の教会は,故意に神の律法を破った者たちののがれる聖域となりました。そのようなことは昔のイスラエルの律法のもとでは許されませんでした。燔祭をささげる神聖な祭壇でさえ聖域としての効力を持ちませんでした。その一例はヨアブの場合です。ヨアブが祭壇の角から手を離して出て来ようとしなかったので,ソロモンは,ヨアブがアドニヤの反抗に加担し,またアブネルとアマサを殺したかどで,エホバの幕屋の中庭でヨアブを処刑するよう命じました。―列王上 2:28-34。

      あやまって人を殺した者に対して示されるあわれみ

      8 (イ)血の復讐をする者は殺人者の命を取っても,どうして流血の罪を負うことにはなりませんでしたか。(ロ)血の復讐をする者が,あやまって人を殺した者の命を取った場合,流血の罪を負うことになったでしょうか。こうした事情のもとでは,地はどのように汚されるおそれがありましたか。

      8 血の復讐をする者が,もし前述のような殺人者に追いつくことができた場合,その殺害者を処刑しても,殺人の罪を負うことにはなりません。なぜなら,復讐者は実際のところ,そうしなければ地を汚すものとなる無実の人の血のあがないを行なっていたからです。(民数 35:33)しかし,もし偶然の事故で人を殺したのであって,何ら悪意も意図もなかった場合はどうですか。そのような場合,命を取ったにしても,それは殺害された人を傷つけてやろうとして故意にそうしたのではありません。もし,血の復讐をする者が,あやまって人を殺した者に追いついて,怒りに燃えてその人を殺すとすれば,あやまって人を殺した者は計画的殺人の罪を犯してはいなかったのですから,今度はその肉親が憤って立ち上がり,自分の親族を殺したその復讐者に敵して,もうひとりの無実の人の命を取ることになるかもしれません。それというのも,最初の血の復讐者は確かに,あやまって人を殺した者を撃つ法的権利を持っていたからです。そうなれば,無実の人の命を次々に奪う血なまぐさい抗争を引き起こすのは容易ですし,地は血まみれになったことでしょう。

      9 あやまって人を殺した者のための避難所を設けるため,どんな手段が講じられましたか。

      9 このようにして地が汚されるのを防止するため,またあわれみを示す行為としてエホバは,それとは知らずに人を殺した者が血の復讐者をのがれて避難できる都市を避難所として,イスラエルに幾つか設けるよう求められました。「これはあなたがたが復讐する者を避けてのがれる町であって,人を殺した者が会衆の前で立って,さばきを受けないうちに,殺されることのないためである。あなたがたが与える町々のうち,六つをのがれの町としなければならない。すなわちヨルダンのかなたで三つの町を与え,カナンの地で三つの町を与えて,のがれの町としなければならない。これらの六つの町は,イスラエルの人々と,他国の人および寄留者のために,のがれの場所としなければならない。すべてあやまって人を殺した者が,そこにのがれるためである」。(民数 35:10-15,口語。申命 19:1-3,8-10)それらの都市は近距離の所にあって,容易に近づけるものでなければなりませんでした。申命記 19章6節(口語)に述べられているとおりです。「そうしなければ,復讐する者が怒って,その殺した者を追いかけ,道が長いために,ついに追いついて殺すであろう,しかし,その人は以前から彼を憎んでいた者でないから,殺される理由はない」。そのうえ,聖書には特に述べられてはいませんが,ユダヤ教の伝承によれば,のがれの町に通ずる道は非常に幅が広くて平担に作られており,のがれるのに妨げがないようにされ,また絶えず修繕して良い状態に保たれていたと言われています。

      のがれの町の中でのみ得られる安全

      10 のがれの町の避難所にはいる資格を持っているかどうかは,どのようにして決められましたか。

      10 人の命を取った者はだれでも,その町に逃げることができたものの,その町は,殺人の起きた地区の管轄権を持つ,その町の長老たちの前で殺人者が審理を受ける時まで避難所となったにすぎません。(ヨシュア 20:4-6)そして,「会衆はこれらのおきてによって,その人を殺した者と,血の復讐をする者との間をさばかなければ」なりませんでした。(民数 35:24,口語)もし有罪の判決が下されたなら,殺人者は直ちに,血の復讐をする者に引き渡され,処刑されなければなりませんでした。(民数 35:30)一方,もし殺人者は殺された人を以前から憎んではおらず,故殺の罪は認められないとの判決が下されたなら,「会衆はその人を殺した者を血の復讐をする者の手から救い出して,逃げて行ったのがれの町に返さなければならない。その者は聖なる油を注がれた大祭司の死ぬまで,そこにいなければ」なりませんでした。―民数 35:25,口語。

      11 どのようにしてのみ,その町は殺人者にとって引き続きのがれの場所となりましたか。そのことは殺人者に何を痛感させたでしょうか。

      11 引き続き身の安全を確保するためには,殺人者はその町およびその郊外地区や牧草地の境界内に留まっていなければなりません。境界は町から千キュビト隔たっていました。こうしるされています。「しかし,もし人を殺した者が,その逃げて行ったのがれの町の境を出た場合,血の復讐をする者が,その人を殺した者を殺しても,彼には血を流した罪はない。彼は大祭司の死ぬまで,そののがれの町におるべきものだからである。大祭司の死んだ後は,人を殺した者は自分の所有の地にかえることができる」。(民数 35:26-28,口語)ということは,ひとたび殺人者が,正式の審理を受けて,故殺人の罪のないことを証明し,のがれの町の住民として受け入れられて,その町にはいったからには,どんな理由のためであれ,たとえ一時的にせよ,町の外に出たなら,命を失う危険にあわずにはすまされないということを意味していました。このことは,殺人者にとって,たとえ悪意からしたのではないにせよ,自分のしたことの重大さを痛感させるとともに,そうした避難所にはいることを許してくださるエホバのあわれみ深さを痛感させるものとなったでしょう。さらに,こう述べられています。「また,のがれの町にのがれた者のために,あがないしろを取って大祭司の死ぬ前に彼を自分の地に帰り住まわせてはならない」。(民数 35:32,口語)さもないと,エホバが設けてくださった規定を笑いものにし,命はエホバから買い取れるものだということを暗に示すことになったでしょう。

      12 殺人者はその町の中で拘留されましたか。殺人者をその町に留まらせたのは何ですか。その町に滞在する間,何をしなければなりませんでしたか。

      12 のがれの町にはいるのを許されたからといって,人はその町の住民に負担をかけてはなりませんでした。そこにいる間,その町の福祉に貢献するとともに,生活の糧を得るために働かなければならなかったのはもっともなことです。もしその町での生活に適しているなら,自分の職業をその町で営んで,自活することができたでしょう。そうでなければ,新しい職業を習うよう,要求されることさえあったことでしょう。もし身体上支障がないなら,お返しとして何かを寄与することなく,他の人びとに施しを乞い求めたり,あるいはそれに頼って生活したりするのを許す箇所はエホバの律法には一つもありませんでした。土地あるいは生計を立てる手段を持っていないようなやもめやみなしごでさえ,生活に困らないよう十分のものをあてがわれはしたものの,やはり物をもらうには,そのために働くことが期待されていました。(申命 24:17-22)のがれの町の中では殺人者は拘留されませんでしたし,町を出てゆくほうがよいと考える人は,自由に出てゆくこともできましたが,それでも,安全のためのエホバの規定を守ろうという気持ちをエホバが人びとにいだかせるものとなった事由が,よほど無謀な人でないかぎり,その規定を破ろうなどという考えをいだかせないような性質のものだったのは興味深いことです。

      13 たとえあやまっていたにしても,命を取ることは軽く見るべきものではないことを明示する,イスラエルの律法の他の特筆すべき事がらを挙げなさい。

      13 さらに,あやまって人を殺した者のために避難所を設ける点で示されたエホバのあわれみを誤用してはなりませんでしたし,また律法も,言いわけの立たない過失を,あわれみを求める正当な理由としてしんしゃくしたりはしませんでした。たとえば,新しい家を建てる場合,屋上にはさくを作ることが求められました。さもないと,だれかが屋上から落ちると,流血の罪がその家に帰されるからです。(申命 22:8)もしある人が,人に突きかかるくせのある雄牛を持っていて,警告を受けながらも,その雄牛の監視を怠ったため,だれかが殺されたなら,その雄牛の所有者は流血の罪を負うことになり,処刑される場合もありました。(出エジプト 21:28-32)もし,泥棒が夜,人の家に押し入ったところを見つけられ,家の人が泥棒を捕えようとして格闘しているうちに殺した場合,流血の罪には問われませんでした。しかし,もしそれが,相手をはっきり見ることができる日中に起きた場合,泥棒を打って殺した人は流血の罪を負うことになりました。(出エジプト 22:2,3)確かにエホバの律法は完全な釣り合いを保っており,悪人に対しては公正な懲罰を要求しますが,罪に陥ったり,あるいはあやまって律法を破る羽目にあったりする人たちに対してはあわれみを差し伸べました。

      必ず,そしてすみやかに課された懲罰

      14 一国民としてイスラエルは,命の尊厳さにかかわる律法の要求をどのように受け入れましたか。神の預言者たちはどんな告発のことばを伝える権限を受けましたか。

      14 エホバのこの公正な規定は,古代イスラエルを告発する何と重大な手だてとなったのでしょう。イスラエルの律法全体は命の神聖さと血の尊厳を強調するものでした。それにもかかわらず,イスラエルとのエホバの交渉の始めから,エホバがその預言者たちを『しきりに遣わし』て,公正な懲罰が必至であることをご自分の民に警告するため,エホバが必要を感じて繰り返し行なわれた訴えに答え応じたのは,ごく少数の残れる者だけでした。人びとはエホバの警告の助言に留意しようとしなかったばかりか,エホバの預言者たちを激しく攻撃し,無残にも彼らを殺し,そのようにして,エホバの前で犯した自分たちの罪に加えて,それら無実の者たちの血を流しました。(エレミヤ 26:2-8)ゆえにエホバは,エレミヤを通して次のような告発のことばを彼らに送りました。『また汝のすそにつみなき貧しき者の〔魂〕の血あり われ盗人のうがちたる所にてこれを見ずしてすべてこれらの上にこれを見る』。(エレミヤ 2:34〔新〕)また,イザヤを通してこう言わせました。『民おきてにそむき法をおかし とこしえの契約をやぶりたるがゆえに 地はその下にけがされたり このゆえにのろいは地をのみつくし そこに住めるものは罪をうけ また地の民はやかれて僅かばかり残れり』― イザヤ 24:5,6。

      15 エレミヤの時代に,エホバはどんな懲罰をご自分の民であるイスラエルにもたらしましたか。この点,イエスの時代の彼らの子孫はさらに増し加えられたどんな責任を負いましたか。

      15 エルサレムは西暦前607年,流血の罪を含め,エホバに対して犯した数々の罪悪のゆえに滅ぼされ,少数の残れる者だけが有罪の宣告を免れて残りました。しかし,エホバがそうした恐るべき懲罰を施す処置を講じたにもかかわらず,イエスの時代の不誠実な宗教指導者たちはエレミヤの時代の宗教指導者と全く同様,自分たちには流血の罪はないなどとはいえませんでした。というのは,そのいずれの場合も,彼らの衣のすそは,エホバの愛するみ子の血をさえ含めて,エホバに仕えた忠実な人びとの血で真赤に染まっていたからです。―マタイ 23:33-36; 27:24,25。ルカ 11:49-51。

      16 今日,諸国民は命の尊厳の問題に関してどんな立場を取っていますか。わたしたちはどう見るべきですか。

      16 さて今日,地上の諸国民すべての流血の罪はまさにその極に達しています。「娼婦」大いなるバビロン,つまり偽りの宗教の世界帝国の流血の罪はあまりにも大きいため,彼女はエホバの民の血で酔っていると言われています。(黙示 17:5,6; 18:24,新)エホバの血の復讐者はいつなん時でも攻撃できる態勢にあります。彼女と交わっているところを見つけられる者は何と災いでしょう。(黙示 18:4)それら流血の罪のある者たちは,ダビデが言ったように,『生きておのが日の半ばにもいたら(ない)』でしょう。(詩 55:23)わたしたちは詩篇作者と同様,次のように誠実に祈るべきでしょう。『神よわが救いのかみよ血をながしし罪より我をたすけいだしたまえ』。『血をながす人より我をすくいたまえ』。(詩 51:14; 59:2)次いで非常に近い将来,大いなるバビロンの,最後に残った分子が滅ぼされ,無実の人たちすべての血のための復讐がなされるゆえに,天でエホバに向かって賛美の大合唱の歌声が上がる時,地上ではエホバの主要な復讐者の懲罰の剣を免れた人びとすべてが,わたしたちの歌声に和するでしょう。―黙示 19:1,2,15,21。

  • のがれの町を出ることは,命を失うことを意味する
    ものみの塔 1973 | 8月15日
    • のがれの町を出ることは,命を失うことを意味する

      1 キリスト教世界は,イエスの時代のユダヤ人の場合と同様,どんな立場に立っていますか。

      今日,キリスト教世界も,そして全世界も重大な流血の罪を負っています。自分では直接人を殺したり,あるいは直接戦争に参加したりはしなかったので,流血の罪に個人的に関係してはいても,それとは気づかずにいる誠実な人は少なくありません。それにしても,それらの人は,無実の人たちの血を流した者として預言の中で表わされている人びととともにそうした責任を負わなければなりません。今日,キリスト教世界は,イエスの時代のユダヤ人と同様の立場に立っています。イエスは当時のユダヤ人にこう言いました。「わたしはここで,預言者と賢い者と公に諭す者たちをあなたがたのところに遣わします。あなたがたはそのある者を殺して杭につけ,ある者を会堂でむち打ち,都市から都市へと迫害するでしょう。こうして,義なるアベルの血から,あなたがたが聖所と祭壇の間で殺害した,バラキヤの子ゼカリヤの血に至るまで,地上で流された義の血すべてがあなたがたに臨むのです。あなたがたに真実に言いますが,これらのことすべてはこの世代に臨むでしょう。エルサレム,エルサレム,預言者たちを殺し,自分に遣わされた人びとに石を投げつける者よ」― マタイ 23:34-37,新。

      2 エルサレムは何を行なったために,血染めの記録を残しましたか。エルサレムはどんな懲罰をこうむりましたか。

      2 エルサレムは,エホバ神の命令による神権的な戦いに携わったために血染めの記録を残したのではありません。かえって,無実の人びとの血を流し,神の預言者の多くを故意に殺し,ひいては神のみ子イエスさえそこで死を宣告されたからです。エルサレムのそうした行為は,何の悪意もなくなされたのではありません。というのは,それより7世紀ほど前のエレミヤの時代にエホバはご自分の預言者を通して,エルサレムの流血の罪を次のように暴露されたからです。『また汝のすそにつみなき貧しき者の〔魂〕の血あり われ盗人のうがちたる所にてこれを見ずしてすべてこれらの上にこれを見る されど汝いうわれはつみなし ゆえにその怒りはかならず我に臨まじと みよ汝われ罪を犯さざりしというにより我汝とあらそうべし』。(エレミヤ 2:34,35〔新〕)西暦前607年,エホバはこのことばどおりに行動し,エルサレムに対してそのおびただしい流血のゆえに怒りを表わし,エホバが用いたバビロニア人の刑執行者たちは,エルサレムの血を地上に注ぎ出して,恐るべき滅びをもたらしました。また同様の理由で,イエスのことばの成就としてエルサレムは再び大量殺りくを招き,西暦70年の夏,その殺りくが終わるまでに,110万人が攻囲された都の中で死にました。

      連帯責任による流血の罪

      3 多くの人びとは直接人の命を取ったわけではないのに,なぜ滅びましたか。

      3 キリスト教世界の人びとは,警告を与えるこの実例に特に留意すべきです。バビロニア人やローマ人によって殺されたユダヤ人はすべてが,神の預言者を殺す,あるいは他の仕方で人間の命を取ることに直接手をくだして罪を犯したわけではありませんが,それでも,無実の人の血を故意に流した者たちとともに滅びました。それはなぜですか。なぜなら,人びとはユダヤ教の記録や伝統を擁護し,そうすることによって,その流血の罪に対する社会的責任を負ったからです。

      4 エホバはどうしてキリスト教世界の記録を見すごすことはできませんか。

      4 キリスト教世界は確かに,エルサレムとその領域であるユダの現代的対型です。神のみまえにおけるキリスト教世界の記録は,4世紀つまりコンスタンチヌスの時代における同世界の始まり以来,不当に流されてきた血で染まっています。その記録が見過ごされるままに放置されることはありません。なぜなら,変わることのないエホバが,次のようにノアに述べたからです。『汝らの〔魂〕の血を流すをば我必ず討さん 獣これをなすも人これをなすも我討さん おおよそ人の兄弟 人の〔魂〕を取らば我討すべし おおよそ人の血を流す者は人その血を流さん そは神の像のごとくに人を造りたまいたればなり』― 創世 9:5,6〔新〕。

      5 (イ)キリスト教世界のどんな行為は,同世界の記録を確証していますか。そうした行為はどうして弁明できるものではありませんか。(ロ)キリスト教世界の流血の罪に関する責任をともに負っているのはだれですか。

      5 宗教裁判や十字軍のほかに,1914年以前に行なわれたキリスト教世界の幾百もの戦争は,疑念をいだかない,何十万とも知れぬ大勢の人びとの命を奪いました。また,何千万人もの人びとの命に関してキリスト教世界が主要な責任を負わなければならない,1914年以後の二度の世界大戦は,恐るべき血の負債を積み重ねるものとなりました。同世界は血に関する神の契約に従って,その負債を清算しなければならないのです。キリスト教世界で争われた種々の論争で敵対し合った双方の側の司祭や牧師たちは,自国の参戦者たちに祝福を与えはしたものの,それらの戦争は神の名において戦った神権的な戦争であると主張することはできません。それら僧職者から祝福されたからといって,同胞を殺しても流血の罪に問われることなくエホバ神のみ前に立てるというような権限はだれにも与えられていません。そうした司祭や牧師の祝福を受けたからといって,エホバの大祭司イエス・キリストの「のがれの町」にはいったわけではありません。多くの人は宗教的もしくは愛国的熱情にかられて誠実な気持ちで戦ったにしても,そうした戦闘で神の名を唱えたからといって,参戦者が流血の罪を免除されたわけでもありません。そのうえ,直接流血行為に携わる人びとを是認したり,援助したり,あるいは支援したりする人,もしくは無実の人びとの血を流す事態を招くような宣伝や運動に携わる人たちも同様に,その罪悪に関与する当事者として社会的責任を負うことになり,公正な神のみ前に立たなければなりません。その神はこうした流血の罪を見すごすことはできませんし,またそうなさることはありません。

      6 キリスト教世界はさらにどんな行為を犯した罪を負っていますか。同世界はその罪のゆえの処罰を免れられますか。

      6 しかし,キリスト教世界は神の真のしもべたちの多数の命を取ってきたので,同世界の流血の罪は,それよりもはるかに重大な性格のものとなっています。キリスト教世界が主要部分を占めている大いなるバビロン,つまり偽りの宗教の世界帝国は,黙示録の中では,「聖なる者たちの血とイエスの証人たちの血に酔っている」と描写されています。(黙示 17:6,新)キリスト教世界は確かにエホバの警告に留意してきませんでしたが,それと全く同様の確実さをもってエホバの裁きは,西暦前607年と西暦70年に同世界の原型であるエルサレムとユダに臨んだように,まもなくキリスト教世界に臨むでしょう。その時,キリスト教世界と交わっているところを見つけられる人はすべて,同世界の罪をともに負う者となり,またその滅びにもともにあずからねばなりません。―黙示 18:4。

      今日ののがれの町に逃げる方法

      7 エホバの血の復讐者はいつ襲いますか。どこにのみ難を避けられますか。

      7 エホバはご自分の血の復讐者,主イエス・キリストがみ使いの軍勢を率いてキリスト教世界と同世界の流血の罪にあずかる人びとすべてとに襲いかかるのを,あわれみ深くも押しとどめてこられましたが,しかしその制限時間はまもなく終わろうとしています。(黙示 7:1-3)きたるべき「大患難」で,人類の血の復讐者は仇を打ちます。こうしるされています。『見よ エホバはそのところをいでて地にすむものの不義をただしたまわん 地はその上なる血をあらわにして殺されたるものをまたおおわざるべし』。(イザヤ 26:21。マタイ 24:21,22)その決定の時が到来するとき,全人類はその連帯責任を真っ向から問われるでしょう。しかも,エルサレムやユダヤ人がかつて直面したよりもさらに大きな規模でそうされるのです。安全のための場所を見いだしていない人はすべて,科料を支払わされます。地は永遠にわたって,不当に殺害された人びとの血から清められなければなりません。ノアと結ばれた血の尊厳に関する契約を成就するには,贖罪を行なわねばなりません。安全を求めて逃げる唯一の道は,エホバの対型的な「のがれの町」に通ずる道を見つけ,エホバの怒りの日が過ぎ去るまでその町に住み,エホバの偉大な大祭司イエス・キリストの恩恵を受けつつ,その町に住み続けることです。では,対型的なのがれの町とは何ですか。

      8 対型的なのがれの町とは何ですか。どうすればそこにはいれますか。

      8 昔のイスラエルでは,殺人者は特別に指定された六つの都市の一つに逃げなければなりませんでした。そして,理由のない殺人という点で自分が無実であることを立証した後は,その時大祭司を勤めていた人が死ぬまでのがれの町に留まっていなければなりません。(民数 35:9-34)したがって,対型的なのがれの町は,血の尊厳に関する神の契約の違反に対する処罰から身を守る,エホバの備えといえるに違いありません。人はエホバの大祭司イエス・キリストの活発な奉仕の恩恵のもとに来て,そのもとに留まることによって,その町にはいるのです。イエスが地上で犠牲としてささげたその人間としての完全な命は,最初の人間アダムがエデンの楽園で享受した命と同価値のものでした。イエスはそのような罪のない命をなげうって死に,復活させられ,昇天して天の神の右に座した後,死んでゆくアダムの子孫のために,贖いの犠牲の価値をささげることができました。こうしてイエスは,人類を請け出す者,つまりわたしたちの最近親者となりました。ですから,その贖いの犠牲の恩恵が施されることによって,わたしたちの罪は清められ,また人類は神と和解できるのです。―ヘブル 2:14; 10:12。ロマ 5:11。使徒行伝 2章37-40節と比べてください。

      9 (イ)血の尊厳さに関する神の契約を破った人はみな,神の許しを求める上で何を行なわねばなりませんか。(ロ)パウロはどうしてその典型的な例ですか。

      9 血の尊厳に関する神の契約を破った人はみな,故意にしたにせよ,あやまってしたにせよ,神の許しを求め,また大祭司イエスのこの命の血に対する信仰によって自分の罪を取り消していただくよう,願い求めなければなりません。そして,キリストを通して神が設けてくださった備えのもとに従順に留まることによって,自分の犯した違反に対する誠実な悔い改めを示し,大祭司の義とそのすぐれた職務に信頼しなければなりません。使徒となったパウロは,タルソのサウロと呼ばれていたころ,クリスチャン会衆を迫害し,あまつさえクリスチャンを殺害することに賛成し,血に関する契約を破った者たちの典型的な例です。彼はこう述べています。「わたしはあわれみを示されたのです。わたしは知らないままに,そして信仰のないままに行動していたからです」。(テモテ前 1:13,新)エホバはキリストを通して,後日数多くの忠実なわざによって確証された,そうした悔い改めの態度をパウロの内に認めたので,血の復讐者である,復活させられたイエス・キリストは,後の「われらの神の刑罰の日」にさいしてパウロを殺すことはなさいませんでした。(イザヤ 61:2)イエスがご自身をサウロに現わし,真の教会に対するサウロの迫害はイエスご自身に対する迫害であることを暴露されたとき,サウロは悔い改めて,自分の行動を改め,それ以後,のがれの町にいるかのように,贖いの犠牲の恩恵を利用しました。―使行 9:1-19。

      清い良心を神に願い求める

      10 今日,人はどうすれば,神のみ前で清い良心を持てるよう努力できますか。

      10 あやまって人を殺した者が身の安全を図るには,古代ののがれの町にはいるだけでは不十分でした。その町に留まって,その町の差し伸べる恩恵を受けるには,故意に血を流すという点で神に対して清い良心を持っていることを証明しなければなりませんでした。今日,そのような清い良心は,人がキリストを通して自ら神に献身し,次いでバプテスマを受け,それを誠実に,また正直に神に願い求めているということを表明して初めて得られるのです。つまり,神に来る人は,神の律法を破って犯した自分の罪を認めなければならず,また神の意志を行なうという点で,自分の行動を改めなければならないということを意味しています。こうして,エホバに対する全面的な無条件の献身を行なわねばならず,次いでその献身の象徴として全身を水に没する浸礼を受けなければなりません。世の終わりが迫っている今は特にそうです。

      11 わたしたちが願い求める清い良心とは何ですか。どうすれば,それを保てますか。

      11 使徒ペテロは,人を救うバプテスマの効力およびクリスチャンの良心とのその関係について述べ,ペテロ前書 3章20,21節(新)にこう書きました。「これ[すなわち,ノアとその家族が当時の世の終わりにさいして箱船にはいって洪水を切り抜けたこと]に相当するもの,すなわちバプテスマ(肉の汚れを除くことではなく,神に対して正しい良心を願い求めること)がまた,イエス・キリストを通して今あなたがたを救っているのです」。神が設けてくださったバプテスマの取り決めに従うことによって,わたしたちが神に願い求める良心は,神に対する一切の罪から解放された良心です。それは,毎年繰り返しささげねばならなかった動物の犠牲とは違って,わたしたちのすべての罪を清めるイエスの贖罪の犠牲の備えに対する自覚です。神がわたしたちに与えてくださる,そのような正しい良心は,わたしたちがエホバとの清い関係にはいり,またエホバの偉大な大祭司の奉仕の益にあずかって,そうした関係のもとに留まることを可能にするものなのです。このような状態のもとに来る人たちは,この対型的なのがれの町で自分たちに割り当てられるわざを行ない続けることによって,そうした正しい良心を保たなければなりません。ですから,のがれの町に留まる上で,良心は重要な役割を演じます。

      12 どうすればわたしたちは,現代ののがれの町を出る危険な立場に身を置くことになりますか。

      12 キリスト・イエスの贖罪の犠牲に関する備えのもとで献身し,バプテスマを受けて,対型的なのがれの町にはいったわたしたちは,あらゆる罪の意識をあとにしたのですから,あの同じ自由を保持しつつ,その町の中に留まり続けるべきです。しかし,万一神に対して自分の良心をかたくなにしはじめ,のがれの町に避難した人に対するエホバの律法のささいな違反をさえ犯したことで自分を正当化しようとするなら,ついにはのがれの町から完全に出るようになる危険な立場に身を置くことになります。神の律法はそのみことばの中に,また終わりの時代の人類に対するご自分の意志と目的を理解させるために神が備えておられる聖書の出版物を通して,わたしたちのためにはっきり示されています。神の霊のこうした明白な導きを無視することは,わたしたちのクリスチャンとしての良心の導きを無視することです。良心を無視すれば,やがて良心がとがめる場合でも,人は苦痛も,あるいは動揺も感じなくなってしまいます。ついには,パウロが述べたように,良心は鉄の焼印で焦がされた肉のように堅くなってしまう場合もあります。そのような状態になると,良心は高慢な肉の人のように苦痛や罪の意識を少しも感じなくなります。そうなれば,やがて悪行に対して自己満足をいだくようになり,悪行を注意されようものなら,ついにはまるで,「それがどうしたというのだ。かまうものか」と言わんばかりの態度で問題を無視するようになりかねません。そのような無関心な態度を取るなら,わたしたちがはいるのを許された,のがれの町の備えを完全に無視するようになるだけです。もし,そのような状態,つまりそのような考え方に陥ってしまうなら,わたしたちを血の復讐者から守るものは何もありません。なぜなら,もはやわたしたちは,きたるべき「刑罰の日」にさいしては,安全を図る大祭司の恩恵のもとにあるその町にはいないからです。

      最後までしっかりとどまる

      13 どうすれば,対型的なのがれの町を出ることになりますか。どうすればそれを避けることができますか。その町を出る人たちはどんな危険に直面しますか。

      13 自分を頼りにするようになり,大祭司の犠牲に対する信仰を失い,その犠牲によって罪をおおっていただけるということをもはや信じなくなるのは,のがれの町を出ることであり,そうすればハルマゲドンにおける滅びに自らをさらすことになる以上,使徒パウロが次のように述べた警告に留意するのは賢明なことです。「それゆえわたしたちは,自分が聞いたことに普通以上の注意を払い,決して流されないようにすることが必要です」。(ヘブル 2:1,新)エホバの復讐者が行動を起こす時はいよいよ迫まっています。今はのがれの町の外で,つまりエホバの設けてくださったその聖域の境界をしるしづける牧草地の端近くの危険な場所で不意に見つけられるようなことをすべき時ではありません。エホバの義の要求からたとえほんのわずかでも逸脱できるなどと考えるわなに決して陥ってはなりません。人はどの時点で,『単に判断の点で適切さを欠く』人ではなくなって,エホバの備えを故意に無視するようになるなどと,だれがいえるでしょうか。コリント前書 4章4節(新)でパウロが次のように述べたことを思い起こしてください。「わたし自身,責められるようなことは何も意識しないからです。でもそれによって,わたしは義にかなっていると証明されているわけではありません。わたしを調べるかたはエホバなのです」。わたしたちに与えられたエホバのおきてを,もしわたしたちが故意に無視したり,破棄したりするのであれば,エホバを信じているなどと言えるでしょうか。たとえ一瞬でも対型的なのがれの町を出ることを思いめぐらすのは,神の血の復讐者からわたしたちを救うよう神をそそのかすことなのです。それに,そのような状態にある人がほかならぬ今,「大患難」の始まる以前に自然の原因で死に直面せざるをえない場合,その人は復活にどのようにあずかれるのでしょうか。わたしたちは偉大な大祭司の奉仕に十分信頼し,復活の時が到来するさい,血の復讐者がわたしたちを思い起こして恵みを施すに足る十分確かな根拠を信仰をもって据えることを決してなおざりにすべきではありません。(マタイ 24:21,22)この「終わりの時」にそうしないなら,永遠の滅びを意味しかねません。そのような人は,きたるべき「大患難」を生き残る特権にはあずかれないでしょう。そのような人は処刑されてしまいます。

      のがれの町から解放される時

      14 天的な希望をいだいて今地上にいる人たちは,対型的なのがれの町にいつまで留まっていなければなりませんか。なぜその時まで留まっていなければならないのですか。

      14 以前流血の罪を犯した人は,のがれの町の中にいつまで留まっていなければなりませんか。大祭司の奉仕をもはや必要としなくなる時までです。パウロはヘブル人にこう書き送りました。「それゆえ,彼は自分を通して神に近づく者たちを完全に救うこともできます。常に生きておられて彼らのために願い出てくださるからです。このような大祭司,忠節で,偽りも汚れもなく,罪人から分けられ,もろもろの天よりも高くなられたかたこそわたしたちの必要にかなっていたのです」。(ヘブル 7:25,26,新)したがって,そのような奉仕は,「大患難」を生き残っても,人間としては不完全な状態にある人たちのためのものです。何らかの流血の罪が存続するかぎり,神との正しい立場を維持するためには大祭司の奉仕が必要です。霊的な子となり,キリストと共同の相続人になるよう神の聖霊によって油そそがれた人たちは,死んで自分たちの地上の歩みを忠実に終え,そうすることによって自分たちの人間性を永遠に犠牲にする時まで対型的なのがれの町に留まっていなければなりません。キリストの犠牲は人間性を持つ者にのみ適用されるのですから,大祭司は,ご自分の人間としての犠牲の価値を用いてそれら共同相続人のために働く必要はもはやないという意味において彼らに対しては「死ぬ」ことになります。というのは,「キリストと共同の相続人」の「小さな群れ」の場合,彼らは復活にさいして人間から霊者に変えられ,それ以後は「神の性質」を持つ者として天に住むからです。―ルカ 12:32。ロマ 8:17。ペテロ後 1:4,新。

      15 地的な希望をいだいている人たちは,その対型的な町をいつ自由に出ることができますか。それは彼らにとって何を成し遂げるものとなりますか。

      15 しかし,地的な命の希望をいだいて「大患難」を生き残るそれらの人たちは,ハルマゲドンにおいて神の敵が滅ぼされ,人類の幾世代にもわたって殺害されてきた無実の者たちの血のための懲罰が加えられる時に,のがれの町から解放されるわけではありません。この「大群衆」に属する人たちは確かに,エホバの刑執行者としての血の復讐者が行動を起こす前に,小羊の血で自分たちの衣を洗って白くしたにちがいありません。それでも,「大患難」は彼らの流血の罪を取り除くわけでもなければ,アダムから受け継いだ罪を直ちに除くわけでもありません。彼らは神に対して清い良心を持ってはいても,人間としての完全性を取り戻して,もはや大祭司の奉仕を必要としなくなる時まで,対型的なのがれの町の境界内に留まって,その清い良心を保ち続けなければなりません。その時はいつ到来するのでしょうか。それは彼らがキリストの千年統治の終わりに人間としての完全な状態に達し,完全になった彼らをキリストがエホバにゆだね,彼らの忠誠の真価が最終的に試される時に初めて到来するのです。彼らが偉大な大祭司イエス・キリストのそうした保護のもとから出るとき,キリストは事実上,大祭司としては彼らに対して死にます。というのは,彼は罪を清めるご自分の犠牲の血を用いて彼らのために行動する必要はもはやなくなるからです。

      16 復活させられて地上に生き返る人たちは,対型的なのがれの町に対してはどんな立場に立ちますか。

      16 では,イエスの千年統治の期間に復活させられる人たちについてはどうですか。それらの人びともやはり,のがれの町にはいって,「大祭司の死ぬ」までそこに留まらなければならないのでしょうか。いいえ,そうではありません。なぜなら,彼らは自らの死によって自分たちの罪のための科料を支払ったからです。(ロマ 6:7)全人類の共通の墓に下ることによって罪を免じられたのです。死のもとから出てくる彼らは今や,対型的なのがれの町ではなくて,永遠の命に至る道を歩むのです。その命の道を歩み続けるなら,彼らもまた,人間としての完全な状態に達するよう,大祭司によって援助されます。そして,キリストの千年統治が終わったのち,最後の試験を通過するなら,彼らもエホバによる義の宣告を受け,地上での限りない命の保証を受けます。しかし,その日,人類に適用される神の要求にかなわないなら,最終的な有罪の裁きを受けて,千年ほど前の「大患難」のさいに処刑された人びとと全く同様,永遠に滅ぼされるでしょう。

      17 大祭司の「死」に関してはどんな質問が生じますか。

      17 しかし,ヘブル人にあてて書かれたパウロの次のようなことばについてはどうかと尋ねるかたがいるかもしれません。「この希望を,わたしたちは魂の錨,確かなもの,またゆるがぬものとしていだいており,それは幕の内側に入るのです。そこへは前駆者がわたしたちのために入られました。それは,メルキゼデクのさまにしたがい永久に大祭司となられたイエスです」。(ヘブル 6:19,20,新)大祭司としてのイエスの奉仕が,千年の終わりに人類の世に対して終わるというのであれば,どうしてイエスは永久に大祭司になられたと言えるのでしょうか。どのようにして大祭司として永久に存続するのでしょうか。

      18 偉大な大祭司のどんな奉仕は終わりますか。しかし,そうだからといって,人類とその大祭司との関係がすべて終わるわけではありません。なぜですか。

      18 ユダヤ教の様式では,大祭司は文字どおりに死に,大祭司としての奉仕だけでなく,その命も終わりました。より大いなる大祭司イエス・キリストの場合はそうではありません。人類がエホバのみ前で義の点で全き立場に導き入れられるとき,大祭司の資格でなされるイエスの奉仕は確かに終わります。しかし,イエスはエホバの右で永遠に存在し続けます。人類に対して仲介の役をする大祭司としてのイエスの務めは終わりますが,その命は終わるわけではありません。人類を治める王また大祭司としてのその奉仕のすぐれた効果は人類とともに永久にとどまり,また人類は自分たちのために王および大祭司として仕えてくださったイエスの恩に対して永遠に感謝することでしょう。彼らは永遠にわたってイエスの名のゆえにひざをかがめ,イエスは主であると言い表わして,栄光を父なる神に帰すでしょう。(ピリピ 2:5-11)その時,人類に対するイエスの奉仕は,その贖罪の犠牲を人類に適用する点ではもはや必要ではなくなります。しかしイエスは,エホバの用いられる偉大な管理者また代弁者として,エホバへの賛美を増し加える点で,また全宇宙を統一する崇拝を指導してエホバに栄光と誉れを帰す点で傑出した者として疑いもなく永遠に存在し続けます。

      19 今わたしたちをささえることができるのは何ですか。わたしたちはどんな真剣な努力を払うべきですか。

      19 その時に至るまで生き残るそれら幸福な者たちのひとりとなるのは,なんと祝福された特権でしょう。この驚くべき備えを可能にしたエホバのあわれみに対してわたしたちはどんなにか感謝することでしょう。これこそ今わたしたちをささえうる希望です。命そのものを大切にするとともに,その希望を大事にはぐくめますように。流血の罪を負う世のこの「終わりの時」の今,エホバののがれの町に留まることは,わたしたちにとって命を意味するからです。

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