-
ヱホバの制度に尊敬を示しなさいものみの塔 1957 | 8月1日
-
-
11 或る事柄に不足しているように見える会衆内の者を無視することによつて何が示されますか。しかし,そのような者に対する正し態度は何ですか。
11 今日,神の民と交つている人の中で,この世的な物質を少ししか持つていない人がいます。また,流暢に話しができない人とか,この世の良く言う『社交的な優雅さ』に欠けている人もいます。会衆内のそのような者を無視すること,更に悪いことにそのような者を見下げることは,制度全体に対して不敬を示すことです。パウロはこう問うています,『あなた方は神の会衆を軽んじ,貧しい人々を恥ずかしめるのか。』(コリント前 11:22,新世)品物を余分に持つている人々が,品物に欠乏しているように思える人々の友情の交わりをつちかうなら,新世社会内にいる兄弟たちの一致と愛は更にどれ程良く表明されることでしよう! 施しをすることはみな一方的なことである,というように相手を卑下するような気持でなされてはなりません。たとえ,この世の富に貧しく見える者も,信仰の霊的な業には富んでいるからです。その多くの者たちは試錬や試験に生き残つて来たのであり,ヱホバの御心に全くかなうようになつているのです。本当に,彼らはパウロが次のように書いたピリピ人のようです,『大いによろこんで,主にあつて彼を迎えてほしい。また,こうした人々は尊重せねばならない。彼は私に対してあなた方が奉仕のできなかつた分を補おうとして,キリストのわざのために命をかけ,死ぬばかりになつたのである。』(ピリピ 2:29,30,新口)これと同じような経験をしなくても,ヱホバの制度内にいるものはみなヱホバにとつて大切な者です。それですから,その一人を軽んずることはヱホバ御自身を軽んずることになるのです。また,この僕を召して,祝福にあずからせるヱホバの智を疑うことになるのです。ヱホバは御自分の愛する者すべてに祝福を注がれます。
12 神の径路に不満を感ずることは,制度を尊敬しない或る者によつて,どのように示されますか。
12 神の見える制度に交つている人々の中の少数の人は,神の径路を通して示される神の御言葉についての光に満足しません。それらの少数の者たちは,自分勝手な解釈をしたり,あるいは「ものみの塔」の中に一言も述べられていない事柄を『読み取ろう』と努め,それからそれらの事柄をあたかも真理であるかのように言いひろめます。或は,食物,年代についての意見,その他についての確信は聖書の裏づけを持つているという態度を取ります。そして,シオンの忠実な子たちの間に改宗者を得ようと努めます。彼らの行は次のことを言つているようです,すなわちヱホバの道は正しくもなければ十分でもない。そして,「ものみの塔」は現代に対して充分なものではない,ということです。
13 (イ)或る少数の者は,どのように制度を『支配しよう』と努めますか。(ロ)年齢や真理にいる年月にかかわりなく,僕たちに対する正しい見方は何でなければなりませんか。
13 また,権威を握つて,制度を『支配しよう』と努める者も少数います。或る者の計画は極めて巧妙であつて,一種の『会衆意見』をつくり上げることにより会衆の奉仕委員に影響を及ぼそうと図ります。彼らは人目につかない小さな運動を起して,個人的な意見をひろめ,他の者たちに感染させます。大問題も時折りに些細な事柄から生じるのです。責任の地位についている者たちに圧力を加えたり,あるいは個人的な事柄や意見を拡大しようと図ることは,『議員に働きかける運動』という政治形式です。そのようなものは,新しい世の考えに従う神の僕たちの中にあつてはなりません。(ロマ 16:17,18)家事の切り盛りをしようとする子供は『手に負えない』子と考えられます。その子にはこらしめを与えねばなりません。不平を言う者がたとえ年上で,神の奉仕に従事していた年月が長くても,会衆内の僕の意見よりも自分自身の意見を好むものは,謙遜な態度の中に次のことを自問すべきです,『私たちの年齢というものも,私たちの「母」の年齢や,父の永遠なることとどのようにくらべることができようか。』会衆の僕たちは,年齢にかかわりなくヱホバの制度の神権的な任命を受けているのです。それで,それぞれの義務を果す際には統治体とヱホバの制度全部の経験および権限によつて支持されているのです。このことから僕は自分の責任の重大性を認識しなければなりません。同時に,不平を言う者は,『母』制度の職務代表者に向つて反対しているということを認識しなければなりません。この理由の故にパウロは次のごとく諭しているのです,『あなた方若い者たちよ,年上の人に従いなさい。また,みな互に謙遜を身につけなさい。』― ペテロ前 5:5。新世。
14 会衆内の各人が,会衆の管理の諸問題に心配をすることはなぜ正しくありませんか。
14 それを拒絶することは,会衆の僕たちに向つて次の言葉を述べることと同じです,『なんじらはその分を超ゆ。会衆みなことごとく聖き者となりて,ヱホバその中に在すなるに,汝らなおヱホバの会衆の上に立つや。』(民数紀略 16:3)これは,モーセとアロンに逆らつたコラ,ダタンおよびアビラムの取つた行で,その結果は災をまねくものでした。たしかに,ヱホバは御自分の民の中に在まして,神の与え給う任務を忠実に成しとげるすべての者に豊かな祝福を注がれます。しかし又,神は神権制度を建てて,その王を御座に即かせました。王は事柄を秩序正しく指示します。それで会衆の決定を為すように『君』として任命されている者たちは,その責任を担うことができます。ヱホバやその王に抑圧をかけて,それと異る取極めに祝福を注がせることができますか。『各人その目に善しと見ゆるところをなし』て,国民が非常に悪い邪道に幾度も踏みこんだイスラエル当時の会衆の仕組みにしてはなりません。ヱホバが私たちをかくも保護されたことに,私たちはなんと感謝しているのでしよう! それで,私たち各人は『御国のこの良いたより』を伝道せよという神からの任命を為しつづけましよう。そして,会衆の事柄の管理はその責任を持つ者に委ねましよう。
15 ヱホバの制度を尊重するどんな模範が,世界中にある支部によつて示されていますか。
15 制度の一致を保つためには,今日の神の民の中に占める統治体の地位を認めて,それを尊重しなければなりません。これは全世界に散在している支部制度の採つている道です。支部制度は自分自身の独立した小さな制度を保とうとしません。それどころか,大切な事項は統治体の決定を俟ちます,使徒パウロも割礼についての大切な問題については,統治体の決定を俟ち,またイスラエル会衆内にいたモーセの忠実な補佐たちも,そのような道に従つたのです。―使行 15:2。出エジプト 18:26。
16 ヱホバの制度に正しい尊敬を持つことは,どうして人間に盲目に従うことではありませんか。
16 このことは,イエスの警めた人間に盲目に従うというものではありません。『盲人が盲人を手引きするなら,二人とも穴に落ちこむであろう。』とイエスは言われたとき,彼は偽りの宗教家たちの不忠実な行に言及していました。(マタイ 15:14,新口)イエスは,すぐに欺かれてしまつたイスラエルの人々に言及したのです。彼らは盲目の指導者の自己称賛を聞くだけで,指導者を受け入れました。同時にイエスは,盲目の指導者に盲目に従うキリスト教国内の人々に非難しました。彼らは,神の御言葉によつて指導者に対する要求を識別しようともしなければ,その働きの故に指導者に従おうともしないのです。このことから,次の事実が強調されます,すなわちヱホバの制度内にいる者はみな神権的な活動の中に教育を受け,責任の地位に即くよう訓練されねばならないということです。なぜなら,ヱホバの制度は奉仕者たちによつて構成されている神権的な社会であり,教職者制度でないからです。僕の地位が空位になるとき,会衆外の人が,特別に訓練された者としてその地位を占めるわけではありません。会衆の定期的な一部分として奉仕をなし,かつ責任を忠実に果すことによつて必要な資格を備えたものがその地位を占めます。この理由の故に制度内にいる各人は,神権的な取極めを学び,監督の地位を求めます。その奉仕を忠実に成しとげている兄弟の地位を野心の気持から奪い取ろう,と努めるのでなく,むしろ霊的に適用することにより,もしその責任が自分に与えられるなら,その責任を正しく果すだけの資格を得ようと,努めるのです。―ヤコブ 3:1。テモテ前 3:1-13。
17 神権的な奉仕者にとつて,正しい従順はなぜ重要ですか。
17 真実の監督に対する特筆すべき要求の一つは,謙遜です。ペテロが次の言葉を書いたのは,私たち個人の進歩と,群としての神権的な進歩のためです,『あなた方は主のゆえに,人間のたてたものすべてに従いなさい。主権者としての王(すなわちキリスト・イエス)であろうと,あるいは,悪を行う者を罰し善を行う者を賞するために,王からつかわされた支配者(すなわち,王の見える代表者,『君たち』)であろうと,これに従いなさい。』― ペテロ前 2:13,14,新世。
-
-
確められた忠実な兄弟たちを信用しなさいものみの塔 1957 | 8月1日
-
-
確められた忠実な兄弟たちを信用しなさい
『あなた方の指導者たちの言うことを聞きいれて,従いなさい。』― ヘブル 13:17,新口。
1 ヱホバの制度を愛するからといつても,不敬を示すことはない,となぜ保証できませんか。
家庭における子供のしつけは,その行によつて表わし示されます。新しい世の社会の立てている良い記録は,上にある大きな母制度から頂く素晴らしい教えを如実に表わすものです。新しい世の社会内に表面立つた反対があるなどということは,先ず知られていません。といつて,自己満足してはなりません。大ていの子供たちは自分の両親を愛してはいませんか。すると,子供たちが不敬の態度を取るようなことは決してないのでしようか。一番良くしつけられ,一番良い行儀を教えられた子供たちも,時折り小さな事で腹を立てます。母親の言うことを聞かない子供たちは,こらしめを受けねばなりません。母親が『お父さんが帰宅するまで待つていらつしやい。』と言うのを耳にしますか。『教訓のこらしめは生命の道なり』というシンゲンの言葉を忘れてはなりません。それですから,天の御父が妻のごとき制度を通して私たちをこらしめるとき,それは私たちを教えて,父と母を正しく敬う真実に円熟したクリスチャンに成長せしめるためです。私たちの父は,私たちの訓練については母に責任を取らせます。そのわけでパウロは次のように書きました,『あなた方の指導者たちの言うことを聞きいれて,従いなさい。彼らは,神に言いひらきをすべき者として,あなた方のたましいのために,目をさましている。彼らが嘆かないで,喜んでこのことをするようにしなさい。そうでないと,あなたがたの益にならない。』― ヘブル 13:17,新口。
2 外部における私たちの行動は,制度にどんな影響を及ぼしますか。
2 この理由にもとづいて,パウロは特定な会衆を監督したテトスにこう諭したのです,『彼らにすすめて,支配者,権威ある者に服し,これに従い,いつでも良いわざをする用意があり,だれをもそしらず,争わず,分別心を持つて,すべての人に対してどこまでも柔和な態度を示すべきことを思い出させなさい。』(テトス 3:1,2,新世)『いつでも良いわざをする用意がある』ということの中には,制度の外部であつても,御父と母の良い名に非難をもたらさない仕方で振舞うということも含まれているのです。私達は自分勝手な生活を,もはやいたしません。私たちの生命は,イエス・キリストの血によつて私たちを買われた神に属しているのです。その故に,私たちはキリストを通して神に従わねばなりません。キリストは,私たちの母である神の妻のごとき制度内における主要な方です。両親は子供によつて知られます。それで,目に見える新しい世の社会にそしりをもたらすことは,ヱホバ神とキリスト・イエスおよび私たちの母にそしりをもたらすことです。
3 うわさ話は,どのように制度にそしりをもたらしますか。
3 次にパウロは,『だれをもそしらず』と言つています。うわさ話は私たちの母にそしりをもたらします。どうして,そうですか。なぜなら,私たちの兄弟は神の新世社会の一員であり,もし兄弟をそしるなら,母制度の主要な成員であるキリストに向つてそしることと同じだからです。兄弟がたしかに悪いことをした,と仮定しましよう。その兄弟の恥さらしをするなら,私たちの母に帰せられる尊敬は増し加えられますか。その行は,イエスがマタイ伝 25章で述べている二つの級の中のどちらにふさわしいものですか。イエスに食物と服を与えた『羊』の級にふさわしいですか,それともイエスに何一つ施さなかつた『山羊』の級にふさわしいですか。うわさ話は霊的な必要物を無視するよりも更に悪いものです。なぜなら,その上にそしりと恥をつけ加えるからです。母の子たちの一人には鞭打が必要であると考えるとき,その者の背後にかくれて舌先の言葉でしようとしてはなりません。制度を通して正しく私たちの御父の裁量にゆだね,必要な矯正は御父がするようにしなさい。それは尊敬を示す仕方です。さらに,もしそうしないなら,あなたは『山羊』級のような行をしていることになるかもしれません!
4 新世社会内ではなぜ争いはありませんか。
4 パウロは『争わず」と言つています。或る子供たちはいつもけんか早い,ということに気づいたことがありますか。そのような子供は他の子供のすることは何一つ気に入らないし,それに話すときにはいばりくさつた,人を見下げた調子で言います。そのような子供たちが好きですか。好きでないでしよう。それでは,そんな子供たちの乱暴な性質を真似るなどのことはあつてはなりません。いつも喧嘩腰で一寸のことでも喧嘩をふきかける,などのことがあつてはなりません。新しい世の社会内で青少年犯罪者になりたいと,欲している人は果していますか。
実際的な仕方で従うこと
5,6 (イ)僕たちのことを批評することは,どのように信用の欠如を表わし示しますか。(ロ)協会の助言を適用させることについて,しなくても良いだろうという様に考えることはどのように災のものですか。
5 いません。パウロは『分別心を持て』と強くすすめています。つまり,事柄をする際の神権的な仕方を理解し,それに一致するように努めることです。制度内に生ずる或る事柄は理解できないかもしれません。僕たちのなす行は,悪いと考えられることでしよう。すると,分別心のない態度とは批評することです。私たちはその事柄に関するすべての事実を知ることもできないし,またたいていの場合には知らないのです。ところが,分別心のない人はそのようなことをすこしも考えません。自分には理解できないからという理由の故に,その行はことごとく悪い,と即座に結論してしまいます。私たちの中で核物理学を知つている人がいますか。だが水素爆弾は,その製作者の結論が真実に実際なることを絶対に証明しています。それであるなら,水素爆弾が理解できないという理由の故に,水素爆弾を裏庭で爆発させるなどということは愚かではありませんか。神の家族内にいて分別心のない不敬の態度を取ることは,水素爆弾を爆発させることと同じほどに災をもたらすものです。
6 実際,それ程重大なものですか。しばらくの間,考えてごらんなさい。不従順なサウロにどういう事が起つたかを考えてごらんなさい。彼はヱホバの御言葉と御名を立証せよという神権的な役割を果すのを怠りました。そのため,ヱホバの代表者サムエルより当然な宣告を受けるにいたつたのです。(サムエル前 15:1-3,11,22,23)本部からの助言や,地方会衆内の僕たちの助言を無視することは,不注意な行動であつて,神権的な権威者に不敬の態度を示すものです。或る指示は,聖書的な正しい原則を持つていると認めながらも,自分たちにかかわるものでないし,その指示通りにしなくても良いだろう,などと心の中に考えることがあるかもしれません。これは,制度に対する支持と『御国のこの良いたより』を伝道せよという使命に対する私たちの支持が全面的でないことを示します。このような指示は格別に重要なものでない,大切なことは「ヱホバの櫃をエルサレムに舁き上らす」ことだと考えるかも知れまん。ヱホバに讃美を歌つても,又たとえ意図が良くてもヱホバの祝福の報を十分に頂けるわけでない,とダビデは悲しみの中に(ウザの死をまねいたのです)学びました。真の崇拝はヱホバの定め通りになされねばなりません。そして,些細と見えるものも,もし神の制度の径路を通して来るものであるなら,大切なものです。―歴代志略上 13:6-10; 15:11-15。
7 (イ)神の見える制度の統治体に信用をしても大丈夫ということは,どのように示されますか。(ロ)この信用はすべての御国伝道者によりどのように示されますか。
7 ヱホバの制度に尊敬を持つとは,確められた忠実な兄弟たちに信用することを意味します。これらの兄弟たちはつらい目に多く会つて,経験を重ねることにより,神の御霊を頂いている事を示しています。目に見える制度の上に注がれる豊かな祝福から,統治体と統治体を代表する者には十分の支持と信用を与え得ることが明白に証明されます。『忠実にして慧き奴隷級』を通して主より来るあらゆる御準備を受け入れることにより,支持と信用を表わし示すことができます。それで,会衆内の僕として選ばれている者たちは,主の代表者として統治体を通してなされる自分の任命をよろこんで受け入れるべきです。そして,統治体自体が行うのと同じように自分の任命の義務を忠実に果さねばなりません。つまり,会衆内のすべての者は真の径路から来る神権的な助言を認めつつ,自分の業を成しとげねばならないということです。すなわち,家から家の業をすること,再訪問をすること,家庭聖書研究を司会すること,そして特に今では雑誌の活動に十分の支持を与えることです。協会の取極める特別な文書運動に参加するため,十分な準備をすることを意味します。できる立場にいる人々は開拓者になり,またすでに開拓者になつている人は機会が開かれるなら特別開拓者の業を真剣に考えることを意味します。物質的な寄附によつて協会を支持することを意味します。兄弟愛の真実の精神によつて互に助け合うことを意味します。そして,私たちの福利を図り給うヱホバとその母のごとき制度に感謝を示す機会を得るよう絶えず心がけなさい。彼の子供たちである私たちの兄弟に真実の愛情を示すことによつて,このことが一番良く表わされるではありませんか。
8 「ものみの塔」誌を通して与えられる助言に対する不敬はどのように示されますか。それは実際にはどういうことと同じですか。
8 私たちは神権的な教育と行為にいつも進歩を図らねばなりません。私たちはみなそのことを知つています。私たちは『ものみの塔』誌を通して神の制度から絶えず助言を受けています。『ものみの塔』誌は神権的な生活の仕方を告げている雑誌です。いまこれらの事柄を直ぐに忘れて日常生活に適用しないなら,そしてその努力をもしないなら,私たちの母の教である律法になんと背くことになるのでしよう! それはヱホバの倉に什一のすべてを納めることではありませんし,私たちは豊かな祝福を得そこなうことになります!(マラキ 3:10)実際には私たちはヱホバの食卓をないがしろにしており,「私たちの母の教を棄てて」助言を無視しているのです。私たちの行は,見える制度が処置を取るほどのものでなく,認め得るほどのものでないかもしれません。しかし,天の御父は必らず見て居られるのであつて,御父が処置を取られることは絶対に間ちがいありません。
共同社会の精神を建て起す
9 制度内の各人は,業を助けるためのどんな重要な役割を果たすことができますか。
9 ダビデの詩篇にも述べられているように私たちは神の家の内にいる責任ある者たちに対して,なんと強い感想をいだいていることでしよう,『ヱホバよ我なんじのまします家となんじが栄光のとどまる処とをいつくしむ。』(詩 26:8)そして,イエスが宮から両替人たちを清めたとき『弟子たちは「あなたの家を思う熱心が,私を食いつくすであろう」と書いてあることを思い出した。』(ヨハネ 2:17,新口)或る人々は,ヱホバの崇拝の家の中で占めている自分の地位が重要なものでない,と感じているかもしれません。しかし,祈りの態度を保つなら,それらの人々は重要な役割を果しているのです。信じて下さい。パウロの言葉はこう示しています,『あなたがたもまた祈りをもつて,ともどもに,私たちを助けてくれるであろう。これは多くの人々の願いにより私たちに賜わつた恵みについて,多くの人が感謝をささげるようになるためである。』(コリント後 1:11,新口)確められた忠実な兄弟たちがパウロの誠実な次の願を唱和して言うとき,彼らに信用を置いても絶対に大丈夫であります,『私たちの為に,祈つて欲しい。私たちは明らかな良心を持つていると信じており,何事についても,正しく行動しようと願つている。』― ヘブル 13:18,新口。
10 度を越して感受性を強くしたり,または直ぐに腹を立てることは,どのように不敬と信用の欠如を表わしますか。
10 パウロは又『すべての人に対してどこまでも柔和な態度を示す』ことにより,あるいはエペソ書(4:2,新口)の中で述べられているごとく『愛をもつて互に忍び合う』ことにより,分別を持てと述べています。それで,一寸したことでも直ぐにふくれるようなことがあつてはならず,度を越して感受性を強くしたり,又は容易に腹を立ててはなりません。しかし,このようなことは,どうして制度に対する不敬となりますか。詩篇 119篇165節はこう述べています,『なんじの法を愛するものには大なる平安あり。かれらにはつまづきを与うるものなし。』一人の兄弟の故に感情を害せられるような場合は,その兄弟のなしたことは全く悪いものかも知れません。しかし,悪を二つならべても善は得られないのです。その兄弟の為したことに腹を立てて,つまづくなら,神の法をないがしろにしたことにより,私たちは悪行に加わることになります。一方,聖書的な道を採り,その者一人のところに行つてその問題を解決するなら神の御言葉に対する敬意を示すことができます。それが旨く行かないなら,その事柄を解決するために円熟した兄弟たち,又は必要ならば会衆の僕たちの援助を受けることもできます。かくして,制度に対する確信を示すことができます。
11 共同社会としての会衆の健康と精神は,正しい服従によつてどのように保たれますか。
11 私たちは争いごとや利己的な利害のみを追求する古い世から出て来ました。しかし,私たちは時折り新しい世の社会として生活している,つまり私たちは一つの共同社会である,ということを忘れ勝ちになります。私たちにはこの腐敗した亡び行く世の裁判所とか仲裁所は必要でありません。私たちは神の御霊と神の愛を持つています。私たちに対する神の取り極めを支持しつづけるなら,それらは保たれて行くでしよう。私たちは協会のすべての事柄に積極的な関心を持ち,かつ心はげます神権活動のすべての計画に熱心に参加することにより,会衆の共同社会を保持しつづけるのに最善をつくしましよう。共同社会の健康をもたらすすべての要因に,私たちは十分気づいています。また共同社会の精神を弱らせるすべての要因にも気づいています。それで,平和のきずなの中に会衆の一致を保つよう私たちはみな熱心に努めねばなりません。パウロは油注がれた残れる者の親密さについて次のように書きましたが,彼の語つている事柄は関心を一つにさせる同じ精神のことです。『もし一つの肢体が悩めば,ほかの体肢もみな共に悩み,一つの肢体が尊ばれると,ほかの肢体もみな共に喜ぶ。』(コリント前 12:26,新口)『視よはらから相むつみて共におるは,いかに善くいかに楽しきかな』とダビデは歌いました。(詩 133:1)パウロがエペソ人に更に次のように書き送つたのは,この精神を保たせるためでした,『キリストに対する恐れの心をもつて,互に仕え合うべきである。』(エペソ 5:21,新口)制度の援助を拒否して,不和の種子を根づかせるなどして制度に不敬な態度を示すよりも,私たちの兄弟たちを信用することはなんと良いのでしよう!
12 清潔にするという正しい習慣によつて共同社会の精神はどのように建て起されますか。すべての人は,どのように参加することができますか。
12 ヱホバの証者は,その清潔さと秩序正しいことで有名です。大会会場の取り扱い方には,外部の人々はいつも驚嘆の声を放つています。清掃係りの者が組織化されているだけでなく,出席者全員も会場のまわりに紙屑を散らさないようにして特別の努力を払つているのです。各人は制度の名声にたいして明確な責任を取ります。そして,清い健全な空気の中にヱホバ讃美の集会を開くことによろこび,そしてヱホバ御自身が代表を通して臨在されていることを認めます。このことは地方の御国会館でも同じです。しかし,会衆内の或る者が時折り思慮のない行いをすることにより制度に不敬を加えることがあります。どうしてそうですか。順番にする会館清掃の当番に参加しなかつたり,子供たちが通路のところに紙を散らかしても,子供を止めさせようとしないことです。次のようなことは滅多にありませんが,それでも子供たちが壁の上や会衆所属の歌の本の上に落書しても両親は止めさせようとしません。また,子供よりも年長の人々は区域の地図の上に何かを書きつけます。会衆のものはみな御国のものであつて,御国の事柄を取り扱うときの尊敬の念をもつて取り扱わねばなりません。極く稀な例外をのぞいては,新世社会の人々は自分の家庭の場合と同じように御国会館を綺麗に清潔に保とうとします。各人の家庭は,清い心を持ち新しい世の生活をする人々をいつも反映しているものです。会衆の僕たちは私たちの為に常に奉仕しています。それで,このような面の一つで会衆を援助して頂きたいと頼まれるときには,できる丈のことをして協力をしなければなりません。パウロも次のように述べています,『どうか,このような人々と,またすべて彼らと共に働き,共に労する人々とに,従つてほしい。私の心とあなた方の心とを,安らかにしてくれた,こうした人々は,重んじなければならない。』― コリント前 16:16,18,新口。
13 集会に後れて來たり,注意を払わない習慣は,なぜ考えのない不敬の事柄ですか。
13 それから又,集会に後れて来たり,集会の行われている間,不注意な或る人々の習慣を真剣に考えたことがありますか。子供の例をもう一度取つてみましよう。その子供は食事が始まつて,食物に対して感謝の祈が捧げられた後になつてから食卓のところに来るのが習慣になつていると仮定してみましよう。手も洗わなければ頭の毛に櫛もあてない ― 食事を取る際の身だしなみをすこしもしないで ― それから食卓のところに坐つて自分の皿のまわりに食物をぐるりと集め,他の者に何一つ廻さないとしたらどうですか。その食物はあなたが一生懸命になつてこしらえたものなのです。その晩の食事にお客がいると仮定してみましよう。その子供を自慢に思いますか。その子供の考えのない態度,無礼な態度にかえつて恥ずかしく感じませんか。さて,会衆の霊的な御馳走の場合には,お客がいるのです。全くのところ,お客以上の方がいるのです,初めての方とか,最近に興味を感じた善意者が出席しているというのでなく,私たちの主イエス・キリストなのです。主イエスはこう言われました,『ふたりまたは三人が私の名によつて集まつている所には,私もその中にいるのである。』ヱホバの証者で自分の天の父や,母親のごとき制度を故意に侮辱するような人はいないでしよう。それなら,考えのない行でなぜ侮辱してしまうのですか。私たちの兄弟たちは,天の御父が備えられた霊的な御馳走を準備するのに一生懸命はたらき,多くの時間を費しました。兄弟たちは,よろこんでそうしつづけます。新しい世の社会の大多数の人々は,テサロニケ人に与えたパウロの次の助言に注意をはらつているからです,『兄弟たちよ。私たちはお願いする。どうか,あなた方の間で労し,主にあつてあなたがたを指導し,かつ訓戒している人々を重んじ,彼らの働きを思つて,特に愛し敬いなさい。』― マタイ 18:20。テサロニケ前 5:12,13,新口。
ヱホバの導きの力に頼る
14 確められた忠実な兄弟たちを信用することは,なぜ安全ですか。何処かが悪いと信ずるなら,私たちの態度はどのようなものでなければなりませんか。
14 ヱホバの制度に尊敬を示すことは,つまりは神の見える径路に対する私たちの態度,および確められた忠実な兄弟たちに置く信頼に帰します。これはヱホバの制度であるとかたく確信するなら,またヱホバは御自分の民を導いて指示せられているとかたく確信するなら,いかなる事が起ろうとも動揺することはないでしよう。私たちには理解できないことに出会うなら,それが全く明瞭になる時まで
-
-
大会で敬意を示しなさいものみの塔 1957 | 8月1日
-
-
大会で敬意を示しなさい
講演者は非常に良い話をしています。新しく興味を感じた夫婦は,その霊的な食物に驚嘆しています。夫婦の前に坐つていた人は,会場を出て食堂に行こうと決めます。前の方に歩いて行く別の人は,旧友を見て手をはげしく振ります。隣りの席に座つている婦人は,『あそこに〇〇さんがいるわ』と夫に告げます。それらの人々にとつては霊的な食物は極く僅かな価値しかないから,謹聴に値しないものに思うらしいと,新しく興味を感じた人々は考えるでしよう。聴衆内に考えの足りない不敬な人々が二,三人いるだけで,それらの人々の熱意が冷くなるのも尤もな話です。
良く聴いて分析し,覚え書を記して,そして家路につくときに新しい点を論じなさい。遅れて入つて来たり,早く出て行くようなことをしてはなりません。いつもなぜ一番最後まで留まりますが。良い模範を示すという為だけでなく,集会は祈りで閉じられるからです。その日一日のプログラムに対する感謝をヱホバ神に言い表わしたいと,欲しませんか。ほんの数分を節約するために,祈りをしないで出て行くことは神に対して,祈りをしている者に対して,そして自分の兄弟たちに対してのはなはだしい不敬であります。それは,1年の中のわずか数日のことです。5分を節約すること,または30分を節約することは,それほどに大切ですか。
もちろん,割り当ての仕事があつて退場しなければならないなら,退場して下さい。突発の事柄が起きるとか病気になるなら,退場をためらわないで下さい。しかし,プログラムが正式に終了する以前に退場する人は,そのような集まりの重要性に対するヱホバの証者の態度を表わしていません。大多数の人々は,不敬を示す者と同じであると思われたくありません。或る人が無分別にも不敬を示すのを見て,大多数の人々は恥ずかしく思います。
それで,音信に格別の注意をはらい興味を持つていると,他の人々に示しなさい。講演中には,廊下を歩いてはなりません。廊下には人影が見えず,ひつそりとしていなければなりません。このような認識の示されている大会に出席することは,非常なよろこびです。しかし,他の大会のときには,考えの足りない人は異つた習慣を持ち入れています。だが忘れてならないことは,そのような不敬の態度は制度を代表するものではないと,いうことです。神経のいらだつたこの古い世は,じつと座つたままでいることはできません。みなさんの御国会館では,最後の言葉が述べられ,歌が歌われて祈りが捧げられ,そして集会が正式に解散するまで,みなさんは席に着いています。それでは,認識の不足は更に大ぜい人々に見られ,そして皆さんの悪い模範は更に大ぜいの善意者の前に示される大きな集まりのところで,なぜ敬意を少しにしてしまうのですか。
プログラム中に或る人が話しかけてきても耳を傾けてはなりません。言葉を述べずに,分つたという合図をしなさい。そして,自分は講演者や制度,および近くにいる兄弟たちに対する正しい敬意を示したいことを知らせなさい。兄弟たちは,廊下の仕事に割り当てられていようとも,話を聞きたいと欲しているのです。もし,講演者の述べる諸点が大切であると,考えない人がいるなら,その人は多分場ちがいのところにいるのであつて,別の場所にいるべきでしよう。そして話を聞きたいと,欲している兄弟たちは恐らくそうであつてもらいたいと,望むことでしよう。
みなさんは,兄弟たちにそう思われたくないでしよう。そう望む人は,もちろんいません。それなら,考え深い行をなして,時間に遅れずに出席し,静かにじつとしていて時間よりも早く会場を出ることをせず,集会中に廊下を歩いていたりすることもなく,発表中(たとえ外国語の発表であつても)に話をしてはなりません。また食事の列に並んだり家に帰るバスに乗る方が,大会の席にきちんと坐つてプログラムの最終の言葉や結びの歌および神への祈りを聞くよりも大切である,などと考えてはなりません。
-