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「あなたがたの間で賢くて理解があるのはだれですか」ものみの塔 1972 | 4月1日
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にまで存在する2万7,150余の会衆で構成される神権組織を持っています。それらの会衆は25人ほどの成員のものから,200人あるいはそれ以上の人びとで成るものまであって,大きさはさまざまです。献身した証人はおのおの,会衆の一員であるためには悪を憎まねばならないこと,また上からの知恵を適用しなければならないことを十分に認識しています。そして,イエスの話された次のことばを知っており,それに同意しています。「すべて悪を行ふ者は光をにくみて光に来らず,その行為の責められざらん為なり。真をおこなふ者は光にきたる,その行為の神によりて行ひたることの顕れん為なり」― ヨハネ 3:20,21。
13 エホバの証人は救いのためのどんな備えにあらゆる人の注意を向けさせていますか。なぜですか。
13 エホバの証人は他の人びとに関心をいだいています。そして,「神はその独子を賜ふほどに世を愛し給へり,すべて彼を信ずる者の亡びずして永遠の生命を得んためなり」ということを信じ,かつこのことを宣べ伝えています。(ヨハネ 3:16)また,イエスは世の光であり,人類の世を救うために神からつかわされたかたであることをも信じています。イエス・キリストは刑柱の上で死んで,ご自分の血を注ぎ,人類家族全体を買い取る,あるいは買い戻すためにご自分の命をお与えになりました。あなたが命を得るための備えはすでに設けられています。しかし,あなたはそれを受け入れますか。イエスはみずから言われました。「その審判は是なり。光,世にきたりしに,人その行為の悪しきによりて,光よりも暗黒を愛したり」。劣悪なことをならわしにするのを好む人は,光を憎む人です。あなたはそうですか。―ヨハネ 3:19。
14 真のクリスチャンは,自分が光を恐れる者ではなく,むしろほんとうに「賢くて理解」がある人間であるということをどのようにして示しますか。
14 真のクリスチャンは光を恐れません。それどころか,神のことば聖書を巻頭の創世記から巻末の黙示録まで注意深く研究し,他の人びとと聖書のことを腹蔵なく論じ合って,その天的な知恵によって導かれるようにします。彼らは,光のうちに留まり,神のみことばの光にたよって生活することを願っています。あなたもそうですか。もしそうでしたら,エホバの証人の集会に定期的に出席なさるようお勧めします。そして,神のことば聖書を学ぶとともに,学んだことを適用してください。そのようにして,あなたがほんとうに「賢くて理解がある」人で,あなたの行状が「知恵に属する温和さ」を反映するものであることを示してください。―ヤコブ 3:13,新。
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神の羊の群れを牧すべく任命された長老たちものみの塔 1972 | 4月1日
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神の羊の群れを牧すべく任命された長老たち
1 (イ)エホバの証人の会衆内の監督たちは,どんな種類の人ですか。(ロ)基本的にいって,会衆内の監督は何をしますか。
エホバの証人の神権組織の諸会衆には,有給の僧職者はいません。会衆それ自体内の円熟した霊的に資格のある男子が,長老また監督たちとして任命されるのです。(テトス 1:5,7)それらの人たちは,ゆだねられた羊の群れ全体の福祉に関心を持っています。「監督」ということばは,ヘブル語パキド,ギリシア語エピスコポスの訳語です。このヘブル語は,「訪問する,注意を向ける,視察する」また,「任命する,あるいは委任する」という意味の語に由来しています。そのギリシア語は,エピスコペオ(監督する)と関係があり,「見る,あるいは見守る」という意味を持っています。したがって,クリスチャン会衆の監督は,会衆を見守り,会衆と交わっている人たちを訪問して建て起こすべく任命されています。クリスチャンの「監督たち」は,会衆の「年長者たち」として認められている人たち,つまり神の羊の群れの監督としての責任をになう,それら任命された「年長者たち」あるいは長老たちに相当します。
2 エペソの会衆の長老たちに話をしたとき,パウロはどんな激励の助言を与えましたか。そうした助言を与えた理由はなんでしたか。
2 ある宣教旅行の帰途,ミレトに着いた使徒パウロはエペソに伝言を送り,「会衆の長老たちを呼」びました。(使行 20:17,新,脚注)それら長老たちがパウロに会いに来たとき,パウロは自分が彼らのためにどのようにみずからを費やしたかを思い起こさせ,世話をゆだねられている群れのすべてに対して同様に行なうよう激励し,こう述べました。「わたしは,益になることをなんでもあなたがたに告げることも,公にまた家々であなたがたを教えることも差し控えませんでした。……それでもわたしは,自分の行路と,神の過分の親切にかんする良いたよりについて徹底的な証をするという,主イエスより受けた奉仕の務めを全うできさえしたら,わたしにとって自分の魂は少しもたいせつだとはみなしません。そして今や,ごらんなさい,わたしは知っています,あなたがたの中で王国を宣べ伝えてまわったわたしの顔をあなたがたすべてはもはや見ることはないでしょう。……わたしは神の助言すべてをあなたがたに告げることを差し控えなかったからです。あなたがた自身と群れのすべてに注意を払いなさい。聖霊は,神がご自分の御子の血をもって買い取られた,神の会衆を牧するために,その群れの中にあなたがたを監督として任命したのです」。(使行 20:16-28,新)自分の仕事を真剣に取り扱ったパウロは,仲間の長老たちに,群れの監督たちとして神の前にになっている責任の重大性を銘記させたかったのです。
3 (イ)エペソから来た長老たちのうち,だれか特定の人が主要な人物とみなされましたか。(ロ)ここでどんな興味深い質問が提起されますか。
3 長老はだれも主要な者,つまり会衆のかしらとはみなされていないことに注目してください。そのような立場は,神のみ子イエス・キリストに神から与えられたものなのです。(エペソ 1:22,23。コロサイ 1:18)長老たちは一団となって,キリストのもとに仕えました。彼らはその責任にかんするかぎり同等の者たちの一団をなしていました。パウロは「長老たちの一団」としての彼らに語りかけたのです。そのすべては等しく会衆に対するすぐれた模範を示すよう求められました。(テモテ前 4:14,新,脚注)その人たちはどのようにしてエペソの会衆内の長老となる資格を得ましたか。確かにそこにはなんらかの制度つまり秩序,もしくは神の羊の群れに対するなんらかの指導があったに違いありません。しかし,それら特定の人たちはなぜ牧者として任命されたのでしょうか。
必要とされた一定の資格
4 監督もしくは長老たちの資格にかんする詳細は聖書のどこに出ていますか。それに綿密に従うのはなぜ重要なことですか。
4 資格の詳細については,パウロがテモテにあてた最初の手紙を調べればわかります。その3章には,監督または長老はどんな人でなければならないかが説明されています。それらの資格は軽々しく取り扱うべきものではありません。神の祝福は,そのみことば聖書に綿密に従って初めて期待できるのです。―ヨハネ第一 3:22。
5 (イ)長老としての任命を受ける資格を持つには,当人の品行についてはなんといえなければなりませんか。(ロ)「監督は……責められるところがなく」ということばは何を意味していますか。
5 神のクリスチャン会衆内で,だれかが『監督の職をとらえようと努める』つまり要求されている規準にかなうべく努力するのは
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