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  • すべての事において冷静を保ちなさい
    ものみの塔 1975 | 9月15日
    • をする場合でも,霊的に資格のあるあなたがたは,柔和な霊をもってそのような人に再調整を施すことに努め……なさい」。(ガラテア 6:1)長老は,そのような人を本当に助けたいと思うなら,「柔和な霊」をもって自分の兄弟を再調整し,兄弟を再び得るように愛をこめて努力するべきであるとパウロは主張します。パウロが指摘した人は,「無規律な者,無益なことを語る者,そして人の思いを欺く者」と彼が呼んだ者たちとは違い,厳しい叱責に値しない人です。(テトス 1:10,13)耳を傾けて聴く人は,罪を常習的に行なっている人ではなく,むしろ,『それと知らずに誤った歩みを』した人です。ですからその人は敵のような扱いを受けるべき人ではありません。実際,その人と長老には共通の敵サタンがいるのです。ですから,罪をすでに悔いている人に長老が心を打ちひしぐような苦しみをさらに加えるのは間違いでしょう。憎まなければならないのは,過ちを犯した人ではなくて,その人が行なった間違った行為です。―ユダ 22,23。

      11 過ちを犯した人の状態をパウロはどんな例えで示していますか。その間違った行ないをその人にはっきり知らせるには何が必要ですか。

      11 過ちを犯した人の立場を例を用いてわたしたちに説明するために,パウロはその人を猟師のわなにかかった不幸な動物になぞらえています。といってもそれは普通の猟師ではありません。そのような人は,「悪魔の意志に仕えるべくその者に捕えられていたことを知り」ます。(テモテ第二 2:24-26)わなにかかった動物をぐいと荒っぽく引っ張れば,動物はわなからはずれることははずれますが,その動物に重いけがを負わせることは確かです。それよりも,優しく穏やかに扱うほうがずっとよいのではないでしょうか。そうすれば,その動物は解き放たれたときに,自分が自ら身に招いた傷をより容易にいやすことができます。同様に,過ちを犯した人を扱うさいにも思いやりが必要です。しかしながら,その人の間違った行ないが危険なものであることをはっきり知らせるには,き然とした態度もある程度必要です。そのような人は,自分が行なった悪いことを心から憎み,またそれを,いかにもけん悪すべきこと,と見なすようになる必要があります。問題に関するエホバの見方がなぜ健全で,自分のためになり,幸福をもたらすかを理解し,エホバのことばから離れないようにすることは極めて大切なことです。『それ誡命はともしびなり 法は光なり 教訓の懲治は生命の道なり』と書かれているとおりです。―箴 6:23。

      12 悪行者を叱責する,すなわち再調整することを憶するなら,長老はどのように流血の罪を着る恐れがありますか。

      12 過ちを犯した人に対して真の愛を抱く長老たちは,憶して必要な叱責をさし控えたり,間違いをした人の再調整を控えるようなことをしないで,箴言 27章5,6節の次のことばに従って行動します。『明白にいましむるは秘に愛するにまさる愛する者の傷つくるは真実よりし 敵の接吻するは偽詐よりするなり』。(箴 27:5,6)事実,悪事の行なわれていることがはっきりしている時に,長老が当然与えるべき警告や懲らしめを与えないなら,長老は流血の罪を負うことになりかねません。パウロは,自分が汚点のある者とならないように注意を払いました。ですから彼は恐れることなく自分の使命を遂行し,こう言いました。「きょうこの日に,わたしがすべての人の血について潔白であることに関して,あなたがたに証人となってもらいます。わたしは何一つ差し控えることなく,神のみ旨をことごとくあなたがたに伝えたからです」。(使徒 20:26,27)もし長老たちがパウロのように冷静を保ち,勇気をもって彼らの責任をになうなら,彼らは,定まらない行動を改めるよう自分が援助した人々に永続的な益が臨むのを見るでしょう。

      決定を下す責任を回避しない

      13 長老たちに責任を与えるのは何ですか。彼らはなぜ正しい決定を下す資格がありますか。

      13 前述のことから考えて明らかなとおり,長老たちが重大な決定を下さねばならない場合が時折生じ得ます。中には,あるいは兄弟の命に影響するような決定もあるかもしれません。監督ならびに牧者として行動するこの重大な責任を与えるのは地にあるものではなく,神の聖霊がそれを彼らに与えて,彼らを神の代表者とするのです。パウロはそのことをエフェソス会衆の長老たちに次のように説明しました。「あなたがた自身と群れのすべてに注意を払いなさい。神がご自身のみ子の血をもって買い取られた神の会衆を牧させるため,聖霊があなたがたをその群れの中に監督として任命したのです」。(使徒 20:28)ですから彼らはテモテのように,自分に任命された業を遂行することを,神とキリストに対する自分の責任と見るべきです。(テモテ第二 4:1,2)長老たちは,ほとんどの状況において,正しい決定を下す十分の資格を備えています。なぜなら神が「力と愛と健全な思い」との霊を彼らにお与えになっているからです。(テモテ第二 1:7)彼らは「力」,すなわち能力を与えられているので,自分が持っている霊の賜物を用いることができます。彼らは『愛の霊』を持っていますから,正しい動機で他の人たちを助けるでしょう。また彼らは「健全な思い」を抱いていますから,自分の責任を果たすべく努力するときに正しい方向へ導かれます。

      14 (イ)多くの問題を,地元の長老たちに差し戻して長老たちで決定してもらわねばならない場合が多いのはなぜですか。(ロ)長老たちは問題を自分たちで扱えるよう,どのように備えることができますか。また,だれに援助を求めることができますか。

      14 このように神の,また文字に書かれた神のことばの助けがあるにもかかわらず,長老たちは,長老を任命するさいの推薦とかそれに類似した問題などに関連して,ものみの塔協会の支部事務所もしくは統治体に決定を依頼することが時折あります。支部事務所側は,援助したいという意志と誠意はあっても,事実をよく知っている長老たちに問題を差し戻して,長老たち自身で推薦を行なうようにしてもらわねばならない場合が少なくありません。長老たちは,最後的決定を下す前に,必要ならば,問題になっている事柄に関して質問を行ない,答えを得,さらに多くの事実を知ることができます。霊的に言っても長老たちは不利な立場にはいません。それに彼らはそのような決定を行なう責任を神からゆだねられているのですから,それを不必要に他の人々に負わせるべきではありません。ですから長老たちは,神のご意志に一致した正しい決定を下すよう,勉強や祈りによって自らを備えなければなりません。パウロはテモテに対し,心を尽くして聖書により頼む必要を力説しました。聖書は「神の霊感を受けたものであり,教え,戒め,物事を正し,義にそって訓育するのに有益」であるからです。もし聖書に基づいて決定を下すなら,その長老は「十分な能力をそなえ,あらゆる良い業に対して全く整えられた」神の人であることを示すことになるでしょう。(テモテ第二 3:16,17)他の長老たちの援助も助けになるでしょう。『相議ることあらざれば謀計やぶる 議者おおければ謀計かならず成る』と聖書は述べています。(箴 15:22)もし巡回監督か地域の監督が会衆を訪問しているなら,その監督に相談することもできます。

      15 長老はどんなときに協会の支部事務所に相談すべきですか。

      15 しかし,徹底的に調査し,聖書を注意深く調べても,ある特定の問題の答えがどうしても出ない場合,長老たちはどうすべきですか。答えを推測したり,自分自身の判断に基づいて専断的な決定を下したりなどして,問題を自主的に決定しようとするのは,決して賢明なやり方とは言えません。そのような場合にはむしろ,自国での業を管轄している協会の支部事務所に知らせて援助を求めるのが最善の方法です。

      16 人気のある,尊敬されている,または影響力のある人を扱わねばならないとき,長老はどんな原則に従うべきですか。

      16 長老たちは,人を恐れて措置を差し控えるようなことを決してすべきではありません。時には長老たちは,人気のある,あるいは尊敬されている,または影響力のある人を扱わねばならないことが実際にあるかもしれません。しかし長老は,そうしたことに影響されてその人に都合のよい決定を下すようなことをすべきではありません。この点に関する神のことばの規準は極めて明確です。『汝審判をなすにあたりて不義を行なうべからず 貧窮者を偏り護べからず 権ある者を曲げて庇くべからず ただ公義をもて汝の隣りを審判くべし』,と聖書は述べています。(レビ 19:15。ヤコブ 2:1-9)えこひいきをすることが公正にもとり,神の律法を犯す行為であることは,このことばから極めて明らかです。

      聖書に基づいて決定しなさい

      17 長老は聖書に対する深い敬意をどのように示せますか。

      17 そして長老たちは何よりも,すべての助言を聖書に基づいて行なうことにより,神のことばに深い敬意を示すべきです。(テモテ第二 2:15)これは,自分自身の考えを問題に関する権威として述べることを慎重に避け,その代わりに,聖書やエホバのしもべ級,すなわち「忠実で思慮深い奴隷」から受けた教えを忠実に伝えることを意味します。(マタイ 24:45。テモテ第一 4:6,16)また,長老たちは聖書について単に語るだけではなく,神の定めた原則を生活に適用することによって神のことばの力を示す生きた見本であるということを,クリスチャンの兄弟たちも認めるようでなければなりません。そうなれば,クリスチャンの集団全体が長老たちの指導や指示に感謝し,彼らの信仰に倣うことは容易になるでしょう。―ヘブライ 13:7。

      18 長老たちのほかに,どんな人たちも冷静を保たなければなりませんか。そうすればどんなことを確実に期待できますか。

      18 最後に,『冷静を保つ』ことは長老たちだけに必要なのではなく,神のしもべすべてがそうしなければならないことを忘れないようにしましょう。わたしたちは一人残らず,この世にある同じ危険に直面しなければならないからです。今日の危機的状態は,クリスチャンひとりびとりの上に,信仰の真の試みをもたらしています。確かに今は,わたしたち各自が賢明な決定を下せるように,まじめに考えるべきとき,また神のことばに照らして問題をはっきり見極める力を培うべきときです。そのようにして初めてわたしたちは,『目ざめていて冷静さを保つ』ようみんなで互いに助け合い,エホバの裁きの日が盗人のようにわたしたちを捕えることのないようにすることができます。そうすればわたしたちは,『光の子また昼の子』として保護され,きたるべき世界の破滅を生き残って神のお立てになる新秩序に入るでしょう。そしてそれは神のとこしえの誉れとなり,わたしたちの永遠の救いとなるでしょう。―テサロニケ第一 5:5,6。

  • 確信を抱いて将来を待ち望む
    ものみの塔 1975 | 9月15日
    • 確信を抱いて将来を待ち望む

      「初めにいだいた確信を終わりまでしっかりと堅く保ってはじめて,わたしたちはほんとうにキリストにあずかる者となるのです」― ヘブライ 3:14

      1 すべての人が将来について同じ見方をしますか。説明しなさい。

      義の「新秩序」による明るい将来があることを説明しようとすると,ほとんどの人は,「そんなことは絶対にない」,と一言で片づけてしまいます。そのような人々は将来に対する確信が全くないので,そのほとんどが自己中心的になり,「きょう」だけのために生きていても不思議ではありません。しかしエホバの証人は,そういう,人を落胆させるような見方はしません。反対に,彼らの心は確信に満ちあふれています。利己的な国や貪欲な勢力圏による支配ではなく,生ける神エホバの支配による将来を熱心に待ち望んでいるからです。しかしそれでも,将来を見るある人の目は曇ることがあります。それはどんな場合ですか。

      2 確信をもって将来を見るうえで,どんな危険がありますか。使徒パウロはこの点に関しわたしたちにどのように警告していますか。

      2 現在の事物の体制に深いかかわりを持つようになるとその危険が生じます。しかしあなたは,だれかが,「そうは言っても,結局は実際的でなければならない」と言って,この体制とのかかわりを弁護するのを聞かれたことがあるかもしれません。あなたはその人に共鳴する気持ちになりましたか。しかし,もし人々がそのかかわりを拡大しつづけるなら,どんなことになるでしょうか。

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