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  • あなたは楽園に住みたいと思いますか
    目ざめよ! 1979 | 11月8日
    • あなたは楽園に住みたいと思いますか

      墓地と全地球的な楽園との間に何らかのつながりがあると考える人はほとんどいません。しかし,ここに述べられている事柄を考慮するに当たって,その両方を念頭に置いておくとよいでしょう。

      オールスドルフは,ドイツのハンブルク市のふところに抱かれた小都市といった観を呈し,週に約220人ほどの割で大きくなっています。そこは一万本ほどの大小さまざまな樹木で美しく飾られ,彩りも豊かな,様々な花で満ちています。

      毎年幾十万もの人がオールスドルフを訪れます。しかし,ここであえて言うなら,そこを訪れたいと思う人はいても,そこにとどまりたいと思う人は決していないでしょう。実のところ,120万を超す,そこの永久居住者たちは,初めからそこへ来ないですむのなら,その方がよいと思ったはずです。そうです,そのように美しい場所ではあっても,そこは住む所ではありません。オールスドルフは墓地なのです。403ヘクタールの広さを持つこの墓地は,ヨーロッパでも最大級の墓地の一つです。120万を超すそこの住民すべてを普通の大きさの墓に葬り,それを横一列に並べると,幅2㍍の細長い土地がドイツのハンブルクからオーストリアのウィーンまで,延々1,100㌔も続くことになるのです。

      しかし,日がさんさんと降りそそぐ,とある9月の日まで私はオールスドルフとは縁がありませんでした。その日,私は,母親を亡くした親しい友人のために葬式の話をしに,オールスドルフへ車で出掛けました。その話は,第十番葬儀場で行なわれることになっていました。私は,「少なくとも十のホールが必要とされるほど大きな墓地が本当にあるのだろうか」と独りつぶやいたことを覚えています。ところが,そこへ着いてみて,目を見張りました。そして,見れば見るほど,驚きは深まりました。あたかも美しい公園,つまり楽園<パラダイス>にいるかのように思えたのです。

      オールスドルフの“楽園”の始まり

      では,この“楽園”はどのようにして存在するようになったのでしょうか。19世紀の後半,ハンブルクにある何か所かの既存の地域墓地だけでは,同市の増大する人口の必要に十分答え応じる広さがなくなってしまいました。そこで,オールスドルファー・フィールズに宗派を問わない,市民墓地を造成する計画が立てられました。それは,ハンブルクの郊外約十㌔の地点にある同名の村の近くに位置しています。後年,その村はハンブルクに合併されましたが,墓地の方は大変有名になり,付近の住民は,死んだ人のことを,「オールスドルフにいる」と言うほどになりました。

      そこの創設者で設計者でもあるヨハン・ウィルヘルム・コルデスは,当人の言葉を借りると,墓地という所は,「美しさが目を奪い,植物が墓を覆っていなければならない」という考えの持ち主でした。この点で,コルデスは成功を収めました。オールスドルフの美しさを否定することも,そこの植物を見過ごすこともできないからです。コルデスの計画は,世紀の変わり目にあって,他の数々のドイツ諸都市にある同様の墓地のモデルになりました。

      墓地の中には,北アメリカやアジア原産のものを含む,300種以上の木があり,その各々に小さな説明板が付けられ,植物園といった趣があります。毎年六月になると,墓地のメイン・ストリート,“コルデス・アベニュー”の両側にある29種類の大きなシャクナゲのかん木が満開になり,見事なながめになります。

      この公園には2,500脚のベンチと650脚のイスが置かれており,660か所に水飲み場があります。幾百羽ものアヒルやガチョウ,コクチョウが,墓地の各所に散在する池を住み家にしています。ですから,池や噴水の傍らで,それら“羽根で覆われた音楽家たち”の奏でるコンサートに耳を傾けながら,ひと休みすることもできます。確かに,静かで,くつろいだ気分にさせられるその雰囲気を満喫しないではいられません。このような美しさや穏やかな状態がきっかけとなって,私は楽園について考え始めました。

      楽園について思い巡らす

      生きている者の楽園は極めて望ましいものですが,どうして死者のために楽園を作るのですか。コルデスをはじめとする人々がこの種の墓地を造成したねらいの一つは,死による喪失という紛れもない悲劇を取り除く助けを備えることであったに違いありません。聖書が的確に述べるとおり,死は確かに人類の敵になってきました。(コリント第一 15:26)深い悲しみに打ちひしがれているとき,美しいものに接すると,たとえ自分の失ったものが大きくても,やはり人生は生きるだけの価値があるということを認識するのに役立ちます。しかし,いかなる自然の美しさも,子供をかかえてやもめになった母親や妻に先立たれた夫が愛する人を亡くした時に味わう喪失感をぬぐい去ることはできません。

      死の普遍性と必然性について,シュテルン誌はこう述べています。「その者の到来は早過ぎるか,遅きに失するかのいずれかである。だが,それは必ず臨む,そしてそれは例外なく最終的に勝利を収める。その者の名は死である」。このような必然性を前にする私たちが待ち望めるのは,たかだかオールスドルフによって代表されるような楽園ですか。もしそうであれば,それはほとんど慰めにはなりません。その種の楽園の永久居住者になりたいと本当に思う人がいるでしょうか。

      今日の多くの人にとって,自分が楽園に行きたいと思っても,せいぜい美しい公園を歩くぐらいしかできない,ということがとても不思議に思えてきました。あなたもそれら大勢の人々と同じ状況に置かれていますか。そうであれば,どうしてですか。人間の技術と創造力のすべてをもってしても,全地球的な規模での楽園など実現不可能に思えるのはなぜですか。それでも,もし地球全体が楽園,それもアダムとエバに関する聖書の記述に見られるエデンの園のような楽園になるなら,どうですか。地球のそもそもの造り主であられる神は,楽園を回復させることに関心を持っておられますか。また,わたしたちにとって特に重要な点として,わたしたちの生きている間に,神が全地球的な規模の楽園をお造りになることを期待する確かな根拠がありますか。

  • 楽園の希望を裏付ける聖書的根拠
    目ざめよ! 1979 | 11月8日
    • 楽園の希望を裏付ける聖書的根拠

      聖書によれば,人類の歴史はエデンにあった園つまり楽園から始まりました。それはどのような所だったのでしょうか。詳細な点すべてが分かっているわけではありませんが,信頼できる古代の記録の述べるところによれば,それは「見るからに望ましく食物として良いあらゆる木」の生える園でした。(創世 2:9,新)魅力的だとは思われませんか。ところでこの園はどこにあったのでしょうか。創世記 2章10-14節(新)は次のように述べて,その場所を知らせています。

      「さて,一つの川がエデンから発して園を潤し,そこから分かれだして,いわば四つの頭となった。第一のものの名はピションである。……また第二の川の名はギホンである。それはクシュの全土を巡るものである。また第三の川の名はヒデケルである。……そして第四の川はユーフラテスである」。この記述から,学者たちは現在のトルコ東部,つまり中東のある地域を想定しています。神の最初の目的は,エデンの楽園が時たつうちに全地を覆うほどに広げられることでした。―創世 1:28。

      あなたはエデンの園が実在したことを信じておられますか。神学者でもあり,聖書翻訳者でもあったドイツのハンス・ブルンスは前述の聖句について注解し,次のような興味深い所見を述べました。「これらの川は,エデンの園がおとぎ話であるどころか,地上に実際に存在していたことを裏付けているように思われる」。かつてこの楽園が存在したことを確信できる証拠は,他にもあります。

      地上の楽園 ― 過去と将来

      人類発祥の地である最初の楽園に関する記憶は存続しています。ヘブライ語聖書をギリシャ語に翻訳したセプトゥアギンタ訳(西暦前280年)は,エデンに関連して,園という言葉を“パラデイソス”と訳出しました。英語の“パラダイス(楽園)”という語はこの言葉から派生したものです。神から与えられた言語を用い,アダムは自らがかつて住んでいた園つまり楽園について自分の子孫に話していたものと思われます。その最初の楽園から追放された後で,人間が楽園回復の可能性に期待をかけるようになったのは,いかにも当然のことでした。バベルで言語が乱れてから,人々は四方へ散らされましたが,その際,人々とともに宗教上の知識も伝播されました。概して,文化や地理的条件の相違で楽園に関する当初の説明がゆがめられたとはいえ,多くの古代文明の民間伝承には,最初の楽園に関する記憶が認められます。ジョン・ナボンヌは「宗教研究」と題するカナダの雑誌の中で,次の点を指摘しています。「元々は楽園であった,あるいは最終的には楽園になるという信仰は,恐らくあらゆる宗教の中に何らかの形で認められるであろう」。

      将来の楽園の希望は,約束の地あるいは来たるべきメシアの統治についての数多くの預言の中でそれとなく触れられています。例えば預言者イザヤは,「エホバは確かにシオンを慰められる。……彼は…その荒野をエデンのように,その荒れ野をエホバの園のようにされる」と予告しました。それは,荒野や荒涼とした状態が樹木の青々と茂る楽園の状態に変化する,という意味です。イザヤはさらに,家を建てること,ぶどう畑を設けること,生き長らえて地の産物を楽しむことについて語りました。―イザヤ 51:3; 65:21-23,新。

      これらの言葉は,イスラエル人が70年間バビロンに捕らわれていた後,約束の地へ帰還した時に成就しました。その土地は,イスラエル人が流刑に処されていた間の荒漠たる状態と比べると,まるで楽園のような様子に変化しました。しかしそれですべてが終わったのではありません。聖書によれば,さらに壮大な事柄がなお将来に起こることになっていました。それから約800年後,使徒ペテロは将来の「新しい天と新しい地」というイザヤの約束を反復しており(ペテロ第二 3:13),使徒ヨハネも啓示 21章1節で,まだ到来していない「新しい天と新しい地」の幻を見た,と述べています。

      当然のように,来たるべき「新しい地」についての預言は新しい地球に関しては言及していません。(詩篇 104:5,イザヤ 45:18をご覧ください。)それでも,「新しい地」つまり神に全く献身し,神の崇拝を推し進めることに関心を抱く地上の新しい人類社会が確立されるなら,文字通りの地球にも物理的な変化の生ずることは疑えないでしょう。このような人間社会が神の祝福を受けると考えるのは正しいことであり,それは地球そのものにも反映することでしょう。オールスドルフの墓地で行なった葬式の話で,私はこの点を取り上げ,特に詩篇 67篇6,7節(新)の次の言葉を引用しました。「地そのものは必ず産物をいだし,神,わたしたちの神はわたしたちを祝福してくださるであろう。神はわたしたちを祝福してくださり,地のすべての果ては彼を恐れるであろう」。

      前述の啓示 21章の幻の中でヨハネが見たものは,神の新体制の,支配を行なう部分がその注意を地上に向けている様子でした。どんな結果がもたらされますか。「それとともに,わたしはみ座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ! 神の天幕が人とともにあり[天で神のみ前にいる人々とではなく,人類とともに神がいると語られている点に注意],神は彼らとともに住み,彼らはその民となるであろう。そして神みずから彼らとともにおられるであろう。また神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死もなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである』」。(3,4節)これは楽園を,それも地上に回復された楽園をほうふつさせるものではないでしょうか。

      事実を言えば,将来の全地球的な楽園という聖書の約束について,ほとんどの教会ではまず聞くことができません。しかし私はその葬式の話の中で,西暦一世紀にキリスト教が導入される前にしても後にしても,真の崇拝者たちの間ではだれもがこの地上の楽園のことを理解していた,と説明しました。後日,予告されていたキリスト教からの背教が生ずるに及んで,地上に楽園が回復されるという信仰は衰え始めたのです。

      聖書の年表と預言の成就から推して,神が,現在の邪悪な事物の体制を滅ぼし,み子キリスト・イエスの義の支配 ―「新しい天」― をそれに代えるために介入される時は近づいています。この苦難の時代を生き残る地上の人間は,「新しい地」の中核として奉仕することになるでしょう。今,忠実に神に仕えている人々には,楽園をその目で見るという,まさにすばらしい見込みがあるのです。しかも単に見るだけではありません。楽園の回復の一端を担うという特権にも恵まれます。あなたはそれにあずかりたいとは思いませんか。

      楽園の回復に人間の果たす役割

      これは怠惰な人間の楽園ではありません。そこは満足を与える活動の場となるでしょう。(ヨハネ 5:17と比較してください。)楽園の回復は,地を従わせ,地を耕し,その世話をするようにという,最初のパラダイスで人間に与えられた命令を実践する人々によって遂行されます。人が神の指示通りに進んで行なう精神を示し,神の祝福を受けるとき,楽園の状態は地のすみずみにしだいに広がってゆくことでしょう。―創世 1:28。

      現代では自分の仕事に不満を感ずる人が少なくありません。多くの場合,仕事は単調で,今日一日を生きるためのお金を生み出す以上の何も与えてくれないように感じられるからです。しかしイザヤの次の預言的な言葉が描き出す情景は,それとは際立った対照をなしています。「人々は家を建ててそこに住むであろう。だれか外の人がそこに住むことはない。彼らはぶどう畑を設けてぶどう酒を楽しく飲むであろう。だれか外の人がそれを飲むことはない。……彼らは自らの業の結果を心ゆくまで楽しむであろう。……わたしは彼らとその子孫を今より後永久に祝福する」。(イザヤ 65:21-23,今日の英語聖書)この言葉通りの状態が将来,地上の楽園の中に見られるのです。自分の活力と才能をこうした仕事に用いることがどんなに喜びをもたらすものか,想像できるでしょうか。―伝道 2:24。

      あなたは楽園の回復に貢献されますか。エホバの証人はこれを自分たちの希望としています。聖書を学び他の人々にもそうするよう勧めることにはこうした理由があるのです。エホバの証人は,この報いの多い活動にあずかる特権を得るには,神の目的と,命を得るための神のご要求について正確な知識を習得することが不可欠であると考えています。エホバの証人たちは,あなたがこれから楽園を見て生きられるという問題について,より多くのことを学ぶ上でお力になりたいと思っています。

      地上に楽園が回復されるという,人を元気付ける音信を広めるにあたって,エホバの証人が模範と仰ぐのは指導者キリスト・イエスです。イエス・キリストはご自分の死の日に至るまで,王国とその祝福について人々に語り続けました。記録されているいまわの際の言葉の中には,ご自分の傍らの刑柱にかけられた悪行者に告げた,「きょうあなたに真実に言いますが,あなたはわたしとともにパラダイスにいるでしょう」という言葉も含まれています。―ルカ 23:43。a

      イエスの講話の中でも示されているように,良い事柄は自分の中にしまっておくのではなく,愛をもって他の人々に分け与えなければなりません。事実,やがて来る地上の楽園についての慰めに満ちた希望をできる限り大勢の人々に知らせるのは,わたしたちに課せられた義務なのです。葬式は私にとってこのことを行なう良い機会となりました。だれしも,愛する者に死なれた友人や親族を慰めなければならない時があるのですから,このような葬式の話の中に聖書の見解を含めるのは,有益だと思われることでしょう。

      [脚注]

      a すべての人々にとって大きな意味を持つこの言葉の翻訳の適否をめぐって,かなりの論争が引き起こされました。この聖句の詳細については,26-28ページをご覧ください。

      [5ページの図版]

      エデンの園

  • 将来,楽園が訪れるという慰めを差し伸べる
    目ざめよ! 1979 | 11月8日
    • 将来,楽園が訪れるという慰めを差し伸べる

      「また,兄弟たち,死んで眠っている者たちについてあなたがたが知らないでいることを望みません。希望を持たないほかの人びとのように悲しむことのないためです」と使徒パウロは書きました。復活の希望の保証を与えた後,パウロは結論として,「それで,このことばをもって互いに慰め合ってゆきなさい」と述べています。(テサロニケ第一 4:13,18)葬式のときに話し手はまず,慰めをもたらすことを心がけますが,これは,愛する者を失って悲嘆にくれている人たちのために,だれもが行なえる事柄です。では慰めとなるどんなものを与えることができるでしょうか。

      悲しみは人間としてごく普通の反応です。聖書の中には,愛する者に先立たれて悲しみを表わした神の僕たちの例が少なからずのせられています。例えば,聖書は,「ヨセフは[死んだ]父の顔に取りすがって,わっと泣きだし,彼に口づけした」と述べています。(創世 50:1,新)それだけでなく,イスラエルの子らはモーセの死後,「モアブの荒れ野でモーセのために三十日泣(き)」ました。(申命 34:8,新)ヨハネ 11章35節には,完全な人間であったイエスがご自分の友ラザロの死に際して「涙を流された」とあり,悲しみが不完全さのしるしではないことを知る手がかりとなっています。

      真のクリスチャンが親類,友人,隣人の死に直面して悲しむのは,何ら間違ったことではありません。自分が愛情を抱いていた故人を恋しく思うこともあるでしょう。(ヨハネ 11:36)とはいえ,聖書に基づいてクリスチャンが抱く希望のゆえに,『希望を持たないほかの人びとのように悲しむことはありません』。つまり,死と復活についての正確な知識を持たない人々が時折り示すような,過度の悲しみや感情の極端な表現に走ることはありません。それでもやはり,クリスチャンは品位ある方法で死者に気遣いを示し,遺族の方々に慰めをもたらすことに誠実な関心を抱かなければなりません。

      そうするための一つの方法は葬式そのものと関連しています。依頼があれば,エホバの証人の会衆の長老団は,葬儀場もしくは埋葬前に墓地のようなところで,有能な話し手が葬式の話を執り行なうように手筈を整えることができます。慰めを与えるためのこのような奉仕は無料で行なわれます。会衆を通して取り決められた話し手は神の言葉に十分精通している人ですから,その話は人を元気づけるものです。話し手は,事態の重要性を十分に知り,痛手を被っている人々に慰めを与えるだけにとどまらず,参列者を霊的に築き上げることのできる人でもあります。聖書の教える驚嘆すべき希望,つまり後に残された人間も復活した死者も共々その分にあずかることのできる将来の地上の楽園の希望を説明することによって,そのことを行なえます。

      エホバの証人の執り行なう葬式は,望むなら,歌をもって始められます。王国会館で開かれる追悼の集まりの場合は,特にそう言えるでしょう。歌の本に収められている,「復活のよろこび」(53番。ヨハネ 11章; 20:18; 啓示 20:13に基づいている),「おのが荷をエホバにゆだねよ」(87番。詩篇 55篇を基にしたもの),「ギレアデのバルサム」(97番。エレミヤ 8:22を使用している),「復活 ― 神の愛の備え」(98番。ヨハネ 5:28,29のイエスの言葉をふまえたもの)などの題の歌がしばしば用いられます。

      多くの場合,話し手は亡くなった当人のことをいくらか話の中に含めます。その人は生前,献身したクリスチャンの鏡のような人で,さまざまな試練に遭っても聖書の原則を適用してそれを首尾よく切り抜け,他の面でも神の前に良い名を保ちたいという願いを示していた人だったかもしれません。(伝道 7:1)こうした葬儀に列席した人々は,その暖かな話に心の和むのを感じ,自分もクリスチャンとしての生活を送る面で努力するよう助けを得られることでしょう。

      もし故人が真のクリスチャンであれば,講演者の話は,その人の知っていた,聖書に基づく死者に関する希望にも及ぶことがあります。故人を含め,わたしたちすべては罪人なので,今の体制で死を避けることはできない,という趣旨の,含蓄のある何らかの説明がなされることもあるかもしれません。死は全人類が共通に受け継いだものです。―ローマ 5:12; 6:23。

      話し手は,ミサやそれに類した事柄にお金を費やせば何かの形で自分たちの愛していた人を援助できる,といった偽りの希望を遺族の人々に抱かせることはしません。いくら儀式を行なっても,死者を生き返らせることや,神のみ前におけるその人の立場を変えさせることはできません。(サムエル後書 12:19-23をご覧ください。)しかしながら,死者には意識がなく,苦しみも悩みも感じていない,ということを知るのは何という慰めなのでしょう。それに,愛する故人の将来が,復活の備えを設けられた公正で愛ある神のみ手の中にあるのを知ることも,大きな慰めです。―伝道 9:5,10。申命 32:4。

      オールスドルフの葬式の話の中で引用した聖句に詩篇 90篇10節(新)があります。その聖句はこう述べています。「わたしたちの年の日はそれ自体は七十年です。それにもし,特別の力強さゆえに,八十年であっても,やはり付きまとうのは悩みと有害なことです」。統計の数字は聖書を支持しています。ワールド年鑑(1979年)によれば,人間の平均寿命は,バングラデシュ,ベニン,チャド,マリなどの国の30ないし40歳からアイスランド,日本,オランダ,および他の少数の国々の,70歳をわずか超える(80歳には遠く及ばないが)ほどの長さにまでばらついています。

      その結果,銀行預金になぞらえて,誕生時に約2万5,600日が貸方に記入される“生命預金”のことを考える人がいるかもしれません。子供のころ,この時間は膨大なもののように感じられるでしょう。25歳になった時点ではまだ,せいぜい自分の寿命の3分の1を,お金の場合と同じように,使い果たしたにすぎません。銀行預金高が次第に減少してくるように,人生の残り時間も日を追うごとに少なくなってゆきます。35歳で人間の寿命は,どう見積ってもほぼ半ばを経過します。その時でさえ,突如として起こる不景気や予期せぬ出来事で銀行預金が底をついてしまうように,考えも及ばなかった事情ができて,人の“生命預金”が急激に減少することもあり得ます。自分の時間がこのようにして費え,その間も「悩みと有害なこと」で満たされているのが人生の目的,人生の仕組みなのでしょうか。愛する者の死が契機となって,後に残された人々は往々にしてこの深刻な問題について考え始めます。―伝道 7:2。

      それでも,嘆く人々には慰めを与えることができます。人間の創造者が目的をもって永遠に生きておられることを説明できるのです。聖書が述べるように,もし人間が神の像に創造されたのであれば,人間の寿命がこれほど短くてよいのでしょうか。(創世 1:27)これはわたしたちが聖書で学んだ愛の神のなさることとは思えません。その神は,論ずるまでもなく,ご自分の創造物の幸福と満足に関心を抱いておられます。しかし,神が死を拭い去られるということを聖書から学びかつ受け入れるなら,それは本当に大きな慰めとなるのです。

      真のクリスチャンの仕える神は,『死人を生かす』神であると聖書に保証されています。(ローマ 4:17)エホバ神は,人類共通の死者の墓をからにし,死者を地上の楽園に生き返らせることによって死を葬り去ります。このような望みがあるので神の僕は確かに,『希望を持たないほかの人びとのように悲しみません』。―テサロニケ第一 4:13。

      楽園を待ち望む

      葬式の話の中でも,愛する人を失った方々を個人的に慰める際にも,よく地球に対する神の当初の目的に考慮が払われます。その目的とは,パラダイスのようなエデンの園が地をことごとく覆うまでに広げられることでした。(創世 1:28)神の目的は挫折するはずがない,いや挫折しないと信じて間違いありません。なるほど,神は深いお考えがあって,み子が地に遣わされて贖いの犠牲となる時まで,そして天の王国が建てられる時まで人間の不完全さが依然として続くことを許されました。しかしわたしたちは,これから楽園が地のすみずみにまで回復されるということに全幅の信頼を置くことができます。将来地上に復活してくる死者の前には,生前の生活に比べてはるかに優れた,より平和でより報いの多い生活を享受する機会が開かれることも確実です。神の言葉に裏打ちされたこの約束は,何という慰めとなるのでしょう。

      亡くなったのは私の友人の母親でしたが,その母親の親類や友人の方々に別れを告げたときも,私の脳裏にはまだこうした事柄が去来していました。美しいオールスドルフの公園のような楽園を後にしながら,私は目前に迫った別の種類の楽園の希望について,歓喜せざるを得ませんでした。それは生ける者のための地上の楽園にとどまらず,死者でさえあずかることのできる楽園なのです。

      [9ページ,全面図版]

  • 大災害をもたらした洪水
    目ざめよ! 1979 | 11月8日
    • 大災害をもたらした洪水

      ブラジルからの報告

      水に恐ろしい力があることはよく知られています。その力を利用すれば,水は人間の有用な僕となります。しかし,その力が一気に爆発して,水が突然その破壊的な力をふるうことがあります。

      今年の初め,ブラジルの人々は水の破壊力を目の当たりにしました。フランス,ベルギー,オランダ,ポルトガルの4か国を併せたほどの地域が大洪水に見舞われ,人々は恐怖におののきました。それは,「ブラジルを襲った史上最悪の天災の一つ」であった,とある雑誌は報じました。ミナスジェライス州の全域とエスピリトサント州の大半の地域,リオデジャネイロ州の北部,そして最後にはバイア州南部が洪水の大きな被害を受けました。ブラジル北東部に通じる2本の主要道路が冠水したため,ブラジルは二つに分断されてしまいました。

      洪水が猛威をふるっているさなかに,ブラジルの東北部からサンパウロに向かっていた一目撃者は,自分の体験を次のように語っています。

      被災地で

      「私たちを乗せたバスはエスピリトサント州のリニュアレスに着きました。眼前には痛ましい光景が広がっていました。約40日にわたって雨が降ったため大災害が起きていたのです。ドセ川がはんらんし,行く手にあるすべてのものを流し去っていました。

      「川堤に沿って,水かさが急速に増えたため,安全に逃げる時間的余裕はだれにもありませんでした。牧畜場は造作なく水の中に消えていきました。

      「私たちはサンパウロに向けて旅行を続けることができるでしょうか。憲兵がすべての遠距離交通を停止させていました。幹線道路は大きな被害を受けていました。いくつもの橋が,まるでマッチ棒のように水で折り取られていました。私たちは,カヌーで川を渡り,対岸でバスに乗ろうと考えましたが,目的を果たすことができませんでした。

      「一日,一日と時間が過ぎてゆきました。婦女子は,地元の人の好意で,夜の間家の中に泊めて

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