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神は家族という取り決めを尊ばれるものみの塔 1972 | 9月15日
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神が彼のためにお定めになった完全の標準という『的をはずし』て,神の栄光を表わさなかったために,完全性を子孫に伝えることができませんでした。ですから全人類が影響を受けたわけです。「すべての人,罪を犯したれば神の栄光を受くるに足らず」― ロマ 3:23。
しかし,神の過分の恵みに感謝すべきことに,キリストのあがないの犠牲は,人の生まれながらの罪を除くことができるのです。もとより,この神の備えを自分で受け入れるには,個々の人はある年齢に達していなければなりません。しかし,そのような信仰を働かせうる年齢に達していない子どもたちはどうでしょうか。彼らといえども罪のない者ではありません。詩篇作者ダビデは言いました。「視よわれ邪曲の中にうまれ罪にありてわが母われをはらみたりき」。(詩 51:5)それで神は子どもたちをどのように扱われるでしょうか。神は子どもたちを,家族という取り決めを通して扱われるのです。なぜでしょうか。その原則はどのように働くのでしょうか。
エホバは,家族という取り決めを良いものと考えておられ,家族を,地上の社会の基本単位とされました。家族の地位,家族の意義,家族の働きはエホバから出たものです。エホバは「天と地とにある諸族の名の起るところの父」です。(エペソ 3:15)エホバは家族に威厳と身分をお与えになります。父親はかしらで,母親は助手です。そして二人はともに,子どもをしつける責務を神から与えられています。
親は子どもに対して責任がある
自分で責任のとれる年齢に達していない若い子どもたちは,遺伝によって,また親が与える訓練や,親が備える環境によって作り出された,親の作品と言ってもさしつかえないでしょう。したがって神は,子どもたちが,自分の決定や行為に責任が取れる年齢になるまで,子どもに対する責任は親にあると考えておられます。
ですから,神との関係に関連して両親が行なうことは,家族全体に影響をおよぼします。人間の法律は,未成年の子どもの行為の責任を親に問いますが,神もそうされます。もし子どもが,罪を犯したり,他人の所有物を破壊したりしたならば,父親は,警官が来て自分をとがめ,損害賠償を要求することを予期しなければなりません。では,神が同様に子どもの行為に対して親に責任を問われるのは当然ではないでしょうか。
親が与える訓練の影響は広範囲におよぶ
両親の行ないと,両親が子どもに与える訓練は,よしあしを問わず,子ども,孫,そして時にはひ孫にまでも影響します。たとえば世界の問題を扱う世代が戦争に巻き込まれると,そのあとの世代は大きな影響を受けます。第一,第二次世界大戦の余波はまさにそれでした。
神は親に,神の干渉を受けずに自分の子どもを育てる権利を与えておられるのですから,神の律法に従う親と,神の律法に従わない親とに,それぞれの結果を説明することができます。神はモーセに次のように言われました。「我エホバ汝の神は〔専心の献身を求める〕神なれば我を悪む者にむかひては父の罪を子にむくいて三,四代におよぼし,我を愛しわが誡命を守る者には恩恵をほどこして千代にいたるなり」。(出エジプト 20:5,6,〔新〕)疑問の余地はありません。まちがった方向に育てられた子どもが悪いことを行ない,その報いを受けることはまずまちがいありません。
アブラハムは,神の道を守り,神に従うことを子どもたちに教えた家長の一例です。アブラハムがそれをしたことは,彼の子孫にとって永続する祝福となりました。―創世 18:19。申命 4:37。
しかしながら,後日,偶像崇拝や他の悪事に心を向けたときには,アブラハムの子孫は敵国の手に落ち,捕虜になりました。事実,ユダヤ人は,バビロン捕囚から西暦70年のエルサレムの破滅に至るまで,最初バビロン,次いでペルシア,ギリシア,ローマという順で絶えず異教世界強国の支配下にありました。そのために子孫は,幾世代にもわたり,先祖の罪の重さを身をもって経験しました。
この原則は,異教諸国においてもその真実性を証明しました。ノアの神エホバの崇拝から離れていった人々は,バベルの塔を建てていたとき,種々の言語グループに分けられ,それらのグループから国々が発達しました。彼らの子孫はその後,「イスラエルの民籍に遠く,約束に属する諸般の契約にあづかりなく,世にありて希望なく,神なき者」となりました。(エペソ 2:12)先祖の歩んだ悪い道を離れ,偶像を捨てた者だけが,神の崇拝を始めることによって神を知るようになりました。
若い子どもたちが,よこしまな親たちとともにさばかれた例は,カナン人の場合です。カナン人は長い腐敗の歴史をもっていたために,彼らの若い子どもたちは,イスラエル人がその地を占拠したとき,神の命により,親とともに処刑されました。―申命 7:1,2。
こうしたことはすべて,神が,両親の状態に基づいて,家族の中の若い子どもたちに賞罰をお与えになることを示しています。では両親には,エホバの崇拝者である以外にも,何か要求されているでしょうか。若い子どもたちにも何かが要求されているでしょうか。次の記事でこれらの問題を検討してみましょう。
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神との関係におけるあなたの立場はお子さんにどのように影響しますかものみの塔 1972 | 9月15日
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神との関係におけるあなたの立場はお子さんにどのように影響しますか
前の記事で取り上げた歴史的証拠は,親のすることが子どもに大きな影響を与え,数代のちの子孫にまでその影響がおよぶことを実証しています。親が人生を正しく歩んで良い手本を示すなら,それは必ず子どものためによい結果を生みます。両親がエホバ神の真のしもべである場合はとくにそうです。神との関係における彼らのその身分は,子どもの命を意味します。ただし親は子どもに神の律法を注意深く教え,また親の権威に服従すべきことを教え込まなければなりません。
しかし,片方の親だけが「信者」,つまりクリスチャンで,他方の親が不信者の場合はどうでしょうか。この結婚によって,つまり別居せずにその結婚生活をつづけることによって,信者は汚される,もしくは清くない者になり,その結果子どもたちも清くない者になるでしょうか。
そうではありません。なぜですか。それは神の義の原則のためです。神はその原則を忠実に支持されます。それは神がご自分に献身的に仕える者たちに対する愛あるご親切のためです。ひとりが信者で他方が不信者という,宗教的に分裂した家族を神は聖書の中で次のように慰めておられます。「信じていない夫は[自分の]妻に関連して神聖にされ,信じていない妻は兄弟に関連して神聖にされているからです。さもなければ,あなたがたの子どもは実際には清くないことになりますが,今や彼らは神聖なのです」― コリント前 7:14,新。
聖書はヘブル語とギリシア語で書かれましたが,それらの言語においては,「明るい,新しい,清潔な」などの原意をもつヘブル語「カダシュ」,およびギリシア語の「ハギオス」から出たことばは,「聖なる」とか,「清められた」,「取り分けられた」という意味をもちます。ヘブル語の慣用にも,ギリシア語の慣用にも,宗教的,霊的,道徳的な意味がありました。したがって清められたものは何であっても,清浄で聖く,神への奉仕のために取り分けられたものでした。
神のみまえにおけるこの清い立場は,神がみ子をとおして行なわれた備えに信仰を働かせることによって得られます。この信仰を働かせない者は,親から受け継いだ不完全さや罪深さを清められていないのです。使徒パウロが「不信者」と呼んでいるそのような人々は,正直に生き,道徳にかなった生活を送っているかも知れません。しかしその人たちは清くない世から離れていません。彼らの罪深い状態を除くための神のご準備を受け入れておらず,主イエス・キリストの真の弟子となることによって罪の奴隷という状態から解放されていません。そのような人々は,そのままの状態では,神の目に清い者ではありません。―コリント後 6:17。ヤコブ 4:4。ヨハネ 8:34-36。
コリント前書 7章14節の使徒のことばは,不信者そのものが結婚のきずなによって清く,あるいは神聖にされる,と述べていないのに注意してください。不信者は実際には悪事や不潔な行ないを常習的に行なっているかもしれません。むしろパウロは,不信者は信者に「関連して」神聖にされると言っているのです。ですから神はそのような結婚関係もしくは間柄を,信者とその幼い子どもたちに対する愛に満ちた親切ゆえに清いものと見なされるのです。
神は何を根拠にして,宗教的に分裂した家族の幼い子どもたちにそのような好意を示されるのでしょうか。それは,結婚は神がお定めになったものであり,結婚関係は人間のために正しい取り決めだからです。ですから正式の結婚はすべて神の是認を得ます。神はその結婚の当事者を「一体」と見なされます。(マタイ 19:5)したがって,当事者の片方が忠実なクリスチャンである場合,その当事者は不信者の配偶者との生活をつづけることによって汚されることはありません。その結婚は神に受け入れられるものです。もし受け入れられるものでなければ,その子どもは私生児のようになります。しかし,今子どもは神聖なもの清いものと見なされているのです。もし結婚当事者が不信者同志であるならば,その結婚自体は非とはされませんが,子どもたちは両親と同様,神のみまえに清められていない者,あるいは清くない者と見なされます。
とはいっても,神が親の功績にもとづいて神聖と見なされる子どもというのは,神の奉仕者に対するすべての要求を十分に理解できるだけの年齢に達していない子どもたちのことです。そういう子どもたちは,バプテスマを受けて主イエス・キリストの弟子となる人々に要求されていること,すなわち自分で重要な決定を下す,ということができません。しかし次のことは心にとめておかねばならない重要なことです。それは,たとえ幼くても子どもたちは,従順の意味するところを知っていなければならない,ということです。子どもは両親に従順でなければなりません。わがままな子,悪いことばかりする子であってはなりません。(箴言 20:11)そうなると,両親が,あるいは信者である片方の親が,子どもたちに従順であることを教え,またあらゆる機会を捕えて聖書の真理を教えることが絶対に必要となってきます。
父親はエホバの「薫陶と訓戒とをもて」子どもを育てることを義務づけられていますが,そればかりでなく,子どもにも次のような命令が直接に与えられています。「子たる者よ,すべての事みな両親に順へ,これ主の喜びたまふ所なり」。「子たる者よ,なんぢら主にありて両親に順へ,これ正しき事なり。『なんぢの父母を敬へ(これ約束を加へたる誡命の首なり)。然らば,なんぢ幸福を得,また地の上にいのち長からん』」― エペソ 6:1-4。コロサイ 3:20。
したがって,もし若い子どもが不従順で,親の命令や要求に反抗するなら,もし親から離れているときに,親の意に反する,あるいは神の目に正しくないことをあえてするなら,またもし非行者の友だちと行動をともにするなら,たしかにその子どもは,家族の功績の恩恵のもとにあることを主張することはできません。クリスチャンである片方の親,または両親が,神のみまえに示す功績を消してしまうのですから,その子どもは,非行をともにする者たちと同様,清くありません。―詩 50:16-20。
クリスチャンの親または両親の功績にあずかるということは,従順な子どもにとって何を意味しますか。それはその子どもが神の恵みを受けることを意味します。その子にはクリスチャンの親と同様に,神の保護と助けがあります。また,世が受けるような不利なさばきを受けません。(ペテロ後 2:9。詩篇 37:25,26と比較してください。)悪人に対するさばきを執行するとき,神はそのような子どもたちを,信仰のある両親同様に,清い,神聖な者と見なして救われるのです。
その逆のことについては,聖書は次のように宣言しています。「万軍のエホバいひ給ふ視よ炉のごとくに焼る日来らんすべて驕傲者と悪をおこなふ者はわらのごとくにならんその来らんとする日彼らを焼きつくして根も枝も残らざらしめん」。(マラキ 4:1)西暦70年,エルサレムが神に対する不忠実のゆえに破壊されたとき,子どもたちは親とともに殺されました。一方,ローマ人が町を封鎖しないうちに滅びに定められた町から出なさい,というイエスの預言的な警告に従ったクリスチャンたちは,その子どもとともに救われました。
同じく,この事物の体制の中で悪を行なっている者たちが滅ぼされるときにも,この原則は適用されるでしょう。ひとり立ちになり,義の立場を取ることをしていない子ども(枝)は,親(根)と同じく不利なさばきを受けるでしょう。
エホバ神が忠実なしもべたちを認めておられるということは,神を愛する者に対する神の大きな愛と同情ある理解の現われであり,また,「神を愛する者……のために」「すべてのこと相働きて益となる」ようにする神の英知を示すものです。―ロマ 8:28。
[550ページの図版]
反抗的な若い子どもは,クリスチャンの親が神のみまえに得させる良い立場を無効にしてしまう
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自分自身の悟りではなく神に信頼を置きなさいものみの塔 1972 | 9月15日
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自分自身の悟りではなく神に信頼を置きなさい
エホバ神に献身している人々は,人類の最後の審判がエホバ神の手中にあることを理解しています。ダビデ王は,世継ぎであるわが子ソロモンに対する最後の訓戒の中で,「エホバは一切の心を探り 一切の思想をさとりたまふ」と述べています。―歴代上 28:9。サムエル前 16:7。
ですからわたしたちは,特定の人やグループがどんなさばきを受けるかについて,心配すべきではありません。しかしエホバ神は,わたしたちが自分に有利なさばきをもたらす道を歩めるように,また他の人々が神のみまえに正しい立場を取るのを助けられるように,わたしたちに道しるべを与えてくださいます。
若い子どもにかんしては非常に微妙な関係や感情が存在するものですし,また前の記事で取り上げられた家族の功績にかんする神の原則を考え合わせると,これに関連して,検討するだけの価値のある疑問がいくつか出てきます。
養子
『養子になった若い子どもはどうでしょうか。そういう子どもたちは養家の家族の一員ではないでしょうか。神のみまえにおける彼らの身分は,養父母の身分によって左右されるのではないでしょうか』と質問する人たちがいます。おそらくそうでしょう。もし養父母がクリスチャンであれば,彼らは子どもに神のことばの真理を教えるでしょう。もしその子どもが養父母,および自分に理解できる神の律法とに従順であるなら,使徒パウロがコリント前書 7章14節で述べていることが,この場合に適用されることは明らかです。
一方,子どもはクリスチャンでない養父母に育てられるかもしれません。その場合子どもは,神のみまえで養父母のさばきにあずかる者と考えられるようです。もちろん,もしその子が善悪の区別が十分できる年齢に達していて,実際にそれを行ない,義に対する愛をはっきり示し,たとえ養父母が真理を知ってそれに従うことを真剣に考えなくても自分でそれをするならば,その子は神の恵みを受けることができるでしょう。―エゼキエル 18:14-18; 33:18,19。
夫婦がひとりの子どもを正式に養子にして,その子に対する責任を引き受けている場合は,良かれ悪しかれ,その子の身分の決定に大きな役割を果たします。しかし,親類の子をあずかっているだけの人または夫婦,あるいはお金をもらって子どもの世話をしている人は,子どもの世話人にすぎませんから,その子が神の恵みのもとに入れられることを期待することはできません。世話人は子どもに対して責任のある者ではありませんから,この場合,家族の功績の原則は適用しません。しかしながら,子どもの世話をしている間に,自分にできる範囲で神のことばに基づいた教育を子どもに施し,もし子どもが,教わる良い事柄に聞き従えば,それはもちろん子どものためになります。
神のしもべたちは,できるだけのことをして他の人々に真理を教えるべきですが,子どもに対して直接の責任のない人は,その子の両親の権利にどうしても干渉しなければならないと考えてはなりません。自分に不信者の親せきがあっても,子どもたちをしつけることは,その不信者の家族の両親の責任です。神は彼らが自分の好みに従って教育することを許しておられます。もちろんそういう子どもたちに真理を語る機会が与えられれば,そうすることもできるでしょう。しかしそれ以上のこと,たとえば,子どもを支配する法的権利を得ようとすることなどは,他人の事柄への干渉になるでしょう。―ペテロ前 4:15。
不信者との結婚は危険
次のことは心にとめておかねばなりません。それは,たとえ神が,片親だけが信者の家族を祝福されるといっても,クリスチャンが不信者と結婚するのはきわめて分別の欠けた行為だということです。というのは,神はその結婚関係を神聖なものと見られますが,それはむずかしい問題が生じないという意味ではありません。宗教的に分裂した家庭で,子どもたちに神の道を教えるのは,ずっとむずかしいのです。不信者は,子どもたちが受ける教えの効果を台なしにしようとするかもしれず,子どもたちが教えを受けるのを妨害しようとさえするかもしれません。それは子どもに好ましくない影響をおよぼします。子どもたちは信者の親から教えられる事を従順に行なおうとしないかもしれません。もしそうであれば,その子どもたちは,不信者のほうの親とともに神のさばきを受けることになるでしょう。
もし不信者のほうが,宗教がちがうという理由で別居を決心するなら,たいへんむずかしい事態が生ずるかもしれません。もし不信者がどうしても別居すると言い張るなら,信者は夫(あるいは妻)と別れてもよいでしょう。使徒パウロは,「かくのごとき事あらば,兄弟または姉妹,もはやつながるる所なし。神の汝らを召し給へるは平和を得させんためなり」と述べています。(コリント前 7:15)しかし,もし子どもがいたならどうなりますか。不信者は子どもを取ろうとするかもしれません。夫または妻は,裁判所で子どもの保護監督の権を手に入れるかもしれません。そうなれば,信者のほうが,わずかの機会に子どもに会って神の道について教えるくらいでは,子どもを正しい道に訓練するには不十分でしょう。また,仮に不信者が信者に子どもを残して去ったとしても,信者は大きな苦しみを背負うことになります。クリスチャンの配偶者のほうの負担は増して,子どもを養いながら同時に子どもの霊的福祉を正しく見守っていかねばなりません。
ですから,独身の人たちは,自分自身の霊的福祉のためにも,不信者との結婚によって生まれてくるであろう子どもの霊的福祉のためにも,使徒の忠告を無視してはならないのです。同使徒は,不信者と婚姻してはならないというイスラエル人に対する聖書の助言にのっとり,やもめたちに対して,『主にある者のみ』と結婚しなさい,と助言しています。―コリント前 7:39。申命 7:3,4。
一方,すでに不信者と結婚している人たち,あるいは神への奉仕に関連していくつかの問題が生じそうな他のむずかしい状態の中にある人たちに対しては,使徒は,「兄弟よ,おのおの召されし時の状に止まりて神と偕に居るべし」と言っています。(コリント前 7:24)真理の知識を取り入れていたときに結婚し,配偶者のほうは信者にならなかった場合でも,神はその関係を神聖と見なされます。しかし,不信者と結婚する独身者は,神との交わりを第一にしているとは言えません。その人は自分の霊性を大きな危険にさらし,忠実を保つことをいっそうむずかしくしているのです。
神の義を信頼する
家族の功績にかんする原則に関連して,他にも多くの問題が生じます。そうした問題すべてに対して聖書は答えてはいません。個々の問題はエホバと,エホバが義をもって世界をさばくよう任命されたエホバのみ子のさばきにゆだねています。―使行 17:31。テモテ後 4:1。
わたしたちは,だれが「大患難」を生き残るか,だれが復活するか,というようなことを心配したり,推測したりすべきでしょうか。エホバのさばきについて言えば,もしわたしたちが神を知るようになるなら,わたしたちは神に信頼を置き,アブラハムのようになるでしょう。アブラハムは,神の公正とあわれみとを知っていましたから,その公正とあわれみをもといにして,背徳の町ソドムとゴモラに住んでいた人々のために嘆願し,次のように言いました。「もし邑の中に五十人の義者あるも汝なほそのところを滅ぼしその中の五十人の義者のためにこれを恕したまはざるや なんぢかくのごとくなして義者と悪者とともに殺すがごときは是あるまじきことなり また義者と悪者を均等するが如きもあるまじきことなり 天下をさばく者は公義を行ふべきにあらずや」。エホバの比類のないあわれみはアブラハムの願いを聞き入れられたことによく表われています。―創世 18:22-33。
ですから,いたずらに心配するよりも,むしろエホバに仕え,それと同時に,詩篇作者と同じ確信をいだいて,エホバの意志を行ないつづけるほうがよいのです。詩篇作者は言いました。『エホバよ我はなんぢの審判のただしきを知る』― 詩 119:75。
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