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子供は親に対してどんな恩がありますかものみの塔 1968 | 3月15日
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親を敬うこと
いかなる組織の中においても,権威をもつ者は,その組織内の他の人々から尊敬される権利があります。実際に,数人からなるひとつの小さな組織である家族も例外ではありません。両親,とくに父親は,子どもを生んで,ひとつの家族をつくったことから,権威ある地位を占めます。この家族という組織において,子どもは下位者です。であれば,子どもは当然両親の権威を重んずべきではないでしょうか。
子どもが親を敬うべきことは,イスラエル民族に与えられた神の律法に明示されています。十戒の5番目は,「あなたの父と母を敬え」となっています。(出エジプト 20:12)「敬う」という言葉には,重んずるという意味もあります。何時までに帰るように言われたからといって,または悪影響がありそうだと両親が考える友だちとの交際をとめられたからといって,両親と言い争うのは両親の言葉を重んずる行為ですか。口答えをせずに,親の言うことを聞くほうが,親を敬うことではないでしょうか。
父母を敬うことは,友だちの前で両親のことを話す態度とも関係があります。親をののしったり,親を恥ずかしめるようなことを言ったりすれば,おとなをばかにしている若者たちは笑うかもしれません。でもそれは両親に対して誠実を欠いた行ないです。それよりも,誠実に,敬意をこめて親のことを話すほうが,親の愛にこたえるにふさわしい態度ではないでしょうか。
イスラエルでは,父母を敬うことが非常に重視され,むすこにせよ,娘にせよ,父または母を打ったり,のろったりした者は,処刑されることになっていました。これについてはつぎのようなおきてがありました。「自分の父または母を撃つ者は,必ず殺されなければならない。自分の父または母をのろう者は,必ず殺されなければならない」。(出エジプト 21:15,17)家族の頭に対してそのように不忠実で,不遜な態度を取ることは,ゆゆしい問題でした。クリスチャンは律法契約の下にはいませんが,この戒めは常に親を敬わねばならない,というクリスチャンの守るべき原則を確立します。
従順
聖書は子どもたちに対して,「子たる者よ,何事についても両親に従いなさい。これが主に喜ばれることである」という賢明な助言を与えています。(コロサイ 3:20)これも子どもが親に対してもつ義務です。従順は,両親の権威,および父親が,家族という組織の中で,聖書にもとづいて行使する頭の権に対する尊敬の表われです。子どもの従順が,家族全体の平和と一致に寄与する以上,子どももそれから益を得ます。
子どもは,何が正しいか,何がまちがいかについて,おとなの導きを必要とします。そしてその導きを両親に求めるのは当然です。クリスチャンの両親に従って,禁じられていることを避けるなら,悪いことをしなくなり,また,両親に協力して,両親がしなさいということをするなら,よいことをするようになります。両親が,文字に書かれた神の義の律法と原則を基準にして善悪を判断するならば,子どもは従順によって最善の生きかたを学び,おとなの導きから十分の益を得ます。
親が子どもに,ある事柄をある方法でしなさいと言うとき,それをすることも従順ですが,同時に言われたとおりの方法ですることも従順です。子どもたちに,そしておとなにでさえよくあるまちがいは,自分のやりかたのほうが,人から言われたやりかたよりよいと考えることです。自分のやりかたのほうがよいかわるいかは重要ではありません。上位者は特定の方法ですることを言いつけたのです。服従の原則は,その特定の方法ですることを義務づけます。たとえば男の子が,母親のつくった書きつけをもって買物にいきます。もし違った物を買うなら,その子どもは従順ではありません。母親は理由があって,書きつけにのっている物を買おうとしているのです。ほかの物にするかどうかは,子どもが決めることではありません。子どもは,大なきことにおいて従順であると同時に,小さなことにおいても従順であることによって,両親が自分にしてくれたことへの感謝と,両親の権威に対する尊敬を示すことができます。
懲らしめ
親の懲らしめを心にとめることは知恵の道です。「懲らしめ」という言葉には,訓練して人格を陶治し矯正するという意味があります。親がしてはいけないということをする子どもは,体罰を与えて懲らしめなければならない時があります。また,言葉で戒めるだけで十分な場合もあります。(箴言 13:24; 29:15)いずれの場合も,子どもの人格を陶治する訓練の一部です。それによって子どもは,社会に出たときにぶつかる諸問題に対処する備えを身につけます。そのような訓練は,正しい決定を下すための基礎を与えて,未熟な子どもの心を導きます。ですから,聖書が子どもたちに,「わが子よ,あなたは父の教訓を聞き,母の教を捨ててはならない」と助言しているのも十分の理由があるわけです。―箴言 1:8。
子どもはふつう家事や商売を手伝うのをいやがります。しかしそのような仕事は,子どもの訓練の重要な部分です。それによって子どもは,勤勉に働くことや責任を果たすことを学ぶと同時に,大切な技術を身につけます。ある程度の仕事を与えることは,ひまな時間全部を気ままにすごさせるよりも,子どものためになります。子どもには,仕事の価値が認められない場合もあるでしょう。しかし,親を愛し,親の権威を尊重しているならば,親から言いつけられた仕事は,どんなことでもするでしょう。親を助けるために,若い時の力を使うのは,正しいことではないでしょうか。これも親に対する子どもの義務です。
成人した若い人は,両親の健康や感情を思いやって,両親への愛を表わすことができます。親を心配させたり,精神的に苦しませたりするような悪い行為を避けることもそのひとつの方法です。これは愛のある行ないです。また,親と話すとき,親切な態度で話すことも愛です。ぶっきらぼうで,いやみのある,そっけないまたは荒々しい話しかたも,敬意をかいた,不親切な話しかたです。それよりも,親切に,おだやかに,敬意をこめて話すほうが,どんなにかすべての人の心をなごませ,家庭の平和に役立つでしょう。
子どもは親への負い目を払いつくすことはできません。おとなになって,親から独立しても,親に対してはいつも,愛,親切,尊敬という負い目があります。
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休暇開拓奉仕の祝福ものみの塔 1968 | 3月15日
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休暇開拓奉仕の祝福
● フィリピン共和国のエホバの証人の一会衆では,休暇開拓奉仕が行なわれた結果,1年間に伝道者の数がほとんど2倍にふえました。1966年4月,この会衆に交わっていた17人の献身した伝道者のうち,14人が休暇開拓奉仕をしました。その月に伝道者たちは大変多くの新しい聖書研究を始めたので,次の12か月間に,さらに16人がバプテスマを受け,献身した伝道者の数は32人になりました。休暇開拓奉仕がこのように祝福されたのを知り,1967年の4月に,32人の伝道者のうち22人が休暇開拓奉仕を始めました。
― エホバの証人の1968年度年鑑より
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